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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?
なぜ直接には説かなかったのでしょう? (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。 それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。 (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 (γ):その他(?) * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか? * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?
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お久しぶりでございます。Hidocchiです。 愚見を述べたく、参加させていただきました。 Konsan29様の仰る以下の考えは、愚生とも共通しておりまし、またbragelonne様も、ほぼ同様かと存 じます。 >十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 >(四諦と十二因縁によって)その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。 >輪廻の苦からの解放である。 また、「“悟り”なる境地に達するには、“無明”の域から脱する必要があろう」ことも、誰もが認 めていることかと思っております。 ただ、ここで疑問が沸いてくるのです。 「実際の“実践”を通して、本当にそのような境地に達することが可能かどうか」をです。 その点、大乗仏教では、仏性が(以下に定義させていただいております)、全てのものに(ア・プリ オリに)備わっているため、“悟り”なる境地に達するための一種の“担保”が保障されています。 仏性:仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性。(goo辞典からです) 一方、(原点となっています)釈尊ご自身はかようなことをご教示せずに、どのような作用・志向性 ・潜在性でもって、“悟り”にたどり着けるのか? ということでございます(具体的な方法は四諦八 正道と示されてはいますが)。 極論を申し上げますと、「実践(修行)により、“悟り”の境地に達するのは、まぐれ当たりに頼ら なければならないのでしょうか?」、 「またその確証は何なのでしょうか?」 そしてまた、、、( これ以上話してしまいますと、お寺にはいけなくなりますので、差し控えさせていただきます) おそらく、ご質問者様がお聞きしたいことも、かようなことかと察しております(間違えていれば、深 くお詫び申し上げます)。 そこで、愚見を申し上げますと、 >なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ):あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。 と解しております。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもご ざいました。従いまして、彼らに対しては、あえてそのようなことを示さずとも、“教え”のみにより 、“悟り”に達することが可能だと、釈尊が判断されたものと 推察しております。実際、舎利子は「 弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」とされています(以下のサイトをご参照くださ いませ。ただ、その“悟り”の確証は何だったのかは不明でございます)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/舎利弗 しかし、一般大衆化していきますと、そのようなことも言ってはいられなくなりました。そして、分 派の際、大乗仏教では、特に“仏性”なるものが求められたのではないかと考えております。 長文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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へびににらまれたかえる 知性的若者ににらまれた、浅ましい老人。知力の低い人としか会話が成り立たず、きょろきょろ様子を伺い、批判者が、背を向けたときにだけ、背中越しにぶつぶつ文句をゆう独り言作家のこと。 会話のプラットフォームは、「国語」「文学」が適切かと思われます。
お礼
★ へび ☆ って 誰が? ★ にらまれた ☆ って どういうふうににらまれているのかな。こちらが にぶいから分からないのだろうか。 ★ 浅ましい老人。 ☆ は言わせておくが ★ 知力の低い人としか会話が成り立たず、 ☆ は赦せない。回答を寄せわたしとやり取りしてくれている人たちにわるい。 ○ nananisse くん ほろびたまえ。いまわたしがそれをゆるす。こんど来たときには 永遠の火の中に行きたまえ。さらば。
オコリザルです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用では、神々の居る日本に住む、日本人に仏教を輸入した際の信仰の変化についての考え方ですが、お釈迦様はどのような信仰心を(人間として)秘めていたのかに考えが及ぶようになればより発展するのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この点で日本人は 《考えが及ぶようにな》らないですし もっと言えば《ブッダの説を――大乗仏教をはじめとして さんざ解釈修正し発展させているのに――そのままを後生大事に守りとおしている》としか考えられません。 これに関して前提としておきたいのは、実のとこと、 誰か他者の信仰心を代筆することはできない。 これです。 自らの信仰心に関しても、bragelonneさんの時折なさる聖書からの引用は効果的でありますが、それだって間接表現です。私に至ってはアマテラスさんとデートしたことがあるとか、わけのわからんことを言ってます。したがってこの面での墓場荒らしは大した結果を生まない研究ではないかとも思いますし。何よりも大切なのは自らの信仰であるということでいいんじゃないかと思います。 ただお釈迦様は同じ人間としてやはり何か信じるところがあったとだけ結論が出ればいいでしょう。 これに関しては私自身の道のりが人間としてやはり自然なことであれば、おそらく、お釈迦様の場合は当時のインドの神々を等しく受け入れたのでしょう。