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ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか?
なぜ直接には説かなかったのでしょう? (α)の見解: バラモンないしウパニシャドの思想を改めさせるための開拓者として立ったから 直接には説かなかったが それはしかるべく後世において説かれるように用意はしておいた。 それは 仏性をそのまま出すと ヱ゛ーダにおける《アートマン(我)》と紛らわしくなるからだ。 (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 (γ):その他(?) * もし(β)の見解を採る場合 ではブッダはいったい何を言おうとしているのでしょう? つまり潜在的な能力が普遍的にあるかないか分からないけれども いわゆる《さとり》を目指すということなのでしょうか? * ブッダにかんしては 何もちっとも分かっていないのではないでしょうか? 活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。なければ はっきりと無いとやはり明らかにすべきだと考えます。どうでしょう?
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お久しぶりでございます。Hidocchiです。 愚見を述べたく、参加させていただきました。 Konsan29様の仰る以下の考えは、愚生とも共通しておりまし、またbragelonne様も、ほぼ同様かと存 じます。 >十二因縁は、人類発生以来、人間は愛欲の業を背負っている。 >(四諦と十二因縁によって)その業の世界から脱却し涅槃・悟ること。 >輪廻の苦からの解放である。 また、「“悟り”なる境地に達するには、“無明”の域から脱する必要があろう」ことも、誰もが認 めていることかと思っております。 ただ、ここで疑問が沸いてくるのです。 「実際の“実践”を通して、本当にそのような境地に達することが可能かどうか」をです。 その点、大乗仏教では、仏性が(以下に定義させていただいております)、全てのものに(ア・プリ オリに)備わっているため、“悟り”なる境地に達するための一種の“担保”が保障されています。 仏性:仏としての性質。仏の本性。仏となれる可能性。(goo辞典からです) 一方、(原点となっています)釈尊ご自身はかようなことをご教示せずに、どのような作用・志向性 ・潜在性でもって、“悟り”にたどり着けるのか? ということでございます(具体的な方法は四諦八 正道と示されてはいますが)。 極論を申し上げますと、「実践(修行)により、“悟り”の境地に達するのは、まぐれ当たりに頼ら なければならないのでしょうか?」、 「またその確証は何なのでしょうか?」 そしてまた、、、( これ以上話してしまいますと、お寺にはいけなくなりますので、差し控えさせていただきます) おそらく、ご質問者様がお聞きしたいことも、かようなことかと察しております(間違えていれば、深 くお詫び申し上げます)。 そこで、愚見を申し上げますと、 >なぜ直接には説かなかったのでしょう? (γ):あえて、求道者たる弟子達に伝える必要はなかった。 と解しております。 理由:舎利子ら十大弟子、および十大弟子のさらなる弟子達は、元々が実践化でもあり、求道者でもご ざいました。従いまして、彼らに対しては、あえてそのようなことを示さずとも、“教え”のみにより 、“悟り”に達することが可能だと、釈尊が判断されたものと 推察しております。実際、舎利子は「 弟子入りした後、その後すぐに最高の“悟り”を得た」とされています(以下のサイトをご参照くださ いませ。ただ、その“悟り”の確証は何だったのかは不明でございます)。 http://ja.wikipedia.org/wiki/舎利弗 しかし、一般大衆化していきますと、そのようなことも言ってはいられなくなりました。そして、分 派の際、大乗仏教では、特に“仏性”なるものが求められたのではないかと考えております。 長文、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
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下返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。 hidocchiでございます。 > No.55の konsan29 さんとのやり取りが どうなりますか。というところのように思えますが 振り返ってみて おそらくはまだまだ 《なぞ》においてひとつの共同主観( common sense )を得ることができた。といった情況ではないかと思ったりします。 全く申し訳ございませんでした。 konsan29様の意見も愚生側でもまとめ、共通点・相違点を列記したいと考えております。 つきましては、明日にでも、ご返答いたしたく存じます。 > ☆ とにもかくにも 身に余る光栄です。と同時に 先にも書きましたように むしろようやく出発点に共に立ったという情況ではないかとも考えます。 まぁ 理系のドクターを前にして 平気の平左で こわいもの知らずでしゃべくりからかしていますが こういう人間です。 ○ あやまつなら われあり。( Si fallor, sum. ) ☆ という自然児・野生児・反逆児スサノヲです。 門外漢である愚生を迎えてくださりまして、こちらこそ、光栄の極みと思っております。 > 【Q:イエスは 特異点か】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html などは お得意なのではないでしょうか? ご推測のようにわたしは からっきし自然科学は明るくありませんので ご指導ご教授のほどをあらためてお願いいたしておきたいと存じます。 愚生の専門は、生物・化学ですので、若干量子論にも通じてはおりますが、高等数学は学んではおりませんので、特にNo.3のご回答者の質問には即断は致しかねます(No.3の方も、もう少し細く説明をしていただければよかったのですが、ですが、ポストモダニズムもこういった方向性に進んでおられるのですね。驚かされました)。また後ほど、調査の上、ご返答致したいと考えております。 > さしあたっては 述べましたとおりに konsan29 さんとのやり取りのゆくえがあります。 そして全般的には ともかく仏教界のとびらをこじ開けてでも 風通しをよくしたいと願いますし たとえ分からないところであっても 哲学の観点から分類整理しておけば どんどん見通しがよくなるという方向をまづは願っております。 愚生もそう信じている次第でございます。 > 感謝のことばも なんだかままならないような感覚です。ところどころに舞い込んでくる勝手な投稿をも含めて すべてのみなさんに感謝のこころを表わしたいところですね。 こちらこそ、厚く感謝の意を示したく存じます。
お礼
Hidocchi さん ご無理を申し上げて澄みません。ですが お願いいたしたいと存じます。――ご回答をありがとうございます。 今回は そのお願いしましたご回答をお待ちします。 【Q:イエスは 特異点か】 ☆ を読んでいただいてありがとうございます。 ☆☆ 自然児・野生児・反逆児スサノヲ ☆ 以上に ほら吹きで山師だと思われたことと思います。さらにその上を行こうと頑張りますので よろしくどうぞお願いいたします。 ◆ konsan29 さんとのやり取り ☆ につきましては この質問において Hidocchi さんに是非解明していただきたく存じました。 ○ 井戸端会議 ☆ を目指します。民主自由会議と言ってもいいと思います。 ★ konsan29様の意見も愚生側でもまとめ、共通点・相違点を列記したいと考えております。 ☆ ありがとうございます。こうお聞きして 共同主観は むしろ基本としては 《なぞ》において成り立つほうがよいかとも思いました。 《無根拠》において非思考において 人間存在として生命力の共有のごとくして 自由な信頼関係において 主観を共同化していたほうが その共同主観において 互いの具体的な問題についての相違点をも明らかにし 自由に批判をし合っていける。この弁証法過程を堂々と歩んで行けるのではないでしょうか? 恐々謹言です。
- SOLAR_RAY
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すいません、問いに対する補足を書き忘れていました。 >1.《「おめーは糞だ」という存在と出会うという極限の状況》とは どこだい? 頭の中のことかい? 何が極限の状況なのだろう? 頭の中だろうが、白昼夢であろうが、同じことです。それは問題ではありません。彼の中で、実際に起こったことなのですから。 > 2.そこで《観ている自分の本質》とは いったい自分のどういう側面を言うのだろう? 本質は本質です。そのままの意味です。 > 3. ★ 直面した状況に対してどのように振舞うかで自分を新たに規定していき ☆ なぜ《わたし・存在・本質あるいは自然本性》を どこであろうと・いつであろうと 《規定》しなければいけないのだろう? 「しなければいけない」と言っているのではなく、そのように成っていくといっております。従って、 >そこらへんの基礎について考えてみたまえ。つまりこれは 仏性の問題だよ。 この提案は、自動的に、却下となります。 >◆ 「おめーは糞だ」という >☆ ことは わたしには分かりません。 これは、あちらの世界で罵られたことの無い人には、解らないのは当然でしょう。私でさえ、憶測の域を出ないのですから。ただし、彼の言っていることは、なんとなく解るような気がします。 うんこを食べたことの在る人が、「こんな感じだった」と言えば、大体の想像はつきますからね。 まあいずれにせよ、平らにならそうとする汚物総理の役目はここまででしょうか。 あ、解らなければ今回もスルーしてください。解らないときは黙って考える、理解しようと努めるのは、正しい在り方です。 ◇お解りでしょうか?
