- ベストアンサー
ゴータマの死〔の不延期〕にアーナンダは罪があるか
- ゴータマの言おうとすることは何か?これを問います。
- 結論として、アーナンダはゴータマに対して長寿を懇請しなかったことが過失であり罪であると判断されます。
- アーナンダは一度ではなく何度も長寿を懇請し、最終的にゴータマから罪と過失を告げられます。
- みんなの回答 (6)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
大般涅槃経のこの部分は、後世のフィクションです。 如何にも、お釈迦様という記号に酔い、記号の権威に阿る後世の出家者の脳みそから 捻り出された匂いがぷんぷんします。 また、アーナンダのみが主要な弟子達の中で唯一お釈迦様の入滅に立ち会えたことについての 他の高弟からの嫉妬、また入滅時点でアーナンダが悟りを開いていなかったことについて 他の高弟が持つ軽侮の気持ちの表れとも言えましょう。 でも嫉妬に軽侮???他の高弟は悟りを開いていたのでは??? こういうことがあるから不立文字なんですね・・・。文章にするのは本当に難しい。
その他の回答 (5)
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
丁寧なお礼ありがとうございます >★ アーナンダの罪はゴータマの説法を信じなかったことでしょうか? ☆ そんなことは無いはずです。 アーナンダ 彼は美男子ゆえに、女難を被ることが度々あったと言われるが、志操堅固にして身を護り修行を全うした。また智慧多くして諸経を持誦していたが、心を摂する点に欠け、定と慧が均等でなく、漏尽通を起くことができず、仏の入滅時には未だ有学の人で阿羅漢果を得ていなかったと言われる。とWikipediaにあります これから察すると アーナンダは修行成就には至っていなかったので心の動揺を抑えることができなかったと思われます 私はアーナンダの優しい性格で誰からも好かれた彼の美貌が原因にあるのだと思います 確かに「信じなかった」は言い過ぎでした 「漏尽通を起くことができなかった」にします むしろ ゴータマは人として未熟なアーナンダが心配だった それで 問答により アーナンダの「自灯明・法灯明」を確認したのでしょう アーナンダがゴータマに深く依存しているのが解ったので 後に 教祖の近くにある者が未熟さ故に災いとなるということを示したと思います 宗教組織は 教祖がアイドルになってみんなに慕われお金儲けをすることが目的ではないのです 一人一人が人間として自覚して生きていくと云うのが目的だと思います アーナンダは危なっかしい性格であり容貌であり その立場であるということだったのでしょう >☆ あのねぇ。いいですか? すでに転法輪の初めに おれは この上無き知恵のさとりを得たのだと宣言しているヤローですよ。《この上無き》ですよ。《やすらかに永眠する》ことくらいできないなんて 考えられないぢゃないですか。誰によって・何によって妨げられると言うのでしょう? ゴータマは人間として生きていくことを実現したのは間違いないと思います 彼の行動は何も隠すところがなく文献を読んでも嘘は無いと思います ただ 弟子の編纂したものなので話が脚色されすぎなのはどうしようもありません >てふ_てふさんも けっきょく逝かれポンチ倶楽部のお仲間なのですね。 これは褒め言葉なのでしょう ありがとうございます >★ ゴータマの教えは「あるがままに世界を認識して 思惟して 行動する 迷ったら 心を静めて初心に戻る そして それまでの自分の認識したことを信じればよい」ということです ☆ それ以上のことを 市井の人間が 十人中五六人はじゅうぶん実践しています。 そうならば 時期に世界は平和になり心配ないでしょうね 人間が孤独を感じない時間は少ないと思うので 孤独を克服すれば何時も自由なのは間違いないですね でも 宗教組織は仏教だけではないですから ユダヤ人のユダヤ教から資本主義ができて 今は拝金主義にまでなっていますからね 私は利息がお金持ちを生みだしていると思います そして 利息の大元は資源や領土だと思います 「資源や領土」が生活の豊かさに繋がり また争いになるのはどうすればいいのでしょうか?
