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昔の時刻はどうやって?
以前の履歴で探しましたが「不定時法」を使用していたのは理解しています。ですが一般庶民がどうやって互いに時刻を伝えたり、把握していたのかいまいち釈然としません。どなたか教えてください。 ・「寺の鐘」で時刻知らせていたようですが、あちこちの寺から微妙にずれた鐘の音が聞こえてきそうですし、お寺の人たちはどうやって鐘を打つ時刻を決めていたでしょうか。(夜中も鐘を打ち続けていたのか)それに町や村から離れている場合、必ずしも聞こえるとは限りませんよね。 ・「日の傾き」はある程度の感覚なら分かるかもしれませんが、半刻とか四半刻なんてわかりませんよね。またいつも太陽や月が見えているわけではないし・・・。 ・互いに待ち合わせや、約束の刻限などは上の2つが曖昧だとかなり時間差が起きそうなんですが・・・。
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こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 江戸の石町の時刻・・・時の鐘に関しては、NO2の方の説明が、ほぼ正しいでしょう。 ただし、1年間48文ではなく、1ケ月1文では? では、田舎や他の都市では?と、言うと、 (1)寺では、朝、暗い内に起きて読経などをしますので、太陽が見え始めたら「明け六ツ」の鐘を突き、太陽が地平線に隠れ始めたら「暮れ六ツ」の鐘を突きました。「不定時法」ですね。 (2)後は、「蝋燭」に目盛がついている「蝋燭時計」。 (3)線香時計。 (4)お香の燃えることで知る「お香時計」。これは、くねくねと曲がった溝にお香を均等に入れて、目盛がついており、燃えていくことで時刻を知る。 (5)古いものでは、西暦671年6月10日に水時計(「漏刻」といいます)を天智天皇が作ったとされ、現在の時の記念日になっています。貯めた水を細い口から排出させてその量から時間を計るものです。 (6)また、時計も西暦700年頃、中国を経て日本の朝廷へ贈られています。しかし、歯車の技術が日本にはなかったため、戦国時代になって南蛮貿易で「歯車」が輸入されるまで「模造品」は作れませんでした。 (7)まあ、庶民が時刻を知る最大の方法は、太陽が昇れば「明け方」。太陽が真上にくれば「昼」。太陽が沈めば「日没(夜)」の感覚だったようです。ただ、雨や雪、曇りの日などは、「腹時計」でした。 >>・互いに待ち合わせや、約束の刻限などは上の2つが曖昧だとかなり時間差が起きそうなんですが・・・。 確かに、おっしゃる通りですが、 例えば、農村などでは、共同作業(神社の草取りなど)をする時は、「朝方」などと決めましたし、集会などをする時も「陽が暮れたら集まるべえか」と、言うように、大変「おおざっぱ」な決め方でした。
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- tanuki4u
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私の祖母は、1901年生まれで、100を越すまで生きていた。農家でして、祖母の家には動かない記念物のような壁掛け時計しかありませんでした。 これが、40年くらい前。 時計のない世界に暮らしていました。 遊びに行くと、 昼には帰ってこいとか、夕ご飯には帰ってこいという時間感覚しかなかったですね。祖母は。 ソレで十分農家はやっていれたようです。 明治になって時計屋が増えるのと、鉄道が施設されるのは関連があったそうです。時間通りに動く鉄道を見て、分単位の時計の意味を知ったとのこと。
- 川原 文月(@bungetsu)
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NO3.です。 >>歴史小説が好きなので、文中でよく「あと○刻もあれば~まで着くだろう」とか「○刻前に見かけたな~」など個人の中に「時刻の感覚」がよく登場するのが不思議でした。 確かに、私の小説などにも、 「小半刻もしてから、やっと、自分を取り戻した」とか 「二刻余りも死闘を繰り広げた」 などと書きますが、要は、それ位の時間がかかった、という意味で使われている・・・と、解釈してください。 >>「あと○刻もあれば~まで着くだろう」 これに関しては、旅人は、ある程度、怪我でもしない限り、自分の1日で歩ける距離の感覚がありましたので、真向かいから来た旅人に、 「この先の宿場までは、どれくらいでしょうか?」 などと、聞いて、聞かれた方も、男足と女足の違いはありますが、 「まあ、1刻ぐらいで次の宿場に着くでしょう」 などと、情報交換をしたりする場合もありました。