だから信仰の在り方の方にだけケチを付けた。 善性の方はしょせん余談なのですが、 流れは、感性の話を哲学の話にすると「我は第六感をもって霊験を体現しうるか」ここまでも突飛になると話したそのまんまになっています。 善性の私の見解は簡単でして、「ともに生きようとする愛の表れ」で集約できます。この簡潔さをもって幼児性とされていますが、自らの意見を整理して解り易く表明するのはよっぽど頭がよくて初めてできることです。 集まってきた反対意見の方は、要約すると善悪に奔走されて、善性を正しく見定めることが出来ないとの表明であり、自らの意見表明以前です。 その学説は長文でしたね、中身は先にふれた通りで要約すると内容がない。中身の長文はそのまんま煩悩の垂れ流しです。 そこまでも解らないのなら、いっそ善性も煩悩にしてしまえがいかがかとの提案です。無論はったりです。それこそが「生きながらに入滅を果たしなさい」です。 この意見にはたまたま運悪く当事者と思しき方がいますが、そうと限らづ忠犬ハチ公はだれもが似たり寄ったりです。
補足
primeape さん ご回答をありがとうございます。今朝につづいてのやり取りですね。 ★ 善性の私の見解は簡単でして、「ともに生きようとする愛の表れ」で集約できます。 ☆ すなわち ○ 《愛とは 互いに協力しておこなうしごとを通じての共生》に ほぼ賛同いただけたようでよかったです。 こう言うと ★ この簡潔さをもって幼児性とされていますが ☆ ということですか。すぐ下の投稿では ◆(要約) キャッチボールではなく それぞれがあらぬ方向へボールを投げているのみ ☆ だそうです。 ★ 何よりも大切なのは自らの信仰であるということでいいんじゃないかと思います。 ☆ すなわち 経験思考の拠って立つ良心・信教の自由の在り処および在り方――これが 信仰ですから――が 問題であると。 そしておそらく大方の日本人は ○ その信仰において 人間存在は この世における人生が 悪循環から好循環に回転することができるためのちからとして《仏性》がある。 ☆ と思っているはずですが そのときこの《仏性》については ブッダは説いていないと聞けば どういう思いを持つでしょう? ――このようにも質問を言いかえることができます。どうなんでしょう? もしブッダが説いていなかったとしても この《仏性》説を保持するというのであれば 日本人ももっと自信をもって――なぜなら信教は自由なのですから ブッダの説をも修正すればいいわけです―― 主張するようになれないものでしょうか? いったい何を遠慮しているのでしょう? ブッダに申し訳が立たないのでしょうか? ブッダの説を修正したとなれば 自分がブッダよりも偉いと言ったことになるから それは 言えないというのでしょうか?――でもすでに実際に ブッダの説に逆らっているというのに。つまり ブッダが決して説いてもいない《仏性》説を 真実だと思っているのですから。 どうしてこうも日本人は 煮え切らないでしょう? おとなに成れないのでしょうか? ★ 誰か他者の信仰心を代筆することはできない。 ☆ ということを口が裂けても言おうとしないですね。自分の信念をほんとうには明らかにしようとしないですね。くだくだと学説の紹介だけは 一人前になった気分で長々とぶちます。いかにも研究して知っているぞと言わんばかりです。それでいて 自分の信念や主張を言えと言われれば――誰か偉い人のまねをして 言うときもあるにはありますが―― きわめて おしとやかにその一生をとおして口をつぐみ続けます。いったいどういう動物なのですか? いくら忠実な犬でも みづからのたましいというものを持っているのではないですか? 犬以下ですか?・・・ このへんでやめておきます。
- SOLAR_RAY
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質問文への回答です。 >活かすべきものがあるとすれば その人に素直な感受性があれば、大抵は、どんなものからでも学ぶことが出来ます。活かすべきものが無いとするなら、それは自分自身の問題でしょう。何を言っても無駄な、何からも学べない、活かすことの出来ない者はいるものです。そういった人間が、「こんなものには意味が無い」とか、「こんなものからは学べない」と言うのは、傲慢にも程が在ると言わねばなりません。 >共有の財産としたいと思います。 質問者がそれをここでいうべきでは在りません。せめて自分の財産、学びとしてから、その言葉を言ってください。 与える者が「共有の財産としたい」と言うならまだわかりますが、教えを請うている人間が、「共有の財産としたい」と言うのは、間違ってませんか?教えてもらっているのだが、素直にそれを認めたくないから、「共有の財産としたい」とは、人を侮り、依存するのは程ほどにしろ と言わねばなりません。知恵というものは、各自おのおのが、それぞれ自分の力量に見合った分だけ、自分の財産とすれば良いだけの話です。自分のものとするかしないかは、それぞれの人の精神的在り方によって決まるものであって、共有するとかしないとか言うことではないでしょう。 それから、悪意についてのコメントが出ていますが、農耕も牧畜も、善意、悪意とは関係の無い話でしょう。殺すために育てているから、悪意があるとも言える訳で。どちらか一方のみからの見解を持って発言していると言うだけの話で、確かに間違っては居ませんが、その自覚がないように感じます。 やんわりと、恫喝しているとすれば、それは自分の幼少期の環境か、自分が「疑い」「信じていて」いるものの影響と言えるでしょう。 それに、蛇ににらまれた蛙よろしく、動けなくなってしまって蛇の意図、思惑に飲まれてしまうのであれば、それも回答者の自由であり、そういった快楽、自己犠牲によるご満悦 と言うものも在るわけです。 ここでさも意味ありげな話をしているが、結局はお互いの思ったことを各自が言い合っているだけで、言葉のキャッチボールは行われていない、いわば、それぞれがその時々で、あらぬ方向にボールを投げているという事が行われているだけ。 これが快楽を伴う自慰行為に過ぎず、それが他者を不快にしているとすれば、邪であるという事が出来ますね。 自慰行為であれば、他の場所で、人に見えないようにすれば良いかと。
お礼
