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聖書
1 アダムとイブは りんごを食べてからおかしくなりましたが どうおかしくなったんですか? 2 なぜ楽園に 食べたら危険なものがあるんですか? 神様は ヤッターマンメカの自爆装置的なものを なぜおいてしまったのか。 すべて創って最終確認を怠ったのか 以上教えてください。
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- peacej
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1・経緯があります。 神様が人間を創造された。時代が進み、人間が増え、進歩して神様が理解できる精神レベルになってきた。そこで神様はアダム、許婚にエバを選んで神様のことを伝えようとした(アダムとエバは人類最初の二人、というより宗教人としての意味で「最初の人間」と言えるでしょうか)。 神様は霊です(ヨハネ4:24)、そして人間も霊があるので神様を感じ、つながることができます。神様と霊的につながり、神様の愛と力を受けて素晴らしく生きることが人間の理想です。アダムとエバはそのことを人々に伝える使命を果たすべく神様が育てていたのです。 しかし悪魔が生じて、二人を堕落させました。御言葉を守れなかったので、神様と霊的に切れてしまいました。神様の愛と力を受けられず、食い飲み生きる「生きているとは名ばかり」の肉体に過ぎなくなってしまいました。人々も神様を知ることができず悪魔がはびこり、「死んだ」歴史が起こってしまったのです。 ここから、神様と悪魔が人間を引っ張り合う苦しい歴史が始まります。旧約聖書は偶像と享楽の中で、神様がいかに苦労しながら、神様を信じる人、家族、国家を立てていくかのもがきの物語です。 アダムとエバの失敗はそのような意味があります。だから再び神様と人間の絆を取り戻しし、人々を霊的に生かすイエス様は「最後のアダム」と呼ばれるのです。 2・ここでは簡単にしか説明できませんが、アダムとエバの話は比喩です。性的な姦淫という罪を犯したのです。神様の大きな使命を果たすはずの二人が悪魔に誘惑されたとはいえ、幼くして性関係を持ってしまった。肉体の問題というより、神様より悪魔の言うことを聞いた(偶像崇拝と同じ)霊的罪が大きいのです。 自爆装置を置いたのでなく、大人になれば与える結婚の祝福だったのです。でも成長するまでは「食べてはいけない」。それを守れなかったのです。神様は人間を服従ロボットに作ったのではなく、自立して判断でき責任も果たし生きる存在、つまり神様に似せて創造しました。神様の霊を受けていれば治められた問題だったはずですが、悪魔に心を奪われたので誘惑に負けてしまいました。神様に責任があるのではありません。 聖書には「生みの苦しみを増す」、「腰を隠した」とあります。またこの後、律法などで性的問題、偶像崇拝を厳しく禁じたのはこのためなのです。 実は、この比喩の解釈は聖書に明記されている訳ではなく、また統一教会が「堕落論」として教理にしているので、一般のクリスチャンが聞くと拒絶反応があると思います。 しかし、この話は、ユダヤ教の伝承が由来だそうです。また統一教会も「天使とエバが関係を持った」とか勘違いしている面もありますが、統一教会が異端だからとして、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのはあんまりかと。聖書のつじつまを考えても理にかなっていると思います。 なぜ神様が援助交際や不倫など性的不道徳を嫌うのか。アダムとエバの罪の繰り返しになるからです。でも「性的問題」というとスキャンダラスに誤解されそうなので繰り返しますが、大切なことは「神様より悪魔の言うことを聞いた」という霊的問題なのです。 だから、私たちは、イエス様により悪魔の拘束を逃れ、正しく真理を知って誘惑に陥らず自由となり、霊的に神様とつながり、神様の願う姿で生きる。それが救いです。 アダムとイエス様の関係さえ知らないクリスチャンもいますが・・・今も神様はアダムの時に成せなかった理想を完遂しようと頑張られています。