お礼
お早うございます。ご回答をありがとうございます。 ううーん。けっきょくは ゴータマの発言には 信用が成らない。という問題に帰着すると考えます。 (あ) ▲ 四つの不思議な霊力(四神足)を修し 大いに修し (軛を結びつけた)車のように修し 家の礎のようにしっかりと堅固にし 実行し 完全に積み重ね みごとになしとげた人 ☆ によって アーナンダは (い)▲ ~~~~~~~~~~~~~~~~ このようにあらわにほのめかされ あらわに明示されたけれども 洞察することができなくて 『尊師はどうか寿命のある限りこの世に留まってください。・・・』といって懇請しなかった。 ・・・ それだから アーナンダよ これはお前の罪である。これはお前の過失である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ と言われた。この話の持つ矛盾に 問題はあります。矛盾をはらむことを言った人間は 信用がなりません。 《あらわにほのめかされ》という表現がどうもおかしいということは 放っておきますが 問題は (う) そもそも 他人(ひと)の愚鈍について 指摘するということと それが《罪であり過失である》と咎めることとは 別である。 (え) しかも《修行完成者》なる人間が 弟子の――もしそうだとしてその――愚鈍について 自分の指導力の無さを棚に上げて 弟子を咎めることのみをおこなう。というのは 矛盾であることを超えて 気が違っている。バカを超えてくるっている。 ☆ こういう問題です。そうぢゃないでしょうか。 (お) あるいはもし この涅槃経のくだりが 後世によるデタラメ話の挿入であったとするなら そういうバカなことをやらかす弟子――マハーカッサパ?――を養成した人間にも 責任の一端がある。という問題に帰着する。 (か) もしその《修行完成者》に落ち度がなかったとしたら ブディストは この涅槃経のでっち上げ話の部分を 削除するか しなくともマチガイが差し挟まれてしまった部分であるときちんと明らかにしていなければならない。それを怠るのは 気ちがいである。 ★ そうならば 時期に世界は平和になり心配ないでしょうね 人間が孤独を感じない時間は少ないと思うので 孤独を克服すれば何時も自由なのは間違いないですね ☆ 平和のもんだいは いま現在としては 【Q:ことばで権力を倒せるか?】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8588372.html において 《国家》が 歴史的に止揚されていくという観点から取り上げました。 孤独のもんだいは やはりいま 【Q:《孤独》は アートマン(霊我)の電磁場である。】 【Q:孤独からここに戻るのか いや 孤独へと立ち還るのか】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8583191.html 【Q:《まじわり》をめぐる或る対話】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8580531.html であつかっています。《宇宙遊泳をいのち綱無しでしているような独りぽっちにこそ 人びととのカカハリやマジハリなる社会性が 泉の水が湧くごとく そなわっている》という命題です。 ★ 「資源や領土」が生活の豊かさに繋がり また争いになるのはどうすればいいのでしょうか? ☆ については ささやかにですが 次であつかおうとしています。 【Q:ことばで権力を倒せるか?】 【Q:にんげんの前史を終えるということ(!?)】 http://soudan1.biglobe.ne.jp/qa8577840.html 精進してまいりたいと思いますし てふ_てふさんのご活躍をたのしみにしています。
- Tefu_Tefu
- ベストアンサー率27% (87/322)
こんばんは >ゴータマの死〔の不延期〕に アーナンダは罪があるか このことについて ブラジュロンヌさんは あーなんだ そーなんだ こーなんだ と理解したいわけですね(^-^) アーナンダの罪はゴータマの説法を信じなかったことでしょうか? 神通力がどうしても信じれなかった ゴータマは 悩んだ時は「無の境地になって初心に戻りなさい」と言っているような気がします アーナンダがゴータマと共に行動し経験したことが やがてアーナンダの生きる力となるということ アーナンダが「自灯明・法灯明」を疑っていたのを見抜いて ゴータマは死の間際に疑ったままでいいと言ったと思います 後に アーナンダは悟ったようですが 「ふるさとは遠きにありて思うもの」みたいな心境かもしれません 人間は身近にいる人ほど 何も観ていないのかもしれませんね しかし 記憶は残っているのが救いだった ゴータマとの想い出がアーナンダの心にずっと生き続けている ゴータマは正しかった アーナンダが想えば何時でもゴータマの意志が解る 私がゴータマを信じてさえいれば ゴータマは安らかに永眠することができたのだろうと後悔したと思います アーナンダのゴータマに対する疑いが 未来でゴータマを疑う者が現れるということが罪 ゴータマの教えは「あるがままに世界を認識して 思惟して 行動する 迷ったら 心を静めて初心に戻る そして それまでの自分の認識したことを信じればよい」ということです
