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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?
なぜ直接には説かなかったのでしょう? (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。 それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。 (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 (γ):その他(?) * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか? * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?
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お久しぶりでございます。Hidocchiです。 愚見を述べたく、参加させていただきました。 Konsan29様の仰る以下の考えは、愚生とも共通しておりまし、またbragelonne様も、ほぼ同様かと存 じます。 >十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 >(四諦と十二因縁によって)その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。 >輪廻の苦からの解放である。 また、「“悟り”なる境地に達するには、“無明”の域から脱する必要があろう」ことも、誰もが認 めていることかと思っております。 ただ、ここで疑問が沸いてくるのです。 「実際の“実践”を通して、本当にそのような境地に達することが可能かどうか」をです。 その点、大乗仏教では、仏性が(以下に定義させていただいております)、全てのものに(ア・プリ オリに)備わっているため、“悟り”なる境地に達するための一種の“担保”が保障されています。 仏性:仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性。(goo辞典からです) 一方、(原点となっています)釈尊ご自身はかようなことをご教示せずに、どのような作用・志向性 ・潜在性でもって、“悟り”にたどり着けるのか? ということでございます(具体的な方法は四諦八 正道と示されてはいますが)。 極論を申し上げますと、「実践(修行)により、“悟り”の境地に達するのは、まぐれ当たりに頼ら なければならないのでしょうか?」、 「またその確証は何なのでしょうか?」 そしてまた、、、( これ以上話してしまいますと、お寺にはいけなくなりますので、差し控えさせていただきます) おそらく、ご質問者様がお聞きしたいことも、かようなことかと察しております(間違えていれば、深 くお詫び申し上げます)。 そこで、愚見を申し上げますと、 >なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ):あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。 と解しております。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもご ざいました。従いまして、彼らに対しては、あえてそのようなことを示さずとも、“教え”のみにより 、“悟り”に達することが可能だと、釈尊が判断されたものと 推察しております。実際、舎利子は「 弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」とされています(以下のサイトをご参照くださ いませ。ただ、その“悟り”の確証は何だったのかは不明でございます)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/舎利弗 しかし、一般大衆化していきますと、そのようなことも言ってはいられなくなりました。そして、分 派の際、大乗仏教では、特に“仏性”なるものが求められたのではないかと考えております。 長文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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オコリザルです。 51番に関して私の直感です。 人間はあくまでも人間とみなさないと、その言葉の意味を理解することはできない。 せっかくの真理に関する提言さえもむだになってしまう。 仏教とさんは釈迦様を仏とみなしすぎているおかげで、人間存在、つまり自分自身を見失っているのかもしれません。 私に関しては「仏を現代語訳すると人間」で、どこ吹く風です。 仏道ならくぐり終えていますよ。 外野席です。
お礼
ええ なるほど。 ★ 人間はあくまでも人間とみなさないと、その言葉の意味を理解することはできない。 ☆ つまりは ○ イエスに関しては 《人間イエスと神キリスト》の二重性ですし ○ 一般の人間に関しては 《人間だれだれとその人が神の霊(なぞ)を部分的に宿す側面》との二重性です。 ☆ ですから ブッディスムの場合でも ○ 《人間だれだれとその人が仏性(なぞ)を分有する側面》の二重性 ☆ を明らかなかたちで描けば(つまり 想定すれば) よいのかも知れません。 ○ もしブッダは神でないのだとすれば 上の二重性は このブッダにもまったく同じかたちで当てはまります。 ☆ たしかにそういう問題を問うていますね。この質問は。みなさんが そういう形で捉えてくださると よいかも知れません。