- mimicco_q
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(1)りんごかどうかは知りませんが、神様が「食べてはいけない、死ぬから」と言ったものを食べたのです。おかしくなったというのではありません。このとき、二人は死んだのです。命が永遠ではなくなったという意味です。 (2)神が愛だからです。また、人間も神を愛し愛されるためにつくられたのです。愛というのは、危険なものを遠ざけて何も知らせないことではありません。結婚を例にとって考えますと、たくさんいる異性のなかで、惹かれあい、お互いを選び、いかなるときも友に分かち合うことを誓い、ふたりがひとつとなることです。「選択して愛する」ことが愛であって、他人に決められてそうすることではないのです。 目移りしそうな美しい女性や素敵な男性はたくさんいます。そのひとと交際することを自制することが愛なのです。犠牲がともなうのです。だから信頼が生まれるし、感謝もうまれるのです。自分も答えようという気持ちにもなるのです。 確かに園に、善悪の実がなかったらふたりは食べなかったでしょう。しかし、それは食べなかっのではなく、知らなかったし、食べられなかっただけなのです。それは神のいいつけを守ったのとは違いますし、悪魔の誘惑を退けて神を愛することにはならなかったのです。 神=愛ですので、愛以外の選択は罪です。 この世でもどんな偉業を成そうとも、それが愛によらなければ意味がないのが神のご意見です。それなので、隣人を愛しなさいとキリスト教では言われているのです。
- tumaritou1
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聖書が教えようとしている事は、時代が変わっても人間は変わらないという事です。何が変わらないかというと、人間の思考方法が変わらないという意味です。 その意味する処は、人間の脳の機能の事です。子供の脳は脳の機能が分化されていないという意味になります。昆虫でも、動物でも生きているものは何も教わらなくとも生きて行く力は在ります。学校に行かなくとも、鳥は空を飛べます、魚は泳いでいます。蜘蛛は上手に巣を作ります。 まして人間の脳にはもっと沢山の脳細胞が詰まっています。鳥や獣や昆虫以上の脳の機能が在ると思います。是は主に右脳に在る機能の事です。 その脳の機能とはまた違った機能が発達をしました、その最たるものが学習能力です、或いは計算能力です。つまり「分別心」の事です。是は主に左脳に存在する機能の事です。左脳の機能は意識をするという処にあります。そうして世の中を分別して見てゆくという処です。 この二つの機能が別々に働きだすという事が、脳の機能が分化したという意味になります。働きが違う、或いは機能が違う脳という意味です。脳という意味は「意識」が有るという意味になります、従って意識が違うという意味です。云い方を替えたなら、心が二つ在って、その二つの心に矛盾が生じるという意味になります。言い方を替えたならば、二つの心に矛盾が生じて相争うという意味になります。 是が思春期頃の「心が揺れ動く」時代、或いは悩みが始まって、心が病み始める時代という事です。是が知恵のリンゴを食べたという事の意味になります。 今、お盆の連休に入って遊びに行く事になっていまして、時間が無いために結論だけを書いておきます。何か質問が在るようでしたら、書いてください。後でまた書きます。 すべて創って最終確認を怠ったのか? と云う事を貴方は云いましたが、人間の苦しみを救う方法も示しています。「神と和解せよ」と云う事です。右脳の機能は「神」の機能が入っています。或いは宗教心と云う事でもいいかと思います。自我意識が神と出会うという意味です。 仏教でも同じ事を云っています。「悟りを開け」と云う事です。この意味は自我意識だけでは人間には安楽が無いという事です。 