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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?

 なぜ直接には説かなかったのでしょう?  (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。  それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  (γ):その他(?)  * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか?  * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?

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noname#135843
noname#135843
回答No.42

お久しぶりでございます。Hidocchiです。  愚見を述べたく、参加させていただきました。  Konsan29様の仰る以下の考えは、愚生とも共通しておりまし、またbragelonne様も、ほぼ同様かと存 じます。 >十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 >(四諦と十二因縁によって)その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。  >輪廻の苦からの解放である。  また、「“悟り”なる境地に達するには、“無明”の域から脱する必要があろう」ことも、誰もが認 めていることかと思っております。  ただ、ここで疑問が沸いてくるのです。 「実際の“実践”を通して、本当にそのような境地に達することが可能かどうか」をです。  その点、大乗仏教では、仏性が(以下に定義させていただいております)、全てのものに(ア・プリ オリに)備わっているため、“悟り”なる境地に達するための一種の“担保”が保障されています。 仏性:仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性。(goo辞典からです)  一方、(原点となっています)釈尊ご自身はかようなことをご教示せずに、どのような作用・志向性 ・潜在性でもって、“悟り”にたどり着けるのか? ということでございます(具体的な方法は四諦八 正道と示されてはいますが)。  極論を申し上げますと、「実践(修行)により、“悟り”の境地に達するのは、まぐれ当たりに頼ら なければならないのでしょうか?」、 「またその確証は何なのでしょうか?」 そしてまた、、、( これ以上話してしまいますと、お寺にはいけなくなりますので、差し控えさせていただきます) おそらく、ご質問者様がお聞きしたいことも、かようなことかと察しております(間違えていれば、深 くお詫び申し上げます)。 そこで、愚見を申し上げますと、 >なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ):あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。  と解しております。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもご ざいました。従いまして、彼らに対しては、あえてそのようなことを示さずとも、“教え”のみにより 、“悟り”に達することが可能だと、釈尊が判断されたものと 推察しております。実際、舎利子は「 弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」とされています(以下のサイトをご参照くださ いませ。ただ、その“悟り”の確証は何だったのかは不明でございます)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/舎利弗  しかし、一般大衆化していきますと、そのようなことも言ってはいられなくなりました。そして、分 派の際、大乗仏教では、特に“仏性”なるものが求められたのではないかと考えております。  長文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。

bragelonne
質問者

お礼

 Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  へぇーっ。極めて単純なんですね。つまり  ★(要約) ブッダもむろん 仏性を前提としていた。弟子たちかれを取り囲む人びとが 実践修行の過程にあるゆえ 取り立ててこの前提を言う必要がなかった。  ☆ となりましょうか。  ううーん。でしたら   ○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。  ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち場のみになるでしょうか?  あぁ それはそうと もう一点 問題があります。  ○ 諸法無我と仏性  ☆ との兼ね合いです。  ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。  ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。  ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  どうでしょう? けっこう難問であるように思うのですが?

その他の回答 (71)

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.41

 本来なら言うべきことではないのですが  本当は決して公開してはいけない内容なのですが  と、さも「私の言っていることは重要なことである」と言いたげに、勿体つけている人がいますが、釈迦やイエスが、そのように語っていたでしょうか、あるいは自分が知っていることを他者に説明しようとするとき、わざわざそのように説明するか、実際に思い巡らせてみると、やっぱり「うさんくさい」と言わざるを得ません。  公開してはいけないのであれば、言わなきゃいいのに。やっぱり「特別に」ってことなんでしょうかね。