オコリザルです。 イタズラが過ぎるのでbragelonneさんにまでしかられる前に釈明です。 おめーは糞だと人間に言いそびれたということは、 人間無罪ですよ。 「生命」と引用するなら無罪どころかむとんちゃくですけどね。 しっかし、お粗末な判例ですね。根拠が「うんち」に由来してますもんね。 このように鬼門をくぐる心境とは、いかに笑いをこらえるかが勝負です。 笑いをこらえるのは苦しいですよ。 仏教的な「苦」です。
お礼
今回のご投稿については 直前(No.52)でのお応えと同じ内容で反応することになります。 そのような言葉を返す行為や笑いをこらえるという行為が 挙げられていますが これを どういう情況でどういう主題(悩みや問題)を持ってどういう相手と渡り合うのか。これが分かりかねています。 ということになるようです。
オコリザルです。 取り上げても仕方のないくだらないことですが46番の「おめーは糞だ」についてなぜこんな話が出たかです。 今回のご質問への回答には、私の回答を補ってくれる協力者がいるので、その協力者がうんこを汚物とみなした場合について、負の側面からの考え方を表明してくれると思ったのですが、それがなかったので自分で回答です。 鬼門をくぐった後いかにするかです。 悪神と対面したとしましょう。 そのときの挨拶が「おめーは糞だ」です。 きれいごとが通じないのでこのような挨拶ののち伝心、心の通った言葉で取り押さえるんです。 その場の出方次第でもありますが代表的に例示するのが「おめーは糞だ」のやや倒錯して変態チックな愛です。 鬼門をかいくぐる心境は、このように茶化しに行って笑い物にするだけです。 人さまに向かって「おめーは糞だ」といった事はありません。今回は協力熱心な方がいたのですが、またしても(人様に向かっては)言いそびれてしましました。
お礼
たぶんこういうお話は 自己表現の過程において その節目節目の振る舞いやら決断やらのことを取り上げておられるのではないかと感じますが もうそこまでです。 ★ 鬼門 / 鬼門をくぐる / 悪神と対面する ☆ これらが意味することは いわば頭の中に繰り広げられる物語の問題であり それに過ぎないのか。それとも そこではつねに特定の相手がいて その人間との絡みとなっているのか。そこのところも分かりません。 あるいはまた このような・精神にかかわるけれども心理的な葛藤や相手との人間関係としての解決過程を物語にして表現する一種の作品は どこまで共通の話題にしたり 問い求めの主題として取り扱ったりすることが出来るか。これもまだ分かりません。 ここまでですね。わたしの反応は。
オコリザルです。 ご意見伺いです。 話の流れでお釈迦さまにも何か信じるところのあった一個に人間であるとの仮説を提案しましたが、イエスさんなんかはその傾向が強かったと思うのですが、人間存在を神に等しく絶対視する信仰形態に関して解説していただけないでしょうか。 日本人の認識する絶対はbragelonneさんの得意な研究分野だったと思います。 凡人が人間を絶対視するメカニズムだけ語ると煩悩のごとき雑学となってご破産かも知れません。信仰に現れる絶対に関しては、お釈迦様の立場が微妙であったからこそ認識が遅れたかもしれないとの考えで補足要求しました。
お礼
primeape さん こんばんは。 あぁ そうですか。 ★ イエスさんなんかはその傾向が強かったと思うのですが、人間存在を神に等しく絶対視する信仰形態に関して解説していただけないでしょうか。 ☆ たしかに ○ ブッダは 神か? ☆ という問いが この質問にもかかわっていますね。そしてそのことが依然としてはっきりしないからこそ 《仏性》もあいまいなままだとも言えるようです。 親鸞のごとくに《信仰》にしてしまえば 仏性の取り扱いもやさしいはずなんだと思えてきますね。 イエスの場合はですね 《人間存在を絶対視する》と言うと まだ舌足らずになるでしょうね。 ○ ナザレのイエスという一人の人間は どこまでもふつうの人間です。 ○ ドグマ(つまり 信教の自由にもとづく信仰のための想定のことですが これは論証し得ないゆえに ドグマです)としては この人間イエスに 神の霊が・つまり《なぞ》が宿った。 ☆ とするものです。言いかえると ○ イエスは イエスという名のふつうの人間であると同時に キリストと呼ばれる神(=《なぞ》)でもある。 ☆ という物語です。 たぶん――たぶんですが たぶん――ブッダにとっては この《神》を持ち出すと けっきょくバラモン宗教の説く宇宙原理としての《ブラフマン》と同じではないかと詰め寄られるので 言わなかった。とも考えられます。 たしかにこのように考えていけば 或る程度は共通の理解が得られる分野もあると思えます。 つまりもう一つの事例としていえば ○ イエスの母のマリアは ふつうの人間で女であった。ふつうにイエスを身籠ったのであるが イエスが人間であると同時に神でもあると想定されるようになったから そのキリストなる神の側面では 処女として懐胎したというふうに表現されて伝えられた。 ☆ わけです。《神と人》 この二重性がつねにあると見ると 分かりやすいかも知れませんね。