ご返答いただきまして、厚くお礼申し上げます。 Hidochiです。 > ですがともかく 一切衆生悉有仏性として 人間存在の基本を捉えるという点では ブッダの時代などにおいて潜在的であったにせよ 共通である。と言えるとすれば ずいぶんと すっきりとしてブッディスムというものを捉えることができるのではないでしょうか。 確かに仰るとおりかと存じます。 > あとはたぶん 非思考=信仰の問題にかかわらせて 仏性をどう捉えるか。これがあるかと思いますが そしてここまでにおいてわたしは この点で いわゆる有神論の類型において触れて来ましたが じつは 無神論という類型としても 同じことが言えると考えています。 それは ☆☆ そのなぞに向けて ひとはその心が伸びる。《はからひ》なく伸びる。 ☆ というとき この心の伸びを 形式としては――何もないけれど つまり無神論であるけれど――同じように受けとめている。といった場合に当たります。 ○ なぞは 無根拠であって 有るとも無いとも それが分かるか分からないかが分からない。 ○ ゆえに 有神論という形態を採ろうと 無神論として放っておこうと 両者は互いにまったく同等である。 ☆ からです。 意見を等しく致します。 有神論(極論かもしれませんが、神秘主義をも認め、日々精進される方々)、無神論(釈尊の哲学・思考に興味を抱かれる方々)どちらに致しましても、釈尊の教え・哲学は、人間理性にはたとえ完全にとらえることができなくとも、学び得る何かを持っており、惹き付ける魅力をもっている とそう思っているからでございます。 > のような、“道徳律”と同じようなものと考えている次第です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにつきましては わたしは ○ 自然本性のうちの記憶という行為能力を それに充てます。 ○ 暗記するというよりは ものごとを覚えるというときの秩序作用を取り上げます。 ☆ たぶん同じようだと思いますが どうでしょう。 確かに、愚生の考え方も、「自然本性に備わり」、また「秩序作用」という観点からみますと、ほぼ(全くかも知れません)同一のものかと推察しております。 あともう一点としましては ○ 諸法無我 ☆ との兼ね合いがありますが たぶんこちらの説は 《仏性》を――もしそれが 非思考であると捉える見方が受け容れられるならなおさらのこと―― 人間の精神が想像するような観念として固定してはいけないと言っているのだと思いますが これも どうでしょう? あとは人によって仏性の現われに程度の差があるのみというのが 理論的な見方になるのですが どうでしょう? 現実はきびしい・・・でしょうか? そうでもないでしょうか? 少しばかり、愚生の独り言にお付き合いいただければ幸甚でございます。 皆様方の回答の中からもございましたが、中村元先生のお名前がでてきました。愚生も確か浪人時代(もう20年以上前のことでございます)だったか頃かと思います。そのとき、NHK教育で「ブッダのひとと思想」というようなタイトルだったかと記憶しておりますが、先生の放送を見て、衝撃的な感動をおぼえ、また多くのことを考えさせられたことが未だに鮮明に残っております。愚生はそのまま、いわゆる”理系”といわれる方向に進学し、そしてPh.Dを取り、そのまま”実験屋”といわれる職種で、生計を立てております。 ですが、今までの歴史、愚生の見方(かなり偏ってはいるかと存じますが)から、 「科学は、確かに利便性・快適性なるものをひとに与えてはくれた。だが、必ずしも、しわわせを与えてくれたとは限らない。むしろ不測の事態に陥れることはした。」 と考えております。その一部は、前回、ご一緒させていただきました Okwaveー哲学欄の「経験論の原理的問題点(生得観念の必然性について) 質問番号:5203577」 にて、愚見を述べさせていただいた次第でございます。 これらのことも踏まえ、 「現実はきびしいかもしれない。しかし有神論者・無神論者含め、ブッダの哲学は必ずや、ひとに”しあわせ”を感じさせる何かを持っている!」 とそう、思っている次第でございます。つきましては、bragelonne様の 「活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。」 に対しましては、愚生も全くの同感でございます。 また長々と綴ってきましたが(今回は全くbragelonne様のご期待には添えてはいないとは思っております)、ご一読いただきまして、どうもありがとうございました。
補足
