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『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。 以上、よろしくお願い致します。
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こんばんは。 部分回答のみの私見で申し訳ありません。 【Q-1~3】←パス 【Q-4】 一見、いとも容易くゴーギャンの主観や意図が読み取れそうな近づきやすさがあるけれども、 見れば見るほどに、余計に訳がわからなくなってくる感じ。 とらえどころのない壮大さと深遠さを抱く人生観・世界観が描かれていると思います。 「光」と「影」、「美しさ」と「醜さ」、「賢さ」と「愚かさ」、「歓び」と「悲しみ」、「原始」と「文明」、「生」と「死」、「過去」と「未来」等など。 あらゆる全てを包み込んでいる絵だと感じ入りました。 【Q-5】 この絵画にこのタイトルが本当に相応しいのか真意の定かは知れません。 ですが、絵画とタイトルに共通項を見出すなら、≪わからない≫の一言だと思います。 何が「良い絵」で何が「悪い絵」なのか。 何が「美」で何が「醜」なのか。 一体誰が本当にゴーギャンの描いた意図が真に理解できるというのか。 この絵を鑑賞する者の価値観は各々異なるだろうし、仮に「わかった」として、いったいそれの何が本当に≪わかった≫と言えるのだろうか。 ゴーギャンはこの絵を通じて≪自らの命題≫を観る者全てに永遠に問いかけ続けたかったのだと思います。 わたしたちの誰にも『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』なんてわかるはずもないのに。 ああ、なんて陳腐な文章なんでしょう!(笑)
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
>現在のところ、Q1~3については、いかがお考えになりますか? これは、即ち、 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います の背景を想像することになりますね。 ここから先は、戯言になります。 まず、この絵のタイトルで「われ」ではなくて「われわれ」にしていることろに自他の同一性および同時性、共感、さらには自己と世界との同一性をも予め想定している世界観を感じます。 そして、この絵はもちろんタヒチの臭いがするのですが、実は全く違うものを表そうとしているように感じるんですね。 戦慄するのは、 私の『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』の風景がこの絵の前面におぼろげながら ふっと 投影されるということです。それが答えと感じ取ります。 だからこそ、作者は、このタイトルを自信をもってこの絵に名付けているように思うんですけどね。
お礼
バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。常に鋭く本質を射抜くあなたが、この絵に引きつけられるかのように、身を任せておられることは、ぽこぺろぽには少し驚きです。それほどまでにこの絵は見る者を、「われわれのいるべき場所」へと誘います。私はこの絵に、ゴーギャンが包括的世界観とするであろう、アイデンティティとシンクロニシティを強く感じます。
補足
「われわれ」とはどこからどこまでを指すのでしょうか?よろしければお答え願います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
No.5のブラジュロンヌ子爵二等兵です。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ しかし子爵ブラジュロンヌは、他の質問にも答えたように、輪廻をかなり懐疑的に見ておるようだ。 余が再び生を受けたように、民は「セカンドチャンス」を欲している、現世において完結した自己の生の重さから逃れたい。つまるところ「現実逃避」を転換した願望にすぎないとは思わぬか? 答えてみよ。答えたなら元の大佐の階級に戻れるように計らおう。よろしく頼むぞよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ぽこぺろぽ陛下 陛下におかれましては はなはだ窮屈なお考えをなさっております。いけません。 この世 この一生のあいだにて いく度もの機会が 得られるようにとこそ わたしどもは 生まれて来ております。 セカンドチャンスどころか 千回万回億万回のめぐりあわせに遭遇する機会が 与えられておるわけでありまして よもや 陛下が この賜物を お忘れにてあらせられるとは 驚天動地 おてんとさまが 西から上がる仕儀にあいなりますかに 危惧されてなりません。 いかがおぼし召しでいらっしゃいましょうか。 余録にて。 かかる意味にて ★ どこから また どこへ ☆ なるお問い合わせにつきましても たしかに ○ いま・ここ〔なる わたし〕 ☆ が とうといとこそ聞き及んでおる次第です。 ○ 永遠の現在 ☆ とも言われております。どこからも どこへも この今に収斂しているやに うかがっております。 お耳汚しにて失礼いたしました。
