- 締切済み
女人禁制
和歌山県の高野山はかって女人禁制でしたが、いつごろ、どのような理由で女人禁制にしたのでしょうか。 また、撤廃したのはいつごろ、どのような理由なのでしょうか。 女人禁制は、建前では空海の開山以来からかもしれませんが、女人堂を建てて女性はここまでと規制したからには、山上の寺院まで参詣する女性がいたからではないか、と思ったからです。 江戸末期の紀行文(現代語訳)を読んでみますと、下男を連れた女性が、女人堂で案内人を頼んで堂々と山上巡りをして宿坊に泊まった例があります。 女性向けの「御守り」が山上で売られていることから、女性も普通に高野山参りができたと推測しています。 よろしくお願いします。
- みんなの回答 (1)
- 専門家の回答
みんなの回答
- gungnir7
- ベストアンサー率43% (1124/2579)
女人禁制は実のところ、よく分かっていないのです。 wikiの記述が比較的詳しかったので挙げておきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%B3%E4%BA%BA%E7%A6%81%E5%88%B6 神道、仏教、道教、密教それぞれの説があるようですが、このうち仏教は違うと思われます。 理由は当時の仏教が呪術から宗教へと進化していたからです。 wikiにも書かれているように日本の女人禁制は霊山信仰や修験道によるところが大きく、 つまり結界内に女人が入ることを忌み嫌う風潮があったのです。 神道、道教、密教それぞれが呪術を主体とした宗教であり、 真言宗も真言に代表されるようにチベット密教(唐密)の流れを汲む宗派です。 おそらくは仏教(呪術仏教)が入ったとされる6世紀半ば以前に、 神道方面で女人禁制のしきたりがあり、それと仏教が習合したと考えるのが自然でしょう。 高野山の解禁にはこんなエピソードがあったようです。 http://www.reihokan.or.jp/yomoyama/various/addition/reco/top/011.htm
お礼
ご回答ありがとうございます。 萱野イチノさんのことは全く知りませんでしたので、大変参考になりました。 やはり、質問して良かったと思っています。 女性で最初の山内居住者なのですね。 私は、何事も「建前」と「実際」とは違うはずだと思って、歴史を考えるようにしています。 どんなに厳しい関所でも、すべて抜け道があります。 往来手形なしで抜けたいという需要があれば、関所を抜ける方策を供給する人が出てきます。 高野山も同じではなかったのではないか、と思っています。 江戸時代末期に山上で女性向の土産を売っていながら、明治になって女人禁制を解くときに、どんな理由にしたのかを知りたいです。 色メガネで皮肉な見方をしています。