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炭坑(九州)の戦中戦後の歴史を知りたい。

子供時代すごした、北部九州。元炭坑労働者が、沢山、出てこられていました。 当時の回想録を書いています。 炭坑(九州)の閉山となっていった時期は、いつからなのか、朝鮮特需の影響は受けたか等しりたいのです。 研究グループの名前でもかまいませんので、教えてください。

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  • syou31
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回答No.2

私も炭坑の坑内技術者として1956年から働いていましたが、黒いダイヤともてはやされた時代は1960年の三井三池争議を境に衰退の一途をたどり石油に、とって代わられ次々と閉山していきました。 政府も離職者対策法などで対処しましたし、幸い日本が高度成長期に入り労働力不足とあいまって九州を離れ京浜・中京・関西の工業地帯に職を求めて移住していき、現在に至っています。 この時代は求めれば職に不自由はしませんでしたので、今の不景気と違うところでしょう。 1950年に始まった朝鮮戦争では、日本はうるおい一旦捨てた廃材(ボタ)を再度水洗いして取り出したりもしていました。 お望みの内容とは違いますが、五木 寛之の『青春の門-筑豊篇』が筑豊の有様をよく伝えています、あの中の場面で出てくる背景は私の郷を撮影場所に多々使っていますから映像でご覧になれば実感がわかると思います。 なお、炭坑の歴史の概略は http://www.nogata-navi.com/sekitan/rekisi.html をご覧ください。 N0.1様の回答の麻生太郎氏は東京で生まれ育ち学習院に進んでいますから、筑豊の歴史は殆どご存じないと思います。(最近は選挙対策として勉強されているやも知りませんが、未曾有のミスをするくらいですから?ですね) 彼の実家は膨大なものでまた先々代の方は子弟の教育に熱心で、東京に「麻生塾」という寮を作り、地元では職工学校に類するものを作っておられてたとのことです。 しかし、あの炭坑も大手ではありません。 やはり三井・三菱・住友・古河・日鉄などの中央勢力が政治力にものを言わせ殆どを占有し、それに続いて地元資本(多くは博徒上がり)の麻生・貝島・安川・日炭・などから個人資本の小山までありました。

byako
質問者

お礼

詳しく書いていただいて、ありがとうございました。 五木 寛之の『青春の門-筑豊篇』は、小説で、高校時代に読んではいたのですが。 一時期、亡くなった祖母が、飯塚に住んでいました。 幼い頃車窓から見た、ボタ山の光景は鮮烈でした。 http://www.nogata-navi.com/sekitan/rekisi.html​も、早速みてみます。 ありがとうございました。

その他の回答 (1)

回答No.1

それを一番よく知っている人物は麻生太郎首相と麻生福岡県知事です。 九州の炭鉱を牛耳ったのが麻生財閥ですから 更に戦後復興の財源を供給したのも麻生財閥。吉田茂の資金源です。 麻生財閥が炭鉱を閉めたのは1970年代です。

byako
質問者

お礼

ありがとうございました。

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