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『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。 以上、よろしくお願い致します。
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- tumaritou1
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再びの回答となります。 われわれは何のために生まれて来たのでしょうか?神(仏)の思し召しでしょうか?それとも自らの意志でしょうか?よろしければお答え願います。 この問いは、本当は自分が自分自身に問いかけているものと言えます。子供の笑顔は世界共通です、金があってもなくとも子供には笑顔があります。子供は天国に住んでいます、それは天国を求めていないところにあります。明日がどうなるのか?不況で職がないと言っては嘆く事はありません。 人生は何であるか?自分は何のために生きているのか?自分は何者?という事を問いかけたりはしません。ですが幼子は十分幸せに満ちています。あべこべに幼子は人生を分かっています、自分は何者かを分かっています、そうして何のために生きているのかという事を知っています。 それらの問いはすべてがつながっています、一つが分かれば全ての謎が解けます。それが「悟り」です。自分自身がその答えを知っています。悟りとは悩んでいる自我意識が、悩ませている自分自身と出会うという事です。悩み、苦しみの元が自分自身という事が分かります。それ以後悩み、苦しみはなくなります。 簡単に説明するなら、脳の機能の問題です。子供の脳は左右が未分化です、その事で心は一つしかありません。思春期頃に脳の機能は分化が完成に近くなります。その機能の違いが分からないことが「無明」という事になります。左脳に一つの人格が在る。右脳に一つの人格が在る。という事です、その二つの人格が「仲たがいをしている」姿が人生苦と言えます。すなわち心の分裂です。地獄です、精神疾患です、神経症です、自律神経失調症です、すべてを総称して生きて行く障害と言えます。 この解決が「聖書」や仏教の根本をなしています。そこに至ることを「道に至る」と言います。その道に至ることは簡単と言えます。それは分別を捨てるだけで良いからです。好きと嫌いで世の中を見ています、その見方を変えるだけで良いからです。ですが至ってからは簡単と言えますが、その道は誠に困難を極めます。手の着けようがないからです。 そのためのテキストが禅問答です。禅問答は左脳の分別では手が付けられません、なぜならば左脳の機能では不可能と言えるからです。左脳の能力では不可能、と分かることが悟りです。「大死一番」という事になります。一回自我意識が降参する必要があります、その時に右脳に在る神、或いは仏性が出てきてすべての問題に答えを出してくれます。 悩みや、苦しみとは、右脳に振り向けてやる問題を、左脳に振り向けたことになります。矛盾した問題、或いは割り切れない問題を割り切れることしかできない脳に答えを求めている事になります。心は堂々巡りをしています、悪循環に入ります。答えなどは出ません。何故ならば答える機能がないからです、言い方を変えたならば、ソフトの入っていないコンピューターに、答えを要求している事になるからです。 その解消が禅問答の中にあります。その答えは「おまえは誰か、と聞く必要がなかった。」という事になります、誰でも毎日何百回も会っているからです。ですが会ってみないと分かりません。自分自身で経験しないと、わからないことと言えます。もし興味があるようでしたら鈴木大拙博士の著書を読んでみてください。博士は体験から禅を説明しています。分からない事を、親切に説明してくれています。