Hidocchi さん ここまで賛同しておっしゃっていただくと 何だかこわい気がします。そして――こんばんは。ご回答をありがとうございます。―― No.55の konsan29 さんとのやり取りが どうなりますか。というところのように思えますが 振り返ってみて おそらくはまだまだ 《なぞ》においてひとつの共同主観( common sense )を得ることができた。といった情況ではないかと思ったりします。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ これらのことも踏まえ、 「現実はきびしいかもしれない。しかし有神論者・無神論者含め、ブッダの哲学は必ずや、ひとに”しあわせ”を感じさせる何かを持っている!」 とそう、思っている次第でございます。つきましては、bragelonne様の 「活かすべきものがあるとすれば 大いに明らかにして共有の財産としたいと思います。」 に対しましては、愚生も全くの同感でございます。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ とにもかくにも 身に余る光栄です。と同時に 先にも書きましたように むしろようやく出発点に共に立ったという情況ではないかとも考えます。 まぁ 理系のドクターを前にして 平気の平左で こわいもの知らずでしゃべくりからかしていますが こういう人間です。 ○ あやまつなら われあり。( Si fallor, sum. ) ☆ という自然児・野生児・反逆児スサノヲです。 そうしますと おそらく 【Q:イエスは 特異点か】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa5111414.html などは お得意なのではないでしょうか? ご推測のようにわたしは からっきし自然科学は明るくありませんので ご指導ご教授のほどをあらためてお願いいたしておきたいと存じます。 さしあたっては 述べましたとおりに konsan29 さんとのやり取りのゆくえがあります。 そして全般的には ともかく仏教界のとびらをこじ開けてでも 風通しをよくしたいと願いますし たとえ分からないところであっても 哲学の観点から分類整理しておけば どんどん見通しがよくなるという方向をまづは願っております。 感謝のことばも なんだかままならないような感覚です。ところどころに舞い込んでくる勝手な投稿をも含めて すべてのみなさんに感謝のこころを表わしたいところですね。 さてこれからどうなりますやら。
- SOLAR_RAY
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>なんだ。ただの寸借詐欺だったか。 そうです。しかし、彼はきちんと存在していると言う意味において、存在自体は詐欺ではないと言うことだけは知っておいたほうが良いでしょう。 否定、排除するということは、それと一体になることと同義でしょう、皮肉なことですが。 汚物を愛することは出来ませんが、それを確認、認めることですね。 存在自体は認めること、これが認識の道の基本条件でしょう。
ご回答いただきまして、どうもありがとうございました。Hidocchiです。 > ☆ それほど問題ではないような気がします。上座部仏教を除けばです。なぜなら ブッダにおいても 《仏性》は たとえ言葉にして表わさなかったとしても すでに前提としていたのであれば その一筋の道はつらなっていると考えられます。 確かに、釈尊すらも、”前提”としていたことを鑑みますと、仰る通りかと存じます。ただ、それまでもの経緯(分裂による惨事等です)に想い廻らせますと、率直には認めることができなかった と思っています。おそらく、そこまでたどり着けた過去の賢人達の熱い探究心に圧倒され、また賢人達への敬意の念もあったためかとも思っております。 承知致しました。愚生も認めたく存じます。 > ☆ こうは考えられませんか? つまり ○ 仏性の現われは ひとによって程度が違う。最高から最低まである。しかも 仏性じたいは たとえば生命力としてのように・あるいは良心としてのように 普遍的にして変わらないものである。 ○ だとすれば 諸法無我の説と並び立つことは出来ない。 ○ そうでなく 諸法無我のほうが普遍的な理論であるとすれば 仏性は いわば《良心》そのもの のごとく ただの自然本性としての精神能力におさまると考えられる。 ☆ どうでしょう? 愚生の意見を申しますと、仏性の現われは ・ ひとによっても程度が異なりますし、 ・ その各ひとにおいても、時により異なることがありますし、 ・ さらには、良心のようにその“存在”が、普遍的にあり、かつ自然本性としての精神能力におさまるもの(精神能力を逸脱はしないものです) と考えております。 先人の言葉を借りますと、 「考える機会が多ければ多いほど、また考えることが長ければ長いほど、ますますあらたに増大してくる感嘆と崇敬とをもって心を満たすものが二つある。それは、わが上なる輝ける星空と、わが内なる“道徳律” である。」 (カント「実戦理性批判」の結びからです) のような、“道徳律”と同じようなものと考えている次第です。 > ○ 仏性は 非経験の領域のこととして ただ仮りに想定するものであるに過ぎない。 愚見を申しますと、原則、“非経験の領域内”と解しております。ただ、幾分かは後天的にも変わりうるもの(その“現れ方”が、ときにより異なるという程度のものです)とも考えております。 