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欧州ブランド商法は、西洋哲学の勝利か
巷には、欧州のブランド商品が溢れており、買い物客を魅了しています。欧州には、階級文化が根付いているとはいえ、共産主義が吹き荒れ、民主化が進む現在において、なお貴族的なブランドが、隆盛を誇っている理由について考えてみました。 そこで、私が着目したのが、ブランド哲学です。ブランドイメージを確立するには、芯の通った哲学が欠かせません。欧州ブランドと西洋哲学との相関について、いくつか質問いたします。 【Q-1】 各ブランドのコンセプトは、特定の哲学を念頭に置いているのでしょうか? 【Q-2】 特定の哲学の影響が、顕著に表れているブランドは何でしょうか? 【Q-3】 あるいは、欧州のブランドは、既存の哲学の影響を、大きく受けていないのでしょうか? 【Q-4】 日本の老舗商店と欧州の伝統ブランドとでは、どのような共通点と相違点とがあるのでしょうか? 以上、拙問における認識に対するご指摘も含めて、よろしくお答え願います。
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【Q1】【Q3】影響、受けていると思います。 実質(substantia)ではなく、本質(essentia)の追求って感じでしょうか。つまり、pokoperopoさんのpokoではなく、peropoの部分という感じ。どうでしょうか。 【Q2】やはり、化粧品かなと思います。 僕にとっては無価値ですが、なんだか知らないけど良い匂いがする。 【Q4】これは、涙なしには語れないことだと思うな。 ひとしずくの価値、とでも呼ぶのでしょうか。流した涙の質、そして量の違いがあるだろうと思います。pokoperopoさんは、泣いたことがおありになるでしょうか。 両者の違いを決定付けるのはたぶん、依って立つその視点が違うというところだと思います。日本という国を、内から見るのか、外から見るのか、こういう違いのことです。つまり、欧州のブランドは外から日本を見るのに対し、日本の老舗は内から日本を見ている――このような感じがします。 ところで、「自分の性格はこうだ」と思っているある人物を、外から見る人たちが「お前の性格はこうだ」と言ってみたりする場面ってあると思います。些細なことなら笑って済ませることができますが、核心を突くということにもなると、これはもう、涙なしには片付けられないことになる。 「涙なしには」と書いたのは、この事情があってのことです。 僕が考えるに、海外のブランドを身につけるというのは、その人が「お前の性格はこうだ」と自分を言い聞かせるときなのではないかと思います。対して、日本のものを選ぶのは「自分の性格はこうだ」と言っているときのような気がします。 誰もがその両面を持つと思いますが、それゆえ前者の場合は、「俺ってこうなのかなぁ」という疑問がつきまとい、後者の場合には「俺ってこのままでいいのかなぁ」という疑問がつきまとうことになる。そして、どちらにせよ、何となく嫌な気持ちになる。その理由はたぶん、どちらもが装いであり、本当の自分ではないからでしょう。 そう、何も装わないのがいちばんなのです。pokoがいちばん。peropoは要らない。こういうことではないのでしょうか。
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- ri_rong
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5.です。お礼と補足をありがとうございます。ところで、 ビン? パッケージということでしょうか。 大海のように広いこころを閉じ込めるには小さ過ぎ、真珠のように透き通ったひとしずくには大き過ぎる。器というものが哲学だとしたら、どうも妥当なサイズではありませんね。それに近頃は、器に金をかけ過ぎる。健全ではありません。器の価値って何でしょうね。とかく男は、その色艶に騙されがちになりますが、女はもう少し強かで、ちゃんと量を調べるみたいです。 そういう意味では、目くらまし。 僕のIDは、頂きものです。中国語で読むとこうなりますが、れっきとした僕の名前です。名前は固有名詞ですから、中文発音はしないという批判を持ってはいますが、まあ細かいことはよろしいというふうにも思います。