pokoperopo様、御心のこもったお礼をどうもありがとうございました。 ゴーギャン展に行かれたのですね! やはりさすがのド迫力だったのでしょうか。 わたくしは夫とボストンで拝見したのですが、当時はいまほどに深く哲学的思索もせず、ただの美的絵画鑑賞に留めたのみでした。 ですから、このたびのゴーギャン展が当時に想いを馳せて二重の意味で楽しみですし、新たな発見があることを期待しているのです。 >ひそひそと打ち明け話をする二人連れの女は、ミサに出掛ける最中に見えてなりませんでした。 >ゴーギャン自身のキリスト信仰を時系列で描いたのかもしれません。 ああ、なるほど。言われてみればそう思えてきます。さすが! >不思議なのは画面中央左の、右を向いて歩く女です。さまよっているかにも見え、ゴーギャン自身のキリスト信仰の揺らぎを表しているのではないでしょうか? >ゴーギャンはタヒチの風景や人々の描写を通して、自身の宗教観の移り変わりも示したのだと思います。 なるほど、彼女は「さまよい人」のように思えますね。 身に着けている服の色も独特ですし、タヒチの土着神に背を向けているポーズは、キリスト教信仰とのはざまにいるのかも。 諦観ですか。おっしゃる通りですね。 ゴーギャンは…最期の瞬間には、いかなる信仰に辿り着いたのでしょうか。 >すでにお読みかもしれませんが『百年の孤独』がお好きなら、是非ともお読みいただきたい作品です。 >全編が人間のおどろおどろしさに満ちています。 わたくしのほうこそ、素晴らしい引用をご紹介くださいまして、心底嬉しく思います。ありがとうございます! 【Q-1】は『知の欺瞞』ですか。なるほど~。 あまりに魅力的な一文でしたので、すでに密林にて注文済みです。 明日あさってに到着予定ですので、今から読むのが楽しみです。 ありがとうございます。 おっしゃるところの「つまり科学的には我々の起源は解明されておらず、われわれはその思惟によってしか、その答えを導き出せません。また異なる見解も否定することもままならないのです。」は【Q-3】にも同様の余地があるのかもしれません。 奥が深いと思いました。 【Q-3】はいかにもpokoperopo様らしいなあ、と拝察致しました。 >「ゴーギャンも太宰もタナトスへの憧憬が見受けられます。私は死後は天国や地獄へ行くのではなく、あの世という並行世界に行くのではないかと考えています。」 なるほど、タナトスへの憧憬ですね。確かにそうかもしれません。 あの世という並行世界をpokoperopo様はお考えになっていらっしゃるのですね。 一人一人にとって、思いのままの死生観があって至極当然ですものね。 ゴーギャンにとってはいかなるものだったのでしょうね。 【Q-2】 「母なる大地の代わりに、祖母なる大地が、雨を受けて感応して稔りをもたらし、死せる人間の身体を受け入れる━という女性の神話的イメージは、ここでスカートのなかの宇宙に凝縮されている。 ここでは、太鼓は、男の原理の側にありながら、へだてられた時間、男と女の差異を解消する媒介の役割を果たしている。(281頁)」 「…ぼくの知っているところでは、レオがまだ神学校にいるころ、ある晴れた日に、世界、秘蹟、告解、生と死というものがレオからすっかりずれてしまい、そのため、以降、レオの世界像はなるほど狂ってしまったが、非の打ちどころなく光り輝いているということだった。(284頁)」 わたくしは上述の『文化の詩学』(山口昌男 岩波書店)「「スカートの中の宇宙」を読んで映画のみ拝見しているにすぎません。 ですが、何とも言えず、大変に印象に残った映画の一つでした。 そして「原作と映画の間に引き裂かれる観客」と記されているほどに、差異が存在するようです。映画もご覧になられたのでしょうか。 pokoperopo様のご推薦もありましたので、この機会にぜひ小説の世界も堪能したいと思っております。 で、肝心のpokoperopo様の『われわれは~』は、いったい何とお書きになったのでしょうか??