仮に、ひとが生まれた際に、自然本性が「白紙」のまま としますと(全ての本性が“後天的に”生じたものとしますと)、愚生には、説明不可能なことが生じてしまうからでございます。と申しますのも、“後天的に”、本性に備わっていくと仮定しますと、その生まれ出た際の環境のみに影響を受けることになってしまいます。ですが、その環境を生じさせたのは? と問われますと、 “周囲の人達(もしくは、その過去の人達)”、か“大自然の摂理” としか考えられないからでございます(単に、愚生の想像力の無さかもしれませんが…..)。もし、“周囲の人達”としますと、ではその“周囲の人達”の本性はどこから来たのか? と永遠に続いてしまいますし、 また、“大自然の摂理”としますと、そもそもそれ自体が“ア・プリオリに”と解さざるを得ないからでございます。 ただ、「ただ仮りに想定するものであるに過ぎない。」といわれますと、「仏性は、それ自体を明確に認識(理性的に証明)できないもの」と考えております。ただ、「それらしきものが、不明瞭ではあるが、確かに存在する」という程度ものと言ってしまえば、その通りかもしれませんが….. > そのなぞに向けて ひとはその心が伸びる。《はからひ》なく伸びる。 ○ つまりは 非思考の信仰の問題に行き着く。 確かに、その傾向は認められますし、実際(例えば、神秘主義にようにです)起こっているものと思っております。ですが、愚生と致しましては、そのように“非思考の信仰”を持てるひとたちに、憧れをも抱いております。と申しますのも、愚生にはそれができないからでございます(おかしなことに、そういった方々の笑顔を見ますと、何故か自分もしわせに感じてしまうのですよね)。生来のヒネクレモノの悲しい性なのかもしれません。 それで、しあわせを感じられるならば、愚生ごときモノが何も言えるに値しませんし、それ自体でしあわせならば、じゅうぶん! とそう考えているからでございます。 長々とした駄文をご一読くださり、どうもありがとうございました。
補足
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううーん。Hidocchi さんと言い konsan29 さんと言い また k_jinen さんの場合は特殊でしたがかれと言い わたしには思いもよらなかったところで それぞれ一つの結着がつくことになった。と言いますか わたしの理解に関するかぎり 落ち着くところに落ち着いたというところでしょうか。または 落ち着こうとしているでしょうか。 仏性ないし如来蔵の思想は 詳しく調べるならいろんな系譜があったり細部の捉え方にも細かい点があるのではないかと思います。 ですがともかく 一切衆生悉有仏性として 人間存在の基本を捉えるという点では ブッダの時代などにおいて潜在的であったにせよ 共通である。と言えるとすれば ずいぶんと すっきりとしてブッディスムというものを捉えることができるのではないでしょうか。 あとはたぶん 非思考=信仰の問題にかかわらせて 仏性をどう捉えるか。これがあるかと思いますが そしてここまでにおいてわたしは この点で いわゆる有神論の類型において触れて来ましたが じつは 無神論という類型としても 同じことが言えると考えています。 それは ☆☆ そのなぞに向けて ひとはその心が伸びる。《はからひ》なく伸びる。 ☆ というとき この心の伸びを 形式としては――何もないけれど つまり無神論であるけれど――同じように受けとめている。といった場合に当たります。 ○ なぞは 無根拠であって 有るとも無いとも それが分かるか分からないかが分からない。 ○ ゆえに 有神論という形態を採ろうと 無神論として放っておこうと 両者は互いにまったく同等である。 ☆ からです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 先人の言葉を借りますと、 「考える機会が多ければ多いほど、また考えることが長ければ長いほど、ますますあらたに増大してくる感嘆と崇敬とをもって心を満たすものが二つある。それは、わが上なる輝ける星空と、わが内なる“道徳律” である。」 (カント「実戦理性批判」の結びからです) のような、“道徳律”と同じようなものと考えている次第です。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これにつきましては わたしは ○ 自然本性のうちの記憶という行為能力を それに充てます。 ○ 暗記するというよりは ものごとを覚えるというときの秩序作用を取り上げます。 ☆ たぶん同じようだと思いますが どうでしょう。 あともう一点としましては ○ 諸法無我 ☆ との兼ね合いがありますが たぶんこちらの説は 《仏性》を――もしそれが 非思考であると捉える見方が受け容れられるならなおさらのこと―― 人間の精神が想像するような観念として固定してはいけないと言っているのだと思いますが これも どうでしょう? あとは人によって仏性の現われに程度の差があるのみというのが 理論的な見方になるのですが どうでしょう? 現実はきびしい・・・でしょうか? そうでもないでしょうか?
