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三成は信長を見たのでしょうか?

素朴な質問で申し訳ありません。 三成(石田三成)は信長(織田信長)を直接に見たことがあるのでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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  • buchi-dog
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回答No.3

「三成(石田三成)は信長(織田信長)を直接に見たことがあるのでしょうか?」 の答は「イエス」でしょう。既に回答があるように 「信長が秀吉の小姓である石田佐吉の顔を知っており、秀吉から『上様、拙者の小姓で将来有望なものがおります』と話を聞いていた」 可能性は十分あるでしょう。 ただし、信長は三成の名前を知らなかったでしょうし、両者が会話を交わした可能性は少ないです。 石田三成(1560年生)より少し年上の蒲生氏郷(1556年生)がいます。 この二人は当時から優れた人物と定評があり、現代まで名を残していますが、「出自」と「信長の生前の、織田家での地位」が大きく違います。 石田三成:近江の地侍の子らしい。父親の身分が定かでなく、庶民の出身と当時から認識されていた秀吉よりは良い生まれと言う程度。秀吉に召抱えられて、秀吉が織田家の部将から本能寺の変、その後の幾多の戦いを経て天下人になる過程で世に出た人物。 ※ 参考文献:石田三成 PHP新書 小和田哲男/著 http://www.amazon.co.jp/dp/4569554423/ 蒲生氏郷:近江の国人(小大名)の子。蒲生氏は古くまで由緒を辿れる家柄。父の蒲生賢秀は元は南近江の大名の六角氏に出仕していたが、信長の勢力が近江に及んだ時に織田家に出仕した。(1568年) この時に氏郷(当時は鶴千代)は臣従の証として信長のもとに行き、器量を見込まれて信長の実の娘の冬姫の婿となった。(冬姫は1561年生、この時は7歳ですので、実際の婚儀はもっと後と思われます) 当初から信長に目をかけられており、世に知られていた人物です。 信長が死んで世の中が激動する中、一度も行動を間違えずに秀吉の下で働き、 「秀吉政権の奥州管領、会津90万石、宰相(参議)」 の地位まで昇ったのは立派です。

prematu2002
質問者

補足

ありがとうござした。 よくわかりました。

その他の回答 (2)

  • 500416
  • ベストアンサー率34% (15/43)
回答No.2

当然見たことはあるでしょう。 十代の頃から小姓として秀吉に仕えている三成が信長を直接見たことがあるのは当然であり、秀吉が中国攻めの司令官になる頃には信長も三成の顔くらいは知っていたはず(名前は覚えられていないかも)です。秀吉が信長の命令で中国攻めに赴いた時は三成も従軍し、すでに秀吉の身近で力になってましたから。若い頃から頭が良く秀吉に可愛がられてた三成でしたので、おそらく信長は秀吉から「こいつは英才で将来有望な若者です」とか評判くらい聞いていたでしょう。 しかし信長が健在だった頃の三成は織田家中ではまだ下っ端の若手武将だったので三成が信長に話しかけるどころか近くで見ることもなかなかできなかったでしょう。両者はまともに話した事がないかもしれません。

prematu2002
質問者

お礼

ありがとうございました。 なるほど。

  • a-koshino
  • ベストアンサー率23% (102/441)
回答No.1

秀吉の小姓でしたから、秀吉がお目見えするとき、遠目に見る機会はあったかもしれません。 馬ぞろえや相撲大会など、信長主催のイベントの際も、遠目に見ることは可能でしょう。

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