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後悔や反省ができるということは、自分を客観的に見れている証拠なのでしょうか?

後悔や反省ができるということは 自分を客観的に見れている証拠なのでしょうか? よろしくお願いします。

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  • ye11ow
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回答No.2

自分自身の思考や行動そのものを対象化し、把握・認識することが「メタ認知」ですが、このようなメタ認知ができていることを「自分を客観的に見れている」状態だとします。その反対なのが、自我に没入しきっている状態、他人にお構いなしで自分の世界の、生まれたばかりの子どものような状態です。以下、認知的帰属理論を援用しつつ、私個人の今とっさに思いついた説を述べたいと思います。 人が何か失敗をした場合、その原因をどこに求めるのかによって、体験される感情や、生起される行動が異なってきます。失敗の原因を、運や偶然のせい、状況のせい、他人のせいなど、本人以外のせいにするのが「外的原因帰属」ですが、失敗が自分のせいではないとするために、これにより「反省」という態度は生まれません。失敗が不可抗力によるものと考えれば「後悔」の感情もあまり起こらないはずです。 これに対して、失敗の原因を本人に帰属させるのが「内的原因帰属」です。これは「特殊的帰属」と「全体的帰属」の2種類に分けることができます。 「特殊的帰属」は、本人の「特定の行動」に原因を帰属させるものであり、個人の「人格そのもの」に帰属させるものではありません。しかし、失敗の原因は本人にコントロール不能な外的なものではなく、本人のコントロールの範囲内にあったものとするため、失敗を導いた行為が「後悔」され、以後の行動修正によりさらなる失敗を避けようと「反省」されます。 一方、「全体的帰属」ですが、失敗の原因を個人の単発的な行為よりも、性格や能力という個人の人格全体に帰属させるものです。この場合も、「後悔」の感情や「反省」の態度が生まれますが、「特殊的帰属」の場合と比べると、そのレベルがだいぶ異なってくると言えそうです。性格や能力という全人格的で固定的なものへの「後悔」や「反省」となり、それらはより深刻なものになります。性格や能力はすぐには変えられず、行動修正が容易でない場合も多く、そのような場合は「回避」や「逃避」という行動によって以後の問題発生を避けることになりがちです。性格改善を誓うか、ネガティブな態度を身につけるかという、大きな分かれ道になるものです。 ご質問にある「自分を客観的に見る」ということとの関連ですが、まずは、失敗を自分以外のせいにする「外的原因帰属」の場合ですが、これが本当に状況的に妥当な場合もあるはずです。そうであれば、「後悔」や「反省」が起こらないことになるわけですが、この場合は「客観的に見れているか」ということとはあまり関係性がないはずです。但し、本人に原因を帰属するのが妥当な状況にもかかわらず、それができない or しようとしないのであるとしたら、自己中心的視点にあるといえ、自己を客観視する能力がないのかもしれません。 「特殊的帰属」をする場合ですが、このとき「自己の行為」を客観視しているといえます。あたかも他人の目から見たように、自分の過去の行為を眺めることができています。一方、「全体的帰属」をする場合ですが、「(行為のみならず、それを導いた)自己の性格や能力などの人格そのもの」を客観視することができているのだといえ、メタ認知がさらに高度なレベルにあるといえるのだと思います。

noname#150256
質問者

お礼

うーん。かなり難しいのでいっぱい読んでみます。 ありがとうございます。

その他の回答 (2)

回答No.3

こんにちわ。 後悔は「主観」でしょうね。 「自分」が「くやしい」「ああすればよかった」 と感じているのであって、 たとえば、あなたの状況を絵に描いたとして、 その絵の中に 「くやしい」「ああすればよかった」 が「ある」わけではありません。 わたしは「客観」というのは「ない」と思うのですが、 少しでも自分を客観的に見るには、 なるべく「主観」を脇に置いておき、 「主観」を保留にしたまま状況を眺めることができ、 問題点を見つけ出し、検討し、 反省(するだけではなく)した上で、 より良い方向に状況を導く「行動」をすることです。

noname#150256
質問者

お礼

確かにそうですね。 ありがとうございます。

noname#194289
noname#194289
回答No.1

反省や後悔する動機が利害関係や損得勘定から発している場合には必ずしも客観的とは言えないように思います。

noname#150256
質問者

お礼

ありがとうございます。

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