- SOLAR_RAY
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開き直っても、恥は恥。汚物を汚物と気づくことです。これは仏性うんぬんの問題でなく、人としての分別、認識力の問題。 質問だよ と言っている割には態度が大きい。 何度も言うが、言葉を捻じ曲げて 屁理屈を言い回す人間に、与える材料、言う言葉は無い。 ~ ならば、 なぜ、~なのだろう。 最初の~が間違っているので、却下します。自分で考えてください。 とにかく、オブツ総理が、この世界だけでなく、あちらの世界でもそのように罵られているのは、因果でもあり、仕方のないことなのです。 その事実に対していちゃもんをつけられても、私はそれには関与していませんので。悪しからず。
お礼
なんだ。ただの寸借詐欺だったか。
- SOLAR_RAY
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誤字訂正: 「おめーは糞だ」という存在を、極限の状況で出会うということは、自分の本質を観ているのです。 ⇒「おめーは糞だ」という存在と、極限の状況で出会うということは、自分の本質を観ているのです。 補足: 直面した状況に対してどのように振舞うかで自分を新たに規定していき、その後また直面した状況が、現在の自分の顕れです。これは、人間社会、人間世界に関わらず、どこでも同じでしょう。
お礼
★ 「おめーは糞だ」という存在と、極限の状況で出会うということは、自分の本質を観ているのです。 ☆ 質問だよ。 1. 《「おめーは糞だ」という存在と出会うという極限の状況》とは どこだい? 頭の中のことかい? 何が極限の状況なのだろう? 2. そこで《観ている自分の本質》とは いったい自分のどういう側面を言うのだろう? ★ 本質 ☆ とは ふつうに《存在》のことではないのかい? 《わたし》のことではないのだろうか。それともその《存在・わたし》の一部分のことなのか。あるいは その《わたしの存在》の一時的な心理的な状態を言うのか。 3. ★ 直面した状況に対してどのように振舞うかで自分を新たに規定していき ☆ なぜ《わたし・存在・本質あるいは自然本性》を どこであろうと・いつであろうと 《規定》しなければいけないのだろう? その《振る舞い》に応じた《規定》だとすれば ただの上べのくせだったり 勘違いだったり 心理的な一時的な状態でしかないのではないか。 もし人間存在を規定するとするなら せいぜい《自由》と言うしかないのではないか。 そこらへんの基礎について考えてみたまえ。つまりこれは 仏性の問題だよ。 ◆ 「おめーは糞だ」という ☆ ことは わたしには分かりません。
- 来生 自然(@k_jinen)
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No.48(jinen,塵煙、自然・・・)です。 やはり《経験事象》や《じねん》等に対する見解の相違ですかね。 >>> ★(要約) 関連性からの脱却とかその受容とか ☆ についての今回のご議論は すべて上に言うところの《経験事象》という範囲におさまるものです。 <<< とは、考えておりません。 長らくおつきあいいただきまして、ありがとうございました。 bragelonne様をはじめ、様々な見解というものを再度確認指せていただくことが出来ました。 実を申しますと父の余命が僅かであり、ここでのやり取りは、正に、父に対する思いに交錯するものでした。 >>> じねんさんが おそらく初めて論点をすり替えようとした形跡を見せた。この理由からです。 <<< 私の視点は、父の視点と(本来の)私の視点とその他の視点とを彷徨っています。行間から、そのような変化を敏感に感じ取られたため、視点の変換が「論点のすり替え」にみえたのでしょう。 いずれにしても、時間がないため、これにて失礼いたします。 ありがとうございました。
お礼
