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「繰り返し」はなぜ場をしらけさせる?
どのカテゴリで質問すればよいか迷いました。以前から興味をもって いたことです。 ある場において、同じことが二度三度と繰り返されると、しらけたり 興醒めしたりします。 例えば (1)カラオケで同じ曲が二度続けて歌われるとか、 (2)結婚式のスピーチで同じ話題が二度繰り返されるとか (遅れて来た来賓が、そうとは知らず) (3)ひとつの文章のなかで同じ語句や表現が二度とくりかえされるとか 聞き手や読み手があきるからだと言われてしまえばそれまでなのですが 場合によっては耐えられないきまりの悪さを場にもたらしたりします。 これは万国万人に共通だと思います。 「繰り返し」はなぜ「しらける」のでしょう。 (ラベルの「ボレロ」のような繰り返しの面白さみたいなものもありますが) 科学的な話、哲学的な話、どんな観点でもけっこうです。お話をきかせて ください。 (この最後の1行も「話」が二度三度続く悪文ですね)
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「秩序と無秩序」「反復と創造」「期待と忘却」などの対立する概念がこの問題を解くための参考になると思います。 凡そこの世に初めてのこととてはなく、初めての事態に直面した場合であれ、その理解には過去の経験と、就中集団の過去の集大成である言語を必要とします。しかしながら、毎日の日の出は悠久の反復ではあれど、その光と暖かさは新鮮な感情を「常に」与えてくれます。 人の生は繰り返しを繰り返すことにより支えられており、「なぞり書き」の「重ね書き」とも表現されます。過去において経験された感動や喜びを、今一度味わうために私たちは幾度となく同じような経験を欲望して行為するのではないでしょうか。ここにおいては「期待」という主体的な契機が需要な意味を持ちます。つまり予め自分自身によってトレースされた道標に沿って現在を刻んでいく行為が、より深く感動や喜びを心に印象付けるのです。 翻って、他者の行為にあまり価値を見出せないままの受動的な経験はどうでしょうか。予め「期待」という自分自身での捉え返しがない経験は、記憶のトレースも浅くすでに「忘却」の波にかき消される運命を持っています。しかもそれが短期間に繰り返されるとしたなら...。 これでは、好ましくない記憶として短期記憶からこぼれるべき事柄を、改めて印象付けようとするメカニズムが自動的に働いてしまいます。この機能を拒否するための精神的な脱力が「しらけ」と呼ばれる事態に他なりません。 私たちには、自分にとって好ましい記憶は何度でも、譬え無意識にせよ反芻して記憶をより確かにし、好ましくない記憶は強制的に強いられるのを拒否すべき機能が、具わっているのだと思います。 こう言ってしまえば実もふたも無い「条件付け」のようですが、恋人たちの言葉と行為や興味の無い学問領域での勉強で、日々実感される事柄ではあります。
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- littlekiss
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いつも丁寧なお礼をかいていただいてありがとうございました。 トンチンカンな回答にも優しく言葉をかえしていただいてきたこと嬉しかったです。当面ここにこれなくなます。最後にちょこっとトンチンカンな回答に目をつぶっていてくださいね。では・・・あと少し・・・ デタラメではなく自然のなかにある繰り返しに心ときめかす。 同じ繰り返しでも「しらけ」ずに、官能すらおぼえること・・・・ そこには、あこがれや幻想をもつ人間の性分のような生き方がそうさせるのではないのでしょうか?デタラメを受け入れてしまうとあこがれや幻想を否定してしまう現実がそこにあるから・・・・ 孫悟空の物語がいつも頭に浮かんできます。 天竺という夢のような場所を求めて、彼らは旅をします。旅する中、いろんな出来事が彼らのゆく手に立ちはだかります、その都度彼らは、苦悩し、手探りしながら あこがれの地(天竺)に一歩近づくために問題を解決しながら一歩、一歩、前進しながらなにかを学んでいきます。どこまで行っても天竺にはたどり着けません。なぜ?