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聖書の誤訳
こんにちは。 先日ある方とお話をさせていただきましたときに、聖書の誤訳の話題になりました。私はヘブライ語もギリシャ語も分かりませんので市販されている聖書を一字一句信じて読んでいます。特に意味不明な箇所なども感じておりません。イエス様がお弟子の方々と宮殿を尾出になるときのおことばで少しこなれていないと感じていたものはありましたが、それも新共同訳になって改められました。誤訳というのはそういう問題ではないとも思います。 どなたか、聖書にお詳しい方で聖書が誤訳されている箇所をご存知の方がいらっしゃれば、ご教示いただけないでしょうか。その方によりますと、「たくさんありますよ」ということでした。もしかして異端の方なのでしょうか。 よろしくお願いいたします。
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- souseiki1
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真面目な方と推察させていただき、真面目にお答えするつもりです。 evangel4 さん、あなたが信仰を持って一字一句邦語訳聖書を読んでおられるのはとても素晴らしいことだと思いますし聖書を霊的に読むためには必要不可欠なことです。 しかし結論から申し上げて聖書を徹底的に理解したいのでしたら、原文を読むのが理想的だということです。 なぜなら、まず、 (1)聖書翻訳において、日本語には限界がある。 ということと、次に (2)聖書翻訳には直訳と意訳とがある、 とうことです。(直訳と意訳の定義についてhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A8%B3%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%A8%B3 ) (1)において、原文のヘブル語、アラム語、ギリシャ語の単語にはそれぞれ豊富な意味があり、それらを訳出するには日本語1文字では足りない、ということです。 例証)単語=「啓示」 gooの国語辞書には 1)明らかに表し示すこと。 「その大衆に無限の権力を―する時/西国立志編(正直)」 (2)人の力では知り得ないことを神が教え示すこと。 となっています。なんとなく言わんとすることは伝わってくるようですが原文を見るともっと具体的な意味があります。 ギリシア語でアポカリュプシス「と云い、「覆いを取り除く」「明らかにする」という意味である。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E7%A4%BA アポカリュプシスとは語根であるアポカリュプトーからきており、この言葉はじつは合成語で接頭語であるアポは分離や隔離を意味し、カリュプトーは「被う、かぶせる、被い隠す、ヴェールで蔽う」と言う意味であり、総じて「被いを取り除く、隠れていたものがあらわになる」です。 ガラ 1章16節 御子を喜んでわたしの中に*1啓示し、異邦人の間に、御子を福音として宣べ伝えるようにされた時、直ちにわたしは血肉と相談もせず、 1章16節 フットノート*1 教えるのではなく、おおいを取り除き、幻を与え、見せることです http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=48_1_16_0_1 ですから、このような経験を旧約聖書で言うならば、詩篇119篇130節 のようになるでしょう。 「みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。」新改訳より 例証2)ではこのような啓示のあった人となかった人を原文から見ることにします。主イエスとパリサイ人の問答から~ ヨハネ 8章55節 ところが、あなたがたは彼(父)を*1知らない(ギノースコー).しかし、わたしは彼(父)を*1知っている(オイダ)。もしわたしが彼を知らない(オイダ)と言うなら、わたしはあなたがたと同じように、うそつきになるであろう.しかし、わたしは彼(父)を知っており(オイダ)、彼の言を守っている。 8章55節 フットノート1 この節では、二つのギリシャ語が、「知る」に対して用いられています。最初は外側の、客観的な知識を意味します。第二は内側の、主観的な意識のことを言います。主イエスはパリサイ人に、彼らは父なる神を、外側の客観的な知識においてさえ知っていないが、自分は御父を、内側の主観的な意識において知っている、と言われました。