bragelonne
質問者

お礼

 論証しえないことだが という前提を言おうとしているに過ぎない。

noname#117439
noname#117439
回答No.40

オコリザルです。 今回は公開するのに躊躇する事柄ですが。 代表例として悪意から逃れられない場合を想定しましょう。 その心の心象世界が認識するこの世は地獄の如くであるでしょう。 そうでない世界観を持っているのが私ですが、個別の認識から離れて、それぞれの心象でなく、地上を全てこの世として普通に考えるなら、そのこの世とは、人それぞれに色々な捉え方のある、共通する認識のない混濁した世界となります。 そのようにこの世を認識した場合、悪意は涅槃に放たれます。 自助をはなれて手の届かない天上界の騒乱となってしまいす。 そうなると、人間存在はつかの間の生を受けているだけですが、涅槃の悪意たる現象の根源には、死の許しと終焉がなくなります。それがいわば業で延々と続いているんです。 実のところ何とかできるから私は(セレビィとして)鬼門をくぐれるんです。 私の潜り抜けた仏道とはそんな鬼門の内側です。 住人は悪意の所在から逃れられない人々となります。 今回の文章はたとえ話というよりも、本来ならけしてついてはいけないうそです。 望んで鬼門をくぐるのと、突き落とされるのでは随分違います。 慎重に解釈して下さい。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  primeape さんの冒険のありようが やっと分かりました。  どうも 特定の相手を想定していないで  人間一般のこころの闇の部分(その領域)にみづから入って行って いわばその場を掃除する(古い言い方で 除霊する)といった冒険。なのではないでしょうか?  ★ 悪意から逃れられない場合  ☆ というふうに人間一般のこころのありようを設定しているかのように受け取りました。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうでない世界観を持っているのが私ですが、個別の認識から離れて、それぞれの心象でなく、地上を全てこの世として普通に考えるなら、そのこの世とは、人それぞれに色々な捉え方のある、共通する認識のない混濁した世界となります。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この混濁した混沌とした世界を見たところで  ★ そのようにこの世を認識した場合、悪意は涅槃に放たれます。  ☆ 《涅槃に》というのは どうも単純に《死の世界に》放たれるというふうにも捉えられます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自助をはなれて手の届かない天上界の騒乱となってしまいす。  そうなると、人間存在はつかの間の生を受けているだけですが、涅槃の悪意たる現象の根源には、死の許しと終焉がなくなります。それがいわば業で延々と続いているんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《天上界》という表現に《だまされ》てはいけないのであって 要は 《放たれた〈悪意〉によって 騒乱状態が繰り広げられる》ことを言っているのかも知れない。  要するに こうでしょうか?  ○ 問題は この世である。混濁の世界と化したあと 悪意を死の世界に放ったなら むろん騒乱状態なのであって そのときには このような現象の根元においては 《死の赦しと終焉がなくなります》。延々と・半永久的に 死の世界が繰り広げられる。この死に終わりはないのだ。  ○ 《死が死ななくなった永遠の火の中の世界》。あるいは 《深い谷間を一万年のあいだ頭から真っ逆さまに落ちて行きつづける死者の世界》。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  今回の文章はたとえ話というよりも、本来ならけっしてついてはいけないうそです。  望んで鬼門をくぐるのと、突き落とされるのでは随分違います。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ そういう亡者のすがたが見えるのですか?