天竺という夢のような楽園は実はこの世界には、もともとなかったのです。架空の場所だったのです。お釈迦様の意思によって彼らにその地を目指して旅をすることを・・・・旅の過程でいろんなことを経験しいろんな考えに触れ、今までの自分の狭い考えがどんどんひろがっていく。いろんな試練をのりこえ彼ら一人一人のこころのなかに楽園があることを気づかせようとお釈迦様はしたかったのではないかなぁ? 夢やあこがれや幻想をいだくことが性分なのも、これまた、生へのあこがれだとおもいます。現実(デタラメ)には、存在しない天竺(楽園)そのことをはじめから『ない』と、決めつけてしまうことは、生きることが虚しくなる。人の性分が、そのことを認めたくなくさせているようにもおもえます。 現実とあこがれの狭間で揺れ動く人のこころ、こころの葛藤がときとして、繰り返しによって場をしらけさせたり、させなかったりとするのではないでしょうか? あぁぁぁ・・・最後までトンチンカンでごめんなさい。
お礼
littlekissさん、ありがとうございます。 > 現実(デタラメ)には、存在しない天竺(楽園)そのことをはじめから『ない』と、 > 決めつけてしまうことは、生きることが虚しくなる。 「現実」は本当に「デタラメ」だと思います。人間ひとりひとりの生活、市場の動き、 社会の動き、動植物の営み、地球自体の自然活動、すべてが「ごちゃまぜ」状態でひし めきあっていますものね。それぞれが好き勝手に自分の「快楽」や「快適」を求めて 動こうとする。「豊饒の海」というべきか「無意志・無目的の大混乱・大乱雑」という べきか。これを解読・解釈・解明するのは科学なんでしょうか。哲学なんでしょうか。 いずれにしても「生きることは虚しくない」と信じたいですね。 > 当面ここにこれなくなます。 え? 旅行ですか。行ってらっしゃ~い! 洗濯ネットのコミュニティ、自由哲学塾万歳! 安らけく再会する歓喜を証し保ちたもう!
- littlekiss
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回答というよりも同時にわたしの疑問でもあるところなのですがね、いいですか? mori0309さんから頂いたお礼分の中で、>■まったく秩序やパタ-ンのない・・・云々のくだりありますよね。わたしもmori0309さん同様にそうおもっておりました。ちょっとまえまで・・・でねぇ、哲学のカテゴリ-中でstomachmanさんのあげられた『芸術ってなに?』をのぞいているうちに『感動』が芽生えるのは、ここで言われるデタラメの中からでも人の心の中に『感動』は、生まれてくるんじゃないかと勝手に思っている今日この頃です。人が感動するのに定義がいるのか?という素朴な疑問も同時にもち始めています。枠で囲んでしまうことじたいが矛盾しているように感じ始めています。デタラメでもその人が『素敵!』とかんじればそれが真実であり感動なのではないかと・・・またまた支離滅裂でなにを伝えたいのか自分でもわけわかんなくなってきたので、今日はここまでにしておきます。ちょっと大きく深呼吸してから書き込みさせてもらいます。お風呂上りのlittlekissでした。
お礼
littlekissさん、ありがとうございます。 > デタラメの中からでも人の心の中に『感動』は、生まれてくるんじゃないかと 「自然」と「デタラメ」と「人為的秩序」と分けて考えてみました。以下は私のかなり個人 的・主観的な芸術観(?)です。 雪山・紅葉・滝・河の流れ・夕焼け・草花・樹木。なぜかは分かりませんけど「自然」は 人のこころを癒してくれます。清めてくれます。「自然」は美しいです。 ところが「自然」のなかを「動物」がうごめくようになってくると、美しくなくなってきます。 草や木の葉を食い散らかす。花香る野に糞尿を垂れ流す。美しい砂浜に「デタラメ」な足跡を 残す。人間がいちばん「自然」を壊しますが、一方「人為的秩序」も生み出します。整然と した街並み、きれいに整えられた花壇、きち~んと整理整頓された家の中・机の上。 私の場合「人為的秩序」や「人工物」に美を感じることはあまりないです。無生物的デタラメ、 たとえば床に落ちて砕け散った皿とか、そういうものも面白いと思うことはあっても、感動 することはないです。「自然」は美しいと感じるのに、なぜ「デタラメ」はそう感じないのか、 不思議です。「自然」も無生物的デタラメに違いはないのに。滝の流れだって、無意味な繰り 返しにすぎない(かもしれない)のに、なぜしらけないのでしょう。逆に魅入られるのでしょう。 私は思いこみや決め付けが強いかもしれません。それが私の鑑賞眼を狭くしているかも。 (私の文章。ちょっと固いですね)
