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輪廻転生説は 愚の骨頂

 ではないでしょうか? 次の理由により 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか?  理由その一: わたしは 過去世のこれこれという人間から 生まれ変わった者であると言うのは 自由である。その自由というのは 証明もできなければ 反証のしようもないという意味である。  理由その二: 生まれ変わりというこの考え方には つうじょう 因果応報説も ついている。けれども このように 宇宙の始まり以来 いわゆる善因善果(ないし楽果)および悪因悪果(ないし苦果)のもとに 生まれ変わるとすれば ひとつの行為は つねに 例外なく 自業自得という意味である。仮りに人を殺しても 殺すほうも殺されるほうも まったく寸分たがわず それぞれが 自業自得だとなる。それ以外に考えられない。  理由その三: ひとつだけの生涯ではなく やり直しが効くように 転生の思想があるのだと反論を聞いた。けれども それだと この今の人生については もはや 努力をしないと宣言したようなものである。たとえ 来世があるとしても それを頼まずに 今世にて やれるだけのことをやっておくのが 筋というものである。つまり 生まれ変わることを 念頭に置くのは 意味がない。  理由その四: 民主主義ないし 思惟や行動をふくむ表現行為の自由ということ この自由が まだ 制約されていたときには 《たとえこの今の生において 達成し得なかったとしても 次に生まれて来たときには 必ず 成し遂げるぞ》という気概を表わしていたかも知れない。けれども 現代においては かえって 安易な考え方になってしまう。言いかえると 安易な考え方を持つなら 持った途端に 努力とそのための能力が 萎える。それゆえに 精神をめぐる病いが現われるのではないか。すべて ここに原因があるのではないか。  真実をおしえてください。

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  • umaruko
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回答No.52

No.43で回答したものです。ご返事ありがとうございます。前回は質問内容からずれてしまった回答になってしまったので、今回はまともに回答をするつもりです。 >輪廻転生説は 愚の骨頂 に関して私が思うことを書いていきます。 まず、輪廻転生説といいますが最終的に行き着く先は人間が死んだあとの世界はあるのか?それともないのかという話に帰結するものだと考えてます。 そして、現在の西洋哲学では私の知る限り人間の死後に対して明確な回答をした人物はいないと断言できます。(少なくとも根拠を示した人物はいないはずです) そういった意味で西洋哲学における輪廻転生説は誰も証明しておらず、いまだに輪廻転生説を悪用して自分の利にしている人たちを見るのはうんざりです。まさに哲学が取り上げるには値しない主題というよりも、証明も客観的な根拠を示していない主題のうえで何やってんだ!って感じですね。まさに愚の骨頂であるというのは同意です。 次に私が仏教の輪廻転生説を書いた理由として、ある程度の客観的な根拠を示されているということが挙げられます。それはNo.43で書いた 1.キリスト教では死んだ後必ず天国に行くんですよね…。この世よりもずっといい世界なんでしょう。じゃあ、なんで人が死んだときあんなに悲しそうに葬儀に参加するんでしょうか?死んだら天国なんだろ!もっと喜べよ参列者!!今の世界よりいいとこいくんだからバンザイをしろよ!! 2.人が死んだとき冥福を祈るという言葉が贈られます。冥福とは冥土の幸福を祈るってことですよね…。冥土とは死んだ後の世界のこと。(これで死後の世界を信じてますね)しかも幸福を祈る…死んだあとの世界が不幸だから幸福を祈るんですよね?これって死んだあとが不幸になるって思っている証拠になりませんか? という2つの根拠が示されたということにあります。この2つは少なくとも人間は死後の世界があると信じている、かつどうも死んだあとは不幸な世界に行くとわかっているのではないか?というものです。 この2つの謎は輪廻転生が事実であれば、簡単に謎はとけます。 (1)人間は輪廻転生しているがゆえに死後の世界があると無意識下でわかっている。(今までの経験上) (2)今の私たちは過去遠い昔に人間であったときがあって、その時死んだ後地獄に堕ちたという経験を持っている。だから、死んだ人間に対してその人間は地獄に堕ちたということだから、わざわざ冥福、死後の幸福を祈っている。 という説明で謎はOKになるでしょう。 少なくとも私にはこれらの根拠を崩せるような持論がなかったため掲載させていただきました。もし、崩せる方がいたら本当に崩してください、お願いします…。 最後に > たとえ《死後》のことが分からなくても ひとは 生きているうちに 一生懸命に 努力をするのであり 勤勉です。どうして 《死後が無く 未解決の課題が残されるからと言って 道徳が崩れ落ちる》のですか? ただ そういうふうにしか考えられなくなっているあなただけの問題ではないのですか? について。これは中国最大の思想家に対する挑戦そのものですね! http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/71479/67603/50003369 まあ、かいつまんでエピソードを書いていきます。孔子の門弟で最高の人格者であった中国の顔回という人物がいた。しかしその生涯は極貧な生活で、しかも若死にした。 それに対して盗跖(とうせき)という同時代に生きた大泥棒は悪事の限りを尽くしながら、富貴栄華を極めて死んだ。 この事実を前に「善を進んでやれば必ず幸せになれる」と説いた孔子のなすすべはなかった。。。 というお話ですね。つまりこの世で努力しなかった盗跖はこの世で幸せであった。しかしこの世で努力したはずの顔回はこの世で不幸せであったと。。。 この件に関してはどう思いますか?もし完璧な反論をしたいなら少なくとも質問者の方は孔子を超えた思想家にならなければなりませんが…。 ROMに戻るとかいってまた書き込んでしまいました…。今度こそROMに戻ります、失礼しました。

