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宇佐八幡神宮と朝廷の関係

769年に、宇佐八幡宮神託事件という事件が起きています。 道教が皇位を継ぐべきか否かを宇佐八幡神宮の神託に委ねるという政争のひとつです。 事件の内容はそれとして、何故宇佐八幡神宮なのかが気になりました。 天皇家の始祖である天照大御神が祭られている伊勢神宮の方が、皇位継承の神託を与えて当然だと私は思うのですが、わざわざ京から離れた大分県の神宮がそれを与えています。 加えて、宇佐使という皇室使者が、途中で途絶えているものの、現在も続いているそうです。 これらは、宇佐八幡神宮と朝廷が特別な関係にあるということの証左のように思います。 そこで、質問です。 宇佐八幡神宮と朝廷に特別な関係は実際存在するのでしょうか? また、存在するとしたらその原因は何でしょうか? よろしくお願いします。

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noname#89501
noname#89501
回答No.2

まず、これは私の推測にすぎまないことを申し上げておきます。 宇佐八幡宮の御祭神は15代応神天皇です。 応神天皇は九州の宇美というところでうまれ(父は仲哀天皇、母親は神宮皇后)そこから畿内入りしました。 応神天皇の畿内入りルートが初代神武天皇の東征ルートと重なるので 本当の初代は15代応神天皇ではないかとする説があります。 『古事記』仲哀記に次のような記述があります。 建内宿禰(たけのうちのすくね)が、太子(譽田別命、後の応神天皇)を連れて、禊に訪れた。 その夜、建内宿禰の夢に伊奢沙和気(いざさわけ)大神があらわれ、 「私の名前と御子(応神天皇)の名前を変えてほしい」といった。 建内宿禰が承知すると、「明日の朝浜にくるように。お礼を用意しておくので」と言った。 翌朝、浜には鼻が傷つけられたイルカが浦いっぱいに集っていた。 これを見て太子は、「神が私に魚を下さった」と喜んだ。 そこで、その神の名を称えて、御食津(みけつ)大神と名づけた。 浦はイルカの血で臭かった。そこからその浦は「血浦」と呼ばれた。 さらに「血浦」が訛って角鹿(つぬが/現在の敦賀)となった。 初代神武天皇は日向より東征して畿内入りしますが すでに畿内にはニギハヤヒという神が天下っていました。 ニギハヤヒは物部氏の祖神であり、ここから神武以前に物部王朝があったという説もあります。 そして、神武はニギハヤヒを服して即位し、王となりました。 神武天皇と応神天皇が同一人物とするならば、 神と名前を交換する応神天皇の話は、政権交代を意味しているように私には思えます。 つまり、本物の応神天皇は御食津大神となり 伊奢沙和気大神が応神天皇となり、政権が入れ替わったのでは、と思うのです。 http://www.harimaya.com/o_kamon1/syake/south/s_usa.html 上記によれば宇佐八幡宮の神職は、はじめ大神氏であったが、平安時代の中頃神主職を宇佐氏に譲って歴代祝職となり、宇佐氏が大宮司職を世襲したとあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%A5%9E%E6%B0%8F 大神氏は上記にあるように、奈良県桜井市にある大神神社の祭祀を司る神であったようです。 大神氏は三輪氏とも表記したようですが、 大神神社の御祭神である大物主命の子孫・大田田根子は 今の三輪君などの祖であると記述されています。 さらに、大物主命は正式名称を倭大物主櫛甕玉命といいますが 物部氏の祖神・ニギハヤヒは『先代旧事本紀』では、「天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊」(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひ の みこと)と記されています。 大物主命・・・倭大物主【櫛】甕【玉】命 ニギハヤヒ・・・照國照彦天火明【櫛玉】饒速日尊 で、【櫛】【玉】が同じなので、大物主命とニギハヤヒは同一神だという説があります。 ここから推理するに、宇佐八幡に祀られている応神天皇とは もともとは大和にあった物部政権の王ではないか、と私は思うのです。 ということは、宇佐八幡宮に祀られているのは 前政権の物部王朝の王で、朝廷にとってはライバルであったということになります。 なぜ、ライバルである前政権の王に皇位継承のお伺いをたてるのでしょうか。 前政権の王は死後、荒れ狂う怨霊になったと考えられます。 ちなみにかつて怨霊と神とは同義語であったといいます。 怨霊は祀らなければ祟るが、神として十分に祀れば絶大なご利益を与えてくれる、と信じられていたのです。 ですから、宇佐八幡宮には宇佐使とか和気使と呼ばれる勅使が使わされていたのだと思います。 残るは、なぜ応神天皇は敦賀の神と名前を交換したのか、ですが 申し訳ない、これについてはよくわかりません。 もっと単純に、応神天皇は初代天皇なので 皇位継承のお伺いをたてた、とする説もあります。 ちょっと説明がややこしかったでしょうか。

