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孤独の寂しさ・独りの気安さ
人は、独りになると、寂しさ・切なさを感じる人と気安さ・自由を感じる人がいます。 性格や状況によるものもあるとは思いますが、心理的にどんな違いがあるのでしょうか? また、独りの時、どちらの傾向が強いですか?または、どんな感情をもちますか? ご意見よろしくお願いします。
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一言でいえば「欲求が満たされているか?」ということになると思います。 一人でいても、関心事に没頭していれば、寂しいということはあまりないはずです。 内向性の高い人なら、内面の世界で満足なので、それほど他人を必要としません。 ペットや植物と一緒ならば寂しくないという人もいれば、 TVがあれば寂しくないという人もいるでしょう。 パソコンがあれば満足という人もいるでしょう。 ただ、一人で読書や考え事をしたり、絵を描いているだけで満足な人もいるでしょう。 外向性の高い人の場合ですが、 他人とのやり取りを通して様々な欲求を満たそうとする傾向があるので、 他人がいないと、かなりの不満足に陥ることになります。 「様々な欲求」とは、興味・目的・安心・承認などを得ようとする欲求のことです。 「状況がコントロールできているか?」ということも基準になりましょう。 大勢でいても、自分だけ浮いてしまっていれば、非常に寂しさを感じるでしょう。 それならば、むしろ一人のほうがましなはずです。 私はといえば、こうやって一人で回答を書いていれば、ほぼ満足な人間です。 実世界で人の中に入っていっても、コミュニケーション力が足りないので、 全く自由にならず、肩身が狭く、気まずいばかりなので、一人のほうがましです。 「まし」というだけでなく、内向的なので、自分だけの世界を人一倍楽しめます。 一人になるとホッとしますし、食事や休憩の時間は絶対に一人でいたいです。 面白いネタが無くあまりに退屈だと、他人の影響を受けたいと思うこともあります。 でも、基本的には、他人とのやり取りは間接的や一時的なものにとどめ、 ほとんどの時間を一人で過ごす人生が、一番楽で、楽しく、満足だといえそうです。
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- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.6 続けて所感を。 ご年齢もご経歴も、お仕事も、そして実は性別も存じ上げませんが、私という解答欄投稿者にも非常に有益な、ご質問と皆さんのご回答です。 このご質問に敬意を捧げますが、孤独になるのは難しいですね。 一見頑固者、変哲もの、変わり者に見えます。 自己に忠実に生きていくって、あまり人に調子よく出来ないものなのでしょうね。 清濁併せ呑むというのも、心しなければ。私は少しお調子者で、大雑把なので。 尊敬するガンディ、いろいろ評価がありますが。アヒムサ、非暴力。 優しい、柔和なお顔。でもよく見ると、ヒマラヤの氷壁や岸壁みたいです。 いい加減なことを許容してくれないお顔です。 いい加減な人にはとても邪魔でしてでしょうね。 いい加減な人に理解と同情が出来てしまう、私です。 いつまでもしょうがない、私です。
お礼
再度、ありがとうございます。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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深い思索から、いろいろ、重要なコメント賜りましてありがとう。 でもNo.5の投稿者の補足は、孤独と、虜囚や環境上や外的条件での他律的隔絶とを概念区別ために、意識的に生きようとする者として、取り上げるべき孤独の特徴をピックアップしてみただけです。 それは単なる隔絶、刑務所、環境のなせること。などではない、意識と意図の自己保持の境域であり、満座の面前に対していても、この孤独を持せない(じせない)人間は相手にできないということです。 どこまで、自己を保持するか、静謐のなかで。ということです。 孔子が流浪中に、〔君子固より窮す。君子は給しても乱れず。〕といいます。 イエスが、一時迷いはあったが、泰然と十字架で自己に対する自己としての任務を遂行した。 山本宣治が妨害にあいながら、自己を捨てなかった。ガンディーも。 そういう自己の孤独の事を申し上げたつもりです。 いろいろコメントありがとう。 孤独をもてない人間にはなりたくない、私の願いです。
お礼
孤独の中で保持する自己。 自分と向き合い、対話し、意思や行動を導く独りの時間。孤高。 そんな孤独を失ってしまうのではないか、という焦燥感、あるいは、独りの時間が虚脱感や殺伐とした感情に支配されないよう、自分との対話を怠らない独りの時間を過ごしてみたい、私もそう思います。 色々なアドバイスをありがとうございました。物事を深く考えるきっかけになりました。(全ての意味を汲み取り、表現できているかは、分かりませんが…。)
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.3 補足: 孤独は主体的、意志的、意識的であると、定義することも可能かと存じます。 その定義の有用性は、わたしなどは文化や機会からの途絶、隔絶を小中と経ました。 孤囚なども類似ではあります。 先の定義はこの二者との違いを取り上げるときには有用性があるでしょうね。 いかがでしょうか?