noname#131234
noname#131234
回答No.39

第1部 四聖諦には仏性が説かれていますが、質問者の「きめつけ」は、: 1わたしはキリスト教を信じている。それ以外は、間違っている。 わたしの信じているものこそ最高。わたしが許さなければ全て間違えなのですよ! 2なぜほかの人は、大乗仏教なんて信じてるの!キリスト教を信じなさい! 3私の言っている事を認めない人は日本人ではない!みとめなさい! 4えええ誰も認めてくれないの?日本人は死んでしまったの?だったら親鸞は好きだから許します。今ならキリスト教が、お得ですよ! ハイ、しんじて しんじてーぇ! という4コマ漫画のフキダシです。 シナリオです。スクラップブックの再構成では哲学を築き上げることが出来ませんのでご注意ください。 第2部 もし質問者様が仏教徒だったら… 質問 1キリスト教は、仏教じゃないもん。 間違ってるもん。 聴衆:なぜですか? わたしは大乗佛教(とくに浄土真宗)を信じている。それ以外は、間違っている。 わたしの信じているものこそ最高。わたしが許さなければ全て間違えなのですよ 聴衆:ちょっと論として乱暴すぎるのですが… 2イエスたまは、神の形而上学を説いてないでしょ!イェーイ!僕が正しいもーん。 なぜあなたたちは、キリスト教なんて信じてるの!大乗仏教を信じなさい! それと「ランボー」なんてありがとう。わたしもいい詩人だと思っていたところです。これからも、真実を共有財産にしていきましょうね。 聴衆:もちろんイエス自体の歴史的存在も疑問視されているわけですからそれはそうかもしれませんが…キリスト教では万人の信仰による救いを説いていますよね… 3まだ仏教を信じないの!私の言っている事を認めない人は日本人ではない!みとめなさい! 4えええ誰も認めてくれないの?日本人は死んでしまったの? あなたは、キリスト教を信じていますが、キリスト教には小乗仏教ほどの根拠さえありません。「神様助けてー」という事以外、神学的なことは聖書中にない。イエスが説いたという伝説のキリスト教は、「宗教」にとどまり(文学といってもいいのかもしれません)、「哲学」たりえない。なぜこの事実に気がつかないのですか? 結論 「このことに気づくことが出来ない貴方が哲学を語っている」というのが、「貴方だけにとって」の悲劇的ジレンマ(4)です。あさま思惟を辞書で引いてください。

  • konsan29
  • ベストアンサー率38% (5/13)
回答No.38

No.26です。返信の回答ですが、 末木文美士さんの著書をお読みなら、すでに質問への答えも書 かれていると思います。以下箇条書き。 仏性・本覚思想は大乗仏教の思想であること。 日本人に現世否定の精神を教えたのは仏教。 もともと日本人は現世主義的傾向が強かった。 現世離脱の方向に向いたのは仏教の影響があった。 仏教の方は現世主義的な日本の土壌に取り込まれていく。 その教理的な代表が本覚思想。 『梅原猛の授業 仏教』朝日新聞社 釈迦の本来の主張は四諦と十二因縁。 四諦思想は実践哲学。 十二因縁は形而上学、哲学化。 四諦は愛欲をコントロールし滅ぼす方法。 十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。    ついでに、 『仏陀のいいたかったこと』田上太秀 釈尊は霊魂の存在を否定する立場。 無我説は霊観念を否定する。 輪廻の中に生存し続ける限り、人は苦しみから解放されない。 形あるものに生まれることは、苦からは解放されない。 生まれ変わらないことが苦から解放される。 釈尊の求めた究極の安らぎは、楽しみではない。 輪廻の苦からの解放である。

bragelonne
質問者

お礼

 konsan29 さん ご回答をありがとうございます。  ええ たしかにお説ごもっともです。ごもっともなのですが おっしゃっていることは  ○ ブッダのおしえとは何か?  ○ ブッダのおしえは どのように世界に広まったか? 特に日本ではどのように受け容れられ展開することになったか?  ☆ の問題だと思います。こういった観点で情報をおしえていただいたのだと思います。  ところがここでは  ○ マハーヤーナ・ブッディスムにおいて・つまりインドの地で 《仏性》の説は現われたのだが そしてこれを日本などではほとんど一様に受け容れたのだが ではなぜブッダは この仏性を説かなかったのか?  ☆ これを問うています。    おっしゃるように 歴史的事実としては  (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。  です。一致して認められています。しかも これをどう捉えるか? が問うている問題です。もしこの(β)の見解であるなら これを徹底させるのか? になります。つまり  ○ 日本仏教は ほとんどすべて 間違いである。つまり 仏教と言っていても ブッダのおしえとは 何の関係もない。  ☆ と見るか? です。  その点少し言い添えますと  ★ (田上太秀)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  形あるものに生まれることは、苦からは解放されない。  生まれ変わらないことが苦から解放される。  釈尊の求めた究極の安らぎは、楽しみではない。  輪廻の苦からの解放である。   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが ブッダのおしえの原形であり基本であるとしますと それでも インドの後世の人びとやそのかれらに賛同する日本人のあいだでは  ○ 苦や煩悩や無明からの解放は 人びとに宿る仏性のちからによる。  ○ この仏性にもとづくなら 生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これこそが ほんとうはブッダが説きたかったことだ。  ☆ と考えられているのだと思います。それについてご見解をいただければさいわいに思います。という問いなのです。どうでしょう?  