お礼
再度のご回答をいただきありがとうございます。 パッケージ全体と言うべきでしたね。このデザインには、デザインの潮流そのものが、西洋哲学の影響を受けていると思うのです。中身よりも装いの哲学といったところでしょうか。 皆さんのご考察は大変に参考になりました。どうもありがとうございました。
- neue_haas
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No.3です。 >それならば、神話性に置き換えて考えることも、可能ではないでしょうか? 可能だと思います。 神話については多くの専門家がいて 私は神話について何も知らないため、 民話という言葉を使いましたが、 ブランドは現代の神話であり、 ブランディングとは自分自身を神話化すること なのではないかと、私も考えています。 ブランドを「信用」として考える向きもありますが、 たとえば、「ガンダム」というブランドが 信用を創出するために何かをしたわけではないように思います。 ガンダムという物語は、様々な人によって再生産されることで 徐々に神話化されていきました。 その神話=ガンダムブランドである。 そのように考えた方が私には自然に感じられます。 今、東京のお台場に原寸のガンダムが設置されて 話題になっていますが、あの行為が、 巨大な仏陀を造る行為とどのように同じなのか、 または、どのように違うのか知りたいと考えていました。 時計やネックレスなど、かつて祭事に用いられてきた道具と 同じような道具のほうが、強い神話性を 求められているようにも思います。 私に時間があれば、 そういった、神話とブランドの関係性を 調べてみたいところですが、 残念ながらその時間がありません。 質問者様のほうがおそらく、そのような関係性について 深い考察をお持ちではないでしょうか。 できれば、その端緒をお聞かせ願えないでしょうか。 私はここでは哲学という言葉を 「行動を起こす意志の水源」というような意味合いで使っています。 マクドナルドからハンバーガー以上の何かを 提供されているとは感じません。 コンビニもチェーン店も経済的要求に応えているのであって そこに意志を持った働きかけがあるようには感じないのです。 マクドナルドに感じる安心感は、 ブランドやそれを作り出す企業ではなく 現在の経済に対する安心感のように思います。 それを哲学と呼ぶかどうかは その定義によるのでしょうけれども。 皇室御用達に関するご指摘は、そのとおりだとおもいました。 実際、皇室御用達はブランドストーリーとして打ち出されるよりも、 肩書きのように添えられているケースが多いようです。
お礼
再度のご回答をいただきありがとうございます。 私なりの解釈ですが、物語とはその世界を覗くこと、神話とは現象の起因を説明することです。神話には怪物もいますし、神々は身勝手に振る舞っています。世の不条理には、こんな事情があるのだよ、〇〇が素晴らしいのは、こんな逸話があるからだよ、と言い聞かせるためでしょう。浅学の身ですので、特定の学説についてはよく存じません。要は、ブランド神話とは、そのブランドの必然性を示すものです。 何がご専門かは存じませんが、マクドナルドについては、引っ掛かりがあります。こう申しますのも、マクドナルドはハンバーガーの味などは、二の次三の次だからです。マクドナルドより美味なファーストフードは、掃いて捨てるほど存在します。それでもNo.1ブランドに君臨するのは、マクドナルドのサービスの本質が、単に廉価な食の提供に留まらないからであると考えます。それこそがマクドナルドの経営哲学でしょう。実は、マクドナルドは、ハンバーガーショップではありません。どうも哲学の定義の相違が、齟齬をきたしているようですな。 機動戦士ガンダムは、コアなファンが哲学を構築したのでしょうね。ファンの数が信用を作り上げたのではないでしょうか。老舗の肩書としての皇室御用達とのご指摘は、まったくおっしゃるとおりだと思います。