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ アーナンダの罪はゴータマの説法を信じなかったことでしょうか? ☆ そんなことは無いはずです。 ひょっとして ゴータマはアーナンダに対して あいつはおれの説法をまるで信じていない ちょっと焼きを入れてやらなきゃなと思って このブッダ最後の旅にお供を言いつけたというご見解でしょうか? そもそも 毒キノコ(ただし 豚肉か何かの別説もある)を料理に出した鍛冶工チュンダに対しては 広い心でゆるしたのに対して いったいどの腹の虫の居どころがわるかったのか アーナンダに罪を着せようとするのか? 気が違ったとしか考えられません。 ★ 神通力がどうしても信じれなかった ゴータマは 悩んだ時は「無の境地になって初心に戻りなさい」と言っているような気がします ☆ てめえが 無の境地になって 相手や事態をきちんと見てみろってんだ。とゴータマに言ってやるしかないでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ アーナンダがゴータマと共に行動し経験したことが やがてアーナンダの生きる力となるということ アーナンダが「自灯明・法灯明」を疑っていたのを見抜いて ゴータマは死の間際に疑ったままでいいと言ったと思います ~~~~~~~~~~~~~~ ☆ あぁ そうですか。それなら めでたし めでたしですね。って そんなうまい具合いに話は――哲学は―― 行きません。精神錯乱をどう説明するか? です。 ★ 後に アーナンダは悟ったようですが 「ふるさとは遠きにありて思うもの」みたいな心境かもしれません ☆ そんなことより ゴータマは 何~~んもさとっていないぢゃん! ということのほうが もんだい。 ★ ゴータマとの想い出がアーナンダの心にずっと生き続けている ゴータマは正しかった ☆ どこが???????????? てふ_てふさんも けっきょく逝かれポンチ倶楽部のお仲間なのですね。 ★ 私がゴータマを信じてさえいれば ゴータマは安らかに永眠することができたのだろうと後悔したと思います ☆ あのねぇ。いいですか? すでに転法輪の初めに おれは この上無き知恵のさとりを得たのだと宣言しているヤローですよ。《この上無き》ですよ。《やすらかに永眠する》ことくらいできないなんて 考えられないぢゃないですか。誰によって・何によって妨げられると言うのでしょう? ★ アーナンダのゴータマに対する疑いが 未来でゴータマを疑う者が現れるということが罪 ☆ 初めの《成道》宣言からして 眉唾ものなのです。万人がゴータマをうたがっています。疑わない人間は いません。 ★ ゴータマの教えは「あるがままに世界を認識して 思惟して 行動する 迷ったら 心を静めて初心に戻る そして それまでの自分の認識したことを信じればよい」ということです ☆ それ以上のことを 市井の人間が 十人中五六人はじゅうぶん実践しています。 アーナンダに罪を着せる前に てめえが そのオシエを実行せい! と言わなければなりませんよ。そうぢゃないですか わがなつかしき てふ_てふさん。
誤字・脱字あるかもしれませんが参考に。 死んでも生きても文句を言われるし、派閥争いはあるし大変だね。 仏教の初期のことにしか興味がなくて、弟子はせいぜいサーリプッタあたりまでで とまっている私にとって、いきなりアーナンダとかマハーカッサパとか出てくると 誰だ?と思ってしまった。 ブッダが長生きしたことが仏教最大の謎であり、矛盾だと思います。 長生きすることは善いことだという価値観は仏教徒も持っていると思う。 それなのに理想的にはさっさと死んだほうがいいのに、ブッダは長生きしている。 どうして?というのはなかなか難しい話ですよ。 生きているなら生きているで、なぜ死ぬの?ということでしょうね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 二 教団の分裂 根本分裂の遠因 ブッダ入滅の後には、圧倒的な存在感でサンガを統率してきた開祖の影響がしだいに薄れていった。 仏教が広まっていくにつれて次第にサンガの規模も大きくなり、それぞれの地域の社会情勢や経済状態の影響を 受けて、運営にはさまざまな問題が生じてくることになる。また、経典や律典には、教理的な解釈上の 相違だけでなく、サンガ内における修行の方針や宗教的な考え方の相違、さらには個人的な性格の違いに起因すると みられる争論も記されている。 一例を示せば、マハー・カッサパ(Mahā-kassapa、摩訶迦葉、大迦葉)が後輩のアーナンダに対して若年の弟子たちへの 指導のあり方を批判し、アーナンダがそれに反論しているようすなども伝えられている(「相応部」II、pp.218-219)。 このようなできごとは、宗教的な見解の相違によるものであったかもしれないが、いずれにしてもそれぞれが 率いるグループの争いに発展する可能性も秘めている。 また、『サンギーティ・スッタンタ』(Saṅgīti-suttanta、「長部」III、pp.207-211)には、 サーリプッタがブッダに代わって説法をするエピソードがみられる。