Hidocchiです。ご返答ただきまして、どうもありがとうございました。 >○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。 ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち 場のみになるでしょうか? 少し、説明させていたきたく存じます。元来、“求道者”が前提であったがために、他の在家を含む 他の一般の人達にまで、教えが広まろうとは、釈尊ご自身も“想定外”であったものと考えております 。ですが、釈尊の入滅後、種々の分派が生じたことは史実かと思います。 例えば、龍樹(ナーガールジュナ;紀元150‐250年頃)の頃には、“上座部系説一切有部”の理論に対 抗して“空”を説いたのもその一例かとも考えております。 また、ブッダ入滅後、数百年を経た仏教界では、釈迦の教えの研究に没頭するあまり民衆の望みに応え ることができなくなってしまった可能性もあろうかと考えています。その際に台頭してきたのが「利他 行を続けていけば、誰でも未来の世において仏(ブッダ)になれる可能性がある」と主張したのが、“ 大乗仏教”とも考えています。 従いまして、bragelonne様が仰いますように“仏性”は「大乗仏教にまでつらなる同じ一筋」との見解 は ある意味愚生も同じなのですが、“一筋”という表現には(“一筋”縄ではいかず、いろいろな分 裂等の問題点等が生じてきた結果 となるためです)、幾分戸惑いを覚えます。 > ○ もし《仏性》が普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわ っているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によっ てのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとり の内容のひとつに抵触する。 ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。 実を申しまして、愚生のようなものが、口にすることすら、はばかられるものかとも思ったりもして います(笑)。 まず、「《仏性》が普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっ ている」との説は、大乗仏教の概念かと考えております(上述のように、釈尊からは不測の出来事であ り、またこれは上座部仏教のものではないためです)。 愚見を申しますと、“我欲”も普遍的にして不可変のものはない、と解せられるかと考えています。存 在してはいるかもしれませんが、“変わりゆく”ものと考えています。つきましては、この《仏性》も 、所々で“変わりゆく”ものと考えております。例えば、舎利子は「弟子入りした後、その後すぐに最 高の“悟り”を得た」と前回お話致しましたが、“最高”の? という箇所からは、やはりこれも“変 わりゆく”ものと考えている次第でございます。 ご一読いただきまして、ありがとうございました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 従いまして、bragelonne様が仰いますように“仏性”は「大乗仏教にまでつらなる同じ一筋」との見解は ある意味愚生も同じなのですが、“一筋”という表現には(“一筋”縄ではいかず、いろいろな分裂等の問題点等が生じてきた結果 となるためです)、幾分戸惑いを覚えます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ それほど問題ではないような気がします。上座部仏教を除けばです。なぜなら ブッダにおいても 《仏性》は たとえ言葉にして表わさなかったとしても すでに前提としていたのであれば その一筋の道はつらなっていると考えられます。 テーラワーダの立ち場は 仏性をはじめから前提とすることもなかったし 以後もこれを想定しないというのですから はっきりと別の宗教と見なせばよいと考えられます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つきましては、この《仏性》も、所々で“変わりゆく”ものと考えております。例えば、舎利子は「弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」と前回お話致しましたが、“最高”の? という箇所からは、やはりこれも“変わりゆく”ものと考えている次第でございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ううーん。 ○ 《変わりゆくものとして 普遍》なのでしょうか? ☆ こうは考えられませんか? つまり ○ 仏性の現われは ひとによって程度が違う。最高から最低まである。しかも 仏性じたいは たとえば生命力としてのように・あるいは良心としてのように 普遍的にして変わらないものである。 ○ だとすれば 諸法無我の説と並び立つことは出来ない。 ○ そうでなく 諸法無我のほうが普遍的な理論であるとすれば 仏性は いわば《良心》そのもののごとく ただの自然本性としての精神能力におさまると考えられる。 ☆ どうでしょう? いえいえ つまりはわたしの見方としましては ○ 仏性は 非経験の領域のこととして ただ仮りに想定するものであるに過ぎない。しかも そのなぞに向けて ひとはその心が伸びる。《はからひ》なく伸びる。 ○ つまりは 非思考の信仰の問題に行き着く。 ☆ のではないかと見ています。どうでしょう?
