- ベストアンサー
宗教の意義
こんにちは。 私の周りには宗教はインチキだという人たちが多いのです。そういう私も無宗教です。 ですが家には仏壇があり神棚があり庭にはお稲荷さんがいます。 お正月には神社に初詣にいきますし、法事はお寺で行います。結婚式は教会で挙げました。 本題に入ります。 その宗教がインチキだという人たちに意味のあるものだと思っていただけるようなお話を聞かせてください。 学がないもので難しい話はよく分からないと思いますがよろしくお願いします。 紛らわしい用語がありましたら区別ができるようにお願いします。 例)西洋の神(GOD)、中国の神(シン)、日本の神(カミ、迦微)
- みんなの回答 (14)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 ★ 宗教の意義 ☆ これについては ご質問の趣旨に添えず ほとんど見つからないという結論を持っています。その点申し訳ないですが ただしその宗教の発生の過程についてどう捉えるかをしるして では何故曲りなりにも存続しているかを考えてみたいと思います。 人間には 広く《共通感覚 sensus communis / common sense 》とよぶべき人と人との関係性を この宇宙の中で持っていると考えられる現象が見受けられます。その昔 アイヌの間でこういうことが起こったそうです。 一人のアイヌの男が 山で遭難した。戻って来ない。 巫女が占なった。この山のどこそこあたりに倒れていると言う。果た してその通りであったが そのわけは こうだと説明した。 ――わたしが からだ全体で 山になる。その山の全体に わたし の体を重ねてみる。 そうすると 体の一部が 痛くなる。その部分が 山のどこに あたるかを考えてみれば そこに男は遭難しているはずだ。 おそらくこの現象は 非科学的であっても 反科学的ではないでしょう。 神体山であるとか神木とよばれた樹木 これらにひとが身心ともに寄り憑くというのは ふつうに素朴に 原始心性だと捉えます。その山の石や木が神との交流の依り代になっているということのようです。 人間の自然本性にそのような《交感 correspondance 》のはたらく余地があったのだと思います。アニミスムともよびますよね。 ところがこれをいいことに そこからは 自分でこの現象を操作しようとする動きが出ます。シャーマンです。 何か身のまわりのことでも或るいは広く共同体全体のことでも 揉め事があったり衝突なり戦争があったりすると もはや上のアニミストたちの素朴な対処法ではなく そうではなく このシャーマンの出番となる場合です。 何が何でも 自己の努力によって 自己の意識を突き抜けて 何ものかの世界――つまりかみがみのでしょうが――に身を置き さらにそこから 何らかの答えを得て戻って来るというのが シャーマニスムです。 さらに時を飛びます。 やがて あたかも初源のアニミスムの自然性を取り戻してのように しかも新たな心性を 人は獲得したと思われます。単純にそれは 時間の獲得によるものでしょう。 農耕をとおして・つまり麦なり稲なりの栽培の過程をとおし・つまりその種蒔きから穫り入れまでの時間の経過をとおして 自己も 時間的な存在であることを知ります。 要するに 自分たちは老いると ただ倒れるのではなく死ぬのだという認識を得たことがからんでいるはずです。時間的存在であることは 心性を高めて その精神および身体において 歴史知性を獲得したと考えられます。世界へ その時間的存在なる自覚において 入った。 ここまでの経過とその後の転回をも交えて 整理すると 次のようです。 -1:原始心性=《ヨリ(憑り)》:アニミスム&シャーマニスム 0 :歴史知性=《イリ(入り)》:世界への入り +1:超歴史知性=《ヨセ(寄せ)》:《ヨリ》を束ね 《イリ》をも 社会力学上(政治的に) 寄せる。 ヨリ→イリ→ヨセの順序を想定したのですが では なぜ 最後にヨセが 出て来たのか。ここでは これは 要らぬものという理解に立ちます。(人によっては 必要悪と言ったりします)。