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。以前のご回答にも引用していただいたとおり、タヒチの神話には惹きつけられる何かがあります。ネシアの神々は上から見下ろすのではなく、われわれを映し出しているように感じます。『ブリキの太鼓』の映画制作者の蛮勇は称賛に値します。この物語の舞台の映像化は用意ですが、グラスの心象世界の映像化を試みて、陳腐化しないわけがありません。映画のことはお忘れになったほうがよろしい。ちなみに映画は、小説全3部のうちの第1部のみです。 それから先に引用した聖句の口語訳を添えます。 「天の下では、何事も定まった時期があり、すべての営みには時がある。 生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。 愛するのに時があり、憎むのに時がある。戦うのに時があり、和睦するのに時がある。 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。しかし、人は、神が行われるみわざを初めから終りまで見きわめることができない。 私は見た。人は、自分の仕事を楽しむよりほかに、何も良いことがないことを。それが人の受ける分であるからだ。だれが、これから後に起こることを人に見せてくれるだろう。」(「伝道者の書」第3章1.2.8.11.22節 『聖書 新改訳』 日本聖書刊行会) この聖句の前には、私の記した言辞などは戯れ言です。ドウドウ、落ち着きなさいな。何と書いたかは、あとでお話ししますから。それよりぽこぺろぽらしいとのご指摘は、何を指してのことでしょうね。
補足
『「知」の欺瞞』をお求めになったのですね。かなり衝撃的な論文です。私は、『百年の孤独』、『ブリキの太鼓』、それから(『巨匠とマルガリータ』ミハイル・ブルガーコフ)が、戦後の世界三大文学だと思っております。このうちの一冊でもお好みなら、すべてをお気に召される可能性も高いと思います。是非ともお読みいただき、ご感想をお聞かせ願います。私は現在、ご引用いただいた『ゴッホの手紙』を読んでおります。他にお薦めの本がありましたら、紹介していただけませんでしょうか?私はご回答が寄せられなくなると、すぐに質問を締め切ってしまいますが、本質問はたとえお一人でも、ご回答をお寄せいただける余地があるかぎりは、締め切らないつもりでおります。どうか長いおつきあいをよろしくお願いいたします。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> ゴーギャンは複数の宗教概念を、止揚し昇華を為し得たとお考えになりますか?よろしければお答え願います。 <<< ですが、残された絵に巡り会う「誰か」が、そのように捉える(そのような概念が立ち現れる)ことができたなら、「そうである」といえるでしょう。 彼が「止揚し昇華を為し得た」かどうかは問題にはならないと思います。ただし、彼が「止揚を想い、昇華を為そうと想い」といった方向性にて絵を描かれたのであれば、そのように見てしまう人々が多いかも知れないですよね。 >>> 私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか? <<< そのように感じられたのであれば、その感覚も「あり」だと思います。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。ゴーギャンはこの作品に大変な自信を持っていましたが、のちに自殺を企てたことからも、信仰心を昇華させたとは言い難いでしょうね。彼は母性を強く追い求めたのだと考えます。彼は女性ばかりの世界の中心に立ち、収穫による献身を望んでいたのかもしれません。
- tumaritou1
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われわれから仏性を取り除いたら、どうなってしまうのでしょうか?よろしければお答え願います。 という事なので、私見を述べてみます。 仏性というものを説明するとしたら、それは「命の働き」という事になるのでしょうか?ツバメが学校に行かなくても行く先を知っている事に相当します。或いは、クモだっても、何も習わなくても実に立派なクモの巣を張っています。 人間はそれ以上の脳を与えられています。人間が学びながら成長してゆきますが、それは左脳にある自我意識が分別を学んでいるという事になります。学問とはものを割り切ってゆく事の別称と言えます。科学といっても同じことです。先にも書きましたが、分別が人間の歴史を作ってきたとも言えます。人間の合理性が人間社会の発展を作っています。 所がその割り切った考え方、合理性だけでは人間は納得できないことに気が付いています。この事は心に在る漠然とした不安或いは、自分の心が自由に働かないことに気がつきます。それが心の分裂です。 人間の心は自由を求めています。有限の自分の体、或いは命の叫び、或いは、永遠への憧れです。有限の身が、永遠の命を渇望します。このジレンマが「病」の元を作っています。このジレンマを心に感じたときに心は病んでしまいます。人間が強く願う時にある人は深淵の暗闇へと落ちて行くかも知れません。 所がその深淵から再び蘇ってくるかも知れません。今度は絶対の安心と自由を手にして。心の分裂が病の元をなしていて、心の分裂が、その無明を照らすかも知れません。自分の心を圧迫していたものは自分自身と分かるからです。 自我意識と、自分の命の働きが一緒になって働くときに「天国」にいる事になります、つまり幼子と同じになります。 自我意識と自分の命の働きが二つになった時に「地獄」に落ちます。心の分裂を意味しています。その最たるものが精神疾患です。或いは神経症です、或いは自律神経失調症となります。 幼子の心で、或いは大人の嬰児が出来上がれば無病息災と言えます。すなわち「不安心即安心」という事になります。涅槃という事になります。これが仏という事になります。 仏性がなくなればどうなるのかという事ですが、是は「命の働き」という事なので、心臓の働きも止まる、呼吸も止まる、という事になると思います。その時に自我意識が共に在れば、「神の思し召しのままに」という事で幸せなことになります。今ここが天国という証です。 共に在るという事は、絶対肯定という境涯の事です。悟りを得るという事は自分自身の「絶対肯定」している者と、仲直りをするという意味になります。自分自身の心半分が神であり、仏であり、宗教であることが分かることになります。右脳にはそういう訳のわからないものが存在していると思います。気のせいかも知れません?良く分かりませんが?