- SOLAR_RAY
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>論証しえないことだが という前提を言おうとしているに過ぎない。 いえいえ、かの汚物総理大臣は、自分で「ホントだがウソなんです」と言っています。自分の沽券に関わる意地なんでしょう、支離滅裂、なんの脈絡も無いことを言い立てて最後の悪あがきです。もう、自分でも何がなんだか解らなくなってしまったんでしょう、ウソから出たマコトでなく、「最初はホントも混ざっていたけど、むちゃくちゃ書いているうちに訳解らなくなってしまった」といったところか? 結局、太陽光線の下では細菌は増殖できないので、断末魔の叫びを挙げているのです。 > ううーん。むつかしい。むつかしかったです。 そりゃ、そうです。意味の無いことを言っているわけですから。 従って、「難しい」ではなく、「意味が無いのではないか?」が、まともな人間にとっての正しい感想であると言えるでしょう。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.37です。. 同じ(であろう)対象や概念(たとえば、《自然》や《意志》)を捉えようとして、双方が概念を抱き、論ずるとき、どうしても一致し得ない部分というものが含まれてしまうようです。(無論、完全に一致を見ることもあり得ます。) さて、人はどうして、「一致させようと」思うのでしょうか? あらゆる人びとが「無関係に」存在していたら、「一致させること」は不必要でしょう。 更に言えば、「関連性」(影響を及ぼし・影響を受ける)から完全に脱却した状態に赴くことができるのであれば、まさに(その孤立した世界でのみ)「天上天下唯我独尊」と叫ぶことも可能になるでしょう。 ※「天上天下唯我独尊」:大乗系での伝説http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%94%AF%E6%88%91%E7%8B%AC%E5%B0%8A しかしながら、「関連性」からの脱却は不可能ゆえに、「一致させたい」という思いが生じる・生じさせられるわけです。(能動受動の同時成立、ただし能動と受動の程度の差はさまざまにある。) また、「関連性」から完全に脱却することは不可能であることを、ブッダは知っていた。知っていたからこそ、弟子を取り、自身の思想を伝えたといえます。 「関連性」からの完全な脱却ではなく、(観念的に)「関連性」に囚われない(執着しない)で、かつ、(実践的に)「関連性」と共に生きる。このことは、《仏性》そのもの(ないし《仏性》へと連なる根本的な概念)ではないでしょうか? もし、ブッダが「関連性」からの完全な脱却のみを目指していたのならば、それは西欧が当初に誤解していた「魂の消滅」・「虚無の信仰」と同等であり、(いわゆる)大乗が(いわゆる)小乗の悟りを揶揄するところの根拠と同等になるでしょう。 《仏性》が大乗系の思想にて尊ばれ、かつ、在家の信者に受け入れられやすいのは、まさに、《仏性》が「(観念的に)関連性に囚われない(執着しない)で、かつ、(実践的に)関連性と共に生きようとする」方向性を指し示しているからだと思います。(このことは、無我と非我との関係や、柄谷氏の言うところの「諸関係の束」に関連します) 逆説的に言えば、在家系からブッダの思想概念を希求しようとするならば、《仏性》という概念が必要になることでしょう。 一方で、出家系からブッダの思想概念を希求しようとするならば、(他者に実践的に働きかけるという意味での)《仏性》という概念は、とりたてて必要ではなくなるでしょう。
お礼
☆☆ (No.37補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 「能動・受動の同時成立」 ☆ であるなら 人間のはからひと《なぞ》とが同等であり 《なぞ》は経験世界の事象と変わらなくなります。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★(要約) 関連性からの脱却とかその受容とか ☆ についての今回のご議論は すべて上に言うところの《経験事象》という範囲におさまるものです。 もし 《仏性》もそうだとすれば おそらく見るべき何の理論にもならないでしょう。言いかえると 西欧風に 《良心》というのと違わないという意味です。 ★ 関連性 ☆ は 事象が因果関係などによってつながっているかどうかを言っています。そもそもこの偶有的な関連性があってもなくても 人間存在は―― 一面で独立しているというその反面において しかも独立しているゆえにこそ――関係しあっているという場合には ○ 関係・関係性(かかわり) ☆ という言葉がふさわしいでしょう。経験事態として具体的な事象については ○ 関連・関連性 あるいは 交通(まじわり) ☆ といった語を用いましょう。 今回は だめです。内容がさえないという問題よりは じねんさんが おそらく初めて論点をすり替えようとした形跡を見せた。この理由からです。 (えらそうでしょう?)