noname#117439
noname#117439
回答No.37

オコリザルです。 私の場合世とつく言葉はすべて心象に投影された世界観の影響を受けていると考えます。 私が娑婆と言ってきたのはこの世ならざる暗闇の世界です。 住人はそれこそがこの世だと思っていますがね。

bragelonne
質問者

お礼

 ★(要約) 鬼なる状態に陥った人間と その人が 闇と苦の世界を潜り抜けるという過程  ☆ の問題ですね。  ★ 私が娑婆と言ってきたのはこの世ならざる暗闇の世界です。  ☆ これは説明を聞かなければ察することは無理です。娑婆と言えば この現実の世界を言うはずです。それ以外の意味はないと思いますから。 ならば 《地獄》のことですね。  《孤独地獄》という表現も 現代人には いいのではないでしょうか?    この《鬼》の問題は――《デーモン》と言ってもよいと思いますが―― けっきょくは《状態》であり むしろ精神はそのまま精神として健全であるのに ただ《波風の立って吹く心理的な状態》として 孤独や闇夜が日々つづくということなのではないでしょうか?  《仏性》というむしろ非思考(信仰)の説は ひとが日から日へ この悪循環をあゆむのではなく 好循環へと回転しうると思わせるものです。そういうまぼろしです。  朝は昼を過ぎやがて夕になります。この夕は しかしながら 夜にはならない。むろん夜という時間をとおってでしょうが わが心は夜に陥らずに つぎの朝を迎える。朝から夕へ。夕は 夜には陥らずに つぎの朝を迎える。朝から夕。夕から朝。日から日へ この循環を保証するのが 仏性という心の伸びです。  どうでしょう? 

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.36

 人間のペットの代表に、犬とネコが在りますが、人間のすぐそばに居る、これらの存在は何を意味しているのでしょうか。  あまりにも権威や目上に忠実な者、あまりにも自由且つ天邪鬼な在り方をする者。極端にどちらかの性質に偏るなら、ちょっと危ないですね。  これら、人間の意図思惑によりその運命が左右される存在は、人間に何を教えてくれているのでしょうか。  善悪について語っている人がいるようですが、善悪の基準、定義も知らない、ままならないものが、善悪を語るとはお笑いです。  第三者に見られることを意識した夫婦漫才であれば、文学のカテゴリで人気が出るでしょうから、そちらでの活動をお奨めします。