お礼
つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。仏性とは生命の働きそのものなのですね。以前、私はある人から「私たちはこの世に何をしにきたのか?」と尋ねられ、「肉体は魂の乗り物、魂は経験を欲している、魂を満たすために、肉体は素晴らしい経験へと案内しなければならない」と答えたことがあります。なぜか憑かれたように、そう言ってしまった記憶があります。今でも会えばその話が出ますが、自分でもよくわかりません。
補足
われわれは何のために生まれて来たのでしょうか?神(仏)の思し召しでしょうか?それとも自らの意志でしょうか?よろしければお答え願います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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中央の果実を摘むもののみが男だったとするならば、キリスト教での男女の立場を入れ替えた構成を「あえて」描こうとしたのかもしれないですよね。 実物を見ていないので何ともいえないですが、ネット上で閲覧可能な範囲では、女性でないとすれば、中性的な存在に感じます。 少なくともゴーギャンは、2種類(もしくはそれ以上)の宗教概念を、(微妙に異なる描写をあえてとることで)幻想的に記述し、組み合わせています。それらは、見る者に何らかの違和感を抱かせながらも、女性という概念(および基調となる「青」)から生み出されうるオブラード的な「安心感」で包み込むことで、複数宗教の多義図形的な描出を行ったのかもしれません。 いかなる宗教を信じる人であっても、その絵の中に自身の信仰する宗教を見いだし得るとすれば、そういった宗教的な対立を越えたところにて「われわれ」という概念を提示し、3つの疑問文を添えたのかもしれません。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。画面中央の人物は、おっしゃるとおり中性的に見えますね。しかし私は、描かれている成人の中で唯一人、乳房の膨らみのないことから男であると考えます。ゴーギャン自身を投影したのかもしれません。キリスト教の男尊女卑に対するアンチテーゼとは興味深いご考察ですね。私は、ゴーギャンはただの女たらしかもしれないと勘繰っています。母性への憧憬が強く見受けられることから、カトリックのマリヤ崇拝の残滓とも考えられないでしょうか?