人間を不安にしているものは自分の中のもう一つの働き、「仏性、や神」であるから、その者と出会って(和解、或いは、見性、或いは自分自身を知って)人生の意義を学ぶという事になります。 最終確認はそれぞれ各人がするようにと云う事になります。「自覚聖智」と云う事です。 簡単に言うならば、子供の時代は心が一つだけであったために「天国の住人でいられた」悩みが無かった。 脳の機能が二つになってからは、心が二つになってしまって心が矛盾したり争う事が多くなってしまった。何者か、分からないものに「心が圧迫を受けていた」それが失楽園、天国からの追放。 その二つのものがまた一つになって大人の子供が出来てしまう事、是が神と和解が出来て、心が相争う事が無くなった状態の事。涅槃と云う事になります。「生死の問題が解決した」絶対の安心が獲得できたと云う心の状態。このことを聖書や仏典は教えようとしています。
- taco8ch
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「おかしくなった」と言うと、ちょっとあの二人あっちの世界へ行っちゃったとか、 愛する二人の間にすれ違いが生じて別れ話がもつれたとかみたいな言い回しになっちゃいますけど、 それは冗談で、禁断の実を食べた後も、わりと二人はたくましく生きているんですよね。 近親婚かなんか知らんけど、子供も孫もよろしく生んでいるし、 孫の代にはすでに町興しまでしてる(って、そりゃ無理だろ) カルチャーの語源がどーたらいう気はないけど、 さらにその数代のちには農工業のみならず、楽器を奏でる余裕まで出てきた。 そんなアダムとイブは自爆スイッチを押しちゃったのか? 人間は禁断の実を口にしたために死ぬ存在となり、子孫を残すことを余儀なくされた、と しばしば読み説かれるけど、個人的にはそれはどうだろうかとも思っているのです。はい。 創世記の記者は、人が死ぬ存在なのは、禁断の果実を口にしたことによってではなく、 命の木(エデンの園の中央に善悪の知識の実とともに植えられた木)の実を 食い継ぐことができないからと考えたのではないかとも。 つまり言い換えれば、人間は、創造の当初から、永遠に生きる存在としてあったわけではなく、 本来、旧約聖書は「人間たぁそもそもが死んで土に帰る存在でっせ、そんなことは自明のこと」 としてそこから話を繰り広げていると思うんです。 実は、創世記の人間の創造のくだりは複数のお話が混在しているので、 人の死が何に起因すると言っているのかはきわどい判断になるけれど、 神は、眼が開かれた人間がさらに命の実をも口にして不死の存在となることを、 何とか阻止しようとして、それが二人の楽園追放の憂き目へとつながっていくんですね。 見よ。人は我々の一人のようになり、善悪を知るようになった。 今、彼が、手を伸ばし、命の木からも取って食べ、永遠に生きないように!あわわわわ(3章22節) そういう意味では、人間は命の実を食っても(神の言葉に反して)死ななかったわけで、 そういえば、蛇がイブをたぶらかして言った、 「それを食えば決して死なず、目が開けて神のようになる」という言葉はまさに真実を語っていた? とも言えるのではないでしょうか。 旧約聖書に楽園は描かれるけど、天国は描かれない。 楽園にもつらい労働があるし(思い出してほしいのは、アダムが最初に与えられた仕事は農園管理事務)、 命の実を食べなければやがては老いて朽ちて死んでしまう。 それがユダヤ人か、それ以前の民族かは知らんけど、 創世記の記者がごく普通に持っていた人間観ではないでしょうか。どこかしら東洋的な香りがしない? だけど、どういったわけかクリスチャンの間では、本当は死なないはずだった人間が、 禁断の果実によって、(その代償として)死ぬ存在となり、不条理な労働という刑罰が与えられ、 子孫を産むことでしか種の存続を図れない格好になってしまった、という誤解があるように思います。 しかし、28節に神は、人を創造してさっそく「生めよ殖えよ」と命じているではないか。 しばしばもうなんか君、あれ、修行僧かなんかかね?