なかなか勇ましいですね。 ただまだ蚊がかすったほどですので もっと凄みを利かせて欲しいなぁ。 別の言い方をすれば 次のような表現は お笑いの種にはなっても 凄味は消えてしまいます。ひとによっては効くのかも知れませんが わたしにはちゃんちゃらおかしいだけです。 ★ 邪である / 傲慢にも程がある / 人を侮り、依存するのは程ほどにしろ ☆ それともう一点。たとえば ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ここでさも意味ありげな話をしているが、結局はお互いの思ったことを各自が言い合っているだけで、言葉のキャッチボールは行われていない、いわば、それぞれがその時々で、あらぬ方向にボールを投げているという事が行われているだけ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 批判は歓迎ですが 絶対的に歓迎しますが 結論には その理由説明と文例による説明を添えるとよいでしょう。どういう推論によってその判断を下しているのか これを明らかにするとよい というよりは 明らかにして初めて議論――この場合 回答――となります。これが おとなの議論です。 そうすれば 批判は なんら問題はありません。もともと自由ですが 日本人が嫌うほどには 有害でも無益でもなく有効であり有益であるとわかるはずです。 何が蛇で何が蛙か。どこが蛇の意図かどこに蛙のこころがあるのか。例示することと その推論の中身をしっかりと表現するようになれば 鬼に金棒であるでしょう。 弱点や間違いをそのものずばりと指摘してください。わたしに関しては 単刀直入・ざっくばらん・ぶっきらぼう・つっけんどんでかまいません。
- 来生 自然(@k_jinen)
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大乗仏教における概念とは異なるかも知れませんが、「スッタニパータ」には「全き人」(註で《如来》ないし《ブッダ》ないし《大仙人》)は、数多く出てきますが、最古とされる「八つの詩句の章」では該当する単語は「バラモン」という言葉で出てきます。 >>> 790 (真の)バラモンは、(正しい道の)ほかには、見解・伝承の学問・戒律・道徳・思想のうちのどれによっても清らかになるとは説かない。かれは禍福に汚されることなく、自我を捨て、この世において(禍福の因を)つくることがない。 --- 中村 元:註 原始教典での最古層では、修行を完成した人、理想的な修行者のことをバラモンと呼んでいた。 <<<
お礼
これはどうでしょう。 ★▲ 全き人(註で《如来》ないし《ブッダ》ないし《大仙人》)・「バラモン」(=修行を完成した人、理想的な修行者) ☆ に成るのは ▲ 正しい道(=四諦・八正道だと思われる) ☆ によると言うのですから これは《修行》の問題ですね。 つまりは まだこれだけでは ○ 悉有仏性 ☆ とは言っていないでしょうし ましてや ○ 如来蔵・如来の胎児 ☆ の説ははっきりしません。たぶん影も形もないのでしょう。 それはなぜか? ――これが問いですが ひとつには この《仏性――ブッダと成る種――》がバラモン宗教のほうの《アートマン》と紛らわしくなっていけないと思って言い留まったか。それとも まったく思い及ばなかったか。 つまりは 《諸法無我》の説との兼ね合いの問題です。 ちなみに 《アートマン》は atmospere などの atmo- と同じ語源でやはり《息》を意味するようですね。 このつてで行くと ブッダは あまりにも《天上天下唯我独尊》にこだわり過ぎた。のではないでしょうか? 独り善がりの嫌いがありますよ。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.23です >>> ○ エピクロスの《原子の運動にかんする方向の偏り(パレンクリシス parengklisis / クリナメン clinamen )》説 ☆ についてもちらっと思い浮かびました。お伝えします。よいサイトが見つかりません。 ▲ デモクリトス × エピクロス:「宇宙=機械」のはじまり <<< 現代では「量子脳理論」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E8%84%B3%E7%90%86%E8%AB%96 あたりになるでしょうね。 >>> この主題から入ります。そしてわたしの結論から行きます。 ○ 自然には自然環界と社会的自然とがある。 ○ 社会的自然は ひとの意志的・作為的・能動的な行為とその関係錯綜をむろん含むが そしてそのような人間の行為関係からそもそも成っているが 大きくは=その全体としては 人間の意志と意図が直接には与らない自然史過程を成す。 ○ ちなみに 突然変異のごとく あたかも光のごとく自由意志も曲がるかのように 合理的な因果関係を超えてのように《方向の片寄り》が起きることがある。 ☆ つまりは このことは理論的には単純なことです。すなわち ◆ 自然法爾の事。 :「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。 ☆ つまり 経験世界を超えた《なぞ》の問題です。《はからひ》もそして認識も ままならないというものです。 <<< 「人間は自然の一部と考える」という概念にて(広義の)「自然全体」(概念)を考えるとき、「自然環界と社会的自然」といった概念区分も含め、どのような概念区分で切り分けるか(あるいは、部分要素として取り出すか)?は、(何らかのことを説明したいときの)それぞれの立場で切り分けられ(すなわち、境界設定され)ることでしょう。 「人間を含む自然」、「自然全体」は、(人間を含むので)「経験世界を超えた《なぞ》」、(いや、《なぞ》といった人間の持つ記号・概念を通して「把握可能な全体の【一部】」というスクリーンに投影した像・虚像といった方が良いかもしれない、)を含んでいます。 そのように「自然全体」について思考することは可能です。しかしながら、そういった《なぞ》の先に、すなわち投影された像の向こう側に実在するもの(たとえば、「おのずから」を成り立たせているもの、人の側のはからいではないもの)が【ある】か【ない】かは、仰るところの >>> ■ ( goo辞書)・・・仏教の因果論を否定する無因論 ☆ これはまちがいです。因果関係の認識は 経験合理性によってとうぜん行ないます。そこでは《はからひ》をも認識します。《なぞ》はこの因果論を 否定するのではなく 超えるのです。非思考なのですから。これを ◆ 自然法爾 ☆ と言ったはずです。 ■ 無因論 ☆ ではありません。無因と有因とを超えて 因果関係が《分からない(つまり 分かるか分からないかが分からない)》と言っているのみです。 <<< になるでしょう。 さて、一端話は変わりますが、昨日の夜「世界まる見え」にて、西洋と東洋での認識の差異について的確に示されていました。 http://www.ntv.co.jp/marumie/onair/090824/090824_04.html 要約すると、「西洋の考え方は、空間・宇宙とその中にある物とは独立して存在し、東洋の考え方は、物は周り(空間・宇宙)と密接に関連しているもの。」となります。 ※これらは、医療分野の用語でも認められるものであり、たとえば、筋肉などの実質臓器が存在する領域は“○○ space”と呼ばれています。 