お礼
孤独が、人や物に依存し、感情や感覚の支配下にあり、自分大の問題であることに対し、主体的・意思的・意識的なと言う考えは、自分を取り巻く社会、世の中から選び出した孤独・独りの時間という、意図的にも広大で生産的なものに思えます。 孤独に囚われることは、意識的に孤独の中の自分と向き合った時に、気付く感覚、なのですね。 論理・哲学的なことは、よく分かりませんが、物の見方は果てしなく、そこに付随するの物・事の正体や裏側には、目に見えない、または、頭で感じるような世界もあるのだと思いました。 補足を再度、ありがとうございます。
- booter
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http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A4%E7%8B%AC ただ人間の精神性において、孤独は必ずしもネガティブなものという訳ではない。ドイツの哲学者マックス・シュティルナーが「孤独は、知恵の最善の乳母である。」という格言を残しているように、孤独状態において人間は自分の存在などについて考えること(→哲学)を強いられ、その結果創造性、想像力などにつながると多くの哲人は結論付けた。このような精神の働きは心理学の側面から昇華と呼称され、文化や芸術における創作活動では、それから生み出された作品が数多く存在する。この中には、寂寞とした心理を表現したものから、より高次の存在を表したもの、または孤独によって増した愛情を更に濃密に描き出したものなどがある。 ---- 私見ですが、他者と接する事により生まれる生存の為の社会的協調や娯楽的快楽よりも、他者と接しない事により自分の心象を保つ方が心象内部で優先される場合に、孤独を選択するのだと思います。
お礼
孤独が生み出すもの、これは、確かにあると思います。 私自身も絵を描くのですが、それは、常に孤独に包まれ、自分を追及し、問いただし、底を探る孤独な作業です。孤独の苦行から生まれ、搾り出した色や形は、自分の世界観、信条の表れだと思っています。 孤独を選択しているのが自分であるのか、絵を描くなどの事象、事柄であるのか―考える要素はありますが、独りを感じる時に、自分自身とどう関わりあえるか、時間の流が、誰の上にでも同じ速度で流れる中で、孤独と言う自分だけの時間をどう濃密に過ごせるか、それが大切なのは、事実だと思います。 ご回答ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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東京生まれ、東京育ちで二十歳代のころ、同じ都内に一人で15年くらい暮らしました。男子だからということではないが、全部外食でした。 まぁあちこち徘徊したり、ちょうど60年安保の時期ですから、諸活動に明け、暮れていました。 それでもやはり、完全な生活には遠いのでしょう、いろいろな羽目外しをしました。 理念や目的がなくて独りというのは、生活としては欠落したところの多いものではないですか。 一定の思考と方針があって、renunciation、世捨てをしても、勝手な人(殆どの人)は心は人人人の中、家族や友人から離れることができないままではないでしょうか。 そういう中で生活しているのと少しも変わらない。ただ周りの環境が変わっただけの、世捨て人、renunciationというわけですね。 人は自己や孤独を確保できるか。多くの人はそれができない。人の弱さ。孤高、本当に維持できるか。 山本宣治、 〔山宣独り孤塁を守る。でも私はさびしくない。背後には大衆の支持があるから〕という国会本会議での演説。 では一方、真の本物の世捨て、renunciationは独りか、孤独か。 実は自分があり、そして信仰がある。 社会のどうでもいい付き合いからは離れられるが、人は孤独というのはもてない。 