お礼
ブラジュロンヌ子爵どの、ご回答いただきありがとうございます。輪廻につきましては、私がそのような考えを持っているのではなく、人間の後悔や諦めに対する慰めとして、輪廻が発明されたのではないかと考えております。まあ、人生一回こっきりで悟りを開くのは至難の業です。それに対する言い訳です。もしもあなたと私の意識が融和したなら、われわれはひとつとなり、それぞれの人生をも共有できるのでしょう。そのためにここに来て、ここにいる、ここに居続けるのだと考えます。余談ですが、『モンテクリスト伯』は読みましたが、『ダルタニアン物語』は読んでおりませんので、子爵という称号がピンときません。次に読む小説は『ダルタニアン物語』とします。
補足
余もめんどくさいので、下々の言葉に戻すぞよ。そちはもとい、大佐はフランスにお詳しいようですが、ゴーギャンにつきましてはいかが思われますか?よろしければお答え願います。
- fishbowl66
- ベストアンサー率29% (36/121)
ご質問者様のご期待にお応え出来ませんが、 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います について、書かせてもらいます。 名古屋ボストン美術館は、入り口を入ると、右手の壁面に、かの絵のレプリカが鎮座しています。・・いました。レプリカと言えども元々大作ですから、圧倒的存在感を示すレプリカでしたね。さて、今回、もし、現状のままレプリカが存在するとしたら、階上の展示室に丁重な(う~むこんな凡庸な表現)扱いを受ける本物、この本物とレプリカの差異とはどんなものでしょうか、もし、本物を見に行くとすれば、それが一番の楽しみです。 こんなことを言うのは可笑しな事と思われるかもしれません。 ゲルニカもそうかもしれませんが、この絵も、絵というよりは、一種のテクスト・記号のような気がします、ですから、複写できるのです。 洋画・日本画を問わず、複写ではなく本物だから(実物)だから、香りを感じてしまったり、風を感じてしまったりする絵がありますね。 つまり、この絵は、複写できる、と個人的に考えています。 もっとはっきり言えば、美しくない。 さて、本物を見て私の考えが変わるかどうか、もっとも、人ごみの中で絵を見るような気にはなれないのでレプリカで満足しています。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? これらの三つの質問は古くからあることです、「われわれ」「どこ」がどの範囲を指示するのかわかりませんが、 仮に、私たち「生命」が何処から来たかといえば、海、と答えます。
お礼
フィッシュボウさん、ご回答いただきありがとうございます。奇しくも、このぽこぺろぽも名古屋圏に住んでおりまして、名古屋ボストン美術館へお出かけになった際の、詳しいご案内は大変参考になりました。是非、鑑賞に足を運ぶつもりであります。レプリカとはいえ、写実描画ではありませんから、おおよその雰囲気は感じ取れるのでしょうね。なかなかに楽しみであります。ところで私はあなたのご質問で、いちおう哲学的にお答えしたつもりではあります。マジで。
補足
海と「生命」に、いかなる関連があるのでしょうか?よろしければお答え願います。
- mmky
- ベストアンサー率28% (681/2420)
追伸【Q-4】 ナガール竜樹では難解すぎるかもしれないので釈尊の言葉を借りて説明してみましょう。 ゴータマシダッタは「人は何故生まれ、病になり、老いて死ぬのだろう、若い元気なままでいられないのだろう。」という疑問を持ちその回答を求めて王宮を出ます。 このときゴータマの眼に映っていたもの、それがポール・ゴーギャンの絵画に見て取れますね。 生まれてきた幼児、子供、光り輝く若い女性、子供の母、老いた女性など、でも青白き死神からは誰も逃れられない。 ポール・ゴーギャンも「生老病死」問題への入り口に達したことは確かですね。信仰の入り口程度の宗教しかない西洋人で悟りの入り口に達したことは立派なことですね。でもそれ以上ではないということですね。同じような認識が山頭火ですね「分け入つても分け入つても青い山」、それ以上なんにもわからんということですね。ポール・ゴーギャンであれば「分け入つても分け入つても黄い女性」ですね。ゴッホは「分け入つても分け入つても黄い風景」ですから同じですね。ポール・ゴーギャンも晩年になり理解したんでしょうね。ゴッホと同じく人生の意味がわからないというところに達したということを。 これ以上の答えはナガール竜樹が提示していますが、さらに理解不能かもしれませんね。でもこれは出家成道の釈尊の悟りのごくごく一部でしかないのですね。絵画は悟りのレベルそのものですね。 追伸【Q-5】 迷い:人生「生老病死」とは?