このような(少なくとも)二つの視点(の差異)は、「虚無の信仰」(西欧はなぜ仏教を恐れたか)と「スッタニパータ」を読み比べる上でのヒントになるとともに、「自然(しぜん・じねん)」といった概念の差異や、「個と全体」といった捉え方、さらには、「仏性」とブッダとの関連性を考える上での、(少なくとも私にとっては)重要なヒント(というより、根拠)になります。 すなわち、上述の《なぞ》が「ある・ない・超える(ないし非思考)」といった視点の推移は、自他の(「自然全体」の)関連性を一つとして見なす場合、自他の(「自然全体」の)境界の推移として捉えることができるということです。 たとえば、西洋的には「自他の境界を厳然として設定する」ために、ブッダの思想での「涅槃」を「魂の消滅」(虚無)として扱わざるを得なかったとなります。 一方で、自他の「関連性」に重きを置いている場合には、自・他の境界設定がどのように為されようとも(境界設定が為されなくとも)、そういった境界設定とは無関係に、たとえば「涅槃」という概念を構成することが可能であったといえます。 このことは、「仏性」といった概念の形成にも根本的に関与していると考えます。
お礼
★◆ 虚無の信仰 ☆ というように 一たん一面として規定してもいいでしょうけれど それが一面でしかないと分かったなら その規定としての概念は もう用はないとするべきです。弁証法的な過程が成ったのですから。テーゼやアンティテーゼのみをわざわざ独立させて別々に取り扱うのはいただけません。 じねんさんは こんなことは分かっていて わざわざ後ろ向きにこだわっておられるのではないですか? ★ このことは、「仏性」といった概念の形成にも根本的に関与していると考えます。 ☆ たしかに護送船団方式――九十九匹よりも一匹をの方式――は大事ですが 同時に最先端における理論や見解を示していることも 大事です。どうぞ自由に結論から入るという行き方も 必要に応じて採ってください。 道しるべは 皆が互いに見解を自由に寄せ合って けちょんけちょんに批判しあいながら 作り上げて行ってもよいと考えます。仮りの見解を いくつか掲げていてもいいのでは? 井戸端会議と言っています。 (そう言うと これを足の引っ張り合いでいいのだと勘違いするひとも出て来ていますが)。
補足
じねんさん おもしろくなって来ましたね。ご回答をありがとうございます。 まづ 《原子の運動についての方向の偏り》説をめぐって ★ 現代では「量子脳理論」 ☆ のご紹介をありがとうございます。なるほど 量子の問題は ここまで来ているのですか。 (自然科学はからっきしですので これからもよろしくお願いしますと甘えたごあいさつを致しておきます)。 (ただし 自然科学による脳や意識の研究は――たしかに《自由意志》の問題から来ているということだそうですが―― どうも機能の問題にけっきょくは収斂していくのではないかというおそれを持ってもいます。これは 外れれば言うこと無しとなります)。 ★ (世界まる見えテレビ特捜部:こんなに違う!?東洋と西洋)~~~ 【Q.1】 花びらと茎: 我が答え→B。 (西洋寄り) 【Q.2】 皆の真ん中で笑っている人: AでもBでもない。《笑うからと言って幸福だとは限らない》。(東洋でも西洋でもない)。 【Q.3】 空を漂う風船が急に飛んだ: 風が吹いた。(東洋寄り) 【Q.4】 サル、バナナ、パンダ。: 《猿とバナナ》および《猿とパンダ》の二通りあり。(東洋でも西洋でもない)。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ さて ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆★ 自然法爾 ☆ が 《自然環界》と《その上でおこなう人間の意志行為》と《それらの社会的な関係錯綜つまりは社会的な自然》 これらを総合した経験世界について 因果関係を問うのはふつうのことである。しかも この経験世界を超えた《なぞ》の領域をも想定している。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ このことについて合意ができてうれしい限りです。 と同時に 次のご見解についてはなおあいまいなところが残ると考えます。どんどん攻めてまいります。 ★ 要約すると、「西洋の考え方は、空間・宇宙とその中にある物とは独立して存在し、東洋の考え方は、物は周り(空間・宇宙)と密接に関連しているもの。」となります。 ☆ これはわたしから見れば 一面的であると映ります。 ○ ものごとを そのモノ自体とそれ以外とに分けるのは ふつうです。それは特に問題ではない。つまりは 分割した見方とそれらをまとめて捉える見方とが つねにできるからです。 ○ 問題は 《ひと》にかかわる場合です。ですが この場合もけっきょくは 見方にかんして同じことです。 ○ 《ひとは ひとりある。孤独である。しかも同時に 孤独と孤独との関係としてある》。 ○ 《人間は 社会的な独立した存在であると同時に 社会的な関係性を互いに有する存在である》。 ○ 《自由であると同時に この自由どうしの関係として 平等である》。 ○ 《ひとは 互いに分かれて存在している。と同時に その分かれていることにおいて 関係しあっている》。 ○ このような経験世界における存在のあり方とその情況が 《なぞ》としての自然法爾のもとにある。 ○ 《境》というのは 《分ける》と《分けたあとの互いのかかわり合い》との両方をつねに同時に意味します。 ○ 《涅槃》が もし《さとり》にかかわらせて言われたのならば その意味するところの《死》だけを示すのではなく それを《生》の側に置いて捉えているはずです。――《仏性》説に立つならば そうです。 ○ たとえば 西洋でも こうです。 ▲ (パウロ:ガラテヤ書 5:24-25) ~~~~~~~~~~~ キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 わたしたちは、霊の導きに従って生きているなら、霊の導きに従ってまた前進しましょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここで《霊》が《なぞ》のことであり 《霊の導き》が《なぞにおける非思考であり 心の伸び》のことです。なんとも分からない(分かるか分からないかが分からない)から 《霊(息・風の意)》と言っています。息も風も 《自然》と言えば自然です。しかも仮りの表現です。 ▲ 肉を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。 ☆ これが 《涅槃》です。 ▲ 霊の導きに従って生きている。前進する。 ☆ これが 《なぞとしての自然法爾》の生き方です。 もしなるほど《東と西》を分けたのなら 分けたあとの取りまとめも大事です。なぜ もし ★ 境界設定 ☆ をしたとするなら しかもその分離・分割のほうのみを取り上げるのでしょう?
