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関が原戦いで
小早川は史実どおりの動きをしても、大谷部隊の一部である脇坂・朽木・赤座・小川の隊の裏切りがなかったら、どういう展開になったのでしょうか。
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- buchi-dog
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「それらの大名は小早川隊がいる松尾山のふもと付近に布陣していましたが、脇坂が2,500人、朽木、赤座、小川に到っては3つとも1,000人以下の小部隊ですから、15,000の小早川軍が背後から突進してきたら食い止めるのはほぼ不可能でしょう」 それですと「小早川が参戦した時点」で大谷部隊が崩れないとおかしいですよね。 「小早川軍が東軍に寝返って参戦したが、それを予期していた大谷吉継部隊(脇坂、朽木、赤座、小川を指揮下に含んでいる)が迎撃して撃退した」 事実が説明できませんが? いろいろな本に載っている「関ヶ原合戦の各部隊の布陣図」は、主要部隊を除き確固たる根拠はありません。ネタ本は、明治時代に参謀本部が作成した戦史書です。 「脇坂他が裏切る前に、大谷部隊が小早川部隊の攻撃を退けた」 事実がある以上、 「大谷吉継は、小早川が東軍である前提で指揮下の諸隊を配置し、野戦築城して陣地を整えていた」 と解釈せざるを得ません。
- astute_2wd
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それらの大名は小早川隊がいる松尾山のふもと付近に布陣していましたが、脇坂が2,500人、朽木、赤座、小川に到っては3つとも1,000人以下の小部隊ですから、 15,000の小早川軍が背後から突進してきたら食い止めるのはほぼ不可能でしょう。 仮に彼らが反転し必死に小早川軍に抵抗したとしても、東軍に横腹や背後を晒す事になりますから、たちまち二方向から挟み撃ちにされて壊滅必至です。 結局、脇坂、朽木、赤座、小川が生き残るためには小早川と一緒になって裏切るしかなかったのです。
お礼
小早川の量が圧倒的ですね。 小部隊と大部隊の差が激しいです。
- buchi-dog
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No1です。一部訂正します。 正 「小早川は史実どおりの動きをしても、大谷部隊の一部である脇坂・朽木・赤座・小川の隊の裏切りがなかった場合」 誤 「東軍に寝返った小早川部隊のその場合」
- buchi-dog
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史実で、 * 小早川の裏切りの前の時点で、東軍諸部隊は、美濃から近江に向かう北国街道を扼する位置に陣を構えた、西軍の石田・島津・小西・宇喜多・大谷の諸部隊を攻めあぐねていた。 * 小早川が東軍として参戦して大谷部隊を襲ったが、大谷部隊は逆襲して小早川の攻撃を退けた。 * 関ヶ原は、細長い盆地の形状であり、戦場となっていたのはその西端である。西軍の上記の部隊は、北国街道を遮断する高地に陣取っており、野戦築城を行っていたと思われる。 * 関ヶ原の出口(東軍の退路)を扼する位置の南宮山に布陣する毛利部隊(安国寺恵瓊隊、吉川広家隊を含めて2万5千程度か)の指揮官(毛利輝元の陣代)である毛利秀元は、「吉川広家の徳川への内通」を全く知らず、西軍側で参戦する気十分であったとされる。 「毛利部隊の先鋒は吉川隊。吉川隊の『先鋒の権利』は侵せない。徳川に内通した吉川隊が動かないので、毛利部隊全体が動けない」 状態であり、毛利秀元は何度も南宮山のふもとに布陣する広家に「参戦すべし」と使者を送ったが、広家が言を左右にして動かないまま時が過ぎていたとされる。 主将である秀元が「吉川を無視して毛利部隊全軍を関ヶ原に進める」決断を下せば、兵力3千程度の吉川隊はそれを阻止できない。 東軍に寝返った小早川部隊のその場合、大谷部隊の陣形が崩れませんので、大谷部隊は持ちこたえたと思われます。 その場合、戦況は西軍に有利に傾いたと考えます。 理由は * 小早川が参戦してもなお西軍が崩れない場合、東軍にはもはや予備軍がないので戦局を好転させる材料がない。