お礼
詳しく説明してくださりありがとうございます。 1刻=約2時間で、四半刻などという表現も目にするので、最大その程度の時間間隔なのでしょうね。 小説がんばってください。
- misa-on28
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当時の大都会であった江戸に関して言えば、標準時は「石町の時の鐘」で、日本橋に近い本石町に合って、一日12回時報の鐘をならしていました。 後に江戸の市街地が広がるとこの時の鐘が聞こえない場所も増えたので全部で9か処に時の鐘をつく場所が増えました。ただしこれは石町の鐘の音が聞こえてから打つ「撞き流し」と言うことをしたそうです。 ですからあちこちから微妙にずれた鐘が聞こえる地域もあったでしょうね。 ただし、元になる鐘はひとつですから、ずれたとしても大したことはなかったと思われます。(特に石町の鐘は捨て鐘として3回ならして4回目に時報の鐘をならしますから、撞き流す方も「ぼちぼちだな」と準備することはできたでしょうね。) 石町の鐘は今で言う「民営」事業で、辻源七と言う人が時の鐘が聞こえる範囲から一年48文の鐘役銭をとって運営していたそうです。 この石町の鐘を管理するためには時計が使われていたそうです(経費の記録に時計磨き料と言う項目がある)。 江戸時代には不定時法に適応するよう改良された「和時計」と言うものがあり、昼夜の長さの変化をメカ的な調節で正しく表示することができました。 時計での管理ですから夜でも時間が分かると言うわけですね。 和時計は、大変高価な代物ではありましたが、お大名の家中で城内に公式の時間を知らせるために使われたそうです。 ただ、ある程度時間厳守が必要な武家の家臣や、商売の人々以外はやはりあまり厳密な時間を必要とはしていなかったでしょう。 特に夜になりますと行灯とか灯明ではほの暗く、とても現在のように夜に書類仕事などすることは難しかったでしょうから、ほとんどの人は日が暮れると早めに寝てしまったので、現在ほどの時間管理は不必要だったと思われます。 待ち合わせなどは大体こんな時間かな、、で鐘がなったら刻限、と言うくらいでもよかったんでしょうね。 ※参考として 石川英輔著「大江戸テクノロジー事情」などに和時計と時報の件が詳しいです。
お礼
なるほど。江戸の町の様子はよくわかりました。 ありがとうございます。基準の時計や鐘があったのですね。 農村部などでは、それこそ曖昧な時刻の感覚だったのでしょうね。
- eroero1919
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それはね、現代日本人の時刻感覚で判断するからそうなるんです。アフリカあたりじゃ1時間の遅刻は遅刻のうちに入らないそうです。 現代でも、発展途上国じゃあ時計を持っていない人たちは大勢います。そういう人たちも別に問題なく暮らしているわけです。こういう人たちは2時間や3時間も「誤差のうち」です。そういう国ではレストランに入って注文して1時間くらい経ってから「じゃあ、これから食材を買いに行く」なんてなるそうで、だから「腹が減ってからレストランに行っては遅い」そうです。
お礼
回答ありがとうございます。 時刻にこだわらないという感覚は想像できますが、わたしの聞きたいことの答えでは・・・。 実際のくらしの様子を知りたかったので質問しました。
お礼
江戸の町の様子以外も教えていただきありがとうございます。 歴史小説が好きなので、文中でよく「あと○刻もあれば~まで着くだろう」とか「○刻前に見かけたな~」など個人の中に「時刻の感覚」がよく登場するのが不思議でした。 (それが実際の生活にあったかどうかは謎ですが) 江戸の町は基準の鐘で、農村部は太陽でおおよその時刻を知ったというところでしょうか。スッキリしました。