ギルド(職業別組合) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AE%E3%83%AB%E3%83%89 お陰で↑言葉を一つ知れました。 組合は企業規則に準じた労働者を守るため、その目的と交換に親方企業 も発展する共生関係にありますよね。 >芸術のためならすべてを犠牲にしてもよいといった、狂信的な情熱が ありますね。 「物創りは絶好の逃避」になります。自由(固定した目的、欲望のない こと)からの逃避ですが、情熱によって、固執して、数々の困難を克服 して目標が達成されれば得られる自由もあるから自由を得る手段ともな る。 権力を手にすれば安定した贅沢が手に入るのかは別問題で、いくら 才能や財を成しても病むことはあるし、いや、成功者ともなって人の上 に立てば立つほど貫禄があるように振舞うものの、人格の欠陥も露出さ せてしまいがちになる。他人を思い遣って譲ってばかりではいつまでも 偉くなれない、ステイタス(階級)を上がれないから。
お礼
御子弟子さん、再度のご回答をいただきありがとうございます。 フリーメイソンは、石工のギルドが発展したものです。欧州の徒弟制度は、芸術家肌の職人を生み出しました。日本の職人気質とは、趣を異にするようです。モノ作りは絶好の逃避ですか、まさにおっしゃるとおりです。それが連帯にまで発展すると、ゲーテの「ファウスト」の境地に達するのかもしれません。 人格の階層や、自己実現への欲求もありますね。目的を追求するのは、精神の自由に到達するためでしょうね。階級社会がなければ、存在理由への固執もないのでしょう。出自の運命には抗えませんから。
- neue_haas
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【Q-1】 ブランドは哲学というよりも 民話などの物語に近いものとして 考えた方が正確ではないかと思います。 「シャネルは女性を解放した。」というのは物語であって、 「シャネルは女性解放運動をしていた」という事実はありません。 ブランドイメージを強化するため物語と ブランドを支えている哲学は分けて考える必要があり、 ブランドを支える哲学は、社会全体を支配している哲学であって 個々のブランドとは関係ないように思います。 現在のブランド戦略の実情に照らしても、 ブランドイメージを確立するために必要なのは、 芯の通った哲学ではなく、 わかりやすい物語だと私は考えます。 この物語を「ブランド哲学」と、かしこまって表現することそのものが ブランドの物語化ではないでしょうか。 【Q-2】【Q-3】 西欧ではありませんが、マクドナルドは 「全ての人間は平等な食事を与えられるべきである」という哲学が 顕著に表れたブランドです。 この哲学は、産業革命にともなってヨーロッッパで生まれ、 食事を工業製品のように生産し、画一化された同じ品質のものを 安価に作り出すという発想の転換につながりました。 そもそも、かなり共産主義的な思想だったものが、アメリカに渡って、 なぜか資本主義の代名詞として具体化されたのです。 なぜヨーロッパではなくアメリカだったのかという疑問は、 西洋哲学との相関があるのかもしれません。 私は哲学の専門家ではないのでわかりません。 ただ、マクドナルドはその哲学には無自覚で、 (自覚していてもブランドストーリーに組み込んでいない) 買う方もそれをブランド哲学だと考えていないのは確かです。 私は狭義の意味で考える限り、 哲学はブランドとは関係ないと考えます。 【Q-4】 日本の民話の成功者は、 多くの場合、殿様にほめられたり、大判小判を手に入れたりします。 日本の老舗ブランドが自社のブランドストーリーとして 採用しているのも、幕府御用達であった事、皇室御用達であった事、 大きな寺社の祭りで愛されてきた事などです。 欧州のブランドが採用しているストーリーにも王室御用達といった 物語がありますが、根底には個人の意思が皆に受け入れられ、 その意思によって社会が幸福に近づいたという物語あるように思います。 もっと詳しい方にお話を伺いたいところです。 ブランドを物語として捉え、 家と個人の物語の違い、国家の持つ物語の違い、 そのような視点で見た方が、ブランドというものを語る上では、 ヒントが多いように思います。 ファッション業界で欧州ブランドが日本で人気なのは、 単純に日本のファション業界の老舗が、 開国と戦争の間に全部つぶれてしまって存在しないため、 競争相手が少ないからではないでしょうか。 また、西洋ブランドであるということ自体が、 幕府御用達と同じ意味合いを持つからだと思います。
お礼