- konsan29
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No.40の返信です。 > ○ 日本仏教は ほとんどすべて 間違いである。つまり 仏教と言っていても ブッダのおしえとは 何の関係もない。 ☆ と見るか? です。< いいえ、すでに末木文美士さんの著書から引用しましたように、 「もともと日本人は現世主義的傾向が強かった。 現世離脱の方向に向いたのは仏教の影響があった。 仏教の方は現世主義的な日本の土壌に取り込まれていく。」 つまり元々日本にあった霊魂観や自然観が仏教にも影響を与えた。それが日本おいて仏教と融合し発展・変容したと言えるでしょう。わたしは変容だと思いますけれど。 仏教はキリスト教などと違い、絶対教条主義ではないですね。 哲学のように時代や地域によって変容していきます。 末木さんは 「インドの大乗仏教でも、修行を積んではじめて境地に達成できる。凡夫が直ちに悟りにいたるというような思想はみられません」と、はっきり書いています。 本来の仏教は出家が前提であり、霊魂を否定し、肉食妻帯を禁じていた。日本の僧侶は在家以上に俗化している。愛欲・性欲のなすがまま。腐敗堕落した葬式仏教がほとんど。これでは悟りなど遠い存在でしょう。 「仏性思想・本覚思想は修行を否定するなど、堕落に結びつく要素を多くもっていた。 修行は不要、凡夫は凡夫のままでよいとは、きわめて安易な現実肯定に陥り、危険な思想といわなければならない。 こうした思想は乱れた教団の現状を自己弁護するものである。」 とも厳しく指摘しています。 >○ 苦や煩悩や無明からの解放は 人びとに宿る仏性のちからによる。 田上さんは 人々は縁によって良い行いもすれば、悪い行いもする。 清浄な心が元々具わっているということではない(縁起) などと語っていました。 何度も書きますように、仏性は釈迦以後の大乗仏教から発生した思想ですね。釈迦自体は説いてもいないし、少なくとも修行もしない凡夫のままでは、悟りは得られないということでしょう。高僧でも愛欲・性欲に溺れているのが現状です。 そんな安易には悟りは得られない、ということではないですか。 >○ この仏性にもとづくなら 生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これこそが ほんとうはブッダが説きたかったことだ。 快楽主義は悟りの境地には、ほど遠いのではないですか。 快楽も苦悩も表裏であり、「無我の思想」の境地ではありません。大乗仏教でも「空」と呼んでいますね。 >生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これはどこの教団が主張しているんですか? 仏教ではないと思いますが。
補足
konsan29 さん ご回答をありがとうございます。 まづ今回おそわったことは 次のご見解です。 ★ 仏教はキリスト教などと違い、絶対教条主義ではないですね。 / 哲学のように時代や地域によって変容していきます。 ☆ これは大きく議論を呼ぶと思うのですが どうでしょう? キリスト教もしくは個人のキリスト信仰のことはいまは措いておいて いくつかの見解に分かれるのではないでしょうか? 1. ブッダは ゴータマのほかにもいるとしても あたかも絶対である。そのさとりの境地そしておしえを曲げることはならない。(袴谷憲昭・松本史朗) 2. ブッダは わたしはブッダだと名乗った者勝ちだとすら言えるほどに 自由に多様に現われてよろしい。《変容》がまったく自由だ。 3. 《仏性》の説を基礎として すべての良心と信教そして思想哲学に普遍的な人間観ないし存在論がありうるとする立ち場。 3-1. この仏性を 経験的な――たとえば アーラヤ識としてのごとき――ものであり概念だとする見方。 3-2. この仏性は 非経験の領域に仮りに想定するものであって けっきょく非思考なる信仰の問題だとする見方。――なぜなら上の(3-1)は 仏性=アーラヤ識の説が 諸法無我の説と矛盾する。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これはどこの教団が主張しているんですか? 仏教ではないと思いますが。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは《変容》としてお受け取りください。でも《変容》の許容については konsan26 さんも必ずしももろ手を挙げて賛成しておられるわけではないようです。 ★(要約) 清浄心は元からそなわっているか(つまり仏性)の問題・快楽や世俗主義の問題・本覚思想(特にその行き過ぎ)の問題がある。 ☆ つまり《教条主義》ではないけれども 或る程度の《原理原則》はあるのだし これを曲げてはならないとおっしゃってもいるようです。 あと ★ 空観=縁起説 ☆ にかかわって わたし自身のひとつの拠り所をお伝えして よろしかったらさらにご議論を展開していただきたいと存じます。 ▲ (中村元:龍樹)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたものなるものは 存在しない。《わがもの》という観念を離れ 自我意識を離れたも のなるものを見る者は 〔実は〕見ないのである。 (『中論』第十八章 アートマンの考察 第三詩) という。これは驚異的な発言である。われわれは平生は我欲に悩まされているから 我欲を離れた境地に到達したいと思う。ところが我欲を離れた境地というものが別にあると思う人は 実は真理を見ていないのである。 (中村元『龍樹』2002 pp.225-226) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここから 次を導きました。 ○ この仏性にもとづくなら 生は明るく力強くむしろたのしいものである。その明知あるいはさとり これこそが ほんとうはブッダが説きたかったことだ。 ほかのみなさんも加わっていただいて よい質疑応答が出来つつあると思います。さらになおよろしくお願いいたしとう存じます。
オコリザルです。 生きながらに入滅しなさいの、悪態はいかに面白いかは表明しましたが、輪廻に絡めて「おめーは糞だ」という悪態も面白いですよ。 ウンチとは腸の中で大腸菌などの身体が共生している生命です。 おなかの中で生命をはぐくんでいるんです。 変態チックですが、脱糞とはそのようについさっきまでおなかの中ではぐくんだわが子に等しい存在の出産です。 要するに「おめーは糞だ」とは、「あなたはまるで赤子のように無垢なんですよ」と言う意味の慈愛を悪態にしたものです。 ウンチが汚物なら、何か違う勘違いをするでしょう。 同じこの世に等しくありながら生き様はかくも違うのです。
お礼
primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 そうですね。そもそもの話としてわたしの解釈は 自由なものであると明言しておことわりしておかねばならないですね。 今回についても特にそうだと思います。 正直に言って ★ 生きながらに入滅しなさいの、悪態はいかに面白いかは ☆ 会得し得ておりません。 ★ 生きながらに入滅 ☆ は 一般には即座にさとりを得る――生きているその場で即座に――という意味での《即身成仏》という捉え方があります。そのことをお伝えしましたが その後どうなっているかも分かりませんし なんとも雲をつかむような状態です。 もし ○ 生きながらの死 ☆ ということを意味するのであれば すでに解釈しましたところの ○ 死がしななくなった第二の死の状態にありつづける。 ☆ こととして捉えました。 残念ながら分からない場合は 勇み足をしないで きちんと分かりませんとお返ししたほうがよさそうです。
オコリザルです。 やはり42番に関して一応いって置きます。 業に関しては私は「無い」の立場です。信じないでなく「無い」です。まったく感化しません。 悪意に関しても同様です。 したがってその世界観は、ついてはいけないウソだったんです。 さらに住人と言いましたが、それらの渦中にある人には、その嘘が世界の真実のように見える恐れもあります。そのような危険に躊躇しました。 ただそのないないづくしの私の立場から世にかかわるとどのように世界が見えるかを観念化したんです。
お礼
ううーん。むつかしい。むつかしかったです。 ひとつ明らかにできる事柄があります。 ★ 業に関しては私は「無い」の立場です。 ☆ これについては いくつか部分的にはっきりしていることがあると思います。 1. 業は おこないのことですから (あ) その行為としての直接的および間接的な相互作用が伴なわれる。したがって これについては ふつうにその因果関係を科学的に捉える。 2. そうではなく・つまりそれだけに止まらず 次のような説を唱える向きがある。 3. すなわち 因果応報説である。=(い) 行為の因果関係を明らかにする過程で その行為を内容に応じて《善》と《悪》とに分けて しかも一つひとつをこの善悪のいづれかに規定し そのあとこの善行と悪行とが それぞれ善果と悪果とを生むのだと主張するようになる。 ☆ したがいまして (あ)は ふつうに行なわれる。(い)は ない。こういう結論をわたしは持っています。 あとは保留です。考えるきっかけがあれば考えますが ともかく分かりません。保留です。
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 へぇーっ。極めて単純なんですね。つまり ★(要約) ブッダもむろん 仏性を前提としていた。弟子たちかれを取り囲む人びとが 実践修行の過程にあるゆえ 取り立ててこの前提を言う必要がなかった。 ☆ となりましょうか。 ううーん。でしたら ○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。 ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち場のみになるでしょうか? あぁ それはそうと もう一点 問題があります。 ○ 諸法無我と仏性 ☆ との兼ね合いです。 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。 ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。 ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうでしょう? けっこう難問であるように思うのですが?