- mataza
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まずはそれが本当に「繰り返し」だからしらけるのか、という視点 から問いを立ててみたいと思います。カラオケにせよ、スピーチに せよ、果たしてまったく同じことの「繰り返し」なんてことがある のでしょうか。声の調子、音程、話しぶり、あるいは力点の置き方 等々。さらにはそれを見聞きする私たち自身の感情や体調だって、 なにも変化していないということがあるのでしょうか。 なによりも、私たちの日常そのものが、同じことの「繰り返し」で あるように見えながら、ちょっとずつ違っていて、季節の移ろいや 友人たちとの語らい、あるいは家族との触れ合いといったお馴染み のやり取りの中にも、その都度一回きりの変調・変化(事件・話題) を見つけては、飽くことなく楽しんでいるのではないでしょうか。 だとすると「繰り返し」そのものが「しらけ」の原因であるという 仮説はいささかあやしいような気がします。そこで、我が身を振り 返ってみるに、同様の体験をするのはどんな時だろうかと考えてみ ました。 ○行為者(歌い手、話し手、演じ手など)に関心がない ○行為内容(歌、話題など)に関心がない ○行為に発展性がない(一方通行のやり取りである) いずれについても、いえることは「次」への期待がないということ でしょうか。別な言い方をすると、互いに影響を与え合っていない ということでもあります。他者との接触による刺激は「私」自身を も変えていきます。それがコミュニケーションの快楽であるとする ならば、まさしく接触の欠如=話し手と聞き手(あるいは唄い手と 聴き手)のすれ違ってしまうような状況こそが空虚さ(しらけ)を 感じさせているのかもしれませんね。
お礼
matazaさん、回答ありがとうございます。 > 行為に発展性がない。(一方通行のやり取りである) > 「次」への期待がないということ、互いに影響を与え合っていないということでもある。 > 他者との接触による刺激は「私」自身をも変えていきます。それがコミュニケーションの > 快楽であるとするならば、接触の欠如のような状況こそが空虚さ(しらけ)を 感じさせて > いるのかもしれませんね。(文章を要約させていただきました。mori0309) このお考え、まったく同感です。人間や社会というものの本質を、ズバリおっしゃっておられる のだと思います。接触交流不可能なもの、互いに影響を与えあうことが不可能なもの、それを 人は「生きている」とは感じない。ロボット犬も人工頭脳も「生きて」いない。宗教の教義に 洗脳されている人や、マナーやルールに忠実すぎるマニュアル人間も、生きているとは感じ られない。(あ、話が別方向にいっちゃいますね) 人間にとって「マンネリ」や「紋切り型」はコミュニケーションのとれない異物なのではないで しょうか。littlekissさんへのお礼のなかで「「死んだ状態」に同調させられてしまう」という 表現をしましたが、正確には同調ではなく、こちら側の「生きたリズム」が殺されて「死んだ リズム」にされてしまうということです。 > 「繰り返し」そのものが「しらけ」の原因であるという仮説はいささかあやしいような気が > します。 私は人間の脳のメカニズムのなかにマンネリやワンパターンを不快に思う生得の感情機能が あるのではないかと想像しています。 (感情機能というよりも、それが人間(生物)自身の本質(すなわち自由)そのものなのでは ないでしょうか)
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