ご回答をいただきありがとうございます。先程、補足質問をいたしました。 ご指摘いただいたとおり、固有のブランドが特定の哲学よりも、物語性を重視していることは、各々がブランドストーリーを、高々と掲げていることからも明らかですね。浅知恵だったようです。ココ・シャネルは、女性に関する物語を紡ぎましたが、ボーヴォワールなどのフェミニストの後押しなくして、成功できたのかは、少し疑問が残ります。自らは唱えなくとも、哲学が社会に影響を与えている、その風潮を読み取ることに、長けていたのではないでしょうか。 また、マクドナルドこそ、哲学そのものではないでしょうか?あそこでは、ハンバーガー以上の何かを提供しています。消費者は、それに無関心かのように見えますが、言語化こそ試みないものの、多くの共通認識が醸成されて、今日の繁栄に到ったのでしょう。それは、画一化、標準化が結果の安定をもたらすというもので、マニュアルが守られているかぎり、不満を募らせる客は、稀であるということ、世界中でほぼ同じサービスが行われることです。 皇室御用達に関してはどうでしょう。日本の老舗は、自ら進んで献上したのではないでしょうか?御用達は、献上と愛顧が継続した恩賜として、与えられたのではないでしょうか?それに比べてて西洋の王室は、圧倒的な権力と財力でもって宮廷芸術家を囲い、自己犠牲のもとに芸術を昇華させたと考えます。強烈な個性の発露は、抑圧された歴史と、絶対への自己犠牲から生まれたのではないでしょうか? ともあれ、ブランドそのものは、哲学よりストーリーを重んじる、感性の世界であることは、間違いありません。拙文中に、錯誤がありましたら、ご指摘いただけると勉強になります。
補足
ブランドとは、すなわち物語とのご指摘ですが、興味深いご考察です。それならば、神話性に置き換えて考えることも、可能ではないでしょうか? 例えば、クォーツショックからしばらくして、機械時計の復権がありました。その際、数百年もの休眠ブランドを、その創業者の末裔から買い取りました。創業者神話を全面に押し出して、廉価な汎用部品を搭載し、歴史的イメージをデザインに盛り込んでいます。 実態としましては、創業者とは、時計製作の技術もブランドの歴史も、何の連続性もないものです。これがヒットすることは、まさしく神話のなせる業ではないでしょうか? よろしければお答え願います。ご回答へのお礼は、のちほどお送りします。この欄と併せてお読みください。
得意になってブランドを纏わない主義で、それなりにしか語りたくあり ません。とは建前ですが、本音はお察し下さい・・・。 【Q-1】 各ブランドのコンセプトは、特定の哲学を念頭に置いてい るのでしょうか? たぐい稀なる才能・・・といってもやはり扉を開く機会に恵まれたこと や、鍛錬を重ねた人間の中から選ばれた強運が伴っていると思います。 これをプライドとすることもあるでしょうね。ありふれた娯楽をことご とく犠牲にしてまで優先させた価値があるから、ありふれた日常で、小 さな幸せを重ねて自由を感じたり、現状維持で満足してしまうような庶 民には似つかわしくないものかもしれない。 【Q-2】 特定の哲学の影響が、顕著に表れているブランドは何でしょうか? トヨタ、ソニー、シャープ、パナソニック…信用度の高さですよね。庶 民の憧れって日系企業も多いのでは? 私はおしゃれセンスないに関わらず、英字プリントのTシャツは値段に 関わらずなるべくなら着ないというポリシーがあって(何となくです) 昨今は妙な日本語がプリントされたTシャツも流布してて、本当に妙な ので(“あのね”とか“俺の波”とか)欲しくはならないですが、アル ファベットは中身の正体までは曖昧にしておいてくれ、文字だけでは不 十分な感じでいいのでしょうね。ロゴは捺印とか家紋と同じだけど。 日本語は衣装としては個性的過ぎでしめ。人間と動物の違いは衣装を纏 うこと、衣装も本音だったり偽装だったり背負う。けど背負うしかない。 【Q-4】 日本の老舗商店と欧州の伝統ブランドとでは、どのような共通点と相違 点とがあるのでしょうか? 成功哲学とか帝王学というのもありますね。皇室は欧州と違って、敗戦 しても亡命したり命乞いせず、質素にして上品に立ち振る舞われてい る。国民にずっと慕われている。これは西洋人、他国の英雄には出来な い奇異な国民性の表れであると思います。
お礼