参考URL:
http://www.geocities.co.jp/Bookend/3756/seidan.ingaron.html
bragelonne
質問者

補足

 umaruko さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  では 《孔子を超えた思想家にな》りましょう。  【Q:ぶっきらぼうは いただけませんか】のほうで やり取りがあったのですが 《理由その四》の民主主義の歴史的な進展ということに かかっていると考えます。  社会が 二階建ての構造になったという問題です。国家ですね。その成立の以前と以後とでは 社会生活もしくは人間と人間との交通関係 これが 基本的に 変わった。あたかも地割れを起こし 断層を作ってしまった。それが 二階建ての意味です。一階は スサノヲ市民社会で 二階は アマテラス公民圏です。  例証します。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  籠(こ)もよ み籠持ち             堀串(ふくし)もよ み堀串持ち         この丘に 菜 摘(つ)ます児(こ)           家聞かな 名告(の)らさね           そらみつ 大和の国は            おしなべて われこそ居れ           しきなべて われこそ座(ま)せ          われにこそは 告らめ            家をも名をも                  (オホハツセワカタケのすめらみこと〔雄略天皇〕 万葉集 巻一・1番)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ このうたは 《本来 春の野遊びの若菜摘みの歌が 雄略物語にとり入れられた一首》で  ▲ 《その際 〔中ほどの三句が〕 挿入された》(中西進:万葉集  全訳注原文付 (一))  ☆ と解説されます。このとき もしそうだとしたら それは 若菜つむスサノヲ市民らの生活圏の間にというか その上部の第二階に 三句のアマテラス公民の視点が突如加えられているのだと推し測られます。であるから そのように二階へ上がったという《アマアガリ》には 民主制の観点からは 疑問が付きまとうというものです。  言いかえると まだ現在も 国家は存続していますし その二階建て構造は 変わっていませんが しかし 主権在民であることに間違いありません。スサノヲ市民主権制ということです。アマテラス公民たちを われわれの税金で食わせてやっているというわけです。  ところが しかも ヨーロッパや あるいは 中国とも違って わが日本は じつは 神話によりますと スサノヲ市民たちは アマテラス公民に 基本的に言って 国ゆづりをしたと言います。その結果 西欧や漢民族の内部およびその周辺民族との間において スサノヲ圏とアマテラス圏とが つまり 上と下とが 回転( revolution )して 権力の当事者が 入れ変わるというわけではなかったようです。  つまり 主権在民制になるまで スサノヲ市民らは ときを待っていたわけです。じっと我慢の子だったわけです。この一事をもって 《未解決問題が 死後に託されるという〈思い込み〉が なくても 道徳実践が止むことはなかった》と考えます。そうして わたしたちは 一般に いちいち 因果応報といった説にまで 持って行って 固定することもないと 考えているのではないでしょうか。  ふつうに勤勉なのです。スサノヲ市民らはです。どれだけ公費着服やら浪費をしても おまえたち しっかりせよとは言いますが ギロチンにかけるところまでは進まないのです。やがて アマテラス公民たちは 人間には ひとりの例外もなく 仏性があるということに目覚めて ひざを折って 懺悔でもするようになる。のではないでしょうか?   いやいや わたしたちも 到らない人間です。ともに ふたたび われらが日本を よき国にしていきましょうと われわれスサノヲらは 答えるでしょう。  この歴史過程に 輪廻転生など なんら 関係ないのです。それぞれ その一生を 精一杯生きて――それにしても 長寿国ぢゃないですか―― 死んでいくだけです。こんなたのしい ゆかいな国は ないでしょう。えっ? まだ そのようには出来あがっていないですって? では そのように作り直していけばいいでしょう。少しづつ 一歩一歩。  新しい天と新しい地が ここに 成るかも知れません。どうですか?  輪廻転生説は 愚の骨頂の理由説明でした。

その他の回答 (113)

回答No.84

>  ☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう? >  ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう? >   ――なぜ ひとを殺したのか? >   ――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。すべて 自業自得である。何も 問題はない。 それは運命論で、業報思想に対する誤解です。 時間の関係、行為するものとされるものをごっちゃに考えているからそうなる。 善悪の行為が原因であり、苦楽が結果です。 殺された人にとっては、苦であり、過去の悪業の報いを受けたのであり、 殺した人にとっては、殺人という悪業であり、将来その報いを受けることになる。 逆に、殺人などの悪業を犯しても報いを受けないこともある、と考えると善も悪も関係なくやりたい放題になるでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 jugemjugem さん ご回答をありがとうございます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  殺された人にとっては、苦であり、過去の悪業の報いを受けたのであり、  殺した人にとっては、殺人という悪業であり、将来その報いを受けることになる。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これが わたしの議論が誤解に発しているという理由説明ですね。  《殺された人》にとっては 過去の業が その時点で 報いを受けたのに対して 《殺した人》にとっては なぜ そうはならないのですか?  つまり 《将来その報いを受けることになる》という側面だけで済むのですか?  ★ 逆に、殺人などの悪業を犯しても報いを受けないこともある、と考えると善も悪も関係なくやりたい放題になるでしょう。  ☆ つまり 殺人を犯したというその行為は 過去の業の報いであるのではないですか? それとも 過去世に何も 報いとなるような業がないのに その報いつまり殺人という行為に及んだということなのでしょうか?  その殺人者には 因果応報があてはまらないのですか?

