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近代化遺産についての違和感
近頃、近代化遺産登録というものがはやっていて、歴史的建造物等を積極的に保存しよう、その歴史的価値を後世に伝えようという意図に基づいて行われているようです。その対象になるのは、すでに現役としての任務を終えた、放置されていて物置やらになっていたものです。これをリニューアルして、博物館的あるいは娯楽施設観光施設的に復帰させようとの意図です。 こういうものに強い違和感を覚えます。 現役としての建物じゃなければ、何の価値あらんやと。 もちろん、それは資料的観光的には金になりますし文化財的価値もあります。しかし、もっとも大事な「その建物はある役割を果たすためにある」という基本をすでに果たせなくなったものです。これをさも価値あらんかのように存続理由を変容させてそれでよしとする、現役じゃなくても十分価値があるんだという考え方は、どうも純粋でない意図を感じます。 つまり、現役で使ってみよう。どうしても要らなきゃ壊そう という当たり前の考えを避けている。 文化財というなにか得意な地位に押しやってしまって(建物の窓際族化とも考えられます)それで得意になっている。 なにか、もっときれいに考えられないものでしょうか? ☆現役でこそ、観光の価値もある と思わざるをえません。 もっとも私はこういう古い建造物が好きな人間です。だからこそ、こういう扱いにはいやなものを感じます。
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建造物の意味・役割をどこにおくか、ということです。 質問主さんのおっしゃるとおり、建造物の一義的な意義は「居住および保管」にあります。 ですが、文化遺産と呼ばれるような建物は社会に貢献し、新たな技術を体現し、ひいては その文化の精神性の構築に貢献した建物を指します。 たしかに年月によって所期の機能は失われていきます。 ですが社会の中でその建造物が"生きた"ことで、新たな意味・役割を獲得したのです。 新たな役割とはつまり文化の精神性の構築です。 その「人間社会の心」を作るという役割は、文化が滅びない限り、失われることがありません。 構築された精神性は代々人間の心の中で受け継がれるのですから。 文化財はそういった人間達の心の拠り所・象徴としての役割を「終えていない」ことになります。 つまり、文化財は未だもって現役なのです。
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お早う御座います。 No.5の回答者です。 質問者様のように、建造物に対して「哲学」的に考察すると言う態度。 私のような浅学の人間には、とても新鮮に感じました。 しかしながら、「哲学的考察」には、「認識」、「倫理」、「存在」、「美的」などの考えは有っても、 建造物の建立や取り壊しに付いて回る「コスト」の考察が第一義では、ありませんよね?。 悲しいかな、「コスト」を考えずに建造物の美学や存在は語れないのが、今の世の中だと思います。 >観光資源として、過去の物を利用する、文化財という考え方 ↑ これは「今」と「過去」を分かっているのでは無く、 「過去」を、今の人たちに理解して貰う。 そう考えてもいいと思うのですが? 紀元前に建立された古代ギリシャの神殿などは、 見る人が見れば、「瓦礫の山」。 >☆現役でこそ、観光の価値もある 建造物も、100年から1000年、1万年単位になれば現役など到底不可能な話しです。 しかし、大いなる観光の価値も出て来ると、私は考えますが。
お礼
別にまじめに考察できる素養があるわけではないのですが、どうしても違和感を感じずにいられないということでした。建物のことというよりも、文化財とか遺産とかそういう考え方をどう考えたらいいのだろうということです。「現在」は進行形ではないのか?現在こそすべてで過去は死んでいるのではないか?死んだものを生かそうとするからヘンな味わいになるのではないかと。 現実世界は「コスト」であり感傷的な保存運動でしょうね。あるいは観光資源。みな「今を生きている」ということとは浮遊しています。極論すれば、ローマの劇場遺跡とかピラミッドとか、ああいうものも今使っていればいいじゃないですか、って感じですね。あるいは廃墟として放置すればいい。「過去」や「現在」を未来に託す必要がどこにあるのかと思いますね。そこに何かはっきり分からないおごりのようなものがあるきがしました。
>現役で使ってみよう。どうしても要らなきゃ壊そう >という当たり前の考えを避けている ↑ 質問者さんの言葉です。 これも、よく考えてみましょう。 「当たり前」でしょうか? 「要らなきゃ壊そう」 と言うのは、ちょっと乱暴な話だと思いませんか? 大きな建物の場合、「壊す」と簡単に言っても「無料」では無い。 いや、無料で無いどころか、大変な労力と金がかかるでしょう?。 更には、取り壊せば「大量の廃棄物(ゴミ)」も出る。 それならば、建物を少し手直して、博物館なり娯楽観光施設として復活させると言うのは、むしろ賢い選択だと思いますよ。
お礼
現実的にはそうなります。 私とて、貴重な建物が無碍に壊されるのはさびしい限りです。しかも、もし現役だったとしたら。 しかし、「哲学」的に考察出来るとすれば、もしかすると機能しなくなったものを当然のように捨てて、機能しているものだけ残すというほうが自然である気がします。 つまり、心意気というのか。 問題は、観光資源として、過去の物を利用する、文化財という考え方に対してです。「今」と「過去」を分かっている考えです。これがどうも腑に落ちません。
- trajaa
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いや、何も何でもかんでも残そうとも言ってる訳でもないけどね。 今、対象になったり候補になったりしているのは、ほとんどが明治期~昭和初期のモノじゃないかな? それらは、文化財というジャンルでは括れないけど、 当時の日本が欧米からの技術を吸収しつつ独自に改良したり、それまでの職人技と近代化技術との融合の成果であったり と、いう価値を見いだしての機運なんだよね。 そりゃ、現役で使えるに越したことは無いけど、所有する企業にしてみたら、そうそうボランティアで運用する事も出来ないし。 現役(本来の機能)はもう果たせない、じゃ壊す?という二者択一から二け出すための 資料的価値を生かせる方法は何かとしてのアイディアじゃないのかな? 文化財って、「建物の窓際族化」なの?
お礼
その厳しい二者択一に迫られて、あ、いい方法があるというのがこの状況だと思われます。基本的には、所有側にも観光客側にもお互いに利益があるわけですから、問題ないですけどね。 窓際族化というより、役員化というか、とにかく保存SLも同じ精神ですが、老人たちのボランティア的存在という感じでしょうかね。とても実用に耐えないものたちの→だから観光的資源 おおらかに考えるならそれもよい。 が、哲学的に考えると不純である。
お礼
「歴史」って言うのは何だろう?と考えますね。 昔は文化財というものはなかった。それはそういう概念がなかった。でも、その当時も「現在」であったんです。今の「現在」とはどうなのか。文化財を残そうという機運がある「歴史」上の一点が現在です。これも未来から振り返れば「歴史上」の出来事です。つまり、現在ある建物建造物が機能している時代、それを未来は残そうとするのか? そうすると、文化財という「過去」に価値を付与しようという精神は、批判的であればまだしも、肯定的に当たり前のように行うのはどうなのだろうと思います。なにか、現代社会が過去に対しておごっているのではないかと。