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『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』
質問タイトルはポール・ゴーギャンの絵画に同じです。 ゴーギャン展の開催にあたって、予てより私の胸の片隅で引っ掛かりのあった、意味深なこの言葉について皆さんのご考察を伺います。 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何者か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? 【Q-4】 この絵画のご感想をお聞かせ願います 【Q-5】 ゴーギャンがこの絵画にこのタイトルをつけた背景をお教え願います なお【Q-4】、【Q-5】に関しましては任意にご回答願います。 以上、よろしくお願い致します。
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- 来生 自然(@k_jinen)
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一つの説(たとえば玉玉混淆の玉)として「ゴーギャンが中央に描かれている」というのも「あり」でしょう。 もう一つの考え(たとえば石石混淆の石)として「ゴーギャンは生死を越えて絵に向かい続けている」というのも「あり」なのではないでしょうか? >>> http://gauguin2009.jp/items4.php これらの人物像のほとんどは、ゴーギャン自身の作品の中で頻繁に描かれてきたモチーフのヴァリエーションであり、それらモチーフはまた、彼が主に写真や複製を通じて親しんでいた世界中の様々な美術作品や遺物のイメージをその源泉としている。旧約聖書の楽園追放を想起させる中央の人物はレンブラント派の素描に基づき、さらにインドネシア、ジャワ島のボロブドゥール遺跡からの影響も見られる。(中略)古今東西様々な出自を持つモチーフが、ゴーギャン一流の手の込んだ変奏と融合を被った上で、夢幻的な空間の中にまるでコラージュのようにちりばめられている。 <<< >>> http://gauguin2009.jp/items4.php ゴーギャンの言葉 私は、死を前にしての全精力を傾け、ひどい悪条件に苦しみながら、情熱をしぼってこれを描いた。 そのうえ訂正の必要がないくらいヴィジョンがはっきりしていたので、早描きのあとは消え、絵に生命が漲ったのだ。これには、モデルだの、技術だの、規則だのと言ったものの匂いはない。 このようなものから、私は、いつも自分を解き放ってきた。ただし、時には不安を覚えながらね。 「タヒチからの手紙」(岡谷公二 訳)からの抜粋 <<< 。。。「どこから?」 彼は、彼の知り得た知識といままで描き続けてきたあらゆるモチーフの全て、すなわち彼自身の全てから、彼自身の抱いている(抱いていた)イメージをキャンバスに投影した。 。。。「なにもの?」 そうして、ほとんど全ての視線を描いている自身に向けさせている。 。。。「どこへ?」 その状態で、自身の生命を絶とうとした。 向かう先は、絵画の中?(玉・玉座?)、それとも向こう側?(石・意志?) ※東京国立近代美術館の「ゴーギャン展の作品解説」が参照できたのですね。。。 最初の拡大像のスクロールは圧巻ですね。
- 山路 独(@j59fmk53jh)
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《神の存在の証明》と、表裏一体を成す、知的生命体が持つ、根源的設問です。 物質の存在理由がわからぬ限り、回答不能です。慌てて宗教に落ち込まぬようご注意を。
お礼
ご回答いただきありがとうございます。生命の起源や物質の存在過程は解明されておりません。このことは、他のご回答者も私も指摘しており、正答が確認しようもないことは、言うまでもありません。 >《神の存在の証明》と、表裏一体を成す、知的生命体が持つ、根源的設問です。~まさにおっしゃるとおりです。われわれは、科学が神や生命の存在の秘密を突き止めるまで、この問いを封印しなければならないのでしょうか?宗教に解決の糸口を求める者もあれば、哲学に求める者もいます。古代の哲学は、物質の成り立ちを問うことに、多くの労力を割きました。あらゆる物質は、《地、風、火、水》の、四要素で構成されていると考えられていたのです。地球を中心に、天が動いているとも考えられてしました。地球が円いことも知らなかったのです。今でこそ、こんな説を唱える者はいませんが、間違っていたからといって、先人が愚かとは言い切れないでしょう。こうして、探求しつづけるのが、われわれ人類です。わからなくても道筋をつけるのが哲学です。よろしければ、私や皆さんと一緒に、この根源的設問を考えていただけませんか?