回答No.35

>>>  ○ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆★ 自然法爾  ☆ が 《自然環界》と《その上でおこなう人間の意志行為》と《それらの社会的な関係錯綜つまりは社会的な自然》 これらを総合した経験世界について 因果関係を問うのはふつうのことである。しかも この経験世界を超えた《なぞ》の領域をも想定している。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このことについて合意ができてうれしい限りです。 <<< 「アドバイス」を如何様に取るにしても、それは、質問者様の向かおうとする方向性によって形を変えるのが当然であり、それについては何ら指摘すべきものではないのですが、あえて言わせていただくならば(以前も同じようなことがありましたが)そういった場合「合意」ということには「決して」なり得ません。「進んだ」とか「後退した」とか「前向き」とか「後ろ向き」とかいった言葉も同様です。 蛇足ながら、「自然(しぜん・じねん)」といった概念の揺らぎは「関連性」(ないし「境界概念」)の揺らぎであり、これはとりもなおさず「アイデンティティ」の揺らぎと相同のものになるでしょう。それゆえ「因果関係を問うのはふつうのこと」にはなり得ない場合(たとえば偶有性)が多く、むしろ「問わない」という立場すら賞賛されうる場合もあり得る。そういったことがらも「自然」には当然のことながら、包含されていることでしょう。 このことは、No.23の「補足欄」の次の事項について、きっちりと見解の相違を記しておくのを忘れていたことにも起因しているように思われますので、明記させていただきます。 >>>No.23の「補足欄」  《心の伸び》にかんして  ★ (c) 「受動・能動の同時成立」  ☆ に対しては すでに触れた次のような内容がわたしの対案です。  ☆☆ (No.16補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~   ☆ ( b )の場合は    ○ それゆえ その伸びとしての――なんなら たましいなり霊なりのちからの――はたらきを わたしがわたしという存在のこととして受けとめすでに受け容れていること が伴なわれています。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 言いかえると   ○ 自然法爾(なぞ)が 基本です。その基礎の上でこのなぞの出来事〔としての社会的自然たる行為関係の錯綜〕をわたしが受け容れる。  ○ わたしの意図し意識して行なった意志内容については その《受け容れ・確認》において《主体的・能動的な行為》であると認める。  ○ あとは受け身だ。しかも意志による能動の行為も 自然環界や社会的自然を受けとめるという受け身から出発している。  ○ しかもこの受け身も 受け容れることにおいて主体的な行為である。(なぞの非思考を おのれの心の伸びとして受けとめ受け容れるのは 主体としての信仰行為である)。 <<< わたしが「能動・受動の同時成立」といったのは、「伸びる」か「伸ばされる」かといったことの同時成立です。 意識的に「伸びている」ように思っていたとしても、無意識的に「伸ばされている」かもしれないわけです。 もっと言い換えるなら 「信じる」と「信じさせられる」の同時成立 「生きている」と「生かされる」の同時成立 等々・・・です。 したがって >>>  ▲ 霊の導きに従って生きている。前進する。  ☆ これが 《なぞとしての自然法爾》の生き方です。 <<< ということには、決してならないでしょう。 「能動・受動の同時成立」という概念にて、同等の概念を正確に記するなら 「『(導く霊を想定するならば)霊の導きにて生かされている』と同時に、『(想定されうる霊が導くであろう方向に)生きている』の同時成立」です。 「信じるものは、救われる」ではなく、「(自らを)信じるものは、自らを救う(こともある)」でしょうし、また、「(関連性ということでの、自ずからを)信じる・信じさせられるものは、自ずから救われる(こともある)」ということでしょう。 さて、「関連性」という概念から再度「スッタニパータ」を見返すならば、(いわゆる大乗の言うところの)《仏性》の芽は既に説かれていたとみなすべきです。 これは、ブッダが「何を」覚ったかということと無関係に説明可能です。 「スッタニパータ」の全体を流れている事柄を、誤解された経緯からみるならば『(あたかも)関連性を断ち切る(ような状況)にて、「ある」境地に達しようとした』ということです。 この境地が、「関連性を断ち切った状態のまま」であるならば、西洋が誤解したところの「虚無・魂の消滅」と相同であり、(いわゆる)大乗側が非難するところの(いわゆる)小乗概念と相同になり得ます。 しかしながら、「スッタニパータ」全般に記述されているのは、「関連性を断ち切る」のではなく、「関連性に執着しない」ということです。「関連性を保ったまま、関連性についての見解に執着しない」といってもいいです。 その上で「(関連性を保ったまま)如何に生きるか」(たとえば、下記のような慈しみの概念)についても明示しています。(最古とされる「八つの詩句の章」にも慈しみについて触れられています。) >>>http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta0.htm ◆<8、慈しみ>◆ -------------------------------------------------------------------------------- 143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達してなすべきことは、次のとおりである。能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。 144 足ることを知り、わずかの食物で暮し、雑務少く、生活もまた簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々の(ひとの)家で貪ることがない。 145 他の識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない。一切の生きとし生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。 146 いかなる生物生類であっても、怯えているものでも強剛なものでも、悉く、長いものでも、大きいものでも、中ぐらいのものでも、短いものでも、微細なものでも、粗大なものでも、 147 目に見えるものでも、見えないものでも、遠くに住むものでも、近くに住むものでもすでに生まれたものでも、これから生まれようと欲するものでも、一切の生きとし生けるものは、幸せであれ。 148 何びとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだいて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。 149 あたかも、母が已が独り子を命を賭けて護るように、そのように一切の生きとし生れるものどもに対しても、無量の(慈しみの)意を起すべし。 150 また全世界に対して無量の慈しみの意を起こすべし。上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき(慈しみを行うべし)。 151 立ちつつも、歩みつつも、坐しつつも、臥つつも、眠らないでいる限りは、この(慈しみの)心づかいをしっかりとたもて。 この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ。 152 諸々の邪まな見解にとらわけず、戒を保ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろう。 <<< 「関連性を断ち切るのではなく、関連性に囚われずに、関連性と共に生きる」。。。このことは、正に「無我・非我」の概念差異に関連し、観念的か実践的かといった捉え方にも関連するでしょう。 あと、《仏性》については、下記のような考察もあるようです。 「如来蔵思想批判」の批判的検討(Libra) http://fallibilism.web.fc2.com/ronbun01.html