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=43_8_55_0_1 では(2)の点ではではどうでしょうか? 1コリント 8章1節 の新改訳では次のようになっています。 次に、偶像にささげた肉についてですが、私たちはみな知識を持っているということなら、わかっています。しかし、知識は人を高ぶらせ、愛は[人の徳を建てます]。(口語訳=人の徳を高める 新共同訳=造り上げる)ここの人の徳を建てます、とかかれた部分は原文ではオイコドメーです。この言葉もまた合成語でオイコス(家)という言葉とデモー(建てる)言葉によって構成されていて、直訳すると[建物を]建てる、建設する、となっています。このギリシャ語でコンコルダンスを引くとマタイ7章24節や第一ペテロ2章5節のような節で使われていることがわかります。つまり愛は倫理的なあらゆる人としての徳を啓発する、という意訳から愛は物質的な教会の建物ではなく、霊の家であるキリストのからだを建造するのに有益であるという直訳にもとづいた光が与えられるのです。 8:1 さて、偶像に供えられた物については、みな知識を持っていることを、わたしたちは知っています。知識は人を思い上がらせますが、愛は*5建造します。 8章1節 フットノート*5 個々の信者を成就することだけでなく、キリストの団体のからだを建造することをも言います(14:4―5、12.エペソ4:16)。本書は建造を強調しています(3:9―10、12.10:23)。 エペソ4:15 むしろ、*2愛の中で真理を固く保って、わたしたちはすべての事で、彼すなわちかしらであるキリストの中へと成長し込むのです. 44章15節 フットノート*2 これは、わたしたち自身の愛ではなく、キリストにある神の愛です。それはわたしたちの中で、キリストの愛となります。その愛によって、わたしたちはキリストと、彼のからだの肢体仲間を愛します。そのような愛の中で、わたしたちは真理を、すなわち、キリストと彼のからだを固く保ちます。そして、教えの風に影響されないように、からだにとって異物である要素を持ち込まないように、守られます。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_4_15_0_2 エペソ4:16 この方から、からだ全体は、*4その豊富な供給のあらゆる節々を通して、またそれぞれの部分の度量に応じた活動を通して、組み合わされ結合され、からだを成長させ、愛の中でそれ自身を建て上げるに至るのです。 4章16節 フットノート*4 ギリシャ語では、ここの定冠詞は強調です。ですから、「その」供給とは、特定の供給、すなわちキリストの供給であるに違いありません。 http://recoveryversion.jp/FunShow011.php?B=49_4_16_0_4 というわけで evangel4さん(あなたはエヴァンゲリオンが福音を意味していることを知っているのですね。エウ=良い、アンゲリオン=告げ知らせ)ぜひギリシャ語だけでも勉強してみてください。 多くの歴代の聖書学者が聖書から光を受けてきたのは原語で聖書を読んだからです。これにあずからないのは実に宝の山を通り過ぎるようなものです。今上げたのは、その宝の山のほんの一部に過ぎないからです。 しかし、原語が読めなければ理解出来ないのか、大変すぎて出来ないという方には原語の解説が多く付いた聖書を読むのもひとつの手です。 今回引用させていただいた資料の中でも次のものが非常に優れていると思います。 参考文献 オンライン聖書―回復訳-ギリシャ語原文に忠実な注解付き聖書 http://recoveryversion.jp/bible_menu.php 岩隈直著 改訂増補 新約ギリシャ語辞典 山本書店
- 1000827313
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間違えて訂正中のを送信してしまったようです。回答No7は捨ててください。 指摘したような加筆、誤訳か意訳とも取れるものはそれ程多いとは思いません。ただ、考え込んでしまう箇所は沢山あります。 参考にするべき本をこれで2回お示ししたと思いますので、後はご自分で勉強なさってください。 ヘブライ語に拘る理由ですが例えば、創世記の天地創造の箇所で、「暗く、深い淵、水面を神の霊が漂っていた。」の神の霊と訳されたのは“ルーアッハ”というヘブライ語です。この語の持つ意味は沢山あり、霊も其の一つですが、嵐、風、息の意味も持っています。“荒れ狂う風の吹く深淵”を哲学的には何と表現するのか。虚無・空・阿頼耶識・無意識等々考えてしまいます。 また、それ程聖書を読んでいらっしゃるなら、六日間働かれた神が「トーブ」(良し)と言われなかった創造物のこともお分かりですね。 