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「伝統」はそれだけで売りになること
歴史的建造物とか、道具とか、地域が伝統色を残しているその地域全体とか、歴史的遺産とか言うことで、観光資源あるいは骨董的価値になっていますよね。でも、それが現役のころは、まったく自然に役目を黙々とこなしていた建造物であり道具であり地域であったのです。それが、その歴史が終わって、現代から切り離された歴史的な存在になったところで、いきなり観光資源や骨董という日常性からはなれた第2の価値が付与されるというのは、なにか腑に落ちないもの、なぜなんだろうという疑問を感じるのですが、自然なことなのでしょうか。 それから、歴史的威光に感じる、郷愁感とか安堵感、あるいはその壮麗な感じとかの情緒感というのは、先天的なものなのか、あるいは歴史的な流れで現代の感覚からそうなっているのか、どうなのでしょうか。たとえば、古い駅舎にSLが来るなんていうのは、どうもそれ自体で郷愁、あるいははまった風景、あるいはなにか情緒感あふれるという雰囲気をかもし出す、当時はそれが普通だったのに。それは、普通でなくなったからその感覚があるのか、あるいは普通だった当時から情緒はあったのか? 現代現役な「今」を感じさせるものも、将来的にはそのような歴史的遺功になるものでしょうか?
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ノスタルジーとか思い出とか歴史的な価値とか、いろんな価値基準があるのです。 歴史的な価値というのは、現在と地続きです。今の文化の基礎となった物を学びたいという気持ちが価値に繋がります。 古いものはどんどん無くなるので、現存している物は希少価値が産まれます。 中途半端に古いとただの中古品で価値が落ちるだけ、それが時を経ると骨董品となり価値が産まれます。 とはいえ、それを価値があると考える人が少なければ、古くて良い物でも価値は高くなりません。 おもちゃなんかは「思い出」で価値が出ていますね。 その思い出を持っている人が購買層からなくなれば、価値が一気に下がることもあるでしょう。 私が小学生のときに現役だった聖徳太子の紙幣や、五百円札はその額面を上回る価値が出ていますね。
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- nomori
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「伝統(tradition)」と「骨董(Antique)」とは、少し言葉の持つ意味が異なるかと思います。 まず、「伝統」は主に近代以降の概念と言うこと。端的な説明になりますが、民族の独立が叫ばれるようになって初めて「伝統」という概念が出てきたことになります。 民俗学/民族学(文化人類学)が起こったのも、近代(日本だと近世中盤からになりますが)というわけです。 「民族主義」「植民地主義」などでググるだけでも、「伝統」という言葉の危うさがわかると思います。だから、 >先天的なものなのか、あるいは歴史的な流れで現代の感覚からそうなっているのか 先天的なものではまずないです。「SLは懐古的なものだ」という認識があるから、SLに郷愁を感じるのであって、大人が感じるようなわびさびを3歳児が覚えることはあり得ません。後天的に植え付けられた歴史的な価値観念が、「ここは伝統があっていい」という差別化をはかるのです。 「骨董」的な値打ちは価をつけることが可能ですが、「伝統」的なものに価をつけることは不可能ですし、するべきではありません。選民思想に他ならなくなりますから。よく考えてみましょう。 私の国は○○という伝統があってすばらしい。 ↓ それは他の国にはないものだ。 ↓ だから私の国はすばらしい国だ。 ↓ 他の国は私の国より劣る。私の国はほかより優れている。 このような思想の下敷きになっているのが「伝統」です。なので、最後の問いにある、 >現代現役な「今」を感じさせるものも、将来的にはそのような歴史的遺功になるものでしょうか? もしそれが将来において政治的に「利用可能」であるならば、じゅうぶんあり得ます。ただ骨董趣味にうけるだけならば、骨董として値がつくだけでしょう。それ以外はがらくたです。でもがらくたの定義もわかりませんね。先日某博物展に行ってきましたが、「こんなものまで国宝か」と思えるようなものさえ、ご丁寧に陳列されていました。ちなみに、「伝統」を象徴するものが国立・王立博物館でしょうね、国の宝を展示しているわけですから。他国に対する優位性のアピール以外の何物でもないです。まあ、それが文化財の保護にもつながりますから、研究的にはありがたい面もありますね。 以上はすごいかいつまんだ話になります。この「伝統」の概念については多く思想書に説かれるところですから、いろいろあたって見られると良いかもしれません。(ですがこういう学問が流行ったのは一昔前です) ここまで書いてなんですが、私は右でも左でもありません。(笑)
お礼
政治的価値を付与するというような、「美」とは違ったもので尾ひれをつけて価値化するというのは、実に不順なことですよね。しかし、世の中往々にそういうものがあります。そこには金の流れがあります。人の本当の美意識に封印をして、一定方向に差し向けるような策動扇動がありますね。
なるほど。たしかに不思議な感じがします。 ひとつには元々その中に美しさが無かったら価値は見出しにくいと思います。 もうひとつはそのものが重要かつありふれた機能を担っているとその機能や実用の方にばかり頭が行ってしまって観賞すべき物として捉えていないのではないでしょうか。 機能や実用と切り離されてしまってはじめて物として展示されるようになる、そうなると今まで機能に従属している物としか思わなかった形態が形態として目に飛び込んでくるのではないでしょうか。 ノスタルジックな物は情緒に訴える物を最初から豊かに持っているのだと思います。 例えばSLは音とか律動、匂い、量感など官能的な要素を多く持っています。 古い駅舎などは最初からそういうねらいを意識してデザインされているのだと思います。移動効率やいかに人を集めるかという商業の拠点の象徴ではなくて出発とか到着を象徴する場所・地点としてのデザインが重要だったのではないでしょうか。 ノスタルジックな物には最初から過剰なまでの思い入れのようなものがあり、そういう物に込められた価値観を懐かしむ面があるのではないでしょうか。