うぅ~ん?mori0309さんがこの質問をあげられたのは・・・・・実のとこ、この質問からなにかmori0309さんが考える(知りたい)別のなにかがあるのではと?深読みしてしまうのはわたしだけでしょうかぁ-?ニャハ―☆何の参考にならない意見でもよいのであれば、私的意見をかかせてもらいますね~♪ 『繰り返し』はなぜ場をしらけさせる? この質問を目にしたとき真っ先におもった要因が、『感情』(好き、嫌い)から生れるものではないかと?例えば、好きな相手(or興味のある話など)から送られる言葉なら言葉を受け取る側も耳を傾けようとしますし、聞く姿勢がそこにあります。反対に好きではない相手(or興味のない話)から送られる言葉なら、言葉を受ける側は耳を傾けませんし、もしかすると送られてきた言葉自体受け取る手前で遮断してしまうことも考えられます。その点から考えて、同じことを話しても場がしらける場合としらけない場合があるということです。これを集団心理に置き換えて考えてみて下さい。これは楽しいことと集団のなかで個人個人に意識の中にそう思い込ませられていた場合ほんとうは、さほど楽しいものでもないのに楽しいと思い込んでしまう。自分にとっては、このさほど楽しいことでないものをいつの間にか楽しい=好きという感情を芽生えさせられる。意識のすり替えが働くなんてこともあります。この意識のすり替えによっても繰り返しは、場をしらけさせることができると思います。と、このように考えるのですが・・・こんなのでmori0309さんがお知りになりたいことの手がかりの一つになりましたでしょうか?余計な書き込みになってしまっていたらごめんなさい。
お礼
littlekissさん、いつも回答ありがとうございます。 > mori0309さんが考える(知りたい)別のなにかがあるのではと? ■科学カテゴリで「音楽は何故人に感動を与えるのか?」という質問が出ていますが、 私の質問は訊き方が逆なだけで、実はこれと同じなのです。科学の部屋ではmotsuanさんが 「「ボレロ」を(機械的に)完全な周期で演奏されると気持ち悪い」という話題を 出しておられます。ワンパターン・マンネリ・紋切り型の連続は、人に、うんざり感を 与えます。それはserpent-owlさんがおっしゃっている「定常的なパターン進行」で あり、無防備でいると「死んだ状態」に引きずりこまれて(同調させられて)しまいそうな 感じがします。であるから人は「機械的繰り返し」に「しらけたり嫌悪したりする」という 生得の感情機能を持っているのではないかと思います。 ■まったくパターンや秩序のないデタラメ・チラカリ・ゴチャマゼにも人はうんざりします。 ワンパターンでもデタラメでもなく、秩序と無秩序の絶妙な均衡点(というよりも両者の 対立的(?)緊張状態。まさに「カオスの縁」)にあるもの、またはその状態に、私たちは美や 生命感を感じ「感動する」のではないかと思います。 ■私は「生きている」ということは「カオスの縁の状態にある」ということと同値である ように思っています。「いのち」も「こころ」も「美」も「カオスの縁」そのものではないで しょうか。 以上、まったくの素人考えです。 科学の世界の概念を、すぐ文学的に解釈してしまうmori0309です。大ハズレだったら どうかご指摘をお願いします。 > 余計な書き込みになってしまっていたらごめんなさい。 とんでもないです。トンデモなのは私のほうです。
- takashin
- ベストアンサー率45% (23/51)
確かにmori0309の言う通りしらけますよね。 特に(1)のカラオケなんか、始めに歌った人も気分悪くするでしょうし、 「貴方の歌唱力では、まだまだ!この曲はこう歌うのよ!」みたいにしかとれないですしね。嫌味にしかとれません。マジしらけます。 でも、(2)の場合同じ話題でも、話の上手い人が別の角度から話せば全く違う 話にも思えたりすると思うんですが・・・逆に面白かったり役に立ったり。 ラジオとかでもある"マンスリーなんとか""ウィークリーなんとか"で同じ曲を 一日に何度も聞かされるのも「またか!」って思ってたとえ良い曲でも嫌いになる事もあります。この「またか!」「もうえぇっちゅうねん!」がしらけさせる原因ではないでしょうか? (3)の場合僕は"しらけ"よりも"強調"ととってしまいますね。 でも、ラブレター等では、逆にいやらしくしつこくとれたりしますね。 回答とは言えませんが、僕の思った事を書かせていただきました。
お礼