アダムとイブに「生めよ、増えよ、地に満てよ。」と言われた時、「アーメン」も「トダー」も無いのは何故でしょう。 私は、もう時間がなくなってきていますのでこれ以上のお返事は差し控えさせていただきます。 質問者様はクリスチャンなのでしょうから、その信仰を保持されてゆくことを祈念しておきます。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 ▲ (マタイ27:46-47) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 Ηλι ηλι λεμα σαβαχθανι; El-i el-i le-ma sabach-ta-ni ? God-my God-my for-what hast-forsaken-thou-me ? = My God, my God, why hast thou forsaken me ? ▲ (詩編22:1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ Eli eli lamah 'azbutani ? (上と同じ意味) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これとしての原典も確定していることをまづ認めた上で 別の解読・解釈をするのでなければ きわめて横着な回答になると考えます。 つまりこのように解釈することに まづ何も差し障りはないはずです。そういう議論をしないのなら 野次馬になると考えます。
- 1000827313
- ベストアンサー率30% (7/23)
新約聖書についてはとうてい手が出ませんので、旧約聖書についてです。 質問者様は新共同訳聖書を御覧になっているものと思いますが、それ以前の聖書に目を通され比較されましたか? 私はユダヤ教のラビや他の方々の言葉にも耳を傾けていますし、彼らの記載しているものに目を通しています。勿論日本語でですが。時間とお金があれば、ヘブライ語の対訳聖書(ユダヤ教では、カトリックや新教の新約聖書は聖書とはしていませんので、旧約のみです。)を御覧になるのも良いかと思います。 さて、質問に対する答えです。二つ挙げておきます。 Iー1)日本聖書協会1979年聖書 創世記第四章八節 カインは弟アベルに言った。「さあ、野原に行こう」。彼らが野に いたとき、カインはアベルに立ちかかって、これを殺した。 Iー2)日本聖書協会1982年旧新約聖書 創世記第四章八節 カイン其弟アベルに語りぬ 彼等野にをりける時カイン其弟アベル に起ちかかりて之を殺せリ ◎文語ですが之がヘブライ語で書かれた物と同じで正しいです。でも、カインはアベルに何と言ったのでしょう?之に対してラビ達の議論は当然ありますが、此処で哲学的考察をする姿勢は一考に値します。新共同訳もこれに倣っています。 IIー1)日本聖書協会1979年聖書 サムエル記上第三章10節 主は来て立ち・・・、サムエルは言った、「しもべは聞きます。 お話ください」。 IIー2)日本聖書協会1982年旧新約聖書 エホバ来たりて立ち・・・サムエル僕聴く語りたまへといふ。 IIー3)日本聖書協会1987聖書(新共同訳) 主は来てそこに立たれ・・・「どうぞお話ください。僕は聞いて おります。」 ◎ヘブライ語では「ヒンネニー」と言う言葉を使っています。これは男性・一人称主格であるので、もし日本語に直訳すると「はい、私は」となり、後にどのような動詞が来るか不明です。因みにヘブライ語で「はい。」は「ヘーン」で、これから由来した言葉だそうです。 質問者様なら後に続く動詞に何を用いられますか?「私は従います。」?「私はここに居ります」?「御心の吾になれかし」?この様に考えながら信仰告白をラビ達はされたのでしょうね。 余談ですが、ヤハウェーは男性、一人称主格、未完了形動詞の古語とされています。従って「吾は昔在まし、今在まし、とこしなえに在ますもの。」と訳したのは苦労の末の事だったのでしょうね。 私は聖書学者ではありません。単なる野次馬根性の素人です。ただ、言葉に興味は持っています。一つのものを表す言葉はその本質を表すと言うのが現在の論理学の成立基盤です。 しかし、「眼には眼を」のハンムラビ法典の解釈で、ユダヤ人のように、本当の言葉はモーセが神からの十戒を書いた石板を割ってしまった時に失われ、今の言葉は仮の物であり、物の本質を表さないとすると「眼とは金貨十枚である。」と結論付けることは可能ですね。質問者様が眼の定義を始められれば、医学的知識がいかに豊富でも電子レベルまで及んでゆくと、最終的にはビッグバンまで行ってしまいますね。これでは「眼」の本質を論理的に説明不能になりませんか。 このアリストテレス以来の論理学と全く相容れない世界に興味を持ったのが泥沼にはまってしまったと言う哀れな結末になっています。