分かりました。何も言いません。わたしは 恥づかしながら いい言葉を知らないからだと思います。 経験・非経験の問題は いづれにしましても 誰にとっても大きな問題だと考えます。とうぜん考えて行かれると思います。 こちらこそありがとうございます。減らず口をたたく――たたき合う――ためにも 現在形で申し述べます。ではまた。
- SOLAR_RAY
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>自分で「ホントだがウソなんです」と言っています。 それだけでは無かったです、もうひとつ、かの汚物総理は、 「ウソなんですが、ホントなんです」とも言っているようです。 もう、PCの前で顔を真っ赤にしながら、キーボードを叩きまくり、人海戦術ならぬ意味不明の文字量で圧倒して優勢に見せかけようと必死、と言ったところでしょうか? 「おめーは糞だ」という存在を、極限の状況で出会うということは、自分の本質を観ているのです。 私は、言葉では言い表せない、愛とか怒りとかそんな陳腐な言葉では表せない強烈な存在とすでに出会っているので、「おめーは糞だ」と主張するような存在のレベルの低さを伺い知ることが出来ます。もちろん、そういった存在としか出合ったことのない人は、それ以外のことは解りません。それを以って、それが全てとして語っているとは、まさに「おめーは糞だ」と言う事なんです。やはり、「おめーは糞だ」と言われるのは、それなりの理由が在るのです。でも、いわゆる精神界においても、そのように罵られるとは、なんだか不憫にも思います。 しかし、それも仕方ない。と言わざるを得ません。
- konsan29
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No.47への補足から感じたことは、質問者さんは仏性があることを前提で論を進めているな、ということでした。 ですから、こちらが大乗仏教の時代に、初めて仏性は唱えられたことであると、数冊の著書を掲げて紹介しましたが、その既成概念は変わらないだろうなと感じました。 しかしそれは仏教史から言って、正当ではないと思います。 『新版 仏教学事典』多屋頼俊 他編 法蔵館 「仏性ー阿含や小乗では仏・菩薩以外の者の成仏を説かないから、 仏性はほとんど問題とされなかった。しかし、世親の仏性論巻1に、 先天的な生得仏性はないが、後天的な修行によって得る、 修得仏性はあるとし、決定無仏性、有無不定、決定有仏性の三種類の 衆生を分けた」 世親においても、先天的には仏性はないと感じていたようですね。 『岩波仏教事典』中村元 末木文美士 他編 「仏性の語は大乗の涅槃経において「一切衆生悉有仏性」の句で表現されている。 これは如来蔵経の「すべての衆生は如来蔵である」という宣言を承けた」 「なお、仏性がすべての衆生に有るか、一部それを有しない衆生(無性無仏性)も 存在するのかをめぐって、意見が分かれる。(五性各別説)」 「大乗涅槃経ーこの経典は如来の般涅槃(亡くなること)は方便であり、実は如来は 常住で変易することがないとして、如来法身の不滅性を主張し、その理由に「一切 衆生はことごとく仏性を有する」と宣言する。この経は法華経の一乗思想を受け入れ、 如来蔵思想によって発展させたもの。 また、法華経同様、大乗を誹謗するものに対して厳しい姿勢をとり、これを(一せん提) 欲望よりなる者とよび、仏となる可能性をもたない(一切衆生)の例外規定とする。 ただし、後の増広部分では、その主張を緩和し方便説とする。 この経は4世紀の成立なので、竜樹には知られていない。」 結局、「一切衆生悉有仏性」などと言いながら、当初は例外規定を設けて、仏になれないものも考えられていた。一貫性がありませんね。 推測するに、この仏性説は大乗仏教の普及のために考え出された、特に在家向けへの論理、ご都合主義だったのではないかと思われます。
補足