お礼
もともとの、美的価値ですよね。そういうものはやはりあると感じます。形態そのものに存在そのものに、あるものはあるしないものはない。それは、機械的大量生産の要素が大きいほど、機能的要素のみ突出しているものほど、何も感じられません。 思い入れがあること、そういう価値観を持って作られたものがすでに歴史的な物としか残らなくなったのではないでしょうか。
こんにちは。 >現代から切り離された歴史的な存在になったところで、いきなり観光資源や骨董という日常性からはなれた第2の価値が付与されるというのは、なにか腑に落ちないもの はい、たしかに。 全てのものに対し「単に歴史を経たから」という理由だけで二次的価値を賦与するのは、「違和感を感じる人には酷くそれを感じる」でしょうね。 主観的な「こだわり」と申しますか、「審美眼に叶う」「学術対象である」等など、「遺す維持費」も勘案して、様々な観点から検討に値するものかと思われます。 >歴史的威光に感じる、郷愁感とか安堵感、あるいはその壮麗な感じとかの情緒感というのは、先天的なものなのか、あるいは歴史的な流れで現代の感覚からそうなっているのか、どうなのでしょうか。 やはり「現代の感覚とのタイム・ラグ」の面白さと「希少性」は魅力的ですよね。 例えばアンティーク・ジュエリーなどの伝統的手工業の場合、今から100年ほど前のエドワーディアンのスタイルに見られる、当時のミル打ちといった細かい手作業や貴石、半貴石のカッティングなどは、現代の「洗練された技術や垢ぬけ感」とはまた別の大量生産物にはない「温かみ、ぬくもり、素朴さ」といった雰囲気が感じられます。 ただやはり、いかに時間を経て状態良く扱われてきたものでさえ、デザイン性の良し悪しでジュエリーの秘めた魅力が決定的に異なるのです。 100%同じデザイン、セッティングのものにほとんどで会うことがないかと思われます。 当時の顧客層を想定すると、繊細ながらも独特のオリジナリティが感じられます。 それはともすると、石のクオリティーへのこだわり以上のものが時としてあるかもしれません。 そしてその時間を経た情緒感とは、歴史的建造物に対峙するときと相通じるものが感じられます。 そのモノを通じて現代にはない過去に想いを馳せることができるのですから、ノスタルジーや郷愁にふけり安堵感を抱くことでしょうね。 ちなみに、歴史的建造物においては、ロンドンのテート・モダンのように、旧火力発電所を大胆に再利用、つまり既存施設のリノベーションという例が挙げられます。 「美術品」と旧建物の持つ「郷愁感」と美術館としての「最新の施設設備」との三つ巴の感覚が一度に味わうことができて、なかなかに刺激的だと思いました。 また上記のような大規模改修に至らない、或いは旧いというだけの建物単体に価値を見い出しにくい場合であったとしても。 オルタナティヴ・スペースとして美術、音楽などの芸術に空間を提供することにより、第2、第3の価値を付与する可能性を秘めているわけです。 ですから、 >現代現役な「今」を感じさせるものも、将来的にはそのような歴史的遺功になるものでしょうか? ビルト&スクラップとの兼ね合いも当然含めて、 未来において「現代現役な≪今≫のモノ」を生かすも殺すも我々いかんにかかってくるのではないでしょうか。 その時にこそ、一人一人の卓越したセンスや審美眼、その他のバランス感覚が求められるものかと思われます。
お礼
残す価値があるのか?それとも、それがただ古いというだけで価値化されるのか、違いますからね。ただそれが混同される傾向にありませんかね。商売、観光資源、骨董価値、そういう、つねに金の流れにさらされるということです。 もっとも、本当に価値のあるものは、手の込んだ(あるいはてをこまさざるを得ない時代のものだから必然的)なものに対する、ぬくもりや素朴さ、緻密さ、芸術性というものですね。大量生産とは対極の、職人芸をこれ異常なく注ぎ込んだ時代の、そういう精神が発揮されているもの。それは現代の主流ではなくなりました。 私は、そのロンドンの例のようなものにはどうも否定的です。中途汎場なので。その機能をオリジナルで果たせないのならどんどん生まれ変わるべきです。ノスタルジアの金づるはいやらしい。 未来への遺産である現代現役張りのものに対する審美眼も、曇りのない純粋なものでありたいものです。
- hopepepepe
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割れ物なんか作ってる作家さんは言いますね。 何百年も割れずに現代まで残った偶然や強運やらは畏怖に値すると。 本当に偶然に残ったものと、当時から価値があったから大事にされた ものを同列に扱うのはまあちょっとハンデがあるけども。 当時の人がどんな生活してたとかどんな価値観だったとかの手がかり の資料としての価値は最低限あるかなと。あなただって歴史の本は 金払って買って読むでしょ。図書館だって金払って蔵書にしてるし。 あとはまさに運でしょ。 ヒット飛ばした歌手とかと同じじゃないの? 腑に落ちないとかいうけど世の中自分勝手な理屈どおりにならないのは 何年か生きてたら気づくべきだと思うけどね・・・。
お礼
偶然に残ったものが骨董的価値をただ与えられるのと、残るべくして残ったものが存在感を示すのとは違いますけどね。
お礼
古いものに学ぶことはあるものです。それは、より人間の知恵が詰まっているからでしょうね。機械作業になっていない文頭を使わなければならなかったしまた使いどころがあった。そういう人間の力が最大限に発揮されたものなのでしょう。 後はおっしゃるように、ノスタルジアに訴えるものでしょうね。これなどは、つまり人間のあるいは動物の宿命、時間にそって生きるしかないということを商売にしているのでしょう。