bragelonne
質問者

補足

 ご投稿をありがとうございます。  ▲ 〔親鸞:自然法爾(じねんほうに)章〕 ~~~~~~~~~~~~  自然といふは 自はおのづからといふ 行者のはからひにあらず 然といふは しからしむといふことばなり。しからしむといふは行者のはからひにあらず 如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ。  * 爾(に・じ):しかり。そうである。  ▼ (道元:現成公案) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  自己を運びて万法を修証するを迷とす。  万法進みて自己を修証するは悟りなり。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ さすれば   ○ 《はからひなき》を目指しつとめることは はからひか? そうでないか?  ○ 《万法進みて自己を修証する》ようにはからふことは 《自己を運びて万法を修証するを迷とす》にあたると思われる。  ☆ したがって  ◆ (スッタニパータ)143 究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達し  ☆ というとき   ( A ) 《究極の理想に通じる》こと・《平安の境地に達する》ことが どういうことか? どのように通じ達するのか? この問題がつねに 初めに 横たわっている。  ☆ すなわち  ◆ 143(承前)・・・能力あり、直く、正しく、ことばやさしく、柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。  ☆ とそのあとに延々と続く命題は すべて (1) 自己の努力(はからひ)による修行であるか さもなければ(2) すでにさとりを得た人間がおこなうことである。言いかえると (2)の場合でも 上の( A )の問題が立ちはだかっている。  そうでなければ ここではただの道徳が並べられているに過ぎなくなる。どんな宗教でも思想でも 多かれ少なかれ 道徳規範については語っていると言わねばならない。ブッダとの違いはなくなる。  言いかえると 《慈しみ》ないし《慈悲》については とうぜん《非思考=信仰》からの恵みとしての《はからひなき自然法爾》の振る舞いが ふつうの倫理とは基本的に別の行為として 想定されているはずであり 実際その実践も言われている。そしてそれには   ○ 親鸞や道元のさとりの境地の問題 つまり そこに如何にして到るかの問題  ☆ が先立つことになる。  これが ひとつには 《仏性》の問題だと考えられる。これをブッダは まだ――まだ その芽としても――説いていない。  ◆ 151 崇高な境地  ☆ という言葉の看板をかかげるのみ。    ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  わたしが「能動・受動の同時成立」といったのは、「伸びる」か「伸ばされる」かといったことの同時成立です。  「信じる」と「信じさせられる」の同時成立  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ あり得ません。  ○ はからひなきままに 向こう(=なぞ)からこちらに来るものを受け身にて受け取るのみです。受け取りが 能動的で主体的なはからひです。  ○ 《信じる》というのは この非思考(=なぞ)を心に受け容れるという行為です。  ○ 《万物進みて》と感じたひらめき(あるいは 予感のごときもの)を得たというむしろ《まぼろし》が 非思考の《こころの伸び》のことです。このまぼろしを心に受け容れることが 信仰です。  ★ 意識的に「伸びている」ように思っていたとしても、無意識的に「伸ばされている」かもしれないわけです。  ☆ これは すべて《はからひ》の内に想像し分析してみたということではないでしょうか? 《万物進みて》において 意識も無意識も関係ありません。進みてやって来たものを受け容れるのは はからひであり したがって とうぜん意識的です。  《万物が進みてやって来た》と感じたことが はからひなきままに《心の伸び》そのものです。  ★ 「能動・受動の同時成立」  ☆ であるなら 人間のはからひと《なぞ》とが同等であり 《なぞ》は経験世界の事象と変わらなくなります。