と私思っています。 気安さ・自由を感じるご生活の方は、家事やいろんな目上の方、いろんな義務が不断からある方は、そういう感じがとてもあるのでしょうね。 開放、解放って言う気持ちが。 反対に威張っている人、世話してもらっている人はそんな解放や開放の感じなんかない。 むしろ困るのではないでしょうか。そしてさびしがる。 要するに、どんな孤独、独りになるか。 どんな孤独を持てるか。 その人次第ですね。 そこにその人の偉さが出ますね。 孤独をもてない人が節操を、自己を生きる事はできませんよね。 素晴らしい人ほど、大勢の中に居て自己を孤独にもっていますね。 きちんと親切に人情を以って対応しながら。 そういうものだと思い、多くの方の孤独を学びたいと存じております。
お礼
どんな孤独、独りになるか。 なかなか難しいです。 仰る通り、人は、独りになり切れないのかも知れません。 独り、と一緒によく使われる言葉に、“紛らわす”と言う言葉があります。その場、その時に他の人がいない独りの空間でも、音楽を聞いたり、テレビを観たり、好きな本を読んだり、散歩をしたり… 自分と同じ人間がいないだけで、その他の物・事に依存している事は、確かだと思います。 自分の周りのもの全て(人・物・事象…)の一つ一つにどう関わりを持つか、どこに価値観・大切さを見出すか、何に依存するか、それによって、自分が独りと感じるとき、寂しかったり、気楽だったり、その他の様々な感じ方をするのかも知れませんね。 どんな孤独を持てるか、独りを選ぶかで、心の充実度は、変わって来るのかも知れません。 ご回答ありがとうございました。
頭で生きているか体で生きているかの違いではないでしょうか。頭の中では周囲に人がいてもいつも孤独です。一方体の方はほかの人と同じ環境にいますから孤独はまったくなくかえって煩わしいことが多いです。人はどんな人でも体だけで生きている人はいないので頭で生きている割合に応じてさびしいと感じるのではないでしょうか。逆にさびしいと感じた時に頭で生きているのではないかと思います。人間は両方必要なのではないでしょうか。
お礼
頭で生きること、確かに自分との対話・接触が多いし、自分の世界を謳歌できます。そこに集中していれば、寂しさを感じる割合は、少ないですね。 独りになった時の価値観をどこに持ってくるかによって、心に感じることは、正反対にもなり得る―気の持ちよう、とよく聞きますが、奥が深いのですね。 ご回答ありがとうございました。
- sunset-ti
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心理的にはわかりませんが・・・(すみません!!) 一人暮らしを4年ほどしていますが、 寂しさ:気安さ=7:3 といったところでしょうか。 夜一人でご飯を食べたりしていると寂しさ倍増です。何年たっても コレばかりは慣れません。 ただ、好きな時間に掃除したり、帰ってきたり気にしなくていい部分が多いのは気楽でいいのかもしれません。
お礼
独りでご飯、寂しいし味気ないですよね。 私も独り暮らしですが、割合は、sunset-tiさんの真逆、といったところです。 結構、独りを楽しんでます。人それぞれですね。 ご回答ありがとうございました。
お礼
人それぞれ寂しさを感じる環境が違う、個人の性格や生活のどの部分を重要視するか、他人とどの様に関わり合いを持ちたいか―寂しさを感じることを避けるために、自分を取り巻く状況を無意識的にも避けたり、選択したりしているのかも知れませんね。 しかし、寂しさ、と一言で言ってしまうとプラスのイメージはあまりありませんが、多くの物事が表と裏、多方面からの考え方があるように、寂しさのもたらす安息や自分を見つめる機会は、失くしてしまうと困るものなのでしょうね。 折角なら、独りの時間も楽しめるような充実した時間を過ごしたいと思いました。 ご回答ありがとうございます。