補足
ゴーギャンは複数の宗教概念を、止揚し昇華を為し得たとお考えになりますか?よろしければお答え願います。
pokoperopo様、こんにちは。 わたくしがトンチンカンな回答を寄せてしまってお礼がストップしてしまったのならお詫び致します。ごめんなさい。 で、「ゴーギャンがタヒチに移った背景には、キリスト教への懐疑と、広義のシャーマニズムへの憧憬があるのかもしれません。また包括的な世界観も見受けられます。」のお礼を再び拝見させていただいたうえで、 おっしゃるとおり、すでに当時はキリスト教義一辺倒ではなくなっていた、加えてタヒチの土着信仰もしくはポリネシアの神話が大い影響していたであろう、とわたくしも強く思いました。 ただ、はたしてキリスト教に対しどの程度懐疑的だったかにつきましては、絵画の縁最上部より果実をもぎ取ろうとするイヴと食べる少女、四次元空間さながらの不思議な暗闇から出づる(楽園追放を想起させる)女性二人が絵画の最中央に描かれていることから、キリスト教の教義を完全に捨て去るところまではおよそいかなかったのではないか、と考えます。 また、命題『われわれは~』とシンメトリに描かれた絵画最上部両端の箇所とイヴの身体がひときわ鮮やかに黄色くシンクロしているかのように映ります。 さらに、絵画の右半分と左半分とに分けて、総じて各絵画のモチーフがシンメトリに描かれています。 たとえば右側に横たわる赤ん坊と視線を投げかける女性たち、活動的な犬、楽園の出口を想起させる不思議な洞穴と茂み。 かたや左側には孤独・病・死を想起させる女性とかたわらに座る視線を投げかける女性、おとなしい犬、ポリネシアの神、山、海、大地にわき出でる真水の泉等など、おおまかに配置されて描かれています。 (あくまで素人の私見ですので、細かい矛盾につきご指摘をいただけたらありがたいです。) 最後に、ポリネシアの神話についても少しふれて〆させていただきます。 あまり聞きなれない神話ですし、この絵画と因果関係があるかは定かではありません。 ですがあくまでご参考までにということで、この絵画に描かれた背景に何らかの新たな「象徴」を見出していただけたら幸いです。 「この世の初めに、タガロア神がただ一人、空間のなかにあった。空もなく、国土もなかった。彼がただ一人空間のなかを行ったり来たりしていた。 ところが彼が立ったところに、岩が一つ生えた。タガロアは、岩に「破裂しろ」と命じた。 岩が割れて神々が生まれ出た。 タガロアが右手で岩を打つと、岩の右側が割れて、大地と海が生まれ出た。 タガロアが右にまわると真水がほとばしり出た。 次に彼が岩に語りかけると、天が生まれた。 タガロアはまた岩に話しかけて、少年少女や、精神、情緒、意思、思考などを生み出した。 こうしてタガロア神の、岩からの創造行為は終わったが、これら生まれ出たものは、海上を漂い、固着したものは何もなかった。 次にタガロアは岩に命じて、精神、情緒、意思、思考などを人間の中に入れさせた。 またタガロア神は天地を分離させ、島々をも造った。 ・・・月神はシナ(ヒナ)といい、神々の衣服を作るため、樹皮布をたたいていたが、その霊は昇天して月となった。 月中の紬ぎ女あるいは織女に関する神話は東南アジアにもある。」 『世界神話辞典』角川選書432頁
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。実は二度目の蟄居を申し付けられており、ログインが許可されませんでした。ご心配をおかけして申し訳ありません。私の心にはあなた専用のお部屋が用意してありますよ。「ゴーギャン展」で本物のド迫力を堪能しました。ゴーギャン自身の絵の説明もありましたので、ここでは私見を述べます。画面右側に描かれた、ひそひそと打ち明け話をする二人連れの女は、ミサに出掛ける最中に見えてなりませんでした。ゴーギャン自身のキリスト信仰を時系列で描いたのかもしれません。不思議なのは画面中央左の、右を向いて歩く女です。さまよっているかにも見え、ゴーギャン自身のキリスト信仰の揺らぎを表しているのではないでしょうか?ゴーギャンはタヒチの風景や人々の描写を通して、自身の宗教観の移り変わりも示したのだと思います。そこにはキリスト信仰への未練も感じました。私もキリスト信仰を捨てましたので、胸にズシンと堪えました。おっしゃるとおり、キリスト信仰を完全には断ち切れない迷いや、諦観からくるタヒチ土着信仰への憧憬の間にいたようです。名古屋ボストン美術館には、この拙問と同様に『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』を、観覧者が項目別にそれぞれの考える答えを、カードに書き記すコーナーが設けられていました。私が何と書いたかは、お返事をいただくうちにお教えしましょう。
補足
「ゴーギャン展」を観に行きました。件の絵の前にずっと立ち尽くしてしまいました。マシュマロさんは「ゴーギャン展」には出向かれた、もしくはそのご予定がおありでしょうか?あるいは本場ボストン美術館でご覧になったのでしょうか?
