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尊敬する帝国海軍の軍人
皆様の尊敬する帝国海軍の軍人を教えて下さい。 理由も教えていただければ幸いです。 ちなみに私は ・キスカ撤退作戦で守備隊員5200名の救出に完全成功した木村昌福 ・「雪風は絶対に沈むことはない。なぜなら俺が艦長だからだ!!」といって、マリアナ、レイテ、大和の沖縄特攻を無傷でのりこえた駆逐艦「雪風」5代目艦長の寺内正道です。
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こんにちは なんといっても、日本の運命を大きく変えた人といえば、 草加拓海!(海軍少佐:海兵58期)でしょう と、いうネタは さておき・・・(^^ゞ やはり ■工藤俊作(海軍中佐:海兵51期)ですかね 駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長として作戦行動中の1942年スラバヤ沖にて、 撃沈された英国海軍巡洋艦の乗組員と思われるおびただしい数の漂流者を発見。 自身でその状況を確認するやいなや「一番砲だけ残し、総員 敵溺者救助よ~いっ!」 という帝国海軍始まって以来の異例の(戦闘中の艦艇指揮官の常識では考えれら ない)命令を発する。 雷は その日まる一日かけて捜索と溺者救助にあたり、合計400名強!もの兵員を 救助し、(ちなみに雷の総員は150名!)乗員総出で精一杯のケアをしながらボル ネオに向かい、翌日 停泊中であったオランダの病院船に彼らを引き渡した。 病院船に乗り移る際、救助された英海軍士官たちは なんと!「雷」のマストに掲揚 されていた軍艦旗(旭日旗)に挙手の敬礼をし、次いで艦橋で様子を見守る工藤 艦長にも敬礼をして船を後にする、というように、艦長以下「雷」乗組員に対し 最大限の敬意を表し退鑑したという。 工藤中佐は その後 無事に終戦を迎え戦後も埼玉県で穏やかな人生を送っていた。 しかし彼は戦後も家族にでさえこの"救出劇"のことを一切語らなかった。 ところが後年になり、当時救出された士官のうちの一人、元英海軍中尉 サムエル・ フォール氏が 外交官を退官後に書いた自伝で初めてこの事実を紹介し、同時に 「命の恩人でもある キャプテン クドウ にもう一度会いたい」と工藤元中佐の消息 を探し始める。 数々の行き違いなどもあって、なかなか消息がわからなかったが、1979年英国訪問 中の海上自衛隊の練習艦隊司令 植田海将補 に対し、英国海軍の連絡士官から正式 に「工藤元海軍中佐の消息を探して欲しい」との依頼がある。 その後1年以上をかけて、ようやく工藤氏の消息が解った時には、氏は既に鬼籍に 入っており(1979年 81歳で他界)フォール氏との再会はかなわなかったのですが、 この一連の出来事(消息探し)が きっかけでようやく工藤元中佐の功績が世に 明らかになったのでした。 指揮官(艦長)としてももちろん有能だったらしいのですが、このエピソード が示すように 人間的にあたたかな人 だったようです。 戦闘中に「総員で救助」なんて、しかもあの小さな駆逐艦に「400人もの人間」を 乗せるなんて、並大抵の人には出来ないでしょうね。
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- ?橋 昌也(@fudousin)
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秋山真之 説明の必要はないと思います^^
- k16399638
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それはもう、鈴木貫太郎大将です。終戦内閣の首相です。 この人が、2・26事件の時、命を落としていたらと思うとゾッとします。 雪風は艦長は偉大でしょうが、フネの評判が。 雪風が来る、というと、他の駆逐艦艦長が 「また、雪風がきたから、他のフネがやられるぞ」 という悪評がたっていました。
・駆逐艦艦長の吉川潔中佐。(戦死後、少将に2階級特進。) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E6%BD%94 曰く、「死ぬ瞬間まで生きて戦い抜く、それが軍人の義務というものだ。」 ・多くの下士官兵たち。 陸海を問わず、大戦を通じて最優秀であったのは、勇敢で忠実な下士官兵たちであった。彼らこそ戦いに長けた真のプロフェッショナルといえよう。 将官が最も評価が低い。木村昌福司令官は人道的な点で言えば、確かに賞賛に値する。 宇垣は終戦直後、最期に若者たちを道づれにしたのが良くない。死出の伴をした中津留大尉の父君の嘆きは大きかった。死ぬなら割腹なり拳銃なり一人で死ねばよいものを。
- rin00077
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大西瀧治郎、宇垣纏 特攻隊に対する責任を自分なりにとられた。