みたいなクリスチャンにお目にかかるけど、 世の中に対する諦観とかというか厭世観を持つ人だけど、 ときにそれは世の中に対する強烈な排他意識の牙というか、 天国に行けば報われるんだから、俗世のことは知らん、 この世は辛いことばかり、が、それもこれも天国までのガマンガマン、 という理屈をこねくり回す瞬間を垣間見ることがあって、ちょっとぞっとするんだけど、 (ああ、この段落「だけど」が多いなあ・・・) だけど、よく考えてみると、旧約聖書に天国なんてあったかい? 案外、旧約にかろうじて読み取れるのは、「あちらの世界」であって、 死者の世界とか、黄泉国(よもつくに)とか、 なんとなくイザナミノミコトが臓物手づかみで食ってそうな、そんな世界かもしれないしさ? 失楽園の神話に特徴的なのは、農耕が色濃く関っていることだと思いますが、いかがでしょうか。 最初の人アダムは土地のちりに神の息を注入して創られた。 エデンは4つの川の水源地で、アダムはそこを耕すことを命じられた。 永遠の命も、善悪の知識も果実を通して手に入れることができるが、 この神話の別バージョンでは、命の実は、果実ではなく「小麦」らしい。「小麦」って・・・なんか普通。 そして、アダムとイブにとっての最大の悲劇は、命を奪われることでも地獄に落とされることでもなく、 エデンの園から追放され、痩せた土地を額に汗して耕し、一生苦しんで食を得なければならないことだった。 このエデンなる土地がどこにあったのかは昔、考古学者が必死こいて探していて、 めぼしいところもあったにはあったんだけど、 信仰篤い共和党系クリスチャンの前大統領があの辺でドンパチ始めてちゃってさ。 以来それどころじゃなくなってしまった。 今日じゃ石油欲しさに侵略にさらされるような土地柄だけど、 古代においては農産物欲しさに取ったり取られたりが繰り返された土地なんだろうね。たぶん。 比較的代々続いてきたエジプト王朝と比較してもらえれば分かるけど、 アジア系からインド=ヨーロッパ系まで、目まぐるしく王朝が代わっている。 シュメル人、アッカド人、バビロニア人、ヒッタイト人、フルリ人、カッシート人、ペルシア人などなど。 そして彼らの栄枯盛衰の間隙でうまいこと生き延びてきたヘブライ人も。 それだけこの土地は周辺民族にとって、野心と羨望の的だったわけだ。 栄えるが民族あれば、当然そこから追っ払われる民族があるわけで。 神話のアダムとイブは、この永遠に生きていけたはずの土地から追放されてしまったのだが、 彼らに、そうした肥沃の恩恵から追い払われた民族の恨み節を照らし合わせることはできないだろうかしら。 神話に戻ろう。 この命の実とやらが何の実かは、ここではどうでもいいことなんですけど、 とにかく永遠の生命は、神話の大きなテーマのひとつみたいで、 古くはギルガメシュ叙事詩に登場する不死の薬草みたいな、 そうそう、この薬草は結局、蛇に横取りされたんじゃなかったっけ? 始皇帝が徐福をして蓬莱山の仙人に求めたのも不老不死の霊薬。 竹取物語で月に帰ったかぐや姫を想い天皇が点てた香は富士山の煙となった。 スーパーキノコはチビマリオをスーパーマリオへとパワーアップさせる。 命を保障する食物って、多分、神話では常連アイテムなんですね。 「なぜ、我々は滅ばなければならないのか?」「なぜ、人は死ななければならないのか?」 これって、だれにとっても永遠の謎でしょ? 行き着くところ、「ねえ、俺って、何か悪いことした?・・・」合理化ってやつ? ぢゃあ、日本人はどう考える?盛者必衰?祇園精舎?桜の樹の下にはペロのおもちゃが埋まっている? まあ、いいか。 「自爆装置」は神話にはあってもいいんじゃない?神が「最終確認を怠っ」てもいいんじゃない? いとおしさついでに悪道に走った人類を、やっぱなしなしって、洪水でリセットしちゃうような神様だもの。 町を火で焼こうとして、アブラハムにちったぁ手加減するように言い含められる神様だもの。 「全知全能」というキャラが強すぎたのか、神はしくじらないし、後悔しない、 尻尾の先についたウンチまでお見通しって持ち上げられて、 喜怒哀楽あふれる多神教の神々と比較されたりするけど、よくよく読んでみると、 どーしてどーして、結構人間っぽいところもありはしないかい?