回答No.83

こんばんわ 私は刺激的な質問タイトルにつられて見に来た通りすがりのヒマ人です。 私のような凡人(と思いたいレベル)には難しいのですが、貴方の主張を私なりの解釈としては、下記のように思います。 貴方は、輪廻転生説は愚の骨頂だから哲学として取り上げる主題ではないとおっしゃる その理由(愚の骨頂とする理由)は 1.証明も反証もできないからだ 2.因果応報説がついてまわるからだ 3.生まれ変わることを念頭に置いて現世を生きるなんて意味がないからだ 4.何でも自由にできる現代において合わない思想だからだ 私は哲学ってどんな学問なの?そんなこと議論して何か変わるの?というレベルなのでこの程度にしか解釈できません。 また、私は輪廻転生とは「人は生まれ変わる」因果応報とは「すべては自分の業が招いた結果」という思想として捉えています。 そんな私がこんな高次元の議論の中に書き込むことこそ愚の骨頂なのでしょうが、あえて馬鹿に空気は読めないということで、書き込みさせていただきます。 1について  証明も反証もできないこと(思想、現象すべて含めて)についていろんな哲学者が語って(議論して)ますよね?  哲学者達の議論を愚の骨頂としないなら、輪廻転生説も哲学として取り上げても問題ないのでは? 2について  う~ん 問題にしてるのは輪廻転生説なのだから因果応報説をくっつけて考えなくてもいいのでは?  私は輪廻転生は信じてるけど、因果応報は信じない人なので、そう思います。 3について  輪廻転生って自分自身が望むということだけじゃなくて、相手(自分以外のもの)に対して望むこともあるのだから、一概に意味がないとはいえないのでは?  例えば、幼くして子供を亡くした両親が「生まれ変わってもう一度私たちの子供に…」と願い、悲しみを堪えて生きることが意味のない生き方ですか?  病気や障害で苦しい思いをしている人が「健康な体に生まれ変わりたい」と願うことは愚の骨頂ですか? 4について  何でも自由にできる現代においても自分ではどうしようもないことは存在しますよね?(上記3の例のように) と、こんなふうに私は考えます。 貴方が愚の骨頂とする理由のすべてに同意できないことをもって愚の骨頂としないなら哲学として取り上げて問題なしとなります。 が、貴方の「真実をおしえてください」の答えとは違いますね。そもそも、証明も反証もできないものに「真実」なんて存在するんでしょうかね。 長い馬鹿の独り言になってしまいましたが、最後まで読んでいただいてありがとうございました。

bragelonne
質問者

補足

 bu-bu-blue さん ご回答をありがとうございます。この質問に 足を止めていただき ありがとうございます。  お応えしてまいります。  ★ 1について : 証明も反証もできないこと(思想、現象すべて含めて)についていろんな哲学者が語って(議論して)ますよね?  ☆ たぶん 《〈証明も反証もできない〉ゆえ 主題として扱うことはできない》という議論としての扱いだと思うのですが?  ★ 2について : う~ん 問題にしてるのは輪廻転生説なのだから因果応報説をくっつけて考えなくてもいいのでは?  ☆ したがいまして 《くっつけて考える》場合には どうかという話になります。でも  ★ 私は輪廻転生は信じてるけど、因果応報は信じない人なので、そう思います。  ☆ 《因果応報は信じない》ことじたいは とうぜんだとわたしは考えるのですが 一般には くっつけていると思われますし また 離して輪廻転生を捉えるなら それは 気の抜けた麦酒のようだと考えられるのですが? あるいは逆に尋ねますが わたしは 聖徳太子だった そして 清盛だった そして 信長だったうんぬんと言っていくのは 味がありますか?   ★ 3について:・・・例えば、幼くして子供を亡くした両親が「生まれ変わってもう一度私たちの子供に…」と願い、悲しみを堪えて生きることが意味のない生き方ですか?  ☆ これが すでに何度も触れて来ましたが 《文学》の問題です。哲学の主題として論じるのとはちがって 自分の文学作品を思い描くという場合です。自由に 宇宙に遊んでもいいのではないですか。  ★ 病気や障害で苦しい思いをしている人が「健康な体に生まれ変わりたい」と願うことは愚の骨頂ですか?  ☆ はい そうです。寿命のつきるまで たとえ空想的な思惟にしても あるいは もちろん科学的な治療法の追究にしても 努力をすることを放棄して そのような文学物語を思い描くとすれば 愚の骨頂です。  不治の病いであったら どうするか。あきらめます。あきらめつつ 寿命をまっとうします。むろん そのとき そうしているのであれば 同時にかたわらで 宇宙に遊んでも それは 自由です。  ★ 4について : 何でも自由にできる現代においても自分ではどうしようもないことは存在しますよね?(上記3の例のように)   ☆ 《人間の思考と意志と努力 また 人びとの協力と相互援助のみによっては どうしようもないこと》は 存在します。そして 同じように 《上記3の例》に対するお応えを考えます。そのとき あきらめない場合というのは 未来において 社会や科学が どうなっているか分からないからには それに託してもよいという要素にもとづきます。  たとえば 《できないものは できない》 あるいは 《だめなものは だめ》という判断を そのまま 提出するのは 哲学だと考えます。そういう問題であるように感じました。  つまり 哲学を超えて たとえば文学の領域ということですが その《活動》は まったく 自由です。そういう問題を提起しておられるのではないでしょうか。