その内容は、サーリプッタが主催する経典編纂の様相を 呈しており、経典の名称にもそれを示すサンギーティ(Saṅgīti、結集)という言葉が使われている。 ブッダ入滅時には、後継者として期待されていたサーリプッタ、モッガラーナはすでにこの世を去っていた。 そしてブッダの取り巻きから距離を置いて修行を行っていたマハー・カッサパが、ブッダ亡きあとの教団の指導者としての 位置を占めるようになる。上記の逸話はそうした状況のなかで、ブッダ入滅後にマハー・カッサパの提案で行われたとされる、 いわゆる第一結集に対抗して、サーリプッタの系譜に属する人びとが、自らの系統が正統な後継者であることを示そうとした 表れとみることもできる。 ブッダの直弟子たちにはそれぞれ彼らに従い、その指導のもとに修行を行っていた弟子たちの存在が伝えられている (「相応部」II、p.155)。そのように直弟子たちから強い影響を受けた派閥的グループがサンガのなかでそれぞれ 独自の立場を確立していったことも十分考えられる。 133-134ページ 第3章 仏教教団の展開 新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開 佼成出版社 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ところで、マハーカッサパとアーナンダの関係についても少し触れておきたい。 マハーカッサパからアーナンダへの法の継承は、年齢の点や当時の教団における立場を考慮すれば、 当然のようにも思える。しかし、『サムユッタニカーヤ』の「チーヴァラ(衣服)」(一六・一一)や 「ウパッサヤ(住処)」(一六・一〇)などに見られる二人の対立や不仲の関係、また律典に伝える第一結集における マハーカッサパのアーナンダに対する叱責事件などを考えれば、マハーカッサパからアーナンダに法が伝授されたということは 簡単には受入れがたい。しかし、いずれにしても仏滅後の教団を理解するためには、教団運営に関わる現実的な側面にも 眼を向けなければならない。 083ページ 第2章 原始仏教の世界 新アジア仏教史02インドII 仏教の形成と展開 佼成出版社 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
お礼
ご回答をありがとうございます。 よくよく考えるに けっきょく たとえばマハーカッサパによるアーナンダの追い落としでしょうか そのためにアーナンダが 悪者にされている。という事態であるとしますと だから いったいどういう経典であるのか? その内容として どうなるのか? これが問題であると思われます。それしかないと考えられます。 まったくの作り話であるなら 何の意味もないということでしょうが だから 大パリニッバーナ経とは どういう経典なのか? です。嘘っぱちだから 要らんものであるのか? そういう問題について どうしてはっきりさせていないのか? です。 これは ゴータマが さとりについて何ら明らかにしなかったツケが 弟子たちにまわって来ているのではないか。 事実と違うことを言って 相手を咎め ふんだくれるものなら ふんだくってやれという政府の態度が確定したあとには 国民は それぞれ勝手なことをやる。ウソもペテンも うまくやったもん勝ちだとなります。 この意味での問題はないのでしょうか。
- sariputra
- ベストアンサー率4% (2/41)
>★ 後世のフィクションです。 >☆ 自著でないものについて ほとんどすべてがそうである。と言えるかと思いますが そういう理屈は措いておいて フィク>>ションだということでしょうか。 そのとおりです。 >だとすると その上で どういう意図があって どういう内容の話にしているのか? これを問います。 お釈迦様の偉大さを、大げさに書き連ねることで、十分な学問を積む機会に恵まれず、権威ある人の言葉を そのまま鵜呑みにせざるを得なかった大衆に対する説得力を担保しようとした訳です。 >★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ >如何にも、お釈迦様という記号に酔い、記号の権威に阿る後世の出家者の脳みそから >捻り出された匂いがぷんぷんします。 >~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ これは 台所事情であるかも分かりませんが おそらくそうではなく 出された料理について 味を批評してみてください。 お腹をこわして入滅するのも何ですので、遠慮しておくことにしましょう。 >★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ >また、アーナンダのみが主要な弟子達の中で唯一お釈迦様の入滅に立ち会えたことについての >他の高弟からの嫉妬、また入滅時点でアーナンダが悟りを開いていなかったことについて >他の高弟が持つ軽侮の気持ちの表れとも言えましょう。 >~~~~~~~~~~~~~~~~~~ >☆ ん? だとすれば 先ほどの《フィクション説》とあいまって 書かれたことは 事実ではない。というご見解でしょうか? こんなことは どうでもよい。