- 1000827313
- ベストアンサー率30% (7/23)
新約聖書についてはとうてい手が出ませんので、旧約聖書についてです。 質問者様は新共同訳聖書を御覧になっているものと思いますが、それ以前の聖書に目を通され比較されましたか? 私はユダヤ教のラビや他の方々の言葉にも耳を傾けていますし、彼らの記載しているものに目を通しています。勿論日本語でですが。時間とお金があれば、ヘブライ語の対訳聖書(ユダヤ教では、カトリックや新教の新約聖書は聖書とはしていませんので、旧約のみです。)を御覧になるのも良いかと思います。 さて、質問に対する答えです。二つ挙げておきます。 Iー1)日本聖書協会1979年聖書 創世記第四章八節 カインは弟アベルに言った。「さあ、野原に行こう」。彼らが野に いたとき、カインはアベルに立ちかかって、これを殺した。 Iー2)日本聖書協会1982年旧新約聖書 創世記第四章八節 カイン其弟アベルに語りぬ 彼等野にをりける時カイン其弟アベル に起ちかかりて之を殺せリ ◎文語ですが之が正しいです。でも、カインはアベルに何と言ったのでしょう?之に対してラビ達の議論は当然ありますが、此処で哲学的考察をする姿勢は一考に値します。新共同訳もこれに倣っています。 IIー1)日本聖書協会1979年聖書 サムエル記上第三章10節 主は来て立ち・・・、サムエルは言った、「しもべは聞きます。 お話ください」。 IIー2)日本聖書協会1982年旧新約聖書 エホバ来たりて立ち・・・サムエル僕聴く語りたまへといふ。 IIー3)日本聖書協会1987聖書(新共同訳) 主は来てそこに立たれ・・・「どうぞお話ください。僕は聞いて おります。」 ◎ヘブライ語では「ヒンネニー」と言う言葉を使っている。これは男性・単数・主格であるので、もし日本語に直訳すると「はい、私は」となり、後にどのような動詞が来るか不明です。因みにヘブライ語で「はい。」は「ヘーン」で、これから由来した言葉だそうです。 質問者様なら後に続く動詞に何を用いられますか?「私は従います。」?「私はここに居ります」?「御心の吾になれかし」?この様に考えながら信仰告白をラビ達はされたのでしょうね。 私は聖書学者ではありません。単なる野次馬根性の素人です。ただ、言葉に興味は持っています。「眼には眼を」のハンムラビ法典の解釈で、ユダヤ人のように、本当の言葉はモーセが神からの十戒を書いた石板を割ってしまったから失われ、今の言葉は仮の物であり、物の本質を表さないとすると「眼とは金貨十枚である。」と結論付けることは可能ですね。質問者様が眼の定義を始められれば、医学的知識がいかに豊富でも電子レベルまで及んでゆくと、最終的にはビッグバンまで行ってしまいますね。これでは「眼」の本質を論理的に説明不能になりませんか。 このアリストテレス以来の論理学と全く相容れない世界に興味を持ったのが泥沼にはまってしまったと言う哀れな結末になっています。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
No.4さんの記述をお借りして一言まで。 <エリ、エリ、レマー、サバクタニ: 神を何故私をみすてたのですか?> これはでっち上げの訳ですね。 エリは旧約のエリアであってますし、レマーはラファエロ(7大天使の一人)の名前ですね。そうすると「神を何故私をみすてたのですか」はまったく意味不明ですね。 イエスの処刑に立ち会ったローマ人を含む人々の何人かは天使が迎えに来るのが見えたのでしょうね。だからローマ人がイエスがエリアといったというのが正しい解釈ですね。新約聖書の弟子はみんな逃げていて誰も現場にいなかったのですから、いいかげんですよね。 イエスご自身は「エリア、エリア、ラファエロ、迎えに来ておくれ!」といったそうですから訳もいい加減なところはあるのですね。 ダマスコで回心した悪人パウロが自身のことで言いそうな言葉というぐらいのいい加減な訳もあるということでしょうね。
人= 麻生さんという方がいます。 求道心= 「この方にあったことがありますか?」という問いが出発点かなと思います。 聖典の内容= 「麻生さんは、金持ちです。」 「麻生さんは、カトリック教徒です。」 「麻生さんは、あるいみ貴族です。」 「麻生さんは、オリンピック代表のスポーツマンでした。」 「麻生さんは、オタクです。」 さて大事なことはナンでしょう。 私にとって大事なことは、その人に魅力だあるかどうかと言うことです。会ったことがなけれが意味自体も薄くなると思います。 歴史的な時事性というのも重要だと思います。 また 誤訳に当たるのは、第一義的には 「悪いものを善いものを偽る」こと 「ネガティブなものを、実はネガティブではなかった」と飾ることだと思います。 「隣人愛」 「形而上学」 がどこから来ているのか探ることもこのような認識に至るひとつの道となるかもしれません。 その情報が真実であるとしても、「大事な真実」であるかどうかは、 また別の次元の問題でしょう。 ちなみに、あたくしに関し、麻生さんはどうでもよいです。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