回答No.82

>  ★ 中立であるものを否定的に言い換えることこそが、あなたの感情的な偏向です。 >  ☆ 《中立であるもの》とは 考えておりません。《証明も反証明もできない話は 哲学の主題とすることができない》という表明は 《中立》でも《あいまい》でもありません。切りがなく限りがなく そのある・ないをめぐって 議論がつづくしろものであるから 輪廻転生の説は 取り扱うに値しないと言っているのが どうして 中立なのですか? >  《中立であるもの》と見なしたいというところに すでに あなたの >  ★ 感情的な偏向 >  ☆ が現われているようです。お気をつけて 考えていかれるよう希望します。 「中立」とは、「否定も肯定もできない」=「証明も反証明もできない」と同義で書いただけです。 「取り扱うに値しない」と表現した場合には、否定の意味が含まれます。 そういう言葉の定義の問題は下らないです。 感情論ではないというなら、言葉遊びではなく、ちゃんとした論理で反論して下さい。 論理がないと通じません。 >  ★ テーマとしても「輪廻転生」〔と〕「業報思想」〔が〕ごっちゃに >  ☆ なっているのは 一般的ですよ。因果応報説を伴なわない輪廻転生説は 気の抜けた麦酒のようなものです。 これも言葉遊びにすぎません。 論点を絞らないと議論にならないという意味です。 論理において否定も肯定もできない。 だから、倫理において因果応報には問題がある、と主張したいのではないですか?論点はそこでしょう? だから、反論しておきました。 あなたは自分が反論できそうなところだけ反論してるだけでしょう。 論点を外して言葉遊びをするのは時間の無駄です。 >  ★ 「馬の耳に念仏」「豚に真珠」といいまして、法を敬わないものに法を説いてはいけないことになっているので、このくらいで納得してもらえないでしょうか。 >  ☆ これはまた おとなしい温和な気弱な あわれましい 人情味あふれる言い回しですね。分かりました。来世は わたしも この馬の身から 立派な人間に成る予定ですので 《納得》いたしましょう。 是非頑張って下さい。

bragelonne
質問者

お礼

 jugemjugem さん では 一点だけ 《論理》的に 問題点を指摘しておきたいと思います。  すでに 何度も触れて来ました。つぎです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ たとえば こういう問題は どうなのでしょう?  ○ 次の答えに対して どう答えるのでしょう?   ――なぜ ひとを殺したのか?   ――前世の業の結果が 現われたのだ。殺されたほうとて 同じである。すべて 自業自得である。何も 問題はない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

noname#117439
noname#117439
回答No.81

オコリザルです。 中毒症状の悶絶で苦し紛れのコメントです。 A80の返答で想定されているのは神でなく客体、客観の類であり言い換えれば「慈」でもあります。 お友達にかっさらわれたわけではない安定感はありますが、信仰とするならが盗人に追い銭をやる信仰です。

bragelonne
質問者

お礼

 つづきですね。  たぶん あのアウグスティヌスの文章は 信仰のこととは思わせずに 信仰のことを書いていて しかも その文章を追っていくと 筋道をとおって受け取ることになる中身が 長い と来ている。結論が 延び延びとなっている。だから 最後の ちいさなでしょうが どんでん返しで おどろきがあるのかも知れません。  もうひとつです。  ★ A80の返答で想定されているのは神でなく客体、客観の類であり言い換えれば「慈」――お友達――でもあります。  ☆ これにも 次のように反応します。  信仰にとって 唯一の至上命令は 《神を愛せ および ひとを愛せ》です。そして 両者は 同じひとつのことだと言われます。《神を愛する》ことは 《ひと すなわち 隣り人 つまり お友だち を愛する》ことと 同じだという意味です。その逆の言い方も 成り立ちます。  そういう意味で 捉えられては いかがですか?  隣りのひとを――自分と同じ程度にまでは――愛する。ここから 神を愛している状態になるのなら 生まれ変わりを超えて すでに 永遠という時間(ないし 無時間)に わたしたちは 触れています。  したがって 六道輪廻としての生まれ変わりを 悟りによって 断ち切るといった視点を導入するというよりは そういうよりは すでに 輪廻転生というポッポッと生まれ変わるという生の不連続の連続を〔想像するのなら いっそのこと その想像の中身を 全部 まるごと〕 包みこんでしまえば よりいっそう しゃれた解決になるのではないでしょうか? どうでしょう?

noname#117439
noname#117439
回答No.80

オコリザルです。 A80.81にといたご返答に関して。 引用したその文章に中毒を起こし悶絶しました。 bragelonneさんが引用したその意図からうかがえるエートスに信仰を感じたからです。 特にA80の返答の意味自体は非常に判りやすく理解しやすいのですが、それを信仰と解釈したbragelonneさんの意図に何かしかの違和感を覚えました。 私にすればA80の返答は自問自答です。 信仰では有りません。 そこで知ろうとしているのは、または自覚の上に述べているのは「自ら」であって「神」ではないのではないかと考えます。 そろそろ立場の違いなんていわないで掘り下げてみるときかもしれませんね。

bragelonne
質問者

お礼

 primeape さん お早うございます。ご回答をありがとうございます。  ★ 特にA80の返答の意味自体は非常に判りやすく理解しやすいのですが、それを信仰と解釈したbragelonneさんの意図に何かしかの違和感を覚えました。  ☆ あぁ これは わざと 信仰の場合でも 同じような《白紙還元》がありますよというものです。  primeape さんの《信仰ではない》ところからの文章に表わされた《あたまの真っ白》が 信仰の場合でも 同じように起こるということをもって 反応したものです。  さらに繰り返しますが 《神》をもってきても 同じようなこころの状態をめぐる動きがありますよという それだけの わたしの反応です。  中毒を起こさせて ごめんなさい。  でも いままでにも こういうわたしの反応は あったと思いますよ。どうでしょう。