オコリザルです。 一種の予防です。 私は鬼門が目の前にあっても潜り抜けることができます。 そうするとその暗闇をもって、 「あなたの言葉に現れる信仰の在り方から、あなたの心にこのような世界が広がっているのが解る」 こんな脅しが出来ます。 ところがそれが真実かと言うと、在りもしないウソなんです。 このウソを乱暴な言葉で言うと「無」です。 でも一方で、その在りもしないウソの世界に、信じているどころか住んでいる方がいるんですね。 解脱がどうのなんてそんな錯覚です。 それから、自らに等しい責任を他者に持つことはできない。 よって、救いを待つのでなく、あくまでも自助である。
お礼
primeape さん 今回のお話は 相手や情況が限られると まづわたしは思いました。 ★ うそ ☆ が効くのは 一般に相手との信頼関係がしっかりしたものであるときです。しかも情況によると考えます。いつでもどこでも うそを方便するということは出来ない。まづこう考えます。 この件では さらに primeape さんに楯ついてみましょう。 ★ 私は鬼門が目の前にあっても潜り抜けることができます。 ☆ この《鬼門》という認識が びみょうにわたしにとっては違います。 ★ 鬼門が目の前にあ ☆ ることに間違いはないのですが じつは実際には ○ その鬼門がその相手にとって起こっている。 ☆ という意味であり そういう認識です。わたしの問題ではないはずです。もしくは わたしにも鬼門があるとすれば それはわたし自身の別の鬼門であるはずです。 ですから もしこのように認識が違っているとすれば ★ 潜り抜ける ☆ のとも違うという捉え方をします。たしかに相手は その鬼門において何らかの問題や悩みとたたかっているでしょうが わたしは その人と関係性を持っていますが その問題とは直接のかかわりは持っていません。潜り抜けるのは 明らかにその相手がであって こちらはそのような問題解決のために手助けをするというのが 実態ではないでしょうか? ですから ★ うそ ☆ は必ずしも必要ではないと考えています。待ったなしの情況にある場合 それはその情況の緊急性などによりけりだと考えます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ それから、自らに等しい責任を他者に持つことはできない。 よって、救いを待つのでなく、あくまでも自助である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ したがいましてこの ★ 自助 ☆ が相手自身の自助のことであれば わたしは お門違いの批判をしでかしたことになります。 ★ 自らに等しい責任を他者に持つことはできない。 ☆ というのは わたしにとっては《その鬼門が わたしの問題ではなく 相手自身の問題である》を意味します。
オコリザルです。 >悪意の問題をかたずけないと、この他の生命を生かす行いは欲望で陰るでしょうが、 これは「理解できる人はごく一部でしょうが」といった意味の前置きです。安易な反対意見が舞い込んでも面倒だろうと思いまして。 善性を根拠に情動を知解すると、自他共に合意できる善行とはお互いに同様の利己心に納得や合意が働いているということなんでしょうか。 私はどちらかと言うといつくしみなどで、思いやりなどで、行います。これは利他ともいうのでしょうが、愛情は存在同士であれば明朗な現金決済をモットーにしてまして答えがすぐに響きます。 笑い話ですが、その点霊体相手だと一文にもなりませんね、霊能力者なんて言うと言い値でいくらでもぼったくれそうに見えますが、そりゃー詐欺師のやる事ですよ。 それはともかく、愛にもとずくと、明快な現金決済の精神での利他の行動は、実際には自らが生きるために生かす事であり、利他でなく利害も生まず答えが響きます。おもちゃ屋さんであることが幸運です。子供は素直ですから。この愛情の成功体験を概念にするといわば善なのでしょう。 愛と言うと夫婦の愛や親子の愛などお思い浮かべる人も多いでしょうが、それらは関係が特別なのであって愛情が特別なのではないです。 袴田憲昭:仏教と神祇からの引用についてです。 お釈迦さまも何らかの形で当時のインドの神々とかかわっていたでしょう。当時の信仰にいろいろと口を挟んだからこそ、輪廻や業など在りもしないも事柄に言及が及ぶのでしょう。この点は私自身の批判を口にする時の心がけなのですが、お釈迦様は実際には他者の信仰心の在り方について批判したのみで、信仰の対象には何も言及しなかったのではないでしょうか。(たんなる憶測ですけど)そうすると、お釈迦様は自ら(立場のような事柄)に関しては語りもして実践もしたが、自らの信仰に関しては語らなかったと言うことかもしれません。ならばこのことに関して、教祖様として崇められる立場なら、それは当然と考えるのはキチガイ沙汰です。むしろ信仰心にむとんちゃくで、それでいて宗教にそそのかされることを嫌がる一般的な日本人の無宗教ぶりと共通点があって、何ら不思議ではない心境でないでしょうか。心が自由であったということです。 引用では、神々の居る日本に住む、日本人に仏教を輸入した際の信仰の変化についての考え方ですが、お釈迦様はどのような信仰心を(人間として)秘めていたのかに考えが及ぶようになればより発展するのではないでしょうか。どちらが正論であるかなんて判定したら原理主義みたいなもんです。 これに関して私の意見を外野席から述べると「無」を信仰していたわけではないのは確実です。それがいかにおっかないことになるかは前回のご質問で書きました。生きながらの入滅なんておっかない脅しは、霊媒師がもしお金をせびるつもりではったりをかましたら?なんて感じの冗談に過ぎません。「あなたの言葉に現れる信仰の在り方から、あなたの心にこのような世界が広がっているのが解る」なんて感じの脅しです。私の精神世界ではありません。誰かの心の世界です。
補足
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 評言をありがとうございます。 そうですね。 ★ お釈迦様は実際には他者の信仰心の在り方について批判したのみで、信仰の対象には何も言及しなかったのではないでしょうか。 ☆ たぶんこのようであると思われますが 専門家の見解も聞きたいところです。 ブッダは 到るところできわめて飛躍した言い方をしていますので 信仰をすら超えている(?)かに感じられます。要は これをわたしたち一人ひとりが いま どう捉えるかではないでしょうか? 〔わたしの見解としましては 有神論(:浄土系つまり中でも具体的には親鸞の非思考=信仰)と無神論(:そのほかの理論をよく解釈した場合)との二つの立ち場を 潜在的に秘めていると見ています〕。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 引用では、神々の居る日本に住む、日本人に仏教を輸入した際の信仰の変化についての考え方ですが、お釈迦様はどのような信仰心を(人間として)秘めていたのかに考えが及ぶようになればより発展するのではないでしょうか。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ この点で日本人は 《考えが及ぶようにな》らないですし もっと言えば《ブッダの説を――大乗仏教をはじめとして さんざ解釈修正し発展させているのに――そのままを後生大事に守りとおしている》としか考えられません。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ むしろ信仰心にむとんちゃくで、それでいて宗教にそそのかされることを嫌がる一般的な日本人の無宗教ぶりと共通点があって、何ら不思議ではない心境でないでしょうか。心が自由であったということです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これでよさそうでいて どこか間が抜けているように思えますし あるいは間延びしてしまって 捉えどころがなくなっているようにも見えます。葬式仏教が 間延びしていると言っても 丸儲けについては抜け目がありません。 * ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 善性を根拠に情動を知解すると、自他共に合意できる善行とはお互いに同様の利己心に納得や合意が働いているということなんでしょうか。 私はどちらかと言うといつくしみなどで、思いやりなどで、行います。これは利他ともいうのでしょうが、愛情は存在同士であれば明朗な現金決済をモットーにしてまして答えがすぐに響きます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 手短かに述べますが この ★ 明快な現金決済の精神での利他の行動 ☆ に関しましては わたしの場合は微妙に視点が別のところにあります。 ○ 善性・利他・愛情 ☆ などは脇に置いておきます。問題をつねに《こと》として捉えます。目的が定まっていれば なおのこと《しごと》の問題として捉えます。つまり具体的に何が必要で何をすべきか。この視点からことに当たるという意味です。 乱暴に言ってしまえば こころは放っておくという意味です。 ★ 善性を根拠に情動を知解すると、自他共に合意できる善行とはお互いに同様の利己心に納得や合意が働いているということなんでしょうか。 ☆ このとき 次のように読み替えます。 ○ 善性→ 仕事とその理念や目的およびその具体的な中身 ○ 情動→ 一人ひとりの意志つまり自己表現における意志表示 ○ 善行→ 妥当な政策・施策とその実行 ○ お互いに同様の利己心に納得や合意が働いている→ 互いの利己心をも明らかなかたちで意思表示しあって まづ相互理解を得ることにつとめる。そのような――むしろさまざまな・かつ一つの目的をめぐって人びとそれぞれの――利己心を その《しごと》の中身の妥当性や社会にとっての有益性のもとに 互いに同じひとつの方向へとまとめていく。その過程で 《納得や合意が働いている》こと。 ☆ むしろこころを放っておいて このように《しごと》に沿ってその施策を遂行することが 人間の愛という行為であると考えます。共生と言いかえると分かりやすいと思います。 わたしの考えをぶつけました。どうでしょう?