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
誤字訂正: 仮定でも日常的に子供に対する教育、躾と称して親がしていることでもあります。 ⇒家庭でも日常的に子供に対する教育、躾と称して親がしていることでもあります。 例えば、自分が認め、受け入れたことをまだ認めない人間が居たとすると、それはその人にとっては自分自身の存在意義に関わる死活問題となってくるわけです。一般に、貪欲で、野心の多い人間ほど他者に働きかけます。いわゆる善人は、自分ひとりで、今の環境に満足しているから他者に働きかけないわけです。 盗人猛々しいが、本人はそう思っていない。ツラの皮厚く、我が物顔で、街をのし歩いている。現代社会の様相です。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
例えば、悲劇的な神話、喜劇的な神話、ハッピーエンドで終わる神話などさまざまなものがありますが、自分が、どういった神話、言い伝えに惹かれるか、どのような話に引っかかるかで、今の自分の世界観がどのようなものかがわかるわけです。 たとえば、信用していたヒト、愛を持っていると思っていたヒトに、裏切られ、結果として神様なんか居ないんだ と思っているヒトは、やはりそういった神話、言い伝えに惹かれます。 確かに、そのようなヒトにとっては、イエスは存在しなかったし、生き残りのみが人生の意義であるという、いわば殺伐とした世界観を持っているのです。 まあ、「堕ちてしまった」が故の、そうでない人へのある種の勧誘活動といえるでしょう。仲間を増やし、安心したいのです。仮定でも日常的に子供に対する教育、躾と称して親がしていることでもあります。 結論として、その話が創作であったかどうかはあまり関係のないことです。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
おかしくなったわけじゃないんです。 例えば、自分が妻にとっても愛されているとずっと信じている限りにおいては、平穏ですよね。 でも、実は妻は自分を欺き、他の男と逢瀬を重ねており、自分の身の回りのことを、せっせとやってくれるのは、あくまで労働であると捉えているとしたら、、、、 愛ではなく労働だった。。。。 悲しみが訪れますよね。 アダムとイブが楽園から追放されたという話が主流ですが、それより前の神話を読むと違う。 全ての神々を生み出したティアマート。 ティアマートは自分が認めた男に石版を渡していた。 ティアマートが石版を渡した相手はアプスー。 神々がつぎつぎ生み出され、世の中は神だらけで騒がしくなり、アプスーは安息日が無いとして、非常に困っていたわけです。 それで、息子のムンムは「殺してしまえば安息できる」と助言した。 アプスーはティアマートに伺いをたてたら、「まあまあ いいじゃないですが、元気がよろしいってことで」と取り合わなかった。 ところが、別の息子エアは、父アプスーが自分達を殺そうとしていると早合点し、父アプスーを殺してしまったんです。 それだけではなく、全ての神の海の親ティアマートに「最高地位を降りて自分にくれ」と要求した。 ティアマートは自分が選んだ男を殺したばかりか、最高地位までくれとは、、、とさすがに怒り、使者を八つ裂きにしてつきかえした。 最高地位の神の力はものすごく、息子のエアたちは恐れをなしたが、エアの息子のマルドゥックは果敢にもティアマートに戦線布告するわけです。 神々はティアマート側と、マルドゥック側にまっぷたつに分かれ、大戦争をすることとなった。 これが今に伝わるハルマゲドンのこと。 キリスト教の神話では、天使はまっぷたつに分かれ、神側についた天使と、悪魔側についた天使が大戦争を繰り広げ、地上にその火の粉が降ってくる となっています。 で、結局 最終的に反逆したマルドクックが勝つんです。 マルドゥックは源の神であるティアマートを八つ裂きにして、天と地を作ったことになっています。 ところが、殺したはいいが、今までティアマートがやっていた全てを、いなくなったので、自分達がやらなければならなくなり、神々はそのことで忙しくて、身の回りのことができなくなった。 それで、神々はマルドゥックに不満を訴えたわけです。 「お前がティアマートを殺してしまったので、俺達が忙しくなったじゃないか。