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倫理は哲学になりうるのでしょうか?
哲学と思想というのは少し違う気がします。 倫理はとかく宗教などと絡めて思想的に扱われることが多い気がします。 しかし出来るだけ純粋に論理的に倫理学を扱い哲学的なアプローチをすることは、どの程度可能なのでしょうか? ご専門の方、詳しい方、趣味でなさっている方などいらっしゃいましたら、教えてください。 文献の紹介があれば尚嬉しいです。
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- nisekant
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哲学は万学の祖です。
僕は倫理もしくは道徳、道理といったものは哲学の根底に流れるものだと思っています。 言葉によって規定されつくされはしないものでもあるとも思っています。 論理によって言い表されたその先の跳躍こそが哲学の意味であると思っています。 それは進歩とかばかりでなく回帰であったりします。 何も新しいことを言ったり考えたるすることが哲学なのではない また知識の多い少ないではなく、表現の豊かさでもなく 唯ひとつことを一心に黙々と生きる人のほうが哲学者であると思えたりします。
- ghostbuster
- ベストアンサー率81% (422/520)
今日の倫理学では、 「道徳は理性と良心の問題なのであり、宗教信仰の問題ではない。…一言で言えば道徳と宗教は異なるものである」 (ジェームズ・レイチェルズ『現実を見つめる道徳哲学』p.68) と考えられています。 というのも、倫理学は「何が善いこと」で、「何が悪い」ことかを決定するものではなく、法律的・公共的な規範の根拠を定めるもの、もう少しわかりやすくいえば「してよいこと」と「して悪いこと」のちがいを明らかにするのが目的であるからです。 そうして、その規範の根拠は論理的に求められなければなりません。 その手順は、一般に三段論法と呼ばれるものです。 簡単にその方法を紹介してみましょう。 かりにこうした事例があるとします。 無脳症の嬰児が出産された。 その子が長く生きられる可能性はほとんどない。 その子の臓器を移植用に提供することを両親が求めた。 ところが法律は、提供者が死ぬまで臓器の摘出は認めていない。 九日後、嬰児が亡くなったときは、すでに臓器は悪化していて、移植には適さないものになっていた。 果たして、両親が子供の臓器を移植用に提供する意思表示は、正しかったのか、まちがっていたのか。 (※これはあくまでも考え方の筋道を明らかにするためのもので、上記の本を典拠としています。したがって、これに関する意見の投稿はご無用に願います) 両親の主張はこのようにまとめられます。 (大前提:規範)ほかの人を害することなしに。誰かに利益を与えることができるならば、我々はそうすべきである。 (小前提:事実) 臓器移植は嬰児を害さずに、ほかの子供たちに利益を与える。 (結論:規範) ゆえに臓器移植は行われるべきである。 (※三段論法の方法についてはここでは詳述しません。不明の点があれば補足ください) さて、ここで一番問題になってくるのが、この「事実」の扱いです。 小前提となる事実命題がまちがっていれば、規範の正当化は失敗してしまいますから、この点に関しては徹底した議論が必要となってきます。 臓器を摘出することは、嬰児を害することになるのではあるまいか。 いや、そうではなくて、生きることが利益となるのは、人が活動でき、思考し、感じ、他者とコミュニケーションができるからこそだ。それができないところで、もう数日生きることが、どれほどの利益をその嬰児にもたらすことになるのか。 そのようなかたちで議論されます。 あるいはまた、反対する側の主張も、命題のかたちでまとめられる。 このように、倫理学はきわめて論理的な手続きにのっとって進められていきます。 http://www.lit.osaka-cu.ac.jp/~tsuchiya/class/ethics/introduction/lec1.html のページでは具体的にその手順が詳しく述べられています。(2~3回目) ページの中にナビゲーションがついていないので、講義ナンバーをひとつずつ増やしていってください。倫理学史もわかりやすくまとまっています。 そのほかに加藤尚武『現代倫理学入門』(講談社学術文庫)もわかりやすいと思います。 以上簡単に書きましたが、わかりにくいところ、もう少し知りたい点など、補足がありましたらおっしゃってください。できる範囲で対応します。
ご存知かも知れませんが、哲学としては、 倫理学 道徳哲学 メタ倫理学 といった部門があります。 文献としては「現代の価値論と倫理」(有信堂)がお勧めです。
「人のすすむべき道に、正しさの根拠付けが論理的にできるか」というのであれば、できるでしょうし、皆それをやって自分が正しいと思っているのでしょう。だけども、これは、相対主義的な正しさですね。 客観性、普遍性を満たした上で、言語化されなければ倫理といえないでしょう。その場合、判断内容とは、相対的なものですから、そこ着目するのはやめて、判断機能、認識機能というところに、多くの人々の共通点を見出すべきではないかと思います。いわば、理性による理性の探求ですね。 ソクラテスが倫理学の父と呼ばれるのは、判断内容たる知を超えて、「汝自身を知れ」という箴言に従い、その知的活動に目を向けたからでしょう。ここに、人類共通のものをみてとったのです。等しさそのものが、教えてもらってもいないのにだれにでも分かるということに、彼は言及します。(プラトン『テアイテトス』徳は教えられるか だったと思います。)のちに、カントがアプリオリな感覚的認識形式と呼んだのもこの類です。悟性の形式にも「P=P」などという、誰が見ても、その根拠を教えてもらったのでもないのに、正しいと思えるものがあります。 認識の内容ではなく、その形式を生むものを対象とすることで、普遍性の要請にこたえる事ができますが、言語の限界は、言表、判断すると、言語内容から超越していた対象が、言語内容へと形作られてしまうところにあります。つまり、真実であるはずのものが、真でも偽でもありうるものとなってしまうのです。むしろ整然と語ってしまわずに、倫理をぼかしたままの「道」などというほうが、的を得ているのかもしれません。
哲学と宗教が絡めて扱われることが多いのは、15世紀頃に全盛を誇った「宗教哲学」という考え方がいまだ根強く残ってるからです。 本来的には哲学は宗教とは関わりのない学問で、物理学の分野でも使われます。 たとえば、有名な「コペンハーゲン解釈」は、最終的には哲学的に処理してしまうしかありません。 陽子が崩壊したらどうなるのか、とか、宇宙の壁の向こう側には何があるのかとか。 これらは人間が現代の技術で答えを見つけられるものではないので、哲学的にアプローチすることが一般的です。