- konsan29
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>(β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 仏教史を読めば、必ずといっていいほど書かれてあることです。 たとえば、 『仏陀のいいたかったこと』田上太秀(駒沢大教授) 講談社 「仏性はもともと人間の心の本性は清浄であるという考えを表した言葉である。 大乗仏教は要するに仏性に目覚めることを教える宗教であるといって過言ではない。 しかし、自己の本性は仏性であるというこの思想は、釈尊の教えるところではなかった。」 「今日わが国で親しまれているお経の全てといってよいそれらは、大乗仏教が創作した経典である。釈尊の説法を書き残したものではない。 『般若心経』『金剛般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』、浄土三部経(『大無量寿経』 『観無量寿経』『阿弥陀経』)、『大日経』『金剛頂経』もみな、大乗仏教徒の手になる偽経である。」 『日本仏教史』末木文美士(東大大学院教授) 新潮文庫 「中期大乗仏典ー4,5世紀の成立。『勝曼経』『涅槃経』のように、如来蔵・仏性を説く教典はこの頃の成立と考えられる。」 「すべての衆生に悟りの可能性があるという考え方は、如来蔵思想・仏性思想などとよばれ、インド中期の大乗仏教において主張されるようになってきたものであるが、日本では最澄が南都の法相宗の五性各別思想に対抗して主張し、大論争を展開したことはよくしられている」 「天台宗の誰もが同じく成仏するという一乗主義に対し、法相宗は無仏性の衆生は成仏しないと応酬した」 「如来蔵・仏性思想は、インドやチベットの大乗仏教では主流とはならなかったが、中国・日本ではほとんどすべての仏教思想が、この上に築かれていってよいほどの大きな勢力となった」 「仏性思想は日本へと渡っていくうちに、いっそうの展開を示すようになる。現世において仏の悟りに達するのが、密教の即身成仏であり、禅の頓悟である。仏性が衆生から草木までおよぶのが、草木成仏である。」 *あきらかに仏性思想は、大乗仏教が創作した論理ですね。
補足
konsan29 さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 これでわたしの質問も ブッディストもしくはブッディスムを研究しておられる方から――いままでのいきさつから言って 次のような表現を用いますが――相手にされるようになりました。重ねて感謝を申し上げます。 さて ご見解ですが ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ * あきらかに仏性思想は、大乗仏教が創作した論理ですね。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >(β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 仏教史を読めば、必ずといっていいほど書かれてあることです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ということで (β)のご見解であるとまづは承ったのですが そうすると どうなりましょうか? (あ) 《仏性》説は 取るに足りない非ブッディスムである。 (い) いやそこまで言っては言い過ぎである。ブッダのおしえの中にも要素としては 《仏性》説に通じるものがある。 (う) (い)は もしそう言ってよければただの学問の――価値判断において中立的な――見解である。ゆえに やはり《仏性》説をしりぞける(あ)の見解に立つか それともそうではなく 《無明を悪循環から好循環へと回転させる縁起説=空観としてのさとり》のはたらきとしてのような《仏性》を積極的に摂り入れる立ち場も成り立ちうるとするか。 すなわち 後者の立ち場として ★▲ (末木文美士) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・現世において仏の悟りに達するのが、密教の即身成仏であり、禅の頓悟である。仏性が衆生から草木までおよぶのが、草木成仏である。」 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とするか。 konsan29 さんは どうでしょう? (あ)でいらっしゃいますか? なお考慮すべき余地はもうないでしょうか? 次の文章を参照します。 ▲ (末木文美士:§中世天台と本覚思想) ~~~~~~~~~~ 〔袴谷憲昭の挙げる三つの特徴の〕第一点は土着思想と仏教とのかかわりに関する問題提起である。・・・ 従来から日本の仏教の現状に対して批判的なのは インド以来の仏教の本来性を追及する仏教学者の側に多く・・・。これに対して 現実の日本の民衆に根差した仏教に関心を持つ民俗学者などは 上記のような傾向にむしろ積極的な意味を見出そうとしており 仏教学者の研究と必ずしも十分に共通の地盤を持たない。いわば理想・理念に立つか 現実に立つかの相違である。・・・ しかしまた だからといって 本来の仏教の立ち場からの批判を、無意味だというつもりはない。それは現実に居直ることにすぎない。現実を現実として認識することと本来的なあり方を求めることとは 必ずしも矛盾することではないように思われる。現実を正しく受けとめることによって はじめて本来的なあり方との距離を見定め それを自らの問題としてゆくことができるのではあるまいか。 あたかも戒律無視の自己正当化ともいうべき『末法灯明記』が 親鸞によって自己内省の書として読みかえされることによって 新たな生命を与えられたことが思い合わされる。本覚思想の問題も それを批判することの有効性は認めつつも 他方 現実に日本の仏教思想史のなかで機能してきた意味について認識を深めることも不可欠のように思われる。・・・ (末木文美士:『日本仏教思想史論考』・一七 pp.314-315 1993) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ まだまだ序論のようですし わるく言えばどっちつかずの議論のようですが 再考の余地があるようにも受けとめられると思うのですが どうでしょうか? 話を長引かせ 回答者をいちいち引き込むようで もしそう見られると心苦しいのですが このようにお応えいたす仕儀にあい成りました。よろしくどうぞ。
オコリザルです。 他の方のご投稿が多いので、このような場合アラシみたいは横槍は控えるのですが。 善性の話が出ているのでコメントです。 存在に動的に備わる善性は、人間社会の発達が物語っています。 人間は自らの生命をつなぐために、他の生命おも生かします。 農耕なり牧畜なりです。 人間同士でも助けあいはあります。 悪意の問題をかたずけないと、この他の生命を生かす行いは欲望で陰るでしょうが、収奪のためでなく、共に生きていく愛が前提にあります。
補足