- sheep67
- ベストアンサー率28% (36/128)
#7です。 補足要求いただいてたんですね、済みません。 人格の階層、という言葉は適当かどうか分からないです。 ただ、問1,2,3は、それぞれ、過去、現在、未来、の概念について、と捉えます。 生まれる前、と死んだ後、と取るよりは、過去と未来がなぜあるのか?という意味かなーと思ったので。 この問は、「今を生きる」と言うことには反してます。偉そうなこと言ってますが。 過去現在未来ーー時制が頭に浮かぶのは、自己の分裂が原因です。 なんでやねん?というのは、ちょっと長いので省略です。 生きることに対する集中が、嫌なことがいろいろあって、だんだん落ちてきたから、というような説明ではどうですか? 集中の度合いが下がると、分かれ方は個性や直観により様々ですが、人格が分かれるのは同じと思います。 人格の分裂を、外から見ると、単純な構図では、上と下に分かれます。一番よくあるのは意識と無意識ですが。 心理学的なこの図式は、単純すぎますが。 時間を感じるのは、この世の特性ー時間、空間、物質の性質を基礎、前提条件として、成立する、後天的な人格があるため、と思ってます。(つまりそれらを感知する5感ー脳神経系の把握機能の性質かな?~仏教の唯識を参考に) 不安が、そういう本質と切り離された人格を作り上げた、とおおざっぱに思います。 で、今度は、その人格ーしゃばの人格とでも、この世の人格とでも呼んでるんですがーー、その人格が、例えば親や子供や、男性、女性、先生 生徒 会社員など、様々な人格(ペルソナ、単に役割、仮面、などと表現されます)、を作ります。 これらの多様な人格には、序列があるのはわかってもらえますか? すごく厳密なところは僕も考え中で、いわゆる仏教的な無からの、日常扱い使用する人格がどうできあがるのか?というシステムのことですが。 階層、と書きましたが、下から上でなくても、上から下でも、右から左でもいいんですが、とにかく並んでるので、そんな言葉を当ててます。 単純な3段重ねのホットケーキ、みたいな単純なのなら楽なんですけど。 物理学で規定される様なこの世の性質に対応した基礎的な人格が、階層構造に分裂して一人歩きしてる、それ故時間空間を感じると言うことで。 昔、ロンドンの霧は、詩人がそれを詩に読むまでは存在しなかった、と言います。 あるいは、アメリカ人は、今でも肩こりを知りません。それに対応する単語がないからだそうです。 認識は、そんな性質があります。それは時間の把握にも当てはまります。 集中の深さレベルが変化するとき、人間には自覚が発生しますが、集中のレベルが「下がる」時に起こる自覚の例として、上の例えを書きました。 逆に我に返る、あるいは、アイデンティティーの自覚などは、集中の度合いが上がるときに発生します。(と思います、多分・・) 済みません、話長いですね、きりがないし終わります。
お礼
羊さん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。「ゴーギャン展」に出掛けてまいりました。この絵にはたくさんの人々が描かれ、それぞれにはゴーギャンのアイデンティティが投影されているように思いました。人格の階層でさまよっているとのご指摘には納得が行きました。私も一段上の階層へと昇華したいものです。
補足
ゴーギャンは最終的に、どの人格の階層に到達したと思われますか?また羊さんご自身は、どの人格の階層に到達しておられるのでしょうか?よろしければお答え願います。
- tumaritou1
- ベストアンサー率28% (260/913)
つまり問うさんの禅問答に期待しましょう。と言う事なので、答えてみます。只期待には添えるかどうか分かりませんが? I-われわれはどこから来たのか 是は人間の意識すると言う処からきた問と言えます、人間には認識し難いですが、毎日何百回と「意識」と「無意識」に入れ替わって生活が成り立っています。仏性は無意識の世界を司っています、或いは人間の生命の実権を握っています、体の事も一切実権を握っています。心臓の高鳴りも、脈拍数の計算も全てやってくれています。実に捕捉が出来難くなっています。何故ならば、意識がなくなるのと入れ替わって出てくるからです。 従ってもし貴方が悟りを開く(仏性と出会う、或いは、神と出会う)と言う機会が有るとするならば、それは雷が鳴る時間の1/100秒よりも短いかも知れません。