回答No.79

>  ☆ 《輪廻転生》あるいはその《説》を 《否定する》とは ひとことも 言っていませんよ。 >  ○ 輪廻転生説は 哲学が取り上げるには 値しない主題ではないでしょうか? 輪廻転生説を「否定も肯定もできない」=「お話にならない」=「愚の骨頂」とするのは、言葉のすり替えです。 中立であるものを否定的に言い換えることこそが、あなたの感情的な偏向です。 だから、これは論理ではなく感情論です。 あなたの話が混乱しているのは、「論理学」「哲学」「感情論」とどういう観点なのかをごっちゃにして、テーマとしても「輪廻転生」「業報思想」をごっちゃにしているからでしょう。 あなたの主張は「業報思想(自業自得)は倫理的に問題があるから否定する」とすべきですが、これはあなたの「業報思想」に対する解釈が間違っていることから生じた誤解です。 仏教では「業報思想」を理論的根拠にして、止悪修善をなします。 簡単に説明すると、現世的な世間八法(利得、損失、称讃、非難、誉れ、誹謗、楽、苦)から離れて、行為の善し悪しに注意しなさい、ということです。 世俗と基準を合わせていれば敵を憎むことも生じますが、仏教ではそれは否定される。 相手に何かやられたから何とか恨みをはらしてやろう、というのではダメということです。 「馬の耳に念仏」「豚に真珠」といいまして、法を敬わないものに法を説いてはいけないことになっているので、このくらいで納得してもらえないでしょうか。

bragelonne
質問者

お礼

 jugemjugem さん ご回答をありがとうございます。  認識上の異同をのみ 述べます。  ★ 中立であるものを否定的に言い換えることこそが、あなたの感情的な偏向です。  ☆ 《中立であるもの》とは 考えておりません。《証明も反証明もできない話は 哲学の主題とすることができない》という表明は 《中立》でも《あいまい》でもありません。切りがなく限りがなく そのある・ないをめぐって 議論がつづくしろものであるから 輪廻転生の説は 取り扱うに値しないと言っているのが どうして 中立なのですか?  《中立であるもの》と見なしたいというところに すでに あなたの  ★ 感情的な偏向  ☆ が現われているようです。お気をつけて 考えていかれるよう希望します。  ★ テーマとしても「輪廻転生」〔と〕「業報思想」〔が〕ごっちゃに  ☆ なっているのは 一般的ですよ。因果応報説を伴なわない輪廻転生説は 気の抜けた麦酒のようなものです。  ★ 「馬の耳に念仏」「豚に真珠」といいまして、法を敬わないものに法を説いてはいけないことになっているので、このくらいで納得してもらえないでしょうか。  ☆ これはまた おとなしい温和な気弱な あわれましい 人情味あふれる言い回しですね。分かりました。来世は わたしも この馬の身から 立派な人間に成る予定ですので 《納得》いたしましょう。    なんのこっちゃ?!

noname#117439
noname#117439
回答No.78

オコリザルです。 A80の作文に補足です。 無意識野を掌握して、伝心や共感作用により、布教まがいのことを一切せずに物言わず、自らの自我が及ぶ範疇を超えて心がけを正していく行い、そのようなESPを自覚の元に実践中です。 御釈迦様も入滅するまでは弟子たちの面倒を見ると、当時の言葉で約束を取り交わしていたのではないでしょうか。 私に言わせると、このような涅槃を中継した行いは救済と受け取られるのは心外なんです。 心象の文学では「指先に灯火を宿す」と表現します。 「歩む道のりを指し示す」事よりも突っ込んでいるんです。 本当の舞台は無意識に属して、間接的にしか自覚できない領域です。

bragelonne
質問者

お礼

 No.80のご回答に対しては 引用のみで応対しました。それは 要するに あらゆる心の表象 すべての精神作用をうっちゃってのごとく 神を問い求めたという姿でした。言いかえると 自分の状態を 白紙に還元したというところなのでしょう。エポケーとか言うそうです。  さて それに対する補足ですね。  いつも いぢわるなわたしですから 何か言わないでは 放っておかない血が起こります。  ★ 本当の舞台は無意識に属して、間接的にしか自覚できない領域です。  ☆ この《無意識》ということを その《エポケー》というごとく アウグスティヌスが すべての表象・想像・思考をうっちゃってみたように 《わたし》の白紙還元のことだとしますと そうしますと   この《無意識》を舞台として すべての演劇が繰り広げられているというのは 当たり前です。大前提です。  わたしたちは すでに この大前提のほうから 出発していたはづです。安心して この大舞台に立って のびのびと 自由に さらに自由に もっと自由に もっともっと自由に 自己表現をしていくことができる。のではないでしょうか。  つまり わたしの言いたいことは なんで まだなお 奥のほうへ 舞台のほうへ あるいは 舞台裏のほうへ まわって行かねばならないのか。これです。  誕生以前ないし死後というような 場所あるいは時間のほうへ それが あたかも舞台裏であると言わんばかりにして 寄り添っていかねばならないのか。これです。  ここが ロードスです。ここが 世界です。ここが 宇宙です。いま ここが わたしである ぢゃなかったのですか。