自分のことができなくなった」 それで、マルドゥックは、ティアマートが戦争の時に石版を渡し王と認めたキングーの血と、ティアマートの肉である土をこねて人間を作った。 聖書でも血と土で人間をこねて、ティアマートを殺したその息を入れたってなっていますよね。 そして人間が神々の身の回りをする奴隷として作られたということを忘れないように、神と人間の契約として天に虹をかけた。 人間は虹を見るたびに、神との契約を思い出すこととなった。 だからキリスト教は、虹は神との契約の証です って言っているわけです。 創造主を殺した神の奴隷であり、裏切った神の身の回りのお世話として、エデンという農場で神々のためにせっせと労働をしていた。 真実は知らされていなかった。 自分の崇拝している神が、実は最高地位欲しさに初源の神をつぎつぎ殺したということなど知らなかったわけです。 例でいけば、自分の親を殺して、社長になった人が、殺した人の息子をパシリとして雇っているようなもの。 本人は真実を知らない。 「こんな自分を雇ってくれてありがとー」と自分の親を殺して会社を乗っ取った人に感謝しているうちはよかった。 しかし、智恵の実を食べたことで、神と同等の智恵を持つようになり、真実がわかるようになった。 真実を知ったことで、おかしくなったわけではなく、ひたすら 悲しみにくれたわけです。 親がいなくて不憫だから雇ったわけではなく、殺した相手の子供を単純作業をさせて、こき使っていただけだった。 このまま自分達の親を殺した奴らが楽になるために身を粉にしてつかえるか、それとももう裏切り者のためにつくせないと、農場を出るか。 別の創世記の話では、神々は人間が真実を知ったことで、もう騙せないとわかり、人間が外に出ることを拒否しなかったとなっています。 真実を知られたので、いつ敵討ちされるか ビクビクして過ごさなければならないので、精神衛生上 いてもらったら困るわけです。 人間が真実を知る手助けをした蛇を呪い、人間は自らの意思で、裏切り者の神の農場を去ったとなっています。 智恵を危険とみるかは人それぞれでしょう。 騙すなら徹底的に騙さないと。 でも、犯罪はいずれ明るみに出ることとなった。 隠し切れなかったわけですね。 まっ いずれにせよ どっちの神話も、人間が作った創作文学ですから。。。 真実とは違いますから、ご安心を。
お礼
こんな説があるとは知りませんでした。 一般的な旧約聖書しか読んだことがありませんでした また勉強したいと思います ありがとうございました。
- owlsjp
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例えば、所詮~ などと言い放つ人は、自分が所詮その程度の存在であることを自分で白状しているわけです。提示された質問に対して、気の利いた言葉が思い浮かばなかった時に、そのような言葉で自分を誤魔化しているのでしょう。 書物であれ、言い伝えられていることであれ、それが消えずに、消化されずに残っているということは、まだその話にまつわる問題を理解していないということです。その話が未だに、例えばあるコミュニティの一部の人たちの間で話題に上がっていたとしたら、その話題にしている人間たちにとっては未だ未解決なのだ と言うことが出来るでしょう。 ある話が、示唆に富んでいて、なにか引っかかることがあれば、それはやはり 所詮~ などと、相手にいうべきことではないのです。
- ratesu
- ベストアンサー率13% (16/122)
所詮人が書いたもの。
お礼
ありがとうございます。
- owlsjp
- ベストアンサー率18% (23/127)
言い伝えられている神話や伝説は、全て自分の普段の生活や人間関係を考える上で、役に立つものです。 「その程度の話」と言い放つ人は、自分がその程度の人生を送り、その程度の人間であることを自ら証明しています。自分に取り憑いている、他意のある亡者を、あやうく勘違いするところでした。
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お礼
どうも 文化的背景とかかなり勉強されてますね。 ざっとしか読んだことがないので いろいろ発見がありました 創世記にいろいろな種類があるのは知りませんでした。 また教えてください。 ありがとうございました。