それは二つの心がどちらになるのかの一刹那の事と言えるからです。自我意識と仏性が二つに分かれる時の一刹那と言う事です。心は絶えず入れ替わって人間の生活が成り立っています。 貴方が急ブレーキを踏むとしたならば、それは貴方の自我意識の命令を受けないで、仏性の命令で足がフートブレーキを踏んだ事です。「思わずに」身体が、心が突き動かされる時が有ります。それは仏性がそうしています。その時にははっきりと分かります。自分は何処から来たのか、我々は何者か、そうして我々はどこに行くのか?その答えは、違って見えますが、実は繋がっています。ひとつが分かればみんな分かります。 そうして極楽や天国が何処に在るのかと言う問いの答えも見つかります。その答えは「今、此処」がそのまま天国と言う事が分かります。人生に苦悩が付きものと考えていました。処が、その苦悩のままに救われていた事が分かります。人間には地獄と言うものが無かった事に気が付きます。悩みや、地獄は自分で作り出していた妄想だったと気が付きます。 元々人間には苦悩などなかったと言う事になります。只、分別の世界が勝手に作り出した幻想にしか過ぎなかったと判ります。それが分からないのは自分が自分を知らないだけと言えます。自分自身が分からないと言う事が、「救われていない」証拠と言えます。それが「無明」と言う事になります。本当に判り難い事です。それを説明しだしたら、聖書が出来上がりました。或いは仏教の経典が出来たと言う事になります。
お礼
つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。人間は刹那に生きるといいます。その瞬間ごとに生死を繰り返すそうですね。時はどこから始まり、どこで終わるのでしょうか?それを見極めることが『われわれはどこから来たのか われわれは何物か われわれはどこへ行くのか』を知る鍵になるかもしれません。もしかしたら、今この時しか存在しないかもしれませんね。われわれは、「われわれ」でしかないのでしょうか?
補足
われわれから仏性を取り除いたら、どうなってしまうのでしょうか?よろしければお答え願います。
たどり着けない境地(?)とは生きて駆け回り絶望したり希望したりしても完全は掴めはしない、どうしても分化された不完全な世界に留められている。その外にいた頃より内に(自然に)還ることかも。 完全な世界があるとするなら社会的な本能がある存在として(人間が社会に育まれて得る必須のもの、死を怖れる概念なども本能に見なす)、個と認識されること、自ら意志表明すること等は完全否定される!が神の要素となって万能にして絶対真理の神と共に生き長らえるといういうこと(汎神論では)。 翻弄されたくない都合を理由に善行も悪行も出来なくなります(主客対立の崩壊、属性がないようで全体に一致しているから)。この境地に対して人間は何一つ文句も言えず、だからこそ永遠無限超越的存在とされます。 それに反して万能ではない絶対唯一神というのは、人間の価値観に追従した人間の官僚並みの人格という枠を持っているといえるでしょう。
お礼
御子弟子さん、ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。ゴーギャンは、自と他、個と全、の区別に迷っていたのではないでしょうか。文明社会やキリスト教会に背を向けたのも大いに関連がありそうです。たどり着けない境地とは、彼が感じた文明社会と未開社会、その彼我のギャップにあるかもしれませんね。それはなかなか埋まるものではないでしょう。
補足
絶対唯一神と汎神論を用いられましたが、まさにゴーギャンはその間で揺り動いていたと思います。神を擬人化、個別化することに意味はあるのでしょうか?よろしければお答え願います。
- 来生 自然(@k_jinen)
- ベストアンサー率30% (80/261)