kkg045
質問者

お礼

応神=神武の説があるほど、やはり当時の権力は大きかったのですね。 『古事記』の通りだとすると、太子の本来の名が「伊奢沙和気」になってしまいます。 ですが『日本書紀』では「太子が生まれた時に、腕の上の盛り上がった肉が鞆(ほんだ)に似ていたから、名が誉田(ほむた)である」とありますから、記述のブレがあります。 結局は「然無所見也。未詳。」と、曖昧なままに終わってしまっています。 名前(政権?)を交換したかどうかはともかく、地名にまで言及されているのですから、敦賀の神(有力者?)と何かあったことは確実なのでしょう。 あまり関係ないですが、古代の日本でイルカを食すことがあったとは意外でした。 物部政権の生き残り=大神氏(三輪氏)で、大神氏は物部政権の先祖を代々と祭っている、ということですね。 これは仮説とはいえ、面白いつながりだと思います。 怨霊を神として祭り上げる例といえば、菅原道真が有名ですよね。 非常に面白い推論でした。ご回答ありがとうございました。

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noname#89501
noname#89501
回答No.5

749年に奈良・東大寺の守護神として宇佐八幡宮より神様を勧請してが手向山八幡宮が造られています。 手向山八幡宮は宇佐八幡宮からの分社では第一号とのことです。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%90%91%E5%B1%B1%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%AE%AE その後の769年に宇佐八幡神託事件がおきています。 宇佐八幡神託事件が起きる以前に、宇佐八幡宮より八幡神を勧請し 手向山八幡宮が創建されているということは 宇佐八幡神託事件が起きる以前より宇佐八幡宮は朝廷より厚く信仰されていたものと考えられると思います。 道鏡は弓削氏の出自ですが弓削氏は物部氏の一派ですから 道鏡は宇佐八幡宮の宮司であった大神氏と関係が深かったのかもしれませんね。

kkg045
質問者

お礼

やはり、宇佐神宮の中央進出と聖武朝前後の鎮護国家の動きはかかわりが深そうです。 祭られている神も含めて、深く信仰されていたのでしょう。 道教が僧であるのに政界で登りつめたのは、やはり氏の力もあったのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

  • fumkum
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回答No.4

おはようございます。 宇佐八幡宮と朝廷の関係について、失礼ながら原因と結果を間違えているように思います。特別な関係があって神託事件が起きたのではなく、神託事件が原因になって、特別な関係が成立したのだと思います。 そもそも、宇佐神社は地方の神社で、朝廷と特別な関係を古くから持っていたわけではなさそうです。 749年奈良の大仏造営について、造像を助けるとの宇佐神が神託を下し、禰宜等が上京し、八幡大菩薩号と、禰宜等に官位官職を朝廷から貰ったのが宇佐と朝廷の関係の最初といっても過言ではありません。 これに味を占めたわけではないでしょうが、中央・朝廷の関心事に神託を下すことにより、朝廷や中央との結びつきを深めたいと思って769年に、道鏡を天皇とすれば天下が治まるという神託を下すわけです。この神託の真偽をただすために和気清麻呂が勅使として宇佐へ下向し、新たな神託=天皇の位は天皇家以外のものを即けてはならないとの神託を得ることになるのです。 この和気清麻呂に託された神託により道鏡が天皇になることもなく、ひいては天武系の孝謙天皇から、天智系の光仁天皇―桓武天皇の系統が代々天皇として即位することができたと認識されたことや、光仁・桓武朝で和気清麻呂が有力者であったことで宇佐使をはじめとする朝廷との特別な関係を持つことができたと思います。古代における皇統の危機を救った神託であったことが大きいと思います。 なお、意外でしょうが、京都周辺に八幡宮ができたのは、この事件からおおよそ100年後の859年。男山八幡宮が最初です。 勝手な意見ですので、参考程度に。

