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カルナップからレスニエフスキー存在論への批判があります?
カルナップがハイデッガーの存在論をbe動詞の機能を認識できていないとして批判しているのに対して、レスニエフスキーは実在する(exist)という動詞ではなくbe動詞を使うのが適切だとしています。すると、存在論的な意見対立がカルナップとレスニエフスキーの間にはあるのではないかと思うのですが、カルナップはどこかでこの点でレスニエフスキーを批判しているでしょうか?
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同列の流派として語られることがおおいような気もしますが… 私が直接携わった部分では、カルナップが、レスニェフスキーに直接批判したことはなかったように思います。 しかし、カルナップ的批判が可能であるとしたとき、レスニェフスキーのハイデッガーに対する「認証」のあり方 (=まあ悪く言えばカルナップがハイデッガーを永久に・未来永劫・過去をさかのぼってひっくり返っても受け入れないだろうという憶測:ハイデッガーを認めるなんて!どうかしてるよオイという立場…一方、私は、この側面については、中立ですが…)、 また、たとえば、組織細胞と組織自体の間に頑としてある「存在の顕在的側面」について、どちらかヒトツの存在様態がより、顕著で説得力のあるものであり、少なくともその「論理立て」が、(「具体的に視点を設定することで可能である」という意味で、)「存在を肯定するために客観的な根拠は、何か?」という「問題意識をもつべき」ことが「正当」であるということになると思われます。 レスニェフスキーは、細胞・細胞組織は、どちらもあるといっていますが、実証科学的な(たとえば、個々人の研究課題にひきつけることも出来るでしょう)価値判断・政治判断をその段階で考慮に入れていないということです。 真理判然の体系として考えると、カルナップは、アリストテレスの言う「真理」にちかいかも知れません。「真理はヒトツ」という立場。特に政治的な「論者の傾向性」について当てはまります。/レスニェフスキーは、体系としての真理を並列的に認める立場であるといえるのかもしれません。
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