こんにちは。
私は、自称「歴史作家」です。
>>逆に殿様の方が負けた話はないでしょうか。
(1)明和4年(1767)、治憲(鷹山)が米沢藩主として迎えられ、江戸で改革案を作成し、江戸藩邸では直ちに実行に移されました。
そして、国元でも実行するよう伝えてありました。
(2)しかし、明和6年(1769)、治憲が米沢に入りましたが、藩の改革案は、古参の重役連中により「差し止め」をされており、藩士たちには何一つ実行されてはいなかった。
(3)さらに、治憲の提案で、家臣たちの庭に「桑」や「漆」、「楮(こうぞ)」、「藍」、「紅花」などを植えることを奨励し、治憲自身も城内に「桑の木」50本を植えるも、翌朝には、全て引き抜かれていました。
(4)犯人と思しき古参の重役を呼び出し、
「誰が引き抜いたか」
と、訊ねましたが、
「お屋形さまに反発する犬の仕業でござりましょう」
と、答える。
「犬が、ここまで全部を引き抜くのか」
との問いに、
「さて、私どもは、いまだに犬になったことがござりませぬので、その真意はわかりかねまする」
との返答。
第一の治憲の「負け」。
(5)安永2年(1773)6月27日、須田、芋川ら7人が早朝の登城をし、治憲を部屋に閉じ込めて45条にも及ぶ「建言書」を提出し、
「即答を得るまでは、この部屋からは出しませぬ」
と、迫る。
治憲は、
「この建言書は長文なので後で読もう」
と言うも、
「我らへのご心配は無用。何時まででもお待ちします」
と、やりかえされる。
その後「建言書」を読んだあと、
「隠居された大殿様にもお伺いをたてる」
と、言うも、
「藩主は、あなたさまでございます。大殿様も十分承知の上のことでございます」
と応ずる。
結果的には、隠居所にも報せが行き、前藩主重定が登城をし、7人を追放し、治憲は開放される。重定が登城しなかったら、
第二の「負け」かも・・・。
「上杉家七家騒動」として、同年7月1日に戒厳令が敷かれる中、
長尾景明、清野祐秀、平林正在・・・隠居閉門、300石召し上げ。
千坂高敦、色部照長・・・隠居閉門、藩地召し上げ。
須田満主、芋川延親・・・即日切腹。
>>上杉家の殿様が、そんな点で家臣に馬鹿にされた話はないのでしょうか。
(1)領民の実態を知りたい、と、お忍びで領内視察をするも、すでに、視察の日時が漏らされており、会った領民は、愚痴をこぼさず、
「大変、安楽に暮らしています」
との返答で、何一つ領民の窮状を知ることができなかった。
(2)年月日は不明ですが、治憲が江戸から国元に入るにあたって、「福田橋」が壊れていた。
それを下級藩士たちが「せめてもの忠義心」と修復を始めると、次第に農民たちも手伝うようになり、治憲は、その「福田橋」の手前で馬を降りて徒歩で渡った。
修理をしていた者たちが、
「どうぞ、馬に乗ったままお通りください」
と言うも、
「そなたたちの汗が浸み込んだ橋をどうして馬などで渡れようか」
と返答。
しかし、参勤交代に同行した須田満主は、
「藩主が徒歩で渡るとは、もってのほか。わしは馬に乗ったまま渡る」
と、言い放ち、乗馬のまま渡る。
これなども、家臣に馬鹿にされた一例かも・・・。
上杉鷹山については、後世、良いことばかり書かれていますので、実態はどうだったのでしょうか・・・。
お礼
大変ありがとうございました。家臣は殿様に絶対服従というわけでなかった実体がよくわかりました。鷹山以外の事例についてもご存知であればお教えいただければ幸いです。感激です。