御子弟子さん、ご回答をいただきありがとうございます。先程、補足質問をいたしました。 ブランドの蘊蓄についての質問ではないので、ご安心ください。私は、欲しくても買う余裕がありませんorz西洋には、芸術のためならすべてを犠牲にしてもよいといった、狂信的な情熱がありますね。ルネッサンス時代のテンペラ画を観ると、それを強く感じます。当時の日本では、考えられなかったことです。 日本製品のブランド力は、安定した品質にありますね。欧州ブランドのそれとは、趣が異なります。ご指摘のTシャツのロゴは、アルファベットが大きく簡略された意味を持たない記号だから、機能的なデザインにマッチするのではないでしょうか。私もロゴ物は好きではありません。 そう言われたら、ご皇室こそ、日本が世界に誇れる老舗ですね。万世一系は、比類なき哲学です。日本人にも、これに無関心な人がいるのは残念です。日本の老舗商店の創業精神が、骨抜きにされているのとは対象的です。権力に固執させない智恵なのでしょう。西洋が政治力学にこだわり続けているのは、地政学的に仕方がないのでしょうね。
補足
欧州のブランド哲学が、ご指摘のように、鍛えぬかれた類い稀なる才能に支えられたものだとすれば、ギルドの理念の影響が大きいのではないでしょうか?また、他にも理由は考えられるのでしょうか?よろしければお答え願います。ご回答へのお礼は、のちほどお送りします。この欄と併せてお読みください。
- wiz0621
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なるほど言われてみれば確かにブランドとは、 ある概念が顕著に現れた例のようにも思えます。 その概念とは『売方注意』です。 Q-1,3について。 現在の商慣行の根幹に『売方注意』というものがあります。 およそ230年前、イギリスで起きたバブル崩壊の調査委員が 解決法として提案し、以後、世界に広まった考え方です。 中世以前の商取引は『買方注意』により行われていました。 つまり、『悪い商品を買った方が悪い』という考え方です。 この考え方は当然売り手優位であり、同時にある問題が 生じる思想でもあります。 端的に、購買者の負担を増大させるのです。 それは同時に、購買意欲を奪い、結果的に市場そのものを 萎縮させていき、結果として物が売れず、購買者を騙して いかないと商売が成り立たないという悪循環を招く。 経済を発展させる上では完全に誤った考え方と言えます。 市場と利潤を否定する"共産主義"や"社会主義"の経済観念は この発想を念頭に置いたものです。彼らにとっての商行為は 単に人を騙す行為であり続ける。しかし、繰り返しになりますが これでは中世以前の発想です。第二次大戦時のイギリス首相 チャーチルが社会主義者らを『敗者の哲学、嫉妬の福音、無知の宗教』 と評したのも頷けるのではないかと思います。 一方、『売方注意』とは。つまり『悪い商品を売ったほうが悪い』 という発想の大転換でした。この発想に何が起こるかというと 販売者は正しい効果のある商品を売る責任が生じ、 同時に商品の効用を正しく説明する必要が生じます。 ここに生まれるのは『信用』です。 いわゆるブランドとは、常に優れた商品を販売するという 価値を追及した企業であるのです。その積み上げた『信用』が 同時に、何者にも代えがたい『価値』を生みだすのです。 もちろん、購入者もより良い商品を手に入れることが出来ます。 ここに、購入者と販売者が相互に発展していく構図が成立します。 現在の信用取引システムは、つまり『取引相手に得をさせる』ことを 目指すものなのです。 Q-4について。 しかしながら、日本の老舗店舗は、安易にこの信用を手放すケースが 多々見受けられます。彼らは信用の価値を理解せず、中身の無い商品を 販売し、商取引を単純なパワーゲームにしてしまうのです。 さらに共産主義という『敗者の哲学、嫉妬の福音、無知の宗教』を 賛美する声すらあります。これは一体何故なのか。 日本の経済理論の始祖とも言える本に 福沢諭吉の著書『帳合之法』があります。 彼は"翻訳の理由"を以下のように述べています。 『学ぶべきことを学ばないで悪い慣わしに陥っている。 (学者と商売人の)いずれも皆商売を軽蔑して、 これを学問と思わないのは罪なことである』 つまり、商売人は学がいらないと自らを蔑み、学者は商売を卑しいものとして蔑む。 こういった認識が日本人の根底にあるという指摘です。 解決法はただひとつ。彼の"学問のススメ"に従い、まず実学を重視し、 経済を理解すること。現在の自由主義の根幹である『信用』の意味を もう一度考えることではないでしょうか。