もしかして あたし? なら、私は異端じゃなくて、バリっバリの無神論者です。 新約聖書には誤訳があるって根拠はですね・・・・ <エリ、エリ、レマー、サバクタニ 神を何故私をみすてたのですか?> エリってのはアラム語だったかな? ヘブライ語だとエルだったかな。 ここで謎がある。 どうしてローマ兵たちはそれを聞いて、イエスがエリヤを呼んでいると思ったのか? 日本人でエリヤを知っている人 挙手!? 恐らく日本人だとエリア55のUFOの方を連想するんじゃないか と。 何故 エリヤを呼んでいるなどマイナーな発想したと筆者は書いたのか。 謎だぁぁぁ。 ユダヤ人ならわかりますが。。。 あ、わかった神殿兵士はイスラエル人だぁ! そういえばパウロももりもりイエス信奉者を殺してたローマ兵って設定だったし。 謎は自己解決。 まあ それはいいとして、この一節は、イザヤ書から。 新約聖書の作家は、自分独自で考え出したものは何一つなく、過去の物語から、全て取り出しつなぎ合わせていると思える。 知ってます? ロードオブザリングの元の話はプラトンの国家のギュゲスの指輪だって。 知ってます? イエスの磔刑の元ネタは、プラトンの国家の内容だって。 で、イエスの博愛の一節も、旧約聖書に既に書かれていた内容。 新約聖書作家は、独自の物語を作ろうとしたのではなく、旧約をわかりやすく解説をしただけ、と思える。 ディアスポラして、ヘブライ語もアラム語も離せなくなったイスラエル以外で生まれ育ったイスラエル人らに、自分達の民族性を教えるため、コイネーで書き表したのではないか と。 さて、律法の一字一句 点の一つも足しても欠けてもならず、この世の終わりまで一切改造してはならない とされたのに、他の言語に変えてしまったらどうなるか。 掟を破ったらどうなるか、破ると大変なことになるので、駄目だって言ったのに 神を愚弄することをした結果 どんな大惨事が起こってしまったか。 人類史上かつてない規模の殺人をした殺人教が起こった。 ヘブライ語は物事をダイレクトに表すという珍しい言語。抽象的な概念が一切無いそうです。 それに対してギリシャ語は抽象にみちあふれ、どこまでいっても的を得ることができず、それゆえ永遠に問いつづけることができるとうい特徴を持つ言語らしいです。 で、メシアというもの。 インド方面の宗教儀式がヘブライ人に伝わったわけですが、これに該当する語彙はコイネー(ギリシャ語の古語)には無かった。 で、救世主を意味するキリストって語彙に翻訳したんだそうです。 イエスの智恵の書を書いた人は、ギリシャ語にするとき、どうしてもヘブライ語にあってギリシャ語には無い語彙があり、正確さに欠けてしまったが、真理の目で読み取って欲しいと書いている。 そのくらい、翻訳すると元の意味とは違ってくる危険がでてしまうので、変えてはならないってされたんですね。 内容を変えてはならない だけじゃなく、他の言語に翻訳してもいけないって意味も含まれていたと思える。 例えば、「神の義のために迫害されたものは幸いである。天の国は彼らのものである」 これを聞いて、布教しまくって処刑されたら天国行きの切符ができると思って、テロを起こした信者続出。 ネロはそのテロリスト信者たちが起こした暴動を鎮圧するのに苦労させられた。 誤訳により、とんでもない社会パニックが起こったわけです。 元の意味、「神の義を希求するものは幸いである、天の国は彼らのようなものによって構成される」 ヘブライ語に戻すとこうなるそうです。 この神の義を希求するものってのは、布教して信者ばかりにすれば、天国に行くって意味じゃなく、旧約の教えを実践すれば、この世が幸福に満ち溢れるって意味。 この世が幸福になるわけで、この現世が天国になるって意味。 旧約の教えを実践する人たちにより天の国がこの地上に作られるって意味。 死んでから天国に行くって意味じゃあない。 生きているうちにあの世じゃなくこの世を天国にするって意味。 神の言葉が律法で、律法を実践するってのは、神の行為を実践するってことになり、律法を実践することで、天にあることが地上にもあるようになるって意味。 慈悲について律法は幾度も教えを説いており、これが神の心だから、律法を実践するってことは、すなわち神に振る舞いをすることになるって意味。 この律法を否定したのがキリスト教。 