noname#117439
noname#117439
回答No.77

オコリザルです。 個人的に思索を進めるに当たって、質問形式や問答形式ではいつまでも自らを知るための探求として不十分ではないかと考えたので、最近は一人で書き溜めるようにし始めました。 そりあえづ、こんな作文を作ったのですが添削をお願いします。 私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれる特技があります。 呼吸を意識して止めるのと同じように、考えるのをやめることができるんです。 この特技があると、心がまっさらで白紙の状態から、偏見や先入観の類もなく裁判官が判決を下すような公平さで、バランスよく判断したり考えたりできます。 したがって自分で言うのもなんですが知恵者です。 宗教的に「無」とされる悟りの境地の、何らかの片鱗が判る訳ですが、自然体のままで頭が真っ白な無心の状態を継続させると、自らが存在するただそれだけのことに喜びと安らぎを感じるような心地よさがこみ上げてきます。 「無」といいながらも我は「有る」なんです。 そのような存在する無の感覚とは、仏教を少し調べてみまして、お釈迦様の言ったらしい言葉を解釈するならば、無いものについては無いとはっきりと理解して、探すのをやめる、求めるのおやめる、実はあるのではないかと疑うのおやめる、そのような感じの無の確定により、むしろ自らの存在が浮き彫りになる感覚なり考え方を、お釈迦様が当時のインドの宗教文化に基づいて、当時のインド社会に判りやすいような言い回しで、まづは、無を知りなさいと、思考過程を説明したのが御釈迦様の教えであるように考えます。 したがって仏教の本来の姿は信仰で無く哲学です。

bragelonne
質問者

補足

 primeape さん ご回答をありがとうございます。  ▲ (告白7・1) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  神よ・・・あなたをどのように考えたらよいかということになりますと 思いつきませんでした。  そこで 人間であり しかもそのような人間であった私は あなたを最高 唯一 真実の神として考えようと努めました。またあなたが 滅びることも そこなわれることも 変化することもないことを 骨の髄から信じていました。どこからどのようにして悟ったのか知りませんが とにかく私は 《滅びうるものは 滅びえないものに劣る》ということをはっきりと認識し 確信していたからです。そして そこなわれえないものをそこなわれうるものより何の躊躇もなくまさるとし いかなる変化もこうむることのないものを変化しうるものよりもすぐれていると考えていたのでした。  私の心は 自分でつくりだしたすべての空想の産物に反対して はげしいさけび声をあげました。そして一撃のもとに おしよせてくる不潔な想像の群れを精神のまなざしからはらいのけようと努力しました。ところが はらわれるやいなや まあどうでしょう またたくまにふたたび一団となってあらわれ 私の目の中に乱入してきて くもらせてしまうのでした。  それで私は 人間の身体の形によってではないにしても 何か物体的なものを考えざるをえませんでした。それは 世界の内にそそぎこまれているにせよ 世界の外に無限にひろがっているにせよ とにかく空間のうちに存在する物体であって それ自体 滅びることも そこなわれることも 変化することもありません。このような物体は 滅び そこなわれ 変化する物体よりもすぐれていると考えました。  というのは 空間を占めないものは何であれ 無であると思われたからです。しかも完全な無であって けっして空虚といったようなものではない。たとえば物体が場所からとりさられ あらゆる物体が 地も湿ったものも気体も天体もからっぽになって場所だけがのこるとすれば それがいわば空間的な無とでもいうべき空虚な場所となるでしょうが。  このようにして 心がにぶり 自分自身をすら見とおすことのできなかった私は ある大きさの空間に伸びたり ひろがったり かたまったり ふくらんだりしているもの あるいは何かこのようなものを受容し ないしは受容しうるもの以外は 何ものも存在しないと考えていました。  目がはたらくときはいつも形態をとおしてはたらきます。心がはたらく場合にも ちょうどその形態に相応するような心象によります。しかし私は それらの心象をつくる精神のはたらきそのものは 心象とは何か異なるものであることには気がつきませんでした。しかも そのはたらきによって心象がつくられるのだとすれば それは何かよほど偉大なものでなければならないはづです。  そのことがわからなかったので わが生命の生命なる方よ。私はあなたをも 巨大であって無限の空間に四方八方にひろがり 世界の全容積に浸透し さらにその外部のすべての方向に はかりしれない空間にわたって際限なくひろがり 天も地も他のあらゆるものもあなたを所有し その中において限界づけられているが あなたはしかし いづこにおいてもけっして限界づけられていないと そう考えていました。  けれども 太陽の光にたいして 気体 つまり地上にある気体が何の妨げにもならず 太陽の光は 気体を分散させたり分裂させたりすることなく 全体をみたしながらこれを貫いて放射されるように あなたも たんに 天体 気体 海の体ばかりか地の体までも通過して その最大最小 あらゆる部分にしみとおり すべての部分に現存したもうことができ そのかくれたいぶきによって 造りたもうたすべてのものを内からも外からも統治されるのだと 私は考えていました。  そのように憶測していましたが ほかに考えようがなかったのです。しかしこれはまちがいでした。もしそのようであるとすれば 地の大きな部分はあなたの大きな部分を所有し 小さな部分は小さな部分を所有したことでしょう。したがって 雀のからだよりは象のからだのほうが大きく 大きな場所を占めているから 雀より象のほうがあなたの大きな部分をとらえているといったしかたで 万物はあなたにみたされたことでしょう。そしてあなたは 世界の大きな部分にはあなたの大きな部分を 小さな部分には小さな部分をというように ばらばらなしかたで ご自分を現存させたもうたことでしょう。そんなはづがない。  しかしあなたはまだ 私の闇を照らしてはくださらなかった。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  • aai1
  • ベストアンサー率13% (46/335)
回答No.76