お礼
ご回答をいただきありがとうございます。先程、補足質問をいたしました。 なるほどですね。『売方注意』ですか。これは大きなパラダイム転換ですね。逆に、江戸時代の日本では、欧州より『買方注意』のコモンセンスが、強くはなかったのかもしれません。欧州は階級社会ゆえに、高級品以外は、品質が軽視されていた反動かもしれませんね。このあたりはいかがでしょうか? ご指摘のとおり、取引に継続性がなければ、繁栄は望めませんから、信用が大切です。創業数百年の商店が、横文字に社名変更をしてしまうお国柄ですから、自らの財産を評価できていないのでしょう。このことを共産主義はまったく無視しています。ヘーゲルの影響を強く受けた学説を、私は敬遠しています。 それにしても、福澤諭吉は、まさに天才ですね。これほど日本を知り尽くし、外国の概念を咀嚼して、うまく導入できた人はいないでしょう。それほどまでに斬新で、際だった反発はなかったのでしょうか?他にも、渋澤榮一などは素晴らしい働きをしましたね。むしろ、長期に渡って日本経済を脅かす勢力がなかったから、老舗までもが無原則でいられるのかもしれません。しかし、原則に縛られて、新しいものに移行が遅れる、欧州ならではの弱点もあり、それについても、お話しいただけるとありがたく思います。
補足
あるいは拙問を、マーケティングに投稿すべきだったのかもしれません。しかし、西洋哲学がブランド商法に与える影響について知りたかったので、哲学の質問としました。経営に関わる、社会的な哲学のご説明は、大変に参考になります。また、アカデミズムの継承や、記号論の進化による抽象化など、デザインアイデンティティについてのご考察なども、合わせてお聞かせいただけると、ありがたく思います。 例えば、ルイ・ヴィトンのモノグラムは、日本の家紋にヒントを得たものだそうです。記号論を意図的に具現した好例でしょう。ご考察の範囲をご自由に拡げていただいた上で、顕著な要素に収斂された、質疑応答になればと願っております。浅学の身ゆえ、物足りなさをお感じになるかもしれませんが、しばらくお付き合いいただきたく、よろしければ再回答を願います。ご回答へのお礼は、のちほどお送りします。この欄と併せてお読みください。
お礼
理論さん、ご回答をいただきありがとうございます。先程、補足質問をいたしました。 これはまた、一つ利口になりました。「本質は実質に優先する」、まさに至言であります。しばし、足りない頭と浅い知識と脆い顎とで、咀嚼いたします。私の本質は、「ぽこ」ですと?いえ、私の本質は、それ以前に「珍」なのです。露骨すぎるニックネームを避けたにすぎません。 化粧品ほど、マーケティングに力を注いでいる分野も、珍しいのではないでしょうか。そのデザインや広告イメージは、ブランディングの肝でしょう。これらの広告は、構造主義の影響を、色濃く受けているように感じますが、時代と共にその戦略も、変遷するようです。 内と外と言いますと、日本は四方の海に囲まれています。国境線が目まぐるしく変わる欧州とは、外国ブランドに対する捉え方が異なりますね。それを差し引いても、欧州ブランドのほうが、愛用者への訴求性が強いように感じます。「お前はこうなんだ」ですか。私の、愛車も時計も、欧州の物ばかりです。アクセサリーだけは、地元ブランドで統一していますが、山積みの服には手を出さないようにしていますので、「お前はこうだ」と身につける物に、規定してほしいのかもしれません。 今でも涙を流しますよ。存在の軽さ、自己の弱さを痛感しています。何だか、泣かされているものに、慰めを求めているって不条理ですね。「ぺろぽ」の欠如を補うか、「ぺろぽ」を放棄するのか。これこそが命題でしょう。ご自身も_とgとを省けば、文字通りの本当の理論家となられることでしょう。最初は支那人かと思いましたが、理論一辺倒よりも、ありのままのほうが幸福かもしれません。にんげんだもの みつお。
補足
そうですね。それらの化粧品や香水は、何とも言えない甘い香りが漂います。その香りに加えて、ブランド化粧品の価値は、むしろビンにあるとは思われませんか?よろしければお答え願います。ご回答へのお礼は、のちほどお送りします。この欄と併せてお読みください。