補足
ご指摘の、回答不能という意味は理解できます。しかし、回答不能にも拘わらず、ゴーギャンが問い、これほど多くのご回答が寄せられたのは、なぜでしょうか?よろしければお答え願います。
- littlekiss
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こんばんは、pokoperopoさん。 きみが- よ-は ちよに-- やちよに さざれ いしの いわおと な りて こけの む - す - ま -- で http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Kimigayo.png 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何物か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? ↓ 【コケをわかる 2.コケの特長と生活史】 http://www.ous.ac.jp/garden/intro/wakaru2.html 【ゼニゴケシダ】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BC%E3%83%8B%E3%82%B4%E3%82%B1%E3%82%B7%E3%83%80 【二つの時代を生きる植物:シダ】 http://www.biological-j.net/blog/2007/08/000272.html
お礼
リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。伊勢神宮にある「さざれ石」をご覧になりましたか?風雪を経るとは、まさにあれですね。コケを見ていると気持ちが和らぎます。これも、日本人のDNAに刻まれているのでしょう。生命の起源が同じだとしたら、人類と他の生物は、なぜこうも違うのでしょうね!?
補足
苔類と人類は、仲間といえるとお考えでしょうか?よろしければお答え願います。
pokoperopo様、こんにちは! いつもながらの鋭い洞察力と作品に対する真摯な態度に頭が下がる思いです。 是非とも見習わねば。 あのですね、昨日『NoaNoa(ノアノア)』(ちくま学芸文庫)というゴーギャンのタヒチにおける冒険譚を読んだのですが。 もうとっくにお読みになっていらっしゃいますでしょうか。 >画面中央の人物は、ゴーギャン自身に違いありません。彼がのっぺらぼうに近いのは、自虐したゴーギャンの人格を投影したくなかったからでしょう。馬鹿げているどころか、私も唯一ともいえるほどに、確信が持てる点です。 上述のpokoperopo様のご主張に絡み、p46~47を以下に引用させていただきます。 「タヒチでは、森や海の大気が肺を強健にし、肩幅や腰を広くし、海辺の石や陽の光は、男も女も容赦しない。 女たちは男と同じ仕事をこなし、男たちには女の懶惰がある。 なにか男性的なものが彼女たちのうちにあり、彼らのうちにはなにか女性的なものがある。 両性のこの類似のために、彼らの関係はむずかしいものではなくなり、いつも裸でいても、まったく潔癖であり、風俗のなかから、未知なるもの、謎めいた特権、偶然、あるいは上首尾にいった窃盗といった観念のいっさいが取り除かれている─文明人における愛のサディスティックな特徴のいっさい、恥ずべきこそこそした色合いのいっさいが。 「野蛮人」にあっては、両者間の違いが希薄なために、男と女は、恋人になると同じく友人にもなるのであり、悪徳と言う概念そのものもなくなってしまうのだが、何故また、この違いの希薄さが、ふいに、真新しく未知なるものの恐ろしい魅力をともなって、悪徳という概念をおいぼれの文明人に呼び起してもいたのだろう。 私達はただ二人きりだった。 なにか罪の予感がした、未知なるものへの欲望、悪の目覚めを私は感じた。 ついで、つねに強く、保護するものでなければならぬ雄の役割に嫌気がさした、担わねばならぬ重い肩に。 愛し従うかか弱い存在にひとときなってみること。…」 仮に中央の人物がゴーギャン自身を投影したものだとするならば。 pokoperopo様のご主張「私にはゴーギャンの芸術センスはともかく、彼に慈念さんのような明晰さがあったとは思えないのです。」