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ★ 悪意 ないし 悪 ☆ の問題は まだ片付きませんか? 【Q:悪は 存在しない】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4642854.html 【Q: 究極の悪とは――存在について――】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4708484.html 【Q:悪の共同自治にあたって われわれ現代人は 協力しうるか】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4737509.html 頭の中に留めつつさらに考えてまいりますが 今のところこれらの問い求めで しのごうと考えます。 * ☆☆ (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 ☆ この見解の文章例を引いておきます。 ▲ (袴田憲昭:仏教と神祇) ~~~~~~~~~~~~~~~~ だが 考えても欲しいが 価値判断保留の仏教学者ならともかく 万一仏教に少しでも仏教者としての自覚なり確信をもつ人であるならば 日本古来の風俗や習慣でありさえすればなんでもかんでも闇雲に認めてしまわねばならぬというような状況は屈辱的なことに思われるに違いない。 というのも インドにおける仏教の創唱という事件のそもそもの刻印は アートマンやブラフマンなどの唯一の実在(我)を根底に置くウパニシャド哲学を頂点とするインドの土着宗教に対して 思想上の反旗を翻した点にあるわけであり この点は・・・その仏教が 日本土着の神々と仲良く共存していたのでは恥しいに決っているからである。 にもかかわらず 仏教学者は これを恥とも思わず 如来蔵思想を仏教ではないと断を下すどころか これを相変わらず主流とすら見立てて 極小の例を除いて本覚思想一色に塗り込められてしまった日本思想史に荷担するよりほかはなす術を知らないようにも見える。 凡庸な自称思想家は この仏教学者側の曖昧さをよいことに 我が国において 日本土着の宗教と如来蔵思想の仏教とが見事に結実したと得々として語り始めたが 私は率直に言ってこれを見過ごすことはできなかったのである。・・・ (『本覚思想批判』八 1989) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《如来蔵思想は 仏教にあらず》という立ち場のようです。つまり ☆☆ (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 ☆ です。どう見るべきでしょうね?
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.16です >>> 物言いもあります。次のひとつの問いにまとめることができます。 ○ 《心の伸び》は ( a ) 仏性を求めて伸びるのか? それとも ( b ) 仏性と仮りに呼ぶ生命力なりそのような〔良心とその自由意志のごとき〕自然本性なりが おのづと伸びるのか? <<< 私であれば、質問文を以下の様にします。 以下、●●は実在物ないし概念とします。 概念の場合、その概念が指し示すであろう対象については「ある・ない」を不問とします。 === (a)●●を求めて「自ら」(みずから・能動的に)伸びるのか? それとも (b)●●によって(受動的に)伸ばされるのか? それとも (c)能動性と受動性とが【全く同時に】働くことで「自ずから」(おのずから)伸び・伸ばされるのか? === 私の場合、(c)です。 「自ずから(おのずから)伸びる」は、(a)と(c)とを混同している表現のように思われます。 「自ずから」も(他者の力を借りずに)「独りでに」であれば、「自ら」と同じになってしまい混同が生まれます。これは自然を「しぜん」とよむか「じねん」とよむかにも関連することでしょうが、その「しぜん・じねん」といった概念にすら、曖昧性が混在しています。 これは、暗黙裏に生じる(「内部・外部」といった)境界線の設定によっています。 以下は、蛇足かもしれませんが、参考までに。。。 >>> http://www2.big.or.jp/~yba/Real/q52.html 自然法爾の事。 「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。 正嘉二年十二月十四日 愚禿親鸞[八十六歳]『親鸞聖人御消息』14) --- 訳 「自然の自はおのずからということであります。人の側のはからいではありません。」 <<< これは、如来を「人の側」に対置することで「おのずから」を受動的に読もうとしている態度になります。 >>>http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E7%84%B6#.E8.87.AA.E7.84.B6.EF.BC.88.E3.81.98.E3.81.AD.E3.82.93.EF.BC.89 自然(じねん) [編集] 「じねん」は自然の呉音読みであり、「しぜん」と読んだときとは違った意味を持つようになる。 自然(じねん)とは、万物が現在あるがままに存在しているものであり、因果によって生じたのではないとする無因論のこと。仏教の因果論を否定する。外道の思想のひとつである。 また外からの影響なしに本来的に持っている性質から一定の状態が生じること(自然法爾)という意味や、「偶然」「たまたま」といった意味も持つ。 (中略、以下は「自然・しぜん」の説明の一部) 一つの傾向として、西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。 <<< ゐきの説明では、「じねん」の項の説明よりも「しぜん」の項の説明の「一つの傾向として、西洋では自然と人間を完全に分離した考えを持つが、日本では人間は自然の一部と考える。」が的を射ていると思います。厳然とした境界で切り離すことの出来ない「私」と「外部」といった概念であれば、能動・受動は同時であり、決して一方的に生じるものではないという考え方になります。 >>>gooの辞書 じねん 0 【自然】 補足説明呉音 (1)〔仏〕 ある事物や事態が、外部からの影響力によるのではなく、それが本来的に備えている性質によって、一定の状態や特性を生ずること。 →自然法爾(じねんほうに) (2)万物は因果によって生じたのではなく、現在あるがままに存在しているものだとする考え。仏教の因果論を否定する無因論で、外道(げどう)の思想の一つ。 (3)人為が加わらないこと。ひとりでにそうなること。ありのまま。 「コレワ別ノ子細デワナイ。タダ天道ノ―ヂャ/天草本伊曾保」 (4)たまたまそうであること。偶然。 「衣の内より火出で来て焼けぬ。此れ―の事かと思ひて/今昔 4」 補足説明古くは「じねん」はありのままの意、「しぜん」は万一の意に使い分けられた <<< ゐきの「じねん」の説明とほぼ同じです。が、問題になるのは、(1)にて、既に「内部・外部」を区分してしまっているということです。(3)でもそうです。「人為」という言葉が使われています。ただし、「ありのまま」としたときには、区分の無い状態が示唆され得ます。 更に言えば、(2)の「仏教の因果論を否定する無因論で、外道(げどう)の思想の一つ。 」という捉え方に興味があります。