お礼
MMでKYさん、追ってのご回答をいただきありがとうございます。ゴーギャンはこの絵を描く前に自殺を図っています。この絵は調和を表しているようにも見えますが、タイトルへの結論めいたものは読み取れません。彼の母性への強い憧憬も感じ取れます。結局は彼の目に映ったものの中から、強く印象に残ったものを描写したのでしょう。「何もわからない」きっと彼はそれがわかれば十分だと考えたのでしょう。「生・老・病・死」は、絶対不可避な「苦」です。思いは馳せても、抗うことなく受け容れる。これしかお答えできません。いかがでしょうか?
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
宗教的な背景は既に提示されているようですので、それらと交えて【Q-4】への回答(?)として感想を書かせていただきます。 さて、絵の方は、ネット上で比較的簡単にみることが出来ます。 http://blogs.yahoo.co.jp/silentsignal21/49921673.html http://blog.livedoor.jp/meigakan/archives/cat_25032.html?p=2 この中のサムネイル画像をクリックすると大きく表示されます。 また、上記URL中に、たとえば、「ゴーギャンが人生の中で一番つらい時期に、自身の苦しみやタイトルにもなっている3つの問いかけをこの作品に描いたという。」というように、タイトルの背景について簡単に書かれています。 ゴーギャンについての詳しい情報は専門書に譲るとして、wikipediaを含めて、ネット上で生い立ちをみることが出来ます。http://nonkikusuri.blog27.fc2.com/blog-entry-231.html http://www.salvastyle.com/menu_impressionism/gauguin.html さて、問題の絵ですが、素人なりに感想を書かさせていただきます。 まず、動物を除いて、すべて女性のように思われ、赤ん坊から少女(果実をかんでいる)、思春期位の少女(中央で「禁断の実」を思わせる実をつかんでいる)を含め、あらゆる年齢層の女性が描かれています。それぞれが皆、無関心かのように描かれています。彼女たちは屈託のないタヒチの住民を表しているとも取れますが、(亡くなった自身の娘を含めて)ゴーギャンが関わってきたあらゆる女性達を描いているようにも見えます。 そうして、何人かは、特に若い成人女性と目される人物の多くがこちら側(作者側ないし鑑賞者側)に視線を投げかけていますが、絵の題目が疑問文であるため、彼女らがその問いかけを行っているかのごとくにも見えます。絵は青を基調として描かれており、中央左よりのところに、青く光る偶像を配置しています。これは「ティキ」と呼ばれる石像と何らかの関係があるかもしれません。 http://www.tahiti-tourisme.jp/activities/history.html さて、彼女らが表題の疑問を「こちら側」へ投げかけているとすれば、当然、絵を描いている途中のゴーギャンにもその問いは「投げ返されている」わけですから、彼自身の思いはこの絵を越えた向こう側へ、さらに「投げ返されている」かもしれません。そういった視点から、更に絵を見ていくと、左右上端には三角形の黄色を基調とした背景(?)が書き込まれています。 なんだが、中央の少女が禁断の実をもぎ取った途端に、前面の青を基調とした絵がベローンと剥がれ落ちてきて、あるいは、塗りつぶされてしまって、(輪廻転生のごとくに)次の絵が現れてきそうな雰囲気を醸し出しています。 晩年、タヒチ住民を擁護しつつ、キリスト系教会とも争ったとの記述が上記参照URL内にも書かれていることから、キリスト教系での生命に対する考え方と地元住民の古来からの宗教観との交錯が含意されているように思われます。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。作品の詳しいご解説をいただきました。絵の中には女性と思しき人々に加え、動物や豊かな自然も描かれています。ゴーギャンが問い掛けた「われわれ」は、とりわけ人類を指しますが、生きとし生けるものすべてが含まれるのではないでしょうか。
補足
ゴーギャンの主観における、キリスト教と土着信仰の交錯について、ご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