noname#117439
noname#117439
回答No.34

オコリザルです。 bragelonneさんへの回答とするならば、くどいだけですが、、、 誰か他者の信仰心を代筆することはできない。 これと、 、自らに等しい責任を他者に持つことはできない。 よって、救いを待つのでなく、あくまでも自助である。 これは一致しています。 「自らの信じる道を歩みなさい。」 えらぶるならそんな感じです。 鬼ばかりで人間の居ない仏道もいいもんですよ。 潜り抜けたのちに振り返るならば。 ですけどね。

bragelonne
質問者

お礼

 そうですね。  ひとつだけ気になります。おかしいと思ったのではなく それはどういう内容なのか知りたくて気になります。  ★ 鬼ばかりで人間の居ない仏道もいいもんですよ。  ☆ この《鬼》ですけれど それは あくまでもちろん《人間》ですよね?   ○ 鬼のごとき状態に陥った人間  ☆ のことですよね?  そしてたぶん  ○ 人間でなくなったのではないかと疑わなければならない状態さえ見られるように思われる  ☆ ことが 大きな問題であるようです。  ○ このひとは すでに人間であることを放棄してしまったのではないかと思わせる。  ☆ 状態に陥っている場合です。  ★ いいもんですよ。 / 潜り抜けたのちに振り返るならば。 / ですけどね。  ☆ ですか。つまりですから   ○ この《潜り抜ける》というのは その相手が鬼の状態からもとの自己を回復するということ  ☆ なのでしょうね? こちらは そのときその回転劇に立ち会っていますが 特にこちらが潜り抜けるということはないわけですから。感情移入して同じようにその劇に参加していると言っても 問題は こちらにないわけですから。  (問題がこちらにもあったとしても それは わたしの問題であって その相手の問題と直接にかかわっているとは思えません。偶然に同じ問題であったとしたら そうだとしても やはり問題じたいは 人ごとに別々だと考えます)。  どうでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.33