takashinさん、ありがとうございます。 やっぱり繰り返しやワンパターンに対する「またか!」「もうえぇっちゅうねん!」と いう気持ちはみなさん同じなのですね。私は新聞の社説なんかにもそういうものを感じる ことがあります。「何という紋切り型の与党批判!・世相批評!」 (社説なんかほとんど読まれていないようですけど) マンネリを嫌うというのは人間や社会だけでなく、広く自然現象の中にも見られる、 進化や発展のための原動力ではないかと思っているんです。進化という言葉が不適切 ならば「つねに幅広い多様性を保つための」とでも言いましょうか。これは結構 自然の奥深くに秘められている真理法則ではないかと勝手に考えています。
- raidou
- ベストアンサー率21% (7/32)
私の個人的な解釈では「その場の雰囲気を読めない人(事)に対する、きまり悪さ」ではないかと思われます。 mori0309さんが言われるように、繰り返しが心地よい場合とよくない場合があります。具体的な例で考えてみますと。 カラオケの「マイウェイ」や結婚式の「てんとう虫のサンバ」は、TVでギャグにされる程、場をしらけさせる典型だと思います。これらは同じ場で繰り返された時だけでなくても、ただの一度でしらけを生み出します。 しかしながら、ある友人グループ内においてはギャグとしてマイウェウを歌う事が、逆によしとされるかもしれません。その場合であっても二度三度と繰り返すことは喜ばれなくて、しらけを生むでしょう。 この違いは何か? その場の人々が繰り返しを望んでいるか否か、ではないでしょうか。 一般論に広げると。 カラオケやスピーチが繰り返されたことを喜ばない聴衆がいて、それに気付かない歌い手、話し手に対する「勘弁してくれよ~」という気持ち。それこそが”しらけ”なのではないでしょうか。 遅れて来た来賓が、そうとは知らず不評を買う場合も「結婚式にありがちなスピーチだって気付かないかなあ~」的な感想がわくからでしょう。その来賓にとっては誠に理不尽ではありますが。 ちなみに私は毎年、春になってキャンディーズの「春一番」を聞くとウキウキします。日に何度聞いても嬉しいです。しかし友人は、しらけ顔。 受け手の気持ちしだいという良い例ですね。
お礼
raidouさん、ありがとうございます。 > カラオケの「マイウェイ」や結婚式の、、、、、場をしらけさせる典型、、、 これはマンネリとか紋切り型とかワンパターンと呼ばれるものですね。 どうして人間はそういうものにウンザリするのでしょうか。どうしていつも 新しくて面白いものを求めるのでしょうか。「どうしてそんなこと考えるの?」 とたぶん思われるでしょうね。私は、何か、「人間」「時間」「場」という 切り口から深い考察ができるような気が、しきりにするのです。 > 「勘弁してくれよ~」という気持ち。それこそが”しらけ”なのではない > でしょうか。 なぜ同じことの繰り返しが我慢ならないか。記憶や「精神形成・精神維持」の メカニズムなど、脳のしくみやはたらきと深い関係があるように思うんです。 > 春になってキャンディーズの「春一番」を聞くとウキウキします。 実は私も中高生のときに好きだった当時のヒット曲を夜中にこっそり聴くことが あります。カラオケでそんなの歌ったらホントに浮いちゃいますもんね。
お礼
Lanternさん、回答ありがとうございます。 > 好ましくない記憶として短期記憶からこぼれるべき事柄を、改めて印象付けようとする > メカニズムが自動的に働いてしまいます。この機能を拒否するための精神的な脱力が > 「しらけ」と呼ばれる事態に他なりません。 記憶してもしょうがないことに意識を集中させられてしまうことへのいらだちなのでしょうか。 人が何かに意識を集中するということは、「日記帳」の新しいページへの意志的な書きこみ なのでしょうね。「メモ帳」への無意志的な垂れ流され的書かれこみではなくて。 > 私たちには、自分にとって好ましい記憶は何度でも、譬え無意識にせよ反芻して記憶をより > 確かにし、好ましくない記憶は強制的に強いられるのを拒否すべき機能が、具わっている > のだと思います。 時間と人間。歴史と人間。かけがえのない自分史。時間の流れとそのなかでの経験を 自分の記憶に織り込んでいくということは、自分を創っていく、自分が創られていく、 まさにそういうことなのだと思います。とすると自分とは過去の記憶の総体なのでしょうか。 脳機能のハードでもソフトでもない、記憶の大樹が「私」なのでしょうか。 (またみなさんに「いくつもの部分に分けてどれが本当の「私」かを問うなんてナンセンス」と 言われそうです) (「円周率」のお礼が遅れていて申し訳ありません。思索がどうどうめぐりしていて、、、)