回答じゃなくて個人的意見です。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? ここからきた。あるいはずっとここにいた。 【Q-2】 われわれは何者か? 今ここにいる自分ー自他同一であり、自己同一であるところの自分 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? ここにい続ける。 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います この絵のこと知らないんです、ごめんなさい。 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います 多分、人生に悩まれたのではないかと・・・ ある種の、人格の階層に関する問題、と思います。
お礼
羊さん、ご回答いただきありがとうございます。われわれは始めから、ここにいて、あなたと同じく、私はひとつで、ここにいつづける。きっとそうなのでしょう。私はこの世界の秘密をわかってはいませんが、永遠にここにいるのでしょう。あなたとともに。
補足
人格の階層に関する問題とは何でしょうか?よろしければお答え願います。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います この作品には、日常を超越し多層に折り重ねられた時空間を感じます。 普通の描写にはない超立体感がありますね。実物の迫力を絶対に見に行くつもりです。 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います これはゴーギャンでないと答えられないでしょう。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 思うに、これを3つの視点に分解してそれぞれを語ると的をはずします。いずれも同じことを指していると同時にいずれも欠くことができません。
お礼
バナナサンドさん、ご回答いただきありがとうございます。私もゴーギャン展には、まだ足を運んでおりません。会期中には必ず鑑賞するつもりでおります。それにつけても、とりたてて立体的な描図とは言い難いにも拘わらず、不思議な奥行きを感じますね。ご鑑賞されたら是非ご感想をお聞かせ願います。
補足
私も思索するうちに、3つの問いは連関し、ぶつ切りで考えると混乱をきたすような気がしてきました。現在のところ、Q1~3については、いかがお考えになりますか?よろしければお答え願います。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
- ベストアンサー率16% (203/1213)
ぽこぺろぽ陛下どの ブラジュロンヌ子爵が お答え申し上げます。 ★ 意味深なこの言葉 ☆ について まづは 質問趣旨に つぎの箇所を掲げておくのをお忘れになったものと存じます。 ▲ (『ヨハネによる福音』8:14)~~~~~~~~~~~~~~~ イエスは答えて言われた。 ――たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは 真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、 わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがど こから来てどこへ行くのか、知らない。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 一見もしくは三見くらいでは ただの高慢な男の高ぶり発言にしか過ぎないようですが 押さえておくべきではないでしょうか。 さて またもや その筋からの引用で 恐縮ですが 参照してもよい話があります。 ▲ (『ヨブ記』 1:7) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 主はサタンに言われた。 ――お前はどこから来た。 ――地上を巡回しておりました。ほうぼうを歩きまわっていました。 とサタンは答えた。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ サタンとは 何ものなのか 必ずしも つまびらかにし得ませんが おそらく 《主》だとか《イエス》だとかの言葉に 嫌悪感をもよおす方々のあいだでは この《サタン》は なじみ深いものがあるのではないでしょうか。 もしこの筋――えぇっ どの筋? いえ ともかく これらの役者さんたちが揃った筋です――においては やはりともかく 《ほうぼうを見てまわっている》サタンさんから 主と呼ばれる者は 報告を受けております。何の報告かと言えば われわれ人間が いかに 生きているか・どれだけ サタンのもとに集合し その手下になったか こういったことの仔細な内容であろうと考えられます。 でしたら 【Q‐1~3】 われわれはどこから来て われわれは何者であって どこへ行くのか? ☆ については おのづから 答えが 決まっているものと思われます。最初に引用した記者ヨハネの記事が 明かしていると言わざるを得ません。 それが いままで じんるいが得た最高最大のうそとして ご質問への唯一の正解であるというものです。 