konsan29 さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 もっともっと議論が発展するかと思っていましたが 少し変わったかたちで ともかくも纏まって来たかに見えます。 ○ 要するに 《仏性》説について 賛成と反対の二つの見方に分かれる。これは はっきりと分かれる。 ○ どちらも 広く採って仏性がさとりにかかわっているとは見ている。(この仏性をまったく認めないテーラワーダについては もう放っておきます)。 ○ ただし賛成派は ブッダの時から 潜在性としては例外なくひとに――そして果ては一切の自然にも――仏性がそなわるとするのに対して 反対派は ブッダのさとりに関してその要因に仏性を認めてもよいが あらゆる人にそなわるといった普遍性として認めることは出来ないと見ている。 もしこのようでしたら ブッディスムは 二つに分かれたらいいのではないでしょうか? テーラワーダを入れると三つになります。 もし ☆☆ (β)の見解: 《仏性ないし如来蔵》は ブッダの説ではない。 ☆ が無視することのできない原則であるとするならば 仏性派は けっきょく《ブラフマン=アートマン》説をあらためて摂り入れたことになると思われます。 ただし もし人によって・そして後天的には《仏性》が認められるとするブッダ派の場合 結果としては部分的な梵我一如説ということにもなります。 これがおかしな理論だとなると テーラワーダのほうが一貫性があると見なされます。見なされますが そのときには このブッディスムは すべて経験科学ないし経験思想におさまるものとなります。ふつうの倫理学や心理学とその実践という意味になるのではないでしょうか? けれども ブッダがいかに超経験的な内容を語っているか。これはどうなるかの問題も残るのではないでしょうか? * ナーガールジュナは 仏性を持ち出すかどうかを別として その思想としては 仏性派だと思います。《一切衆生悉有仏性》説と矛盾していないはずです。 したがいまして ☆☆ ブッダはなぜ《仏性》を説かなかったのか? ☆ の答えは 《ブッダに聞いてみないと分からない》に落ち着くようだと見ました。その意味は 上のように《仏性》をめぐって 二つないし三つに大きく見解(もしくは宗教)が分かれるのだと。 テーラワーダは 非《仏性》説で一貫しているようですが アートマンは別としても けっきょく修行者の内面では ブラフマン(梵天)を認めて受け容れているのではないでしょうか? そしてもしそうだとすれば そのような折衷形式がいちばん非生産的であり非建設的だと考えます。 後天的・一部分的に仏性を認めるブッダ派は どこまでもブッダに忠実なのだと考えられます。言ってみれば ブッダと心中するという方針なのではないでしょうか? (心中という言葉を出すのは 末法という見方に絡んでのことです)。 これが 仏性派のわたしの理解であり見取り図になりました。どうでしょう?
お礼
Hidocchi さん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 へぇーっ。極めて単純なんですね。つまり ★(要約) ブッダもむろん 仏性を前提としていた。弟子たちかれを取り囲む人びとが 実践修行の過程にあるゆえ 取り立ててこの前提を言う必要がなかった。 ☆ となりましょうか。 ううーん。でしたら ○ 大乗仏教にまでつらなる同じ一筋の道である。 ☆ こう考えられますね。ということは この一筋の道を受け付けないのは およそ上座部仏教の立ち場のみになるでしょうか? あぁ それはそうと もう一点 問題があります。 ○ 諸法無我と仏性 ☆ との兼ね合いです。 ☆☆ (No.9お礼欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ただし このとき――わたしにちらっと分かっている限りで言えば―― 次のような問題が生じます。 ○ もし《仏性》が 普遍的にして永遠のものとして 人間に誰ひとりとして残ることなく皆にそなわっているのだとすれば 《諸法無我》つまり《この世界にはそれ自身によって そしてそれ自身によってのみ 存在する普遍的にして不可変のものはない》というさとりの内容のひとつに抵触する。 ☆ ではないかと踏んでいます。どうですかねぇ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ どうでしょう? けっこう難問であるように思うのですが?