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哲学(上級者の方にお訊きします)
かなり勉強されて先が見えてきた方に質問します。 1)結論は出ないだろうと思っていながら勉強しているのでしょうか? 2)宗教などの「悟り」は哲学的にはどの程度の信憑性があるのでしょうか? 3)哲学的な話と胡散臭い話の見分け方を教ええてください。 よろしくお願い致します。
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こんにちは。 誰もが――次に述べる回答内容にちなんだ形においても―― 超上級者でありうると考えるものとして 投稿いたします。 ★ 1) 結論は出ないだろうと思っていながら勉強しているのでしょうか? ☆ 個々の問題について 結論が出る場合もあります。一般に 結論は出ないでしょう。言いかえると その問題を問い求め続けること その一つひとつの段階に到ること これが 過程的な答えになるのだと考えます。 次の問いにもかかわりますが 一般に 《結論》があるとして その結論をひとりで得ているという状態 これは つまらないというものです。これについては しかしながら そのひとりは 終わりから始めます。そうして 問い求めの過程において そのつど 里程標を記してさらに次の段階へと進みます。 その《ひとり》の人と同じ結論を自覚的に得ていないとしても あたかも同じように得たという人たちが 幾人か 現われるものです。そうでないと見えている人たちからも 有益なきっかけをもらえるものです。それをさらに実践の場に問いかけ問い求めていくとよいでしょう。 ★ 2) 宗教などの「悟り」は哲学的にはどの程度の信憑性があるのでしょうか? ☆ もしいやしくも《悟り》と言うのなら それは 《結論》を得た状態です。もしくは 結論を問い求める過程に 疑いなく確信をもって ついたという状態です。確信は 哲学プラスαなのだと考えます。 ★ 宗教 ☆ は 上で述べた《結論を得ているひとり》の問題にもかかわります。(実際には 集団としてのそれではなく 個人としての信仰=非思考です)。 ひとつに やはり上で述べたように 終わりから始めて人びとと共に歩めばよいわけです。 もう一つに ブッダが採った手は その《さとり》の神話化です。馬の鼻の先ににんじんをぶら下げるかのようにして 人びとに 求道の心を起こさせるというものです。すでにこの手は 《末法》の段階にきています。 たしかに《結論》は 得られないものであり なぞです。だからというので その隔たりを利用して ひとをたとえ真理を求めるとか何とか言ってだとしても そのように駆り立てるのは やはり犯罪行為に当たるでしょう。限界を初めに設けているからです。 彼岸――つまり 渡りがたい向こう岸――だと言っているから 正直だとも言えますが 彼岸にあるそのものが 観念の目標となってしまっています。観念の偶像です。偶像としての神ないしブッダです。ゼノンの的に達しない矢 亀に追いつけないアキレスの状態におく結果となるからです。二千五百年 経っています。 (このいまのゼノンの論理を容易に破るのが ブッダのおしえであるとの反論があると思います。それは 実践だと言うと思います。受け答えだけは 天下一品になっています)。 ★ 3) 哲学的な話と胡散臭い話の見分け方を教えてください。 ☆ 批判をすべて受け容れて話をしているかどうかです。 これとても 批判する側に能力が不足しているならば まだ分かりません。妥当な批判を逃れてしまっているかも分からないからです。 言いかえると (1)に戻って 過程として つねにそのつど 里程標のような副次的・付随的な結論を得て進み行くという動態が 《結論》の仮りのすがたです。 そして 人間の考えることは もともと 《胡散臭い》と心得ておけば 或る程度はだいじょうぶでしょう。《あやまつならば 我れあり》とうそぶいても それほど咎めを受けるとも思いません。 すでに《終わりから始める》というきよらかな思いあがりで進んで行っても だいじょうぶだと考えます。 この確信のあるところに おそれはありません。そのいま得ている小結論より一層妥当な結論が得られなかったらどうすればよいかを絶えず考えているからです。確信のないところに このきよらかなおそれはないからです。ですから 確信のあるところには この世の有力に対するおそれはありません。社会力学上の有力の持つ胡散臭さをおそれる謂われはありません。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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(そもそも「上級」ということ自体、私にとっては不明なので)上級者でもないでしょうし、また、先も見えておりませんので、本質問に回答する資格がありませんが、「アドバイス」として書いております。 1.そもそも、哲学に「上級」とか「下級」とかあるのだろうか? 2.哲学とは「結論」を求めるものなのだろうか? 3.哲学とは「悟り」などに「信憑性」をもたらすものなのだろうか? 4.哲学的な話と胡散臭い話とは別のものなのだろうか? ご質問全体が、私にとっては疑問に思えてきます。 1.そもそも、哲学に「上級」とか「下級」とかあるのだろうか? 「哲学に(概念としての)上下の関係がある」として、ソクラテス、プラトン、ニーチェ、西田幾多郎、ドゥルーズ=ガタリ、デリダ等々、歴史上の人物を上下関係として並べた書物を見たことがありません。思想の関連性(系譜)を図示したものは見かけます。 >>> わかりたいあなたのための現代思想・入門 (宝島社文庫) (文庫) 小阪 修平 (著), 志賀 隆生 (著), 竹田 青嗣 (著) 出版社: 宝島社 (2000/03) ISBN-10: 4796617701 ISBN-13: 978-4796617703 発売日: 2000/03 <<< 2.哲学とは「結論」を求めるものなのだろうか? そもそも、哲学には、philos(愛)+希: sophia(知)「知を愛する」という語源があります。「知」(求めようとするもの)に視点を合わせれば、「結論」という概念がみえるように錯覚するかも知れませんが、「愛」(求めようとすること)として想いを馳せるならば、あらゆる概念の向こう側へと誘い・誘われ続けることになると思います。この場合、「結論」という概念そのものが無意味になると思います。 3.哲学とは「悟り」などに「信憑性」をもたらすものなのだろうか? >>> http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%9F%E3%82%8A 「悟り(さとり)は知らなかったことを知ること、気がつくこと、感づくことを言い覚りとも書く。宗教上の悟りは迷妄を去った真理やその取得を言う。」 <<< ですから、自身でそのように「感じ取れるもの」だと思います。2で触れた哲学という概念の内、後者(求めようとすること:愛)に重きを置くならば、哲学的な思索は「悟り」と密接に関連するといっていいでしょう。 「信憑性」とは、思索に於いて論理性が有用である場合に成り立つ概念でしょうから、「悟りの過程」にて意味があると思いますが、「悟り」そのものを「信憑性」という概念で云々(うんぬん)することは、無意味だと思います。 4.哲学的な話と胡散臭い話とは別のものなのだろうか? 3と関連しますが、(科学全般を含む広義の)哲学的な思索では、その過程において、論理性(無矛盾性)が重要な役割を果たすことでしょうが、論理的な思索のみで成り立っているわけではなく、論理的な思索が不可能だと思われることに思い・想いを巡らせることも重要だと思います。 「信憑性」「胡散臭い」というのは、論理的な思索が不可能な「信じる」という概念にも関連して生じることでしょうから、「胡散臭い話」そのものも哲学的思索の対象になってしまいます。 したがって、(哲学的思索の範疇として)「胡散臭い」と思うかどうかは、そのことを考える人が「何を・なぜ・どの程度」信じるのか?に関わってくると思います。
お礼
ありがとうございました。
お礼
少々難しい箇所がありましたが、何とか理解できたと思います。 丁寧なご回答、ありがとうございました。 P.S. 心無い方への対応はスルーが一番良いと思います。