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ゴータマ・シッダッタは解脱したのか、しないのか。
当否は承知しませんが、私の理解するところを記します。 ゴータマ・シッダッタは修行の甲斐あって解脱しました。解脱をすれば輪廻しないのだと思います。然るに一例として「維摩経 第12章 法供養」では世尊が帝釈の率いる聴衆を前にして、自らの前世を語っています。これは輪廻していることを示していて解脱したことと矛盾しているように思えます。 この疑問は輪廻、解脱の意味を初め、「維摩経 第12章 法供養」の読み方など何かを誤解しているが為に生じるのだと思います。何をどう考え直せば矛盾を感じなくなりますか。 よろしくお願いします。
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- mmky
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「維摩経 第12章 法供養」の読み方、あるいは意味ですね。 第12章の最後に法供養は供養の最勝、最高、無上などと書かれていますね。さて法供養の意味ですが、如来を供養するための最勝、最高、無上の方法が法供養であるといっているのですね。つまり正法を説くという意味ですね。この文脈では薬王如来の供養を転輪聖王の宝蓋(宝焔如来)から月蓋王子に引き継いだということですね。その月蓋王子は薬王如来が法輪を転じられたように十小劫の間法輪を転じた。その月蓋王子は、私、釈尊に他ならないと言ってますね。 つまり、月蓋王子は如来の法を説く(法供養)仏陀であり続け、今また釈尊として正法を説く存在である。といっているのですね。 仏陀が永遠に転生して正法を説くことが法供養の意味なんですね。 さて、多少なりとも意味がわかれば、「ゴータマ・シッダッタは解脱したのか、しないのか。」の答えは明白でしょう。仏陀の魂であるものは仏陀になるか転輪聖王になるしかないのですね。生まれながらの仏陀ですから、それにいつ気づくかだけのことなんですね。そういっちゃあみもふたも無いので、弟子に修行の姿を見せたということだけなのですね。弟子も数十億という歳月を修行して無上正覚知を得れば仏陀になれるとはいっても、それも夢のまた夢ですからね。 仏陀は法供養のために転生輪廻するのですね。正法を説き、その法がわからなくなる末法の時代に再誕し、再び正法を説くのですね。まあ、優曇華の花のように数千年に一度ですね。これが如来の法供養ですね。釈尊入滅後2500年以上たってますし、維摩経の法供養の意味さえわからなくなった末法の時代ですから、仏陀は間違いなく再誕してますね。 (そんなことでもないと、こんなしょぼい日本にゃ私も生まれてこなかったですからね。) 一般人の転生輪廻は洗濯機のように自分の意思ではなく機械的に回ってるという意味ですね。菩薩以上の悟りたるものは自身の意思で計画的に生まれ変わるということです。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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その日暮らしさん、ゴータマ・シダッタもそして偉大な意識はどなたも、解脱すると、自分の欲望や偏見、エゴなどで強制されて、現れたり、肉体に転生してくるものではないと私たちヒンドゥの哲学は教えております。 転生はそういう迷妄で否応なしに出てくる、一面修行であり、一面迷いの人生だという事です。 イエスもいろんな聖者の前に顕れたりしておられるそうです。 ゴータマ・シダッタの解脱前前世のお話はあまりないですね。 ゴータマ・シダッタとしての人生で解脱されたのですが、これは人の形でどうやっていくかを示す、一つのドラマを演じたのでしょうね。 そういう解脱することになる、人生とその解脱後の人生しか私たちには見えませんね。 教えとしても伝えられていませんね。 この解脱するためのドラマ人生も、その後の現れ方も、ご自分と偉大な意識世界の自由な意志と思想で顕れているのであり、自己の欲望や迷妄でのこのこ出てきているのではないということを私たちの宗派は教えています。 多分いろんな説明のしかたや観方はあるでしょうが、そのことは偉大な意識界とそれ自身でもあるゴータマ・シダッタにはどうでもいいことなのでしょうね。
お礼
このご回答は何やら示唆と含蓄に富んでいるのでしょうが、kryaさん節が縦横に炸裂していて凡俗の理解を超えています。 哲学も結構、宗教も結構、仏もヒンドゥも結構、悟りも結構。しかしながら、「餓鬼で結構、畜生で結構、地獄でも何処でもお好きな所へ送ってもらいやしょう。」と、こちらの覚悟もなかなかどうして悪くは思えません。私の性には合っています。 有り難うございました。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「神、人を喰らう」は読んでおきました。祭りを主題としながら、自ずから人間とは何かに結びつく普遍性があって、悪い著作とは思いませんでした。
- aokisika
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ゴータマ・シッダッタは前世ではまだ解脱していなかったので、輪廻を繰り返していました。そしてゴータマ・シッダッタとして生まれた時に解脱をしたので、それ以降は輪廻をしなくなった、と考えれば良いのではないでしょうか。 ところで解脱をすると輪廻をしなくなるのかどうかは私は知りません。 どこかに書いてあるのでしょうか。 チベットの活仏は輪廻転生を繰り返していますよ。
お礼
>>ところで解脱をすると輪廻をしなくなるのかどうかは私は知りません。<< 勘弁して下さい。私の理解は怪しいから質問しているのです。知らない者同士では埒が明きません。 最小限、輪廻と解脱について承知していないとこの質問には答えられ理屈だと思いますが……。
お礼
ご回答をすっぽかすようでいけませんが用件を先に片付けてしまいます。 多分、誤解の源が解けました。 1 解脱をすれば「仏」として転生はするが、輪廻はしない。 2 輪廻とは天上道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道に転生することをいう。 ( http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93 ) 3 「仏」は2に含まれていないから「仏」として転生した場合は輪廻とは呼ばない。つまり、解脱すれば輪廻しない。 多分、1、2、3をしっかり押さえればよいのだと思います。ゴータマ・シダッタは解脱した。よって「仏」として転生する。これは輪廻とは呼ばない。よって、「維摩経 第12章 法供養」で世尊が前世の月蓋王子時代を語っているが、月蓋王子が世尊に輪廻したのではなく、月蓋王子が世尊に転生して現れたと表現するべきである。多分、これでこの質問の回答になっているのだと思います。 このまま暫く置いて、この説に異論がなければ当面はこういう納得の仕方をしておくことにします。 さて、ご回答へのお礼です。 ご回答を正しく読み取れているかいないか自信がありませんが、どうも法供養の理解が違っているように思います。 ご回答には法供養が >>仏陀が永遠に転生して正法を説くことが法供養の意味なんですね。<< とあって、仏陀の側から修行者への働きかけと読めます。 一方、私の理解では、 如来を財物によって供養するのではなく、正しい法の供養によって供養せよ、如来を財物を喜捨することによって尊敬せずに法への恭順によって尊崇せよと、世尊が説いていて、つまり修行者の如来への正しい態度を説いていると読みます。 これは純然たる国語の問題ですからしっかり読み直せば自分で解決できるので敢えて問い合わせることはしません。ご回答はしっかり読ませて頂いたという意味で記しておきます。 有り難うございました。