これは、自他に境界を設定することで成立しうる概念です。 「受動・能動の同時成立」は、その作用の大きさの差異によって因果的に捉える方が理にかなっている場合が多いですが、たとえば偶有性といった概念等の場合の「たまたま」については、強いて言えば受動性と能動性が対等になります。この「たまたま」について「能動性」が強いと見なすなら「因果論」へと向かうことになるでしょうし、「受動性」が強いとすれば、別の意味での「因果論」へと向かうことでしょう。でも、そうではない中間状態があるはずです。http://genxx.com/blog/archives/000187.html そういった観点から、この(2)の「外道の一つ」といった考えがいつ成立したのかを知りたいと思って調べています。 ※個人的には「外道」ではなく、正にブッダが伝えたかった核心ではないかと内心思っているところです。 少なくとも「スッタニパータ」には記載がない様に思われます。 (調べて判らなければ、gooで質問に出すかも知れません) 私が「仏教に関する誤解の歴史」を紐解いているのは、まさに「自然(じねん)」に対する視点の揺らぎが隠されていないかを探るためと言っても過言ではありません。
お礼
・ ☆☆ 《心の伸び》は ( a ) 仏性を求めて伸びるのか? ☆ というとき これは ★ (a)●●を求めて「自ら」(みずから・能動的に)伸びるのか? ☆ という表現とは焦点の当て方が 微妙に違っています。(舌足らずでした)。 ○ そもそも《仏性ないし さとり》をたどり着けるかどうか分からない彼岸〔もしくは目指すべき星〕として掲げるということ。 ☆ を意味させています。言いかえると 《仏性》がひとに内在しているかどうか知らないという立ち場のことです。修行至上主義のような立ち場のことです。 このようなわたしとの対話における絡みをも考え合わせていただいて 独自の主題についても探究して行かれることを望みますが いかがでしょうか。 * そうとう程度進んだと思います。それにしてもブッダは まだとぼけていると思います。そしてブッディストたちは なお沈黙のままです。
補足
じねんさん ようやく話がどんどん進むようになりました。ご回答に対してと同じく そのことにもやはり感謝を申し上げます。とともに しかも――たぶんわたしのように――相手の弱いところを容赦なく 吸血鬼のごとくにして共生および互いに力を合わせての愛にあふれる尋究が 大事なのではないでしょうか? この点は手前味噌のままにしまして。 じねんさん独自の探究をめぐって ふと ほかに ○ エピクロスの《原子の運動にかんする方向の偏り(パレンクリシス parengklisis / クリナメン clinamen )》説 ☆ についてもちらっと思い浮かびました。お伝えします。よいサイトが見つかりません。 ▲ デモクリトス × エピクロス:「宇宙=機械」のはじまり http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card59265.html この主題から入ります。そしてわたしの結論から行きます。 ○ 自然には自然環界と社会的自然とがある。 ○ 社会的自然は ひとの意志的・作為的・能動的な行為とその関係錯綜をむろん含むが そしてそのような人間の行為関係からそもそも成っているが 大きくは=その全体としては 人間の意志と意図が直接には与らない自然史過程を成す。 ○ ちなみに 突然変異のごとく あたかも光のごとく自由意志も曲がるかのように 合理的な因果関係を超えてのように《方向の片寄り》が起きることがある。 ☆ つまりは このことは理論的には単純なことです。すなわち ◆ 自然法爾の事。 :「自然」といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず。 ☆ つまり 経験世界を超えた《なぞ》の問題です。《はからひ》もそして認識も ままならないというものです。 ■ ( goo辞書)・・・仏教の因果論を否定する無因論 ☆ これはまちがいです。因果関係の認識は 経験合理性によってとうぜん行ないます。そこでは《はからひ》をも認識します。《なぞ》はこの因果論を 否定するのではなく 超えるのです。非思考なのですから。これを ◆ 自然法爾 ☆ と言ったはずです。 ■ 無因論 ☆ ではありません。無因と有因とを超えて 因果関係が《分からない(つまり 分かるか分からないかが分からない)》と言っているのみです。ですから ★ ※個人的には「外道」ではなく、正にブッダが伝えたかった核心ではないかと内心思っているところです。 ☆ というご発言についてはその探究の精神に敬意を表しますが 果たしてブッダがそう言ったのか。どう言ったのか。親鸞と同じことを言ったのか。これはまだ分かりません。 《心の伸び》にかんして ★ (c) 「受動・能動の同時成立」 ☆ に対しては すでに触れた次のような内容がわたしの対案です。 ☆☆ (No.16補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ( b )の場合は ○ それゆえ その伸びとしての――なんなら たましいなり霊なりのちからの――はたらきを わたしがわたしという存在のこととして受けとめすでに受け容れていること が伴なわれています。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 言いかえると ○ 自然法爾(なぞ)が 基本です。その基礎の上でこのなぞの出来事〔としての社会的自然たる行為関係の錯綜〕をわたしが受け容れる。 ○ わたしの意図し意識して行なった意志内容については その《受け容れ・確認》において《主体的・能動的な行為》であると認める。 ○ あとは受け身だ。しかも意志による能動の行為も 自然環界や社会的自然を受けとめるという受け身から出発している。 ○ しかもこの受け身も 受け容れることにおいて主体的な行為である。(なぞの非思考を おのれの心の伸びとして受けとめ受け容れるのは 主体としての信仰行為である)。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 へぇーっ。極めて単純なんですね。つまり ★(要約) ブッダもむろん 仏性を前提としていた。弟子たちかれを取り囲む人びとが 実践修行の過程にあるゆえ 取り立ててこの前提を言う必要がなかった。 ☆ となりましょうか。 ううーん。でしたら ○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。 ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち場のみになるでしょうか? あぁ それはそうと もう一点 問題があります。 ○ 諸法無我と仏性 ☆ との兼ね合いです。 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。 ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。 ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうでしょう? けっこう難問であるように思うのですが?