ちなみに 無神論が ○ われわれは 生まれたからには 生きるだけである。 ☆ こう論じ こう説いても 一向に 新しい答えにはなっていません。まったく同等・対等で しかも けっきょくのところ 同一の正解です。 わたしたち人間は 多少のうそのほうが ほんとっぽい気がするもののようです。 余談です。 ぽこぺろぽ皇帝陛下どの。ブラジュロンヌ二等兵(じつは 降格人事がありました)が見ますには 世に 《輪廻転生》なる世にも不思議な流行が 思想しております。 これは とうぜん 因果応報説を伴なわなければ ばかみたいな流行だと思われます。わたしは 国土生成のころ イザナキのミコトのお伴をしていたのだよとか 社会が二階を増築するころ おほきみの辺にこそ死なめ 返り見はせじと歌っていたのだよとか 覚えていたとしても 屁でもありません。何がおもしろいのでしょう? ところが 輪廻転生のもとに 因果応報を説くなら われわれ人間のやること為すこと みなすべて 自業自得であるというものです。何をしても ことごとく 過去世からの因果になります。そう言えば 通ります。――わたしたちは これほどに 愚かになって いいものなのでしょうか? この情けなさは もし悲しむならば その悲しみが そのつど 倍になって 膨らむというものです。もしうっちゃっておくならば 情けなさ自体が 宇宙にまで 膨張していくというヰルスのようであります。 われわれ人間は これほどまでに 阿呆であってよいのでしょうか? よろしければ 陛下のくしゃみのおひとつにても この深いうれいに満ちた空気を 吹き飛ばしていただきたく ここに お願いいたすものです。 陛下におかれましては ごきげんうるわしく遊ばせますよう。
お礼
回答、ご苦労であった。褒めてつかわそう。余がヨブ記とヨハネ書を引用しなかったのは、引用しないほうが、皆の衆の懇切丁寧な解説が聞けると考えたからである。亡国者ゴーギャン某は、これらの言葉を知りつつも神を懐疑し、結果としては否定できなかったと考える。彼が死の境地で認めた神がキリストではないだろうが。まあ、たとえわが領土なれ、タヒチなどという蕃地に遊ぶ非国民などは、倦み苦しんだところで自業自得であるが。余は神の一部である。神は神だけでは何の意味もなさない。存在するため、経験するため、この宇宙を創られた。ちなみに余が尊敬語を用いるのは、神に対してだけである。
補足
実は、余は一日だけ皇帝に即位し、ギロチン台の露と消えたぽこぺろぽ一世の生まれ変わりである。あまりに非業の死であったため、大天使ミカエルの特別な計らいで、煉獄から連れ出されたのだ。しかし子爵ブラジュロンヌは、他の質問にも答えたように、輪廻をかなり懐疑的に見ておるようだ。余が再び生を受けたように、民は「セカンドチャンス」を欲している、現世において完結した自己の生の重さから逃れたい。つまるところ「現実逃避」を転換した願望にすぎないとは思わぬか?答えてみよ。答えたなら元の大佐の階級に戻れるように計らおう。よろしく頼むぞよ。
- magga
- ベストアンサー率15% (56/359)
【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【A-1】 一つ前の原因の結果。業の因。 【Q-2】 われわれは何者か? 【A-2】 五蘊。 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 【A-3】 今を原因とした結果。業の果。 「因となる今」は業であり意思。 そのように考えましたw
お礼
マッガさん、ご回答いただきありがとうございます。やはりわれわれとは五蘊そのものなんですね。ぽこぺろぽも五蘊への深い悟りがほしいものです。
補足
因果応報とはよくいったものです。今生においても、前世のカルマは負うのでしょうか?よろしければお答え願います。
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。ぽこぺろぽは絵心があり、哲学にご関心のある、女子からのお答えを大変うれしく思います。ゴーギャン展には足を運ばれたのでしょうか?私も直に鑑賞するつもりでおります。この絵に「陰陽」を感じとられたようですね。ゴーギャンがタヒチに移った背景には、キリスト教への懐疑と、広義のシャーマニズムへの憧憬があるのかもしれません。また包括的な世界観も見受けられます。「存在たち」を描きながら、「世界」を描き切れずに、余った部分を、鑑賞者への問い掛けとしたのではないでしょうか?十分に明快な文章ですよ、ご心配なく。
補足
せっかくお答えいただいて、イチャモンをつけるわけではありませんが、Q4、5のご回答を任意としたにも拘わらず、それにはお答えいただき、Q1~3についてはご回答されない方が、マシュマロさんの他にもお見えになります。やはりお答えづらい設問なのでしょうか?せっかくですから、Q1~3についても、よろしければ参考までにお聞かせ願います。