- ベストアンサー
昔の戸籍について
ウィ○ペディアを見ると、 >1948年(昭和23年式戸籍) >「華族」や「平民」などの身分事項の記載は廃止された。 とありますが、これはそれ以前まで身分事項は記載されていたということですよね。実際この時代に生きた華族・士族・平民の人は自分が戸籍の身分事項に何と記載されているのかは知っていたのでしょうか? 祖先の身分について調べているのでよろしくお願いします。
- みんなの回答 (4)
- 専門家の回答
質問者が選んだベストアンサー
こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 次のサイトで詳しく解説され、戸籍の見本も掲載されていますが、 ・明治5年式戸籍(壬申戸籍)。 ・明治19年式。 ・大正4年式。 ・昭和23年式。 ・平成6年式(コンピューター登録の実施)。 に分かれます。 http://1st.geocities.jp/edenno2/kosekinorekisi.html この内の「壬申戸籍」と「明治19年式戸籍」には、「身分」が書かれてありますが、 「明治19年式」では、「新平民」は皆「平民」に統一されました。そして、その中でも、「農」「商」「工」などと分類されました。 「大正4年式」では「身分」は記載されなくなりました。 壬申戸籍は、昭和43年まで閲覧できましたが、「新平民」(江戸時代には、「非人」や「穢多(えた)」と呼ばれた人たち。)に対する差別、例えば、大企業での(中小企業あたりさえも)採用取り消しや公務員への採用取り消しなどが発生したため、昭和43年に「壬申戸籍」は、各地の法務局の金庫に封印、厳重保管され、現在では、決して見ることはではません。 しかし、昭和43年まで、誰でも閲覧できたため、また、役場の戸籍係でさえ「新平民」の欄に折り目をしたり、付箋をしたりして「差別」をしましたので、それが、今日の「部落開放」とか「同和問題」につながっているのです。
その他の回答 (3)
- tetu2004
- ベストアンサー率10% (17/162)
私の母とその兄(叔父)は確かに士族で戸籍には記載されていたそうです先祖は徳川旗本です。でも現在は勿論戸籍をとってもそこの欄は空白です。 結構就職とかに有利だったと聞きました
お礼
やっぱり旗本ともなると違うんですねー。 ありがとうございます。
- 安房 与太郎(@bilda)
- ベストアンサー率27% (228/822)
四民から市民へ ~ 士農工商・皇公華平・華士平新 ~ 1.学歴 約百十二年前の卒業証書には「平民」と明記されています。 (当時の高等小学校は、現在の中学二年にあたります) ── 《修業証書 188306‥ 生(満13歳)18970323 発行》 >> 修業證書 □□県 平民 □□ □□ 明治十六年六月生。 高等小学校第二学年ノ課程ヲ修業セシコトヲ證ス 明治三十年三月廿三日 □□郡高等小学校(印)第八七号 << 2.職歴 ── 愛媛県越智郡今治町大字本町131番戸 平民 重見 周吉 ── 《修学履歴書 186811‥生(満25歳)189307‥ 記》 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/yoshidat/rirekisho.htm >> 承諾書 兵庫県出石郡資母村字阪津五番地 平民 女應募者 細井 としを 明治三十五年五月五日生 右今般貴会社定期雇工員トシテ募集ニ応ジ満三ヶ年 以上勤続セシムル事を承諾候也 右 親権者 細井 和喜蔵(印) 大正十二年十二月十二日 東京モスリン紡績株式会社亀戸工場 御中 ── 《承諾書 19020505 生(満21歳)19231212 発行》 ── 右の承諾書さへ出せば募集人は仮証引替に直ぐ金を貸す。而して 上京入社してから本証文を一札入れるのであるが「支度金」といふ体裁 のいゝ名前が使ってある。 ── 細井 和喜蔵《女工哀史 192502‥改造 19540725 岩波文庫》P80 細井 和喜蔵 労働運動 18970509 京都 東京 19250818 28 /毎年0318追悼祭 << 約七十年前の戸籍謄本では、「族称」欄が空白です。 ── 《戸籍謄本 19390729 □□郡□□村長 □□ □□(印) つぎの「召集令状」にも、身分呼称は見あたりません。 3.軍歴 松本清張は「軍隊には貧富による差別がなかった」と回想しています。 しかし、それでも消えなかった身分差別を、くわしく論証しています。 ── 《昭和史発掘 02 北原二等卒の直訴 19650118-0301 週刊文春》 北原 泰作 人権運動 19060101 岐阜 19810103 75 /19271119 直訴事件~《賎民の後裔》 http://images.google.co.jp/images?q=%E8%B5%A4%E7%B4%99&sourceid... ↑赤紙=召集令状 ↓百聞一見 ~ 国家から国民へ、兵士から家族へ ~ http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4890233.html (No.4) 4.墓碑 森 鴎外(林太郎)軍医総監 18620217 島根 東京 19220709 61 /文久 2.0119 ── 「石見の人・森林太郎として死にたい」との意思は二回繰り返さ れている。「宮内庁・陸軍のあらゆる扱いを辞すること、栄典は絶対に 取りやめること」などの記述から、作家森鴎外を否定したものではなく、 森家の家長・陸軍軍医として家と国家の重責に堪えた鴎外の、死後の解 放を望む思いだったのだろう。墓には「森林太郎墓」以外の一字も書か ず、書は中村不折に依託する、ということも指定されている。 http://www.geocities.jp/mts_cafe/bunsan_mitaka1.html 森鴎外遺言碑(画像) ~ 三鷹・井の頭文学歴史散歩 ~
お礼
ありがとうございます
下記ページのサンプルをごらんください。 ↓ http://www.keizu.org/koseki.html >戸籍の歴史と種類 明治期の書式に族称の記載欄があります。 他家から入籍した人(妻など)の場合、その親の族称も記されていたようです。 今どきは、族称記載を隠蔽した謄本しかもらえません。 知りたければ、ほかの資料(もしあれば、ですけど)を見るしかないのです。
お礼
ありがとうございます。
お礼
身分は大正時代に記載されなくなったんですね。 ありがとうございます