オコリザルです。 そろそろ井戸端会議もまとまってきたので外野席からの応援です。 久しぶりに表明ですが私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれます。それをもって私は我はあるを表明していますが、これを無に悟りと言うと、どのような考えに及ぶか証言します。 あらかじめ「そんなもんありゃしねー」の「無」を説明していますが、非思考という考え方に基づくと、それとは別に無は「その問いには答える言葉を知らない」と言った無もあります。わからない では、無いんです。非思考としていわば非言語なんです。 そちら側の無から類推すると、お釈迦さまと言うのはもっとも人間らしい生き方を人に示した人生ではなくて、人間として理想的な信仰の表し方を人に示した人生であったかもしれないと考えられます。 ならば忠犬ハチ公がなつくのも当然でしょう。 あくまでもその点はお釈迦様の後に続く者の考え方次第です。 信仰として神を語ると意思表示はいかに困難となるかは話題に出ているとおりです。 やせても枯れても忠犬ハチ公であっていいんじゃないですか。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  もし  ☆☆ (No.32補足欄) もうやめときます。  ☆ と言ったのが 探究・追究をやめると取られたのなら それは わたしの舌足らずでした。やめません。そこでは 同じようなことの繰り返しになって来てしまったので 中断しました。  ★ やせても枯れても忠犬ハチ公であっていいんじゃないですか。  ☆ 今回はこの見解と言い いくらか反対の立ち場に回ります。この《忠実》は 何に対してかと言えば  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そちら側の無から類推すると、お釈迦さまと言うのはもっとも人間らしい生き方を人に示した人生ではなくて、人間として理想的な信仰の表し方を人に示した人生であったかもしれないと考えられます。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ということで これも誤解を生んでしまいました。  ★ お釈迦さまと言うのは・・・人間として理想的な信仰の表し方を人に示した  ☆ この見方が その内容として わたしは間違いだと考えます。そういう見方が出てくること自体は おかしくなくて しかもその中身については 間違いだと考えます。その間違いを正したのが  ○ 仏性を推し出す人間観  ☆ だったのではないかと考えます。  つまりは 仏性を取り上げこれがひとに普遍的に宿るとしないならば どこに向かって修行するのかがあやふやでしかないということなのではないでしょうか?   それゆえに  ○ 《理想》あるいはつまり《観念の偶像》 そしてくだけて言えば《目指すべき星》 これにあこがれこれを追い求める修行  ☆ というかたちに行き着いてしまったのだと思います。果ては このようなあやふやな形の修行のもとに 《仏性》じたいをも置いてしまった。仏性は山川草木にも宿ると言っているのに けっきょくいつまで経っても辿り着くことのむつかしい向こう岸(彼岸)つまり空の星にしてしまった。のではないでしょうか?  では   ★ お釈迦さまと言うのはもっとも人間らしい生き方を人に示した人生  ☆ を生きたか? これは 分からない。と言うべきでしょう。何しろ妻子を棄てたのですから。生についてそれは苦だと言うのですから。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  非思考という考え方に基づくと、それとは別に無は「その問いには答える言葉を知らない」と言った無もあります。わからない では、無いんです。非思考としていわば非言語なんです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これについては よく表わしてくださったと思っています。

  • SOLAR_RAY
  • ベストアンサー率21% (12/56)
回答No.32

>推論によってその判断を下しているのか  いちいち説明しろと。自分で考えてこそ、実になるのです。教えてもらっては、その時解ったつもりになっても、また同じことの繰り返し。自分の中で吸収、咀嚼しなければ意味がなくなってしまいます。 >何が蛇で何が蛙か。どこが蛇の意図かどこに蛙のこころがあるのか  自分のアタマで考え、自分で理解してください。智恵は「分けてもらう」ような性質のものでは無いと思うが。 >鬼に金棒であるでしょう  これこそ、陳腐な表現ですね。後で恥ずかしくなって、「消え入りたい」と思うときが来るでしょう。実際、ほとんどの人間がそのような人生を送っているから、「消え入っていく」のではないか? >弱点や間違いをそのものずばりと指摘してください。  何を言いますやら、具体的にあげればまた「ああでもない、こうでもない」とあることないこと言い立てるだけの子供に、わざわざ言い訳するための材料を与える親はいませんよね。  やはり、一旦引っ込んで、よーく考えてから、適切なカテゴリへ引越しすればいかがでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 これではっきりした。  回答の意志はないと。  余計なお世話だよ。

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