kkg045
質問者

お礼

宇佐神宮の中央進出の足がかりのための「神託事件」ということですか。 ですが、九州大分にありますから、大宰府にはある程度の信頼は得ていたと思います。 勝手な予想になりますが、左遷されたりした大宰府の旧中央官人たちと「中央に恩を売るため」の共謀事件だったとも考えられますね。 後に続く天智系の即位のきっかけとなったことは、大きそうですね。 そう考えると、十分すぎるほどの足がかりだったのでしょう。 ご回答ありがとうございました。

  • take-plus
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回答No.3

面白そうなので、回答させていただきますがあくまで僕の仮説とお考えください。 まず、公的?な資料として、東大寺HPから聖武天皇略年表です。 http://www.todaiji.or.jp/index/hoyo/setumei/shomuryakureki.html 749年の項目に宇佐八幡宮が出てきます。東大寺の大仏建立に尽力を尽くしたようなことが書かれています。 ただ、宇佐神宮のサイトには712年以降の年表しか載っていません。 http://www.usajinguu.com/Frame.html http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/usagu.html http://tenjin.coara.or.jp/~primrose/usa-1.html 個人の方のHPみたいですが上手くまとまっているので紹介します。 740年に藤原広嗣が大宰府で乱を起こした際、宇佐八幡宮にて戦勝祈願があり、その結果乱は収まりました。疫病や反乱で聖武天皇は仏教に帰依しますが、宇佐八幡宮にも信頼を寄せていたのでしょう。 上記史実を考慮に入れると、九州で乱が起こった際九州の神社に祈願したら勝てたので、重用した。大仏を作ろうと思った際、お金を出してくれたのでさらに重用した。 なんていうとんでもな仮説が出てきました。もちろんフィクションです。

kkg045
質問者

お礼

私は、とんでもな仮説だとは思いません。 確かにそれらが原因で重用したかどうかは分かりませんが、つながりがあったことは確かです。 広嗣の乱での祈願も、祈願する価値があった証拠ではないでしょうか。 史実の観点からも調べてみようと思います。 ご回答ありがとうございました。

  • moritan2
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回答No.1

応神天皇の所で王朝が交代したという説があり、そうだとすれば応神天皇は一つの王朝の初代の天皇ということになります。後の継体天皇も応神天皇の五世の孫と言われ、応神天皇からの系統であるということは重視されていたようです。 神武天皇からの王朝は何回か断絶し、継体天皇が応神天皇の五世の孫と仮定すれば、現代までの天皇家は応神天皇からの王朝が続いているということになります。 宇佐神宮には応神天皇が祭ってあり、皇位継承に関して応神王朝の初代天皇である応神天皇の霊にお伺いするのは自然だと思います。

kkg045
質問者

お礼

なるほど、調べたところ、確かに交代王朝説がありました。 応神朝前後では、応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳を始めとして、大規模な前方後円墳が作られていますし、倭の五王として朝貢したのも応神系ですね。 それだけ権力があったのでしょう。 宇佐神宮で言えば、八幡三神として祭られている主祭神には、応神の母の神功皇后もいます。 境内には神話時代を含めて様々な神を祭る神社があるようです。 また神仏習合・八幡神創出を行ったのは、大いに意味のあることです。 するとやはり、血縁的にも歴史的にも朝廷とは縁の深い社だったのでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

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