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尊敬する日本の軍人はいますか
織田信長と秀吉と家康以外で、 尊敬する武士・軍人・海賊などの日本の職業人の名前と理由を教えてください。
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いませんね。 所詮人殺しの親分です。
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- o09080706o
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秀吉の一夜城のエピソードは、無駄な殺生をしないで済んだという意味でよかったと思います。
- dottimiti
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剣の達人だけど、とくにだれも斬らなかった。 だけど、世の中を動かすような動きを手伝った。 ということで坂本龍馬。
- GIANTOFGANYMEDE
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一人は大村益次郎。 日本史においてそれなりに勝利を重ねた武将、指揮官というのは信長をはじめ大なり小なり情報を重視していましたが、最も情報を活用したのは大村益次郎ではないかと思います。 私が技術者を志すきっかけは正にこの人です。 もう一人は私の先祖。 我が家は村上源氏赤松氏の末流です。彼の父親は同族の別所長治の家臣で、侍大将として三木城篭城戦に参戦し、血まみれの壮烈な最期を遂げました。まだ幼少だった彼は家臣の手引きで三木城を脱出し、父親と親交のあった秀吉配下の武将を頼ります。 それ以降、その武将の家臣となり、小田原征伐、朝鮮の役、関が原(西軍)、大坂冬の陣(徳川方)などに参戦。また家老として城の修築を指揮するなど、様々な場面で活躍します。 その後、幕府の命による駿府城修築指揮中に若くして病死しますが、その死に際しては主君から勲功第一等として讃えられます。 歴史というと武将の人生に目が行きがちですが、その配下の一人ひとりにも様々な興味深いエピソードがあり、その時を生きていたのだという事、歴史の面白さを教えてくれた人です。
- 戦艦みかさ(@mikasa1905)
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日露戦争の日本海海戦でバルチック艦隊を迎え撃った東郷平八郎や秋山真之は有名ですが、第二艦隊司令長官だった上村彦之丞の的確な判断力を忘れてはいけません。 丁字戦法でバルチック艦隊の頭を押さえて攻撃するも、急旋回行動に出た敵に対して東郷平八郎は判断を誤り、逃げられそうになった所を上村彦之丞の判断で独断専行で追撃し、日本海海戦の勝利が確定しました。 日本の連合艦隊はそれまで一糸乱れぬ艦隊行動をみっちり訓練したので、第一艦隊から離れる艦隊行動を取る判断というのは、普通できることではありません。 上村彦之丞は日本海海戦の前は、日本海での補給航路防衛に当たっていたところ、ウラジオストク艦隊側の神出鬼没な攻撃に苦しめられ敵を取り逃がしていたため、議会では無能呼ばわりされ自宅には投石されていました。 そんな彼だからこそ、ただ命令に従うのではなく、自分が何をすべきなのかよくわかっていたのだと思います。 それと、自らの筋を通して最後に美しく散った真田信繁(幸村)を挙げておきます。
- ミッタン(@michiyo19750208)
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山本五十六 苦しいこともあるだろう 言いたいこともあるだろう 不満なこともあるだろう 腹の立つこともあるだろう 泣きたいこともあるだろう これらをじっとこらえてゆくのが 男の修行である これが好きです
- 芙蓉の華(@purimuro-zu)
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女性でもよければ 「北条政子」です。 源頼朝が力を発揮できたのは政子の力があったからだと思います。 頼朝亡き後、尼将軍と言われたカリスマ性に惹かれます。
- citytombi
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もうひとり、今度は海軍軍人の話です。 駆逐艦「雷」艦長だった工藤俊作です。 ジャワ島のスラバヤ沖で、イギリス艦が撃沈されました。そのことで海に投げ出されて漂う兵士は400名以上・・・ その時に目の前にやってきたのが、日本海軍の駆逐艦「雷」でした。このあたりはアメリカの潜水艦がウジャウジャしていて、船を止めることは=魚雷の標的になることを意味します。 ですがその時に、敵兵を助けろと号令をかけたのが工藤でした。 傷ついて自力で上がれないものは、艦の乗組員が海に飛び込んで引き上げました。 それでも引き上げるには到底手が足りないと悟った館長は、“一番砲だけ残し、総員敵溺者救助用意”と号令します。 これは最低限の人間を残し、あとは全員救助に向かえという意味ですが、こういう危険海域ではあり得ない号令でした。 そして全員を引き上げたところで、油や汚物にまみれていたイギリス兵の身体を、布とアルコールで丁寧に拭き、食料や水も惜しみなく与えました。 艦長は、救助したイギリス兵の士官を集めて言いました。“諸君は勇敢に戦った。諸君は日本海軍の名誉あるゲストである”・・・ そして422名は、ボルネオの港で捕虜として引き渡されました。 その後工藤は別の船の艦長になりましたが、その年に「雷」は撃沈されて、乗組員は全員死亡しました。イギリス兵を一緒に助けた乗組員は亡くなって、自分だけが助かったということです。 終戦後、工藤は戦友会に出ることもなく連絡を取らず、昭和54年に亡くなりました。 激戦のさなかに、400名以上の敵の命を救った艦長の行動は、武士道として語り継がれています。
- citytombi
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武士では武田信玄の領民政治に感銘を受けていますが、我が家が家紋を賜った上杉謙信公も無下に出来ません。 それ以外では、当時伊豆・相模を治めていた北条氏(後北条)ですが、北条5代の中で善政を敷いたのは3代目の氏康ですが、個人的に好きなのは5代目の氏直です。 彼の時代に秀吉の軍勢に攻められたのですが、氏直の戦略は領民ともども城内に囲ってろう城するというものでした。 それよりも少し前、秀吉は京都の聚楽第でお茶会を催す際に、全国の大名に対して出席するように要請しました。 それには「踏み絵」という意味もあって、欠席した大名は「意に逆らう者」として征伐の対象となりました。 氏直は欠席・・・その理由は、秀吉があまりにも領民に対して酷な政策を実施しているということで、これは北条早雲からの領民政策とは根本的に違うもので、到底受け入れられないことによります。 それに怒った秀吉が、小田原攻めをすることになります。 その後結局は小田原城は無血開城となりますが、この際氏直は、“自分の切腹と引き換えに、城内の領民・家臣の命は助けてくれ”と懇願しました。 通常ろう城の場合は、城内に攻め入った敵と戦って全滅、開城となりますが、小田原城には兵士ではない領民も多数います。こういう民まで巻き添えにしたくないということだったのでしょう。 この結果、秀吉は氏直の思いに感銘を受けて、切腹は免れて高野山に追放となりました。 翌年に氏直は亡くなって北条5代の歴史は終わりますが、さかのぼって無血開城によって一滴の血も流れなかったのは、北条氏に連綿と受け継がれてきた民を思いやる意識が氏直にあったからだと思います。
こんにちは。 山本五十六 この名言が好きなので。 やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。 話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。 やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。