余りにも見事な、男の散り際
或いは歴史カテかとも思いましたが、敢えてこちらで・・。
「男の散り際」 と聞いて、先ず私が思い浮かべるのが、巷間余りにも有名ながら、関ヶ原に於ける大谷刑部少輔吉継その人、幼名を紀之介又は平馬。
御存知の通り彼の怜悧な頭脳は、明確に東軍の勝利を予想しておりました、加えて家康との関係も決して悪くなく、天下は器量人の持ち回りに帰すべし、つまり徳川の天下を許容する程度の順応性も持ち合わせていたようです。
一方東軍へ加担する恩賞といった意味合いではない、新知12万石の加増が関ヶ原以前の段階でほぼ決まっておりまして、上杉征伐へと至る途上、黙って佐和山城を後にしてさえいれば、彼自身の敦賀5万石・親族の3万石と併わせて20万石を超える身代となり、子々孫々を繁栄へと至らせた可能性は高いはず。
ところが最終的にはその全てを捨て、石田三成との友情に殉じた訳で、当然そこには西軍が勝利すればという打算は微塵も感じられず、恐らく友情という概念が希薄なこの時代に於いて、誠に稀有な例であったのでしょう。
その最期もまた見事、西軍を裏切り松尾山から駆け下った金吾中納言1万数千の大軍に僅か600の寡兵を以って立ち塞がり、且つ3度までこれを押し返して、西軍最後の意地を見せ見事戦場に花と散ったくだりは、涙無くしては語れないものです。
ところがこの話には余談がありまして、吉継直系の子孫こそ途絶えたが、孫に当たる人物が越前徳川家に仕官し後年その家老に列せられた由、一方この話を聞いた時の大老土井利勝が、「家康が知ったらさぞ喜んだだろう」 と語ったという。
そこには、関ヶ原で敵の主将となった人物へのバイアスは微塵も無く、家康自身が戦国の気風と男の侠気を愛した人物であったとの証左に他ならず、加えて天下を取った草創期の徳川家に人なしとは言えないエピソードでしょう。
大谷刑部に限らず、その種の逸話は決して少なくないはず、古今東西及びジャンルを問いません、或いは映像の世界でも結構、皆様が感動する 「男の散り際」 を教えて下さい。