そして これが 宗教の始まりです。 言いかえると イリなる歴史知性においても ヨリなる原始心性におけるアニミスム自然本性のほうを備えているでしょうから(つまり むやみに捨て去ることはないでしょうから) その非科学的な――反科学的ではなく 非科学的な――心性として いわゆる信仰をも持っています。単純に 超自然のちからを かみと呼んだことでしょう。 さて ここから スーパー歴史知性とよぶべき《ヨセ》なる人間類型が出ました。 単純に言えば ヨリ・アニミスムを備えたイリ歴史知性は その信仰において 神との共生をふつうの社会的な(村の)人生としており 実際に或る種の儀式として 神との共食を持ちます。つまり 食物の収穫に感謝し供え物をして 共に味わうわけです。つまり《まつり(奉り・祀り・祭り)》です。 ヨセは このマツリを 一段高いところから(ふつうのイリ歴史知性を超えたところの精神において) 《まつりごと》として制度化したというものです。マツリゴトとは 個人の信仰を束ねる宗教であり政治です。 古事記には こうあります。 その(仲哀タラシナカツヒコ天皇の)大后 オキナガタラシヒメのミ コトは 当時(そのかみ) 神を帰(よ)せたまひき。 四百年ごろのことだと推測されますが 具体的には九州のクマソもしくは半島の新羅を討つというくだりで出て来ます。 これは あたかも その昔のシャーマンを思い起こさせます。そして 違いは すでに人びとは一般に イリ歴史知性なる有限な存在としての自覚を持ったあとだということです。かくて ヨリ・シャーマニスム+イリ歴史知性で ヨセなるスーパー歴史知性の誕生というわけです。鬼っ子かも知れません。 つまりは その昔のシャーマ二ストは まだ 人びと(アニミストの)と同じ地平に立っていたところがありますが このヨセなる超歴史知性は この同じ水平を嫌ったようです。 嫌ったので 強引に社会のいわば第二階に みづから上がって行ったのか それとも人びとが その新型シャーマンに辟易してこれを敬遠し 人びとの合意で これを社会の神棚に据えてまつろうということにしたか いづれとも推し測られます。(《国譲り》説は 後者です。社会が 二階建てになりました)。 要するに ここに 神の代理が 出現しました。見えない神との共食(供え物をしてのまつり)が 見える神との共食(貢税を伴なうまつりごと)になったという話です。これが 宗教の始まりを説き明かす一つの歴史事例(そのたとえ話)だと考えます。 * したがって 宗教の意義は ヨセなるスーパー歴史知性にとっては みづからの保守としてのそれがあるでしょう。一般に基本的にはないと言うべきでしょう。――ただし人は 習慣による生き物である部分が強いように思われます。 * この考え方に立つと 神の代理との共食――マツリゴトとしての共同自治の制度 つまりこれは国家という形態です――は やがて歴史的に しかるべく揚棄されていくことでしょう。わたしたちは 永く働き蜂に甘んじていたというわけです。イリ歴史知性の回復 万葉集いや億葉集のルネサンスということではないでしょうか。
その他の回答 (13)
- jugemjugem
- ベストアンサー率10% (2/20)
心がある生き物は、幸せを望み、苦しみを避けようとする、という厳然たる事実があり、 これは心の普遍的な性質です。 この世の多くのものは物質的な豊かさを幸せだと思って努力しています。 もちろん、生きていくためには物が必要ですが。 心にとって物質的な豊かさは間接的なものでしかありません。 生きていける幸せがあったら、その上に、どんなことが幸せといえるでしょうか? 苦悩が、争いや自殺が絶えないのは何故でしょうか? 何が苦しみにつながるのでしょうか? 私は仏教徒ですから、以下は仏教徒としての見解です。 目に見える現象には、それに先だって心の働きがあり、 心の働きとしても、意識的なものに先だって無意識的な働きがある。 凡夫の心の根底には、無知・無明があり、その結果として苦が生じる。 心の認識が無明で覆われているために、誤った信念や世界観が形成され、 その迷妄の力によって、苦しみの輪廻世界を作り上げられる。 つまり、無知の心によって行動を起こし、行動が世界を作り、結果が生じる。 仏=如来は全ての存在の真実を悟られた方で、輪廻の苦しみに呻吟する衆生に慈悲心を抱いておられます。 仏教徒は、仏と、その教えと、僧団に、帰依を致します。