わかりません。 しかし、あなたが100年前どこにいたかは憶えてないが、今存在する。  生まれる前のことはわかりません。  生命の不思議ですね。  しかし、時代、時、状況、国、病気の有無、生まれながらの病。  また、自分だけの行為行動、こうしたものはどこに原因があるのかは わかりません。  しかし、もって生まれた才能などは前世でやって身につけたと言いますが、そう考えると、今身につければ、また持ち越されるもかとも思います。  結局、人間が幸せに人生を成就する方向で捉えていくしか意味がないでしょうね。  ただ、法則などは愚の骨頂であろうがなかろうが存在し、それに影響をうけて生きることができる。と捉えるしかないでしょうね。  つまり、重力のようにそうなって存在し法則があり、それを変えることもできない。しかしあるから地面に立っていられる。恩恵がある。と言うことでしょうか?  まぁ、自分の気持ちだけで、細胞分裂も止められず、心臓の鼓動も止められない。つまるところ、体を動かす考えるしか自由の範囲がなく、あとは自分の意思以外で、髪がはえ変わり、お腹がすき、細胞が生まれ変わり、心臓が動く。  自分の自由の範囲は狭いものですね。  広げるには行動を身につけるか教育で知っていくと言うぐらいでしょうか?  ですから生まれ変わりは、われわれの自由の範囲ではないんでしょうね。   しかし生命の1側面としてあるなら、現実の生命活動の中にあるでしょう。  細胞の生まれ変わりなどはそれを連想させますが。

bragelonne
質問者

お礼

 aai1 さん ご回答をありがとうございます。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.75

<<前と同じ視点をも引きずっておられると言わざるを得ません。☆第三の立ち場は ありません。>> うぅぅん…。 この「想定」は「条件限定としての想定」ではなく、「前提条件の有の想定」ですかね。それなら二択にしかなりえませんね。ある・ないどちらも結局は「有」を認めている形にはなりますがw 言語(西洋論理学?)の問題もあるのでしょうが… 「ウサギの角」はありますか?という問いに無いという人も、「ウサギの角」は…という時点で認めてますねw こちらはいかがです? ≪相対しかない≫という想定に対し ≪相対しかない≫ということはある ≪相対しかない≫ということはないの二択w 限定相対論と非限定相対論かな?w <<★ 絶対から離れる。絶対は あるかも知れないし ないかも知れない。と見る。☆ ということは 想定としての前提からして 矛盾しています。>> 前提条件としての「有」の性質が隠れていると思いますので、その意味での想定なら矛盾しますね。 <<《あるかも知れないし ないかも知れない》という表現の意味するところは たしかに 理性的態度ですが>> 理性的態度ですよねぇ・・ <<ここは(つまり 絶対に関しては)理性も精神も感性もすべて経験的なものごとを超えた領域についての話なのですから 当てはまりません。>> では…「ある」「ない」「その他」どのような表現もとりえないのでは? ただたんに条件にたいし、「どのような態度をとる?」とするならどの選択もあるのでは? しかしながら<仮の>想定の段階で「有」を前提に想定しているなら「ある」「ない」の二択意外には選択は無いでしょうね。 なので <<前提が ちがっています。想定をするという問題なのですから。そもそも 《非思考》を 仮りに理性による思考をとおして あるか ないかに 分けておくだけの話です。分けて 表現しておけば のちのち 交通整理が 容易になる。こういう問題です。>> というかみ合わないことになっていたように思います。想定に「有」の前提があれば、そもそも「有」前提に立つ人には都合よく交通整理できるでしょう。 ブッダの「無記」や「質問の仕方が間違ってますよ」というのはこのような意味があると感じています。 私も完全な理解などはしてませんがw 言葉とは面倒なものですねw <<また この質問の《輪廻転生》については その《生まれ変わり つまり 誕生以前と死後》の問題は 《絶対》という領域の問題ではない。ゆえに 《非思考=信仰》の問題でもない。言いかえると それは 《未知》の世界について 経験理性によって 経験思考をおよぼすときの想像であり そういう意味で ひとつに 《信仰》とは別であるということ。>> まず、貴方の考える「信仰」は<仮の>「絶対」の想定の思考に対する<仮の思考>による<仮の>態度のことなのですかね。 私の使う「信仰」は「無根拠の決め付け」のこととして使ってます。 <<もうひとつに 《未知》であるからには 《死後があるかも知れないし ないかも知れない》という世界なのだから 経験科学としての哲学が 主題として 扱うものではない。こういう結論にみちびかれるのではないか。こう問うています。どうでしょう?>> 「経験科学としての哲学」 生命・生き方・道徳・倫理・哲理の内容とその根拠を科学的手法によって語るものという理解で問題ないでしょうか。 厳密に道徳語るなら、そこにはやはり輪廻に触れる必要はありそうです。 危険な穴は塞がなければ全てが崩れ落ちますから。(穴があるから生活する人が全員駄目になるとかではなくですよ。たとえば数式に矛盾点があるようなものです。ある範囲では使えますが、穴を使っていくらでもおかしなことが成り立ちますね。あくまで喩えですよw)  <<哲学が 主題として扱わないというのは 《証明も出来ないし 反証明もできないことがらである》として 扱っておくという意味です。仮りに 未知でなくなった・つまり 経験知として知り得たときには どうするか。知り得た材料にもとづいて 判断するというものです。>> 哲学が根拠と範囲を重視し《証明できるもの、反証を受け入れる》という生き方・生命について科学的なものであるなら、、、今までの哲学といわれるものはほとんど捨て去られそうですねw 理性ある人によって、範囲と根拠を示した、道徳論理面での対話によって見解の構築をする=「哲学」。だったら個人的には嬉しいですね そのような「哲学」でも、暫定的な論理哲理として触れることは無難なことと思いますよ。 もちろん経験・実証できることが重要でしょうから、どのような方法によって実証できるかも言う必要があるでしょうね。 ブッダは一応その方法も語っていたと記憶していますが。 ともかく知る前のある程度の根拠を有した論理における暫定的な見解を構築することも経験科学的哲学?に重要なことでしょう。 輪廻の話も。 とはいえ、理性的な人ならどうしても一番重要な「生命の分析・生きるとは?」から、根拠として強いと思われる「感覚」から始まることになるでしょうね。 「完全に知る」までは「暫定的見解」として範囲と根拠を重要視し柔軟に再構築をしていく必要がありますね。範囲と根拠を示さず「言い切る」「決め付ける」と「私は全て知っている」と言っているようなものですから(私の使う「信仰」になって科学的な態度ではなくなってしまいますからね)。 そのような「哲学」があったら・知っていたら教えてください。 お釈迦様意外で。