神を愚弄し こんなもの 変えてやる 俺が神だ ってしたのがキリスト教。 律法を否定したことで、堕落の一途を辿った。 目が見えない人を癒したという一説。 ヘブライ語で目が見えないって表現は、物事をちゃんと判断できない人のことを指す。 日本語でも古物商で「1万」って客が言ったら、「あんさん めくらどすか これは清王朝時代の・・・」ってなり、「この器はたいそうなものだ」って客がいったら、「あんさんお目が高い。目利きどすな」ってなりますよね。 視力があるとかそういう問題ではなく、価値を見抜けるかどうか。 で、聖書をくまなく読んでいても、その意味を実はちっともわかっておらず、書いてある教えを実践していない人は めくら。 目が見えない人。 クムラン宗団はパリサイ派の人たちを「滑らかなる者」と呼んでいたそうです。 口では立派なことを言いながら、それを実行していない口だけは達者な者達って意味。 目の見えない人たち。 その目の見えない人に、説教をして、やっと見えるようにしたってエピソードを、何を勘違いしたのか、キリスト教を信仰すれば失明した目が元通りになると思って入信してしまっては・・・・ 信仰じゃなく利益目的。 熱心に祈っていれば、イエスが視力を回復してくれる? いいえ、旧約の真意を知れば、失明していながらも心の平和を得られる つまり 心の視力を得られるって意味。 キリスト教の教義においてまさか間違いが? はい あります。 本来の意味を伝えていない。 嘘八百を真実だと教えて迷妄の闇に突き落とし、殺人を推奨している殺人教。 今じゃ表向きは殺人を指示していることにはなっていませんが。 カトリックのプロテスタント虐殺とか 血なまぐさい歴史を見れば、いかに殺人好きになるかわかりますよね。 殺人を神が指示したか? はい。 イエスがエリコの丘で虐殺を神の指示により実行しましたよね。 おかしい? いえ ちっとも。 だって この集団は、自分達の集団内での殺人は律法により禁止になっているが、この宗教を信仰していない人を殺してはいけないとは言っていないから。 奴隷に身を落とした人に対する掟など、不運に対する同胞の救済は教えとしてありますが、自分達を殺しにかかる人たちにまで、殺されることを受け入れろ とは書いてない。 博愛とはなんでも許すことだとは言っていない。 弱者に対して慈悲を示す理由は、弱者の上にたって「俺ってすごい」とかうぬぼれるためではない。 ってのは、旧約聖書を読めばわかる。 これを勘違いして、天国に行くために自己中の親切の安売りをしまくてって 助かるために他の人を利用しようとする 鬼畜行為を信者たちはしていますよね。 聖書をちゃんと読めていない盲目だから、そうなってしまっているわけです。 どうして目がつぶれたのか。 誤訳も大きな原因の一つだと思います。 で、私が疑問なのは、何故既にここにあるのに、それではなく他の誤訳された偽の教えに追従しようとするのか です。 聖書の天地創造と、古事記の天地創造は同じ。 京都の町は十字。 それを破壊しようとしたのが、誤訳まみれの西洋からきた宗教団体。 何故 日本のキリスト教信者は正月に神社に参らないのか。 何故悪魔にひざまずち忠誠を近い 悪行の限りを尽くそうとするのか。 目がつぶされたから。 えっとですね、1京回聖書を読んでも、本来の意味がわかることは絶対にありません。 何故なら本来はヘブライ語で書かれていたからです。 1京回読んだところで、ヘブライ語のイデオムを習得するってことは、絶対にありえません。 残念ですが、表面だけ読んでわかった気になったようですが、それはヘブライ語を知らない人の解釈の元に改造されたニセ書です。 所詮 キリスト教じゃないので、そんな解釈をするしかないんだろう って思うかもしれません。 ええ 私は悪魔教の信者ではありませんから。
- SOLAR_RAY
- ベストアンサー率21% (12/56)
聖書が真約かどうか、つまりキリストの真意が解る人は、キリストの青紫色のアストラル体(としか思えないもの)を受け取った人にしか解らないでしょう。しかも、その時、その時代のキリストの真意がわかるかどうかと言うことであれば尚更、その時のキリストでないと解らないということです。現代においては、意外と大勢居るかもしれません。私は、聖書は読んだことはないので、なんとも言えません。 要は、真訳か誤訳かと言う判定を、誰が、何を基準にするのかという問題です。しかし、それを他者がしたとして、無条件に信じますか?
- at9_am
- ベストアンサー率40% (1540/3760)
> もしかして異端の方なのでしょうか。 可能性は高いですね。 例えばエホバの証人の使っている新世界訳には誤訳が非常に多くあります。
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