ということですね? おっしゃるとおりです。書かれたことは 事実ではありません。こんなことは どうでもよいと思います。 >★ でも嫉妬に軽侮??? 他の高弟は悟りを開いていたのでは??? >☆ その《他の高弟》は こんなことはウソだと思っているという見方なのですね? >ただ ひとつのことは気にかかります。ゴータマであれば 寿命を延ばすことも出来るという内容です。これも 嘘っぱちだという見方でしょうか? お釈迦様でもイエスでもマホメットでもサイババでも定命を延ばすことはできません。 ですから嘘っぱちです。 それほどに、輪廻を動かす業のエネルギーはとてつもなく強烈なものなのです。 お釈迦様という「現象」も多次元に波打つブラフマンの中のひとつの波にしか過ぎず、相対的な 存在でしかありません。 ましてや三次元の肉体に縛られたままでは、悟りは開けても、涅槃に達することはできないのです。 >★ こういうことがあるから不立文字なんですね・・・。文章にするのは本当に難しい。 >☆ というのは むしろ《さとりを得ていない》場合の言い訳にしかならない。としか思えないのですが。 熱心なだけの信者が書くとこのようなものになるわけです。だから文章にするのは本当に難しいのです。 >つまり もしおれは この上なき知恵のさとりを得たというのなら そう宣言したのなら 人びとに分かるように説明するのが >さとりの境地というものである。でしょうね。 悟りを得た者は、自由自在の境地にあり、衆生を救わなければならないというような薄っぺらな義務感にも 縛られることはありません。一休禅師や沢庵禅師を学んでみてはいかがでしょう? このような軽い質問サイトだからといって人にものを尋ねる時の姿勢を崩してよいという訳ではありません。 回答者に対して、「学ぶ」という謙虚な姿勢を持つことは大切なことです。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 十分な学問を積む機会に恵まれず、権威ある人の言葉を / そのまま鵜呑みにせざるを得なかった大衆 ☆ これは ひとつに ふつうに話し合いができる人間というものをひとつの基準にして話をしたりその話について批評したりするのが 哲学のすすめる方途であるかと考えます。 つまり いわゆる学問が無く付和雷同の大衆を基準にして 思想の評価をおこなうことは ほとんど意味がありません。そういう特殊な場合があったということで済む問題であると考えます。 言いかえると そのような大衆も 潜在能力としてじゅうぶんふつうの程度までは世の中のことが分かっていて ことの是非について判断する知恵をもわきまえているはずです。そのように水準をほんの少し上げるならば 議論がすすめられるといった舞台での話をして行けばよい。と考えます。 もうひとつに バカだから 《説得力》をふつうの内容ではなく 特殊なものにしたのだという見方を ほとんど全面に推し出すのだとすれば そのバカな大衆を軽んじ蔑むというマチガイを犯していると言うべきでしょうね。 つまりは そのように人を蔑(ないがし)ろにするというという行為をおこなうのなら その人間こそが バカであるとなります。バカ以下だとなります。 ★ 書かれたことは 事実ではありません。こんなことは どうでもよいと思います。 ☆ つまり このようなデタラメをひとつの経典としてうやうやしく奉っているのが ブディストである。ということですね。 ★ お釈迦様でもイエスでもマホメットでもサイババでも定命を延ばすことはできません。 / ですから嘘っぱちです。 ☆ これは 《寿命》について定義をしないと精確な議論はかなわないでしょうね。一般には おっしゃるとおりであるかと考えます。 ちなみに 飛躍した話を――説明抜きで――かかげておきます。 ▲ (ヨハネによる福音書 10章 17―18) ~~~~~~~ わたし(=イエス)は命を、再び受けるために、捨てる。 それゆえ、父はわたしを愛してくださる。 だれもわたしから命を奪い取ることはできない。 わたしは自分でそれを捨てる。 わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる。 これは、わたしが父から受けた掟である。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 三次元の肉体に縛られたままでは、悟りは開けても、涅槃に達することはできないのです。 ☆ この命題について ただちに物言いが出されましょう。 さとり・ニルワーナについて 定義をしてから説くべきでしょうね。 そして こう言うからには ご自身はそのさとりを開きニルワーナに達したとおっしゃっていることになります。それでよいのでしたら どこかでそれについてのきちんとした説明をなしておくべきでしょうね。 ★ 熱心なだけの信者が書くとこのようなものになるわけです。だから文章にするのは本当に難しいのです。 ☆ 意味が分かりません。難しいのなら 書かなければよいぢゃないですか。 ★ 悟りを得た者は、自由自在の境地にあり、衆生を救わなければならないというような薄っぺらな義務感にも / 縛られることはありません。一休禅師や沢庵禅師を学んでみてはいかがでしょう? ☆ 《衆生をすくう》という主題は いまここでは哲学のそれとして取り上げています。