お礼
お返事ありがとうございます。 ご回答にある「帰依」するに値するうなずけるお話がお聞きしたくて質問を立てました。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
宇宙のしくみを、知るために科学が必要です。宗教では、限界があるからです。宗教は盲目的な信仰に依存しています。脳は、調和世界の代表ですが、宗教は精神を破壊し、自我は対立と争いばかりで、情緒的思考はストレスの源です。そして宇宙の主役では無いので、宇宙を相対的にしか理解できません。他方科学の目的である、美的世界を目指す心、妥協のない姿勢は人を育て、心を癒し、社会を調和に導きます。だから宇宙の大元の、調和世界を理解するためには、科学が必要です。とくに物理学などは、宇宙の仕組みについて詳しく理解するための助けとなります。人が、宇宙の仕組みについて理解することができるように教えています。宗教の失敗は、西洋では2000年前に分かっていました。だから西洋では、宗教は、実生活を豊かにしようとする試みの場では無視されてました。 科学も宗教も、その他の学問も、元々は同じ、真理を追究するために、派生した学問であり、ツールです。それらを互いに結びつけて考えることが必要だと思われます。
お礼
最近お見かけしませんね。
宇宙のしくみを、知るために宗教が必要です。科学では、限界があるからです。科学は脳の思考に依存しています。脳は、不調和世界の代表だから、科学は自然を破壊し、自我は対立と争いばかりで、論理思考はストレスの源です。そして宇宙の主役では無いので、宇宙を相対的にしか理解できません。他方宗教の目的である、調和世界の自然の心、情緒は人を育て、心を癒し、社会を調和に導きます。だから宇宙の大元の、調和世界を理解するためには、宗教が必要です。とくに仏教や、道教の老子は、宇宙の調和世界について詳しく説明しています。人が調和世界と交流する方法も、だれでも出来るように教えています。だから科学の失敗は、東洋では2000年前に分かっていました。だから東洋では、科学は無視されてました。その事が、荘子などに書かれています。
お礼
お返事ありがとうございます。 大胆な着想での情趣のある料簡を印象深く読ませていただきました。
- cyototu
- ベストアンサー率28% (393/1368)
宗教は人間を本気にさせる力があります。そのことを柳多留の次の一句は見事に凝縮して表現しております: たいこもち宗旨(しゅうし)ばかりはまけて居ず (注)宗旨:ある宗教の教えの中心教義 客のご機嫌うかがいを稼業にしている、あのたいこもちですら、宗旨のことだけは譲らず、客には負けていないという句です。 ところで、日本には西洋人の言う無宗教者あるいは無神論者、すなわち、英語で言うatheistの方は滅多にいないのではないでしょうか。西洋人にとって無宗教者とは、神や仏がいないことを確信を持って信じている、したがってある意味で宗教的とも言える宗教否定の信者のことを言います。日本人が通常「私は無宗教です」というのは、そこまで確信した信念を持った主張ではなく、「今まで本気で宗教に興味を持ったことも無く、信心を本気で考えたことが無い。だから、自分は宗教を信じているのかいないのかそれも良く分からない」ということの表現のようです。西洋ではそのような人のことを無宗教者とは言いませんので、もし、ご自分で確信を持って宗教を否定しているのでない限り、少なくとも西洋人に対して自分は無宗教だと紹介するのは控えた方が良いです。さもないと、大変な誤解を招いてしまいます。 私の経験では、多くの日本人は決して神や仏の存在を確信的に否定しているわけではなく、ただ、それに関して良く分からないので、宗教に関して特別にどの宗派に属するか自分でも決めかねている状態にあるように見えます。したがって、多くの日本人は無宗教ではなく、無宗派だというのがより正しい表現だと思えます。
