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清国北洋艦隊について
- 清国北洋艦隊が日本を訪問した際、日本の海軍軍人は洗濯物の乱雑さから清国の軍規の乱れを分析しました。
- 清国の主力艦「定遠」と「鎮遠」は日本の「三笠」と同等の火力を持ち、善戦していたと考えられます。
- 予測は艦隊参謀クラスの人によって行われたのではないかと思われます。
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1) 海軍というのはどこの国でも「礼儀作法」「威容の保持」に神経を使うものです。特に仮想敵国の港に示威目的を兼ねて「親善訪問」しているのですから、外から見えるところはピカピカにしておき、間違っても洗濯物を外から見えるように干したりしてはなりません。それが、英国海軍から全世界の海軍に広がった「海軍の常識」です。 そして、当時の軍鑑では、小口径砲は甲板上にろくな防御もなく設置されており、「敵弾が炸裂して隣の砲が砲員全滅しても、怯まずに先頭を継続する」ことが求められます。映画「男たちの大和」で、甲板上に多数設置された機銃の射手が米軍機の機銃掃射で片端から射殺され、爆弾で吹っ飛び、それでも残った兵員が射撃を継続する有様が描写されていましたが、このような戦闘を行うには「鉄の規律」が必要です。 「清国軍鑑の洗濯物」のエピソードが事実なら、「清国海軍には立派な軍鑑もあるが、軍規が厳格でなく規律が乱れており、訓練も十分でないと分析する」のは自然なことです。なお、この話の確実な出典は存じません。 なお、清国北洋水師の名誉のために申しますと、黄海海戦での清国海軍兵員は辮髪を振り乱して見事に戦い、日本艦隊の速射砲で死傷者が続出しても怯まなかった例が少なくないと聞きます。 2. 「定遠」「鎮遠」の30センチ砲は20口径砲です。クルップ社製の後装砲ですが、口径が同じ30センチでも、日露戦争時の三笠などの40口径アームストロング砲とでは威力に大差があります。さらに、発射速度は「数分に1回」程度であったようです。 http://www.warbirds.jp/ansqn/logs/B001/B0002961.html の質疑を参照してください。 また「定遠」「鎮遠」の主砲配置は「横陣で敵に向かい、正面に向って砲撃して、敵艦に衝角戦術を行う」前提です。ところが、清国艦隊より日本艦隊の方が明らかに優速であり、広がった横隊でヨタヨタ進む清国艦隊を単縦陣の日本艦隊が各個撃破する結果となりました。清国の一艦を日本の何隻もの艦が包囲して速射砲で撃ちまくるのですから、全く勝負にならない状況です。日清戦争の後は「横隊戦術」は完全に否定されました。 「定遠」「鎮遠」の30センチ砲は、「主砲発射弾数は鎮遠94発、定遠120発」とのことですが、日本艦に命中したのは「松島」に一発だけだったようです。命中率0.5%以下の計算となります。 なお、日清戦争時の大口径砲が「滅多に当たらない」ものなのは日本側も同じでした。日本側が鈍足かつ横隊でバラバラに戦う清国軍鑑に肉薄し、常に「清国は一艦、日本は多数」の状況で12センチ・15センチの速射砲弾を多数命中させたのが黄海海戦での日本艦隊の勝因です。清国の装甲が十分でない軍鑑は、速射砲が多数命中して次々に沈みました。 黄海海戦の経過 http://www.geocities.jp/kigiken/shipping1.html ただ、「定遠」と「鎮遠」はかなりの防御力を有していましたので、速射砲弾をいくら浴びせてもそれで撃沈するのは困難です。実際、両艦とも上部構造物に大損害を受けて死傷者多数、火災を発生しながら、戦闘航海には支障なく、母港の威海衛に逃げ込むことに成功しています。
お礼
定遠の訪日は1986年のことです。 海外訪問時の礼儀についてはお説のとうりだと思いますので確かに清国軍艦の状態は奇異に思います。 従って分析結果は頷けるのですが、反面日本側での洗濯物の対処法が判らなかったので質問したのです。 清国艦隊が横陣戦法をとったのは知りませんでした。 これでは定遠は前方砲塔の2門しか使えず、鎮遠は中央部の砲塔が斜め配置なので4門斉射が可能でしたが当時の発射速度では本格的射撃戦とはいえなかったでしょう。 小口径砲による集中射撃が勝因とは意外でした。 でもこれでは清国主力艦は撃沈出来なかったのは納得です。 その後副砲も砲塔に収め防御するようになりましたが「大和」でも高射機銃座や高射砲座は射角を確保のため暴露砲座であることは当然で射手はヘルメットだけでした。 海軍はこの為陸上戦闘でも習慣が抜けず暴露して戦闘したとききます。 大変詳しい情報本当に有り難うございました。