東軍の本隊である徳川家康隊3万は、 「関ヶ原の戦い」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5165489.html のNo.2で私が説明したように、「旗本のみの編成で『備え』を構成できないために攻撃力を持たない」ため、攻撃に加わることはできない。 東軍の後衛である浅野幸長隊、池田輝政隊などを先鋒に移動させることは、東軍全体の陣形を崩すこととなり当時の軍事常識では「論外」。 * 早朝から、野戦築城した陣地に拠った西軍を攻撃し続けている東軍先鋒部隊は疲労してくる。この時点で、損害は東軍先鋒部隊の方が多いはず。 ※ この時代、鉄砲は攻撃兵器としてより防御兵器として有効でした。関ヶ原の合戦は「西軍の陣地に攻め寄せる東軍部隊を西軍の鉄砲隊がなぎ倒す」ことが繰り返されていたと思われます。その場合、攻める東軍の損害の方が大きくなるのが当然です。 * 東軍は、主将である徳川家康本隊(3万)が、関ヶ原の奥深く進入している状況。東軍先鋒諸部隊の武将たちの脳裏に「西軍の陣地を破れない場合、退却戦となって全滅しかねない」という考えが沸いてくるはず。その場合、退却の構えに移ってくる。ひとつの隊が西軍への攻撃から離脱すると、陣形が乱れるので西軍の圧力が一気に強まる。 ※ 東軍先鋒の「太閤恩顧の将」たちは家康の家臣ではないので、家康に対する忠誠、「家康のために最後の一兵まで戦う」などということは期待できない。 * 東軍が退却する場合、もと来た道を戻るしかないが、そこで南宮山方面の毛利部隊・長束正家隊、長曾我部盛親隊が関ヶ原に押し出した場合、退路を遮断される。これが東軍にとって致命的であるのは、東軍の全ての将が熟知していたであろう。 * 小早川の東軍参戦をもってしても西軍が崩れない場合、 「東軍先鋒部隊のいずれかの隊が戦線離脱を開始し、陣形が崩れる」 「家康本隊が後退を始め、それを知った東軍先鋒部隊が浮き足立ち、後退を始める。退却戦ほど難しいものはないので、朝からの陣地攻撃で疲れ切り、戦力を消耗している東軍先鋒部隊が崩れる」 「毛利部隊が参戦したことが東軍諸隊に伝わり、東軍の戦意が一気に崩壊する」 いずれの事態となっても、「東軍敗北」が確定し、 「関ヶ原の戦い」 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa5165489.html のNo.2で私が 「小早川が西軍側で参戦した場合には、東軍は全滅したであろう」 と実質的に同じ状況になったと思われます。 * 東軍が持ちこたえるとすれば 「総大将である家康が一歩も引かない」 「東軍諸部隊がうまく攻撃を収束させ、西軍の追撃を退けつつ後退して、西軍と距離を置いて対峙の状態に戻る」← 非常に難しいと思われます。 「吉川が毛利秀元の参戦を阻止し続け、毛利部隊が最後まで参戦しない」 この三つの条件が重なった場合のみ「関ヶ原の合戦が一日で終わらず、翌日以降も続く」可能性が出てくるでしょう。 * 東軍全軍が、重大な損害を受けずに関ヶ原を東に向けて脱出して赤坂の陣まで後退するのは、「闇にまぎれて」でない限り不可能でしょう。少なくとも東軍先鋒の諸部隊は「全滅」すると思われます。それを考えると、「関ヶ原からの後退」を家康は決断できないのではないでしょうか。 なお、翌日以降になると、西軍には大津城を陥落させた立花宗茂、小早川秀包らの部隊が近江からやって来ます。これが強力な後詰となります。 また「毛利秀元が吉川の裏切りに気づく」可能性も高まります。 東軍の強力な後詰である、徳川秀忠率いる3万の軍勢はまだ信濃にいたはずで、後詰としてやって来るまでには相当な日数を要し、問題となりません。 東軍側についている前田家の部隊は、越前と加賀南部の諸将が全て西軍についているため、南下して東軍を救援することは問題になりません。 西軍は兵力増強が期待できるが、東軍は期待できないと言うことです。 仮に「関ヶ原の合戦が一日で終わらず、翌日以降も続く」となった場合「いかにして、東軍が少ない損害で関ヶ原から脱出するか」がカギとなったでしょう。 そして、それは不可能に近かったと考えます。
お礼
ご回答ありがとうございます。 ざっと布陣を考えただけでも、西軍有利の条件がそろっているようです。これほど無謀な陣形に家康がやすやすとはまったこと自体が、裏切りを完全に掌握して望んだとしか思えません。
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お礼
脇坂、朽木、赤座、小川の裏切りが、大谷の総崩れを招いたと言う記述からこの質問をしたものですが、どうでしょうね。