お礼
お返事ありがとうございます。 思いがけない新しい知見をして心がはずむ想いです。 ただ無宗派と表現しますとどこかしらの宗教に属した上で宗派という名の派閥には入っていないという誤解をされてしまうのではと思ってしまいます。
- ukiyonohae
- ベストアンサー率14% (5/34)
>その宗教がインチキだという人たちに意味のあるものだと思っていただけるようなお話を聞かせてください。 宗教は、「インチキである。」という意味とか意義があるのもだと 説けばいいんじゃないの。
お礼
お返事ありがとうございます。 その説明のしかたが分らずに困っています。
- ratesu
- ベストアンサー率13% (16/122)
様々な宗教が存在するが地球の人々がみんな幸せだと思いますか?人を幸せにできない宗教に意義など無い。
お礼
お返事ありがとうございます。 そのように仰る方がほとんどです。 このことを覆すようなお話をお伺いしたくてこの質問を立てました。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
誤字訂正 初詣などの宗教とは言えないのではないかと。 ⇒初詣などの行事は宗教とは言えないのではないかと。
お礼
最近お見かけしませんね。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
イエスも釈迦も、生きていた時は宗教ではなかったはずです。 要は組織化、システム化されると宗教という名前に変貌する。 ある人の思想を残したい、残さなければならないと思ったとき、組織化、システム化するしかないわけです。 そして、組織化システム化した分欺瞞誤謬が多くなるのは当然。 なぜなら、あらゆる場面で、元々の真理よりも組織の維持存続のほうが優先されるからです。当初の目的から外れて、それに属している人たちの都合により組織の維持存続が第一命題となるのは、当然の成り行きと言えます。 そういうわけで、インチキだとかそうじゃないとかではなく、ある種意味のないもの どころか、世の中を悪くしている根源だと考えられます。 従って、「意味のあるものだと思っていただけるようなお話」をすることは、人間には不可能でしょう。 しかし、日常生活に根付いた 初詣などの宗教とは言えないのではないかと。組織や宗教に属し、それに従っているという自覚によって行われているのではないから。
お礼
最近お見かけしませんね。
宗教というものは個人的なものだと思いますが、容易に集団のものへ変わってしまうのではないでしょうか。その人が納得しているものが宗教ではないかと思います。納得の基盤になっているものと言えるかもしれません。基盤はほかの人と共通の方がなん試飲できるということもあります。
お礼
お返事ありがとうございます。 どのような呼称になるかというお話になってしまいますと戸惑ってしまいます。 第三者との間に金品などの受け渡しがあるものを宗教とさせてください。 個人が故人を偲ぶことや祈ることにお金はかかりません。
一つは教義を広めるということですね。 キリスト教だと愛の精神ですよね。 もう一つ。私はこちらが大きいんですが。 法事を行ったり、初詣にいったりですね。 つまりもともと神を祭る精神とか、死者の冥福を祈る精神があり、その場合は必要か不要かを語るまでもなく、自然にそこにあるものだと思います。 死体なんて意味のないただの物体だと言うなら葬式などは不要でしょうね。
お礼
お返事ありがとうございます。 故人を偲ぶことや祈ることに宗教が介入する。そのことに抵抗感があると仰っていました。 死体なんて意味のないただの物体だという考え方ではないようです。
- 1
- 2
お礼
お返事ありがとうございます。 つまり宗教の意義とは搾取する側の既得権益を守ることであり、習慣というマインドコントロールされた人々を開放するのは難しい。そしてそれは時が解決する。 とても難しいお話で理解できているか自信がありません。