bragelonne
質問者

お礼

 ☆ という迫り方は ご自分の特有のものです。ご自分の前提事項に合った《哲学》があれば おしえたまえと言っているのです。  けれども 誰もが その前提を妥当だと思っているわけではありません。ほかにも 道はあるのです。それでも この迫り方に合った方法をと思って 少しは こちらが 考えようとしても けっきょく  ★ お釈迦様以外で。  ☆ とあります。つまり ご自分の行き方に立ちますよと 念を押して宣言しつつ 相手に問いかけています。  まだ 中間の結論ではあるのですが やはり こう受け取らざるを得ない状態ではないでしょうか? つまり こちらが 今回 何とかして 共通の前提に立とうとしたこと  ☆☆ (No.67補足欄)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  そうすると おそらく〔ですが〕 無神論に立つと思われるブッディスムと 有神論に立つキリスト信仰とが 互いに 容易に 対話をすることができる。こういう問題です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ という対話の道を ここまででは あなたは 意図してか せずにか分かりませんが はっきりと 拒み 放棄しようとしている。こういう姿勢でいらっしゃる。としか 捉えられないのですが いかがでしょう?  * ★ 私の使う「信仰」は「無根拠の決め付け」のこととして使ってます。  ☆ この定義は じつは あなたのように 科学的手法によって論証・実証して 悟りにすすむという場合でも その最終の境涯については まったくの《憶測》によっているということですから そのまま 当てはまるのです。それこそ 《無根拠の決め付け》なのです。  《信仰》は そうではなく 《絶対》を想定したあと これを《無根拠》として それと《わたし》とのあいだに持たれる関係を言います。  非思考ですから ほとんど 何もありません。わづかに 心の明け もしくは 伸び これが あるのです。これだけで この信仰は すべての経験的な思惟や行動の 今度は 根拠になることが しばしば起こるという実際なのです。――まづ このような事実を受けとめるところから 始めなければいけないのではないでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 magga さん ご回答をありがとうございます。  たぶん 道半ばというところでしょうか。ただし この道というのは 互いに共通の認識を確かめ合って いざというときの出発点に立つまでの道のりです。まだ その段階です。    ひとつには 姿勢が ちがっているようです。今回は この姿勢の話のみです。  これは いま 哲学としての対話(質疑応答)ですが その内実は 哲学を学問として 扱うために 理論を立てようとしているわけではないのです。互いの対話をするには どういう前提をおき その前提内容を どのような共通の認識として 定義したりしておけばよいか。そうして あとは 論議じたいをすすめればよいとなるか。  そのための交通整理です。  magga さんは――ほかの回答者の方々にしても 多かれ少なかれ そうなのですが―― これこれの立ち場に立って 回答を寄せるという性格がつよくていらっしゃる。したがって 互いの前提事項にかんして 交通信号などを 事前に 決めておかないと 話は 空回りになる。こういう問題です。  いづれにしても 《絶対》ないし《神》ということばは 一般に 使われています。わたしの側は これらの言葉を 用語として 使いますと言っています。それに対して どうですかと尋ねているわけです。そういう意味での  ★ 「前提条件の有の想定」  ☆ です。この交通標識にかんして 共通の認識が持てなければ いくら回答をもらっても 仕方がないということになりますから。  もし  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  こちらはいかがです?   ≪相対しかない≫という想定に対し   ≪相対しかない≫ということはある   ≪相対しかない≫ということはないの二択w  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは 《絶対 / 神》という語を使わないようにしようというご提案でしょうか? ここは 学問的な論理の問題ではなく 実際上の必要に応じるための《前提についての取り決め》なのです。一般的なあそび(学問的な)として 前提を決めようということではありません。    つまりは ここまで 前提領域で 足踏みしなければならないというところを見ると どうしても あなたは 自分の側の用語で その用語の定義を共通の前提として 話がしたいということのようですね。  ところが その方式での話し合いは じつは すでに われわれの間では 済ましています。けっきょくは 《悟り》もしくは 《ブッダのおしえの普遍科学性》について 現段階では 《推測ないし憶測》にもとづいて 《科学的で正しい》と判断して 修行をしているということだったわけです。  そのことじたい(つまり 信教・良心の自由に属することがらじたい)を なじるわけではありませんが その《おしえ》について 一般的な妥当性があるかの問題になると あるとも ないとも言えないという結論になったわけです。二千五百年を経ても その証明が出来ていないではないかというわけです。    では これから もし わたしの質問に投稿してくるというのであれば いったい どういう共通の前提に立って 応答すれば よいのでしょう? なんら意味のないことに 時間を割こうとは わたしは 思いません。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「完全に知る」までは「暫定的見解」として範囲と根拠を重要視し柔軟に再構築をしていく必要がありますね。範囲と根拠を示さず「言い切る」「決め付ける」と「私は全て知っている」と言っているようなものですから(私の使う「信仰」になって科学的な態度ではなくなってしまいますからね)。  そのような「哲学」があったら・知っていたら教えてください。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

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