主題を自分でかかげたのなら その議論で用いる概念についてしっかりと 相手に分かるように 明らかにしておく義務があります。微妙に視点が違っています。 ですから この哲学カテにおける質疑応答としては 《一休禅師や沢庵禅師を学んでみて》どういう回答を得ているのか これを述べて明らかにすることが のぞまれていることです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~ このような軽い質問サイトだからといって人にものを尋ねる時の姿勢を崩してよいという訳ではありません。 回答者に対して、「学ぶ」という謙虚な姿勢を持つことは大切なことです。 ~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ というようなやり取りを千年・二千年も繰り返すひまは わたしにはありません。 回答者であるというのなら 初回の回答で 結論を・そのあらましだけでも 明らかにするということ。これが まじめでまともな大衆のつねにおこなっている行き方です。
- 畑 茂夫(@Flareon)
- ベストアンサー率28% (459/1605)
内容の薄いめんどくさい話ですね。 自らの責任の及ばない他者に何かを望む物乞いはいけないと考えます。 誰か他者の(アーなんだ)望みを受け取る事は、当人にとってはそれは欲望しか生みません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 内容の薄いめんどくさい話ですね。 ☆ なぜこんな話がなされているのか? のほうが 問いになるかも分かりません。 ★ 自らの責任の及ばない他者に何かを望む物乞いはいけないと考えます。 ☆ ええ。とともに ここは進行役として 両方の立ち場に立たなければならないとも思うのですが そうですね。たとえば ゴータマとこのお供の弟子アーナンダとの間にはすでに暗黙のうちにでも 互いの了解があって 何らかのかたちで互いに言いたいことが言える。といった状態になっていた。だから ゴータマは言いたいように話をした。・・・ それにしても なぜこんなことで 相手に罪があって咎められねばならないのか? さっぱり分かりません。 ★ 誰か他者の(アーなんだ)望みを受け取る事は、当人にとってはそれは欲望しか生みません。 ☆ ん? アーナンダが 他者であるゴータマの望みを受け取ることは ゴータマ本人にとってはそれは欲望を生み出すことにしかならない。ですか? わがままにさせるだけだと。 ううーん。どうなんですかねぇ。 この大パリニッバーナ経の第三章〈十二 大地震に関連して〉では アーナンダが むしろ《人びとのために 寿命を延ばしこの世にとどまって法を説いてください》と言っているようなんですが どうもよく分かりません。
お礼
ご回答をありがとうございます。 ★ 後世のフィクションです。 ☆ 自著でないものについて ほとんどすべてがそうである。と言えるかと思いますが そういう理屈は措いておいて フィクションだということでしょうか。 だとすると その上で どういう意図があって どういう内容の話にしているのか? これを問います。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 如何にも、お釈迦様という記号に酔い、記号の権威に阿る後世の出家者の脳みそから 捻り出された匂いがぷんぷんします。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 台所事情であるかも分かりませんが おそらくそうではなく 出された料理について 味を批評してみてください。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~ また、アーナンダのみが主要な弟子達の中で唯一お釈迦様の入滅に立ち会えたことについての 他の高弟からの嫉妬、また入滅時点でアーナンダが悟りを開いていなかったことについて 他の高弟が持つ軽侮の気持ちの表れとも言えましょう。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ん? だとすれば 先ほどの《フィクション説》とあいまって 書かれたことは 事実ではない。というご見解でしょうか? こんなことは どうでもよい。ということですね? ★ でも嫉妬に軽侮??? 他の高弟は悟りを開いていたのでは??? ☆ その《他の高弟》は こんなことはウソだと思っているという見方なのですね? ただ ひとつのことは気にかかります。ゴータマであれば 寿命を延ばすことも出来るという内容です。これも 嘘っぱちだという見方でしょうか? ★ こういうことがあるから不立文字なんですね・・・。文章にするのは本当に難しい。 ☆ というのは むしろ《さとりを得ていない》場合の言い訳にしかならない。としか思えないのですが。 つまり もしおれは この上なき知恵のさとりを得たというのなら そう宣言したのなら 人びとに分かるように説明するのが さとりの境地というものである。でしょうね。
補足
こんかいは ★ 後世のフィクション ☆ であることに焦点をあてておくこととします。それで BA です。