No.8で回答したものです。 補足欄にある質問に対する回答を書いて見ます。 ======= > ゴーギャンが問い掛けた「われわれ」は、とりわけ人類を指しますが、生きとし生けるものすべてが含まれるのではないでしょうか。 問いかけの主(ないし問いかけられる側)を「絵画を見る側」とすれば、そのようになりますが、「絵画の側から」とすれば、そのようなことにはならないと思います。 なぜなら、(私の解釈が誤っていなければ)ゴーギャンは明らかに「女性」に限定して描いています。 私は、このことが非常に重要だと思っています。 ======= > この回答への補足 ゴーギャンの主観における、キリスト教と土着信仰の交錯について、ご考察をお聞かせください。よろしくお願いします。 タヒチの土着信仰がどのようなものであったのかについては、タヒチ観光局のサイトでも「不明な点が多い」とのことであり、推測の域を出ませんが、ティキとマラエに関して記述されたサイト http://www.tahitiguide.com/@ja/8/29/59/article.asp などが参考になります。 青く光る偶像が「ティキ」と関連するかもしれないと書きましたが、上記サイトでは、人物を模した「ティキ」が「体格の良い高慢な男性の形」であり「腕は下へ折り重ねられて」いて「首が」なく「頭が(直接)身体に貼り付けられている」と記述されています。 「この絵画」での偶像は、このような形式とはまったく正反対の像を呈しています。 また、タヒチでの聖なる色は「赤と黄色」であり、「青」を基調とした絵は、明らかに「タヒチ」の宗教色と相反するものです。 さらに言えば、「黄色」はキリスト教でも聖なる色になっているようです。 前回の回答では、「この絵画」の上端両側に背景が黄色の領域を見て取れることから、ゴーギャンの求める先が「黄色」の世界では?としましたが、逆に、「黄色の世界」の上に「青色の世界」を上書きしたともとれます。そうして、描いた絵画を越えた向こう側へ思いを馳せていたのかもしれません。 すなわち、ゴーギャンは「キリスト教」や「土着信仰」といった押し付けの宗教に対して何らかの想いがあったのでは?と思われます。 で、ゴーギャンが数多くの疾患に苦しみながら、「問いかけの主(ないし問いかけの対象)」を女性としたとするならば、彼の内面では、既に答えがあったのではないでしょうか? それは、 1.幼少期に父が死んで、母との旅をしたこと。 2.多くの男の子に恵まれながらも、たった一人の娘の死を嘆き悲しんだであろうこと。 3.複数の女性と関係を有したであろうこと。 これらのことから推測するに 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 母なる女性から来た 【Q-2】 われわれは何者か? 女性との関係から逃れえぬ者 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? この絵画を越えた「向こう側」(モニュメント・知的切断面としての「この絵画」を貫く方向としての、彼の情的方向) だと、思われます。 ======== なお、「この絵画」に限定しない場合の、私自身の一般的な回答は、 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? われわれを含む「全体」から来た。 【Q-2】 われわれは何者か? その人が「こういったものである」と思うものである。 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? われわれを含む「全体」に帰っていく。 となります。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。お返事が遅くなり申し訳ありません。先日「ゴーギャン展」に行ってまいりました。やはり本物はド迫力でした。やはりあの偶像は気になりますね。タヒチの土着信仰に敬意を表したのかもしれません。丁寧なご解説と、ゴーギャンとご自身、それぞれの視点からお答えいただきました。よくぞここまで掘り下げられましたね。つくづく考えさせられます。
補足
画面中央の果実を摘む人物のみが男であると思われます。これは何を意味しているのでしょうか?よろしければお答え願います。
お礼
つまり問うさん、ご回答いただきありがとうございます。そうですね、イエスも「子供のようであれ」と言っていますね。仏教にもキリスト教にも共通した教えです。脳に答えを求めると、悪循環に陥るのですね。迷路に迷い込まないように、あるがままに身を任せることが肝心なのでしょうか?
補足
過去の拙問においても、鈴木大拙博士の著書をお薦めいただきました。しかし多くの著書があり、どれが入門者向けの著書かわかりません。つまり問うさんのお薦めは、どの著書でしょうか?よろしければお教え願います。