が、おおいに頷けるだけに、その人物とは「雄を意識した従来の文明人的な男性ゴーギャン」としてではなく「野蛮人であるタヒチの男性のように【両性具有】化したゴーギャン」として描かれているのだと思いました。 >ゴーギャンのユートピアと走馬灯の錯綜です。 >少ないモチーフで、死生観や世界観を端的に表せなかったので、多義図形的な観点から表したのだと思います。 >美しい真理は常にシンプルです。死に行く彼に、そのプロセスを微細に説明する時間は残されておらず、見たもの、描いたもの、夢見たものをちりばめたのが、あの作品ではないでしょうか? >彼の魂は今もさまよっているのです。 なるほど、素晴らしい推察ですね! でもね、 >ある意味、大いなる失敗作ではないかと考えております。 >そこがまた、彼のミステリアスな魅力でもありますが、もう少し彼が達観していたら、最も美しい一点に絞れたのではないでしょうか? う~ん、これは言いすぎじゃあないでしょうか?(笑) 彼の表現スタイルが、よりプリミティヴにかつ、主観的なものに象徴(シンボル)を希求していく方向に向かっていったわけですから、カオス的雑然とした世界観こそを絵画上の至上命題としていたのではないでしょうか。 >ゴーギャンの唱える〈言葉の虚しさ〉を知るのが、『創作者たるマシュマロ』の価値命題なのではありませんか? う~ん、『創作者たるマシュマロ』の箇所に〈言葉の虚しさ〉を痛感させられました。 余計なお世話なんだから、んもう!(笑) ps:『部分と全体』ハイゼンベルク/みすず書房 了解致しました。ご推薦をありがとうございます。 『知の欺瞞』は『遅の欺瞞』と化しつつあります♪
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。ご指摘の、『ノアノア』は、恥ずかしながら未読であります。ゴーギャン存命時に、出版が頓挫したところから、軽視しておりました。われわれにとっては、必読書ですね。こりゃまた、痛いところを衝かれました。他の推薦書ですが、過去の拙問、「岩波文庫」qa4826500を、ご参照ください。素晴らしい本ばかり、ご推薦いただいております。未開のタヒチでは、男女の役割差が少なく、交錯している印象がありますね。ゴーギャンの描くタヒチの女たちは、力強ささえ感じられますが、画面中央の人物には雄々しさが見られません。さすがですね、ここらへんはもう少し考える必要があるでしょう。大いなる失敗作かもしれないとは、言い過ぎではありますが、ゴテゴテしている大作よりも、説明を必要としない美しい小品のほうが、佳作といえることも少なくはないからです。しかし、カオスであるから、ゴテゴテしているのでしょう。敢えて、ゴーギャンに対する熱情を、突き放すために否定してみました。マシュマロ先生は、すっきり派なのでしょうか?
補足
初期のゴーギャンの印象派的な作品群は、個人的には駄作、あるいは二流そのものであると考えておりますが、これは素人考えでしょうか?実は、美術カテで、ゴーギャンの絵画技法について質問するつもりでおります。よろしければお答え願います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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じねん&じんえんです(笑) >>> 多義的要素も、混乱の一因となります。玉石混淆を見極める膂力を持たなければ、真に多義図形的な知覚を得るに到りません。 <<< 厳密に言うと「多義図形」と「不可能図形」とは概念的にずれています。 多義図形で有名なものは「婦人と老婆」の絵です。 絵にしても、記号にしても、言葉にしても、多義性という概念から逃れることは出来ません。(そういう意味からして、可能図形としての多義図形に該当します。) http://www.psy.ritsumei.ac.jp/~akitaoka/tagi3.html 「われ」を含む主体(たとえば「われわれ」)と「絵」との出会いにて生じうる「意味・概念」に対し「玉石混淆だ」という概念が生じる場合には、そのような多義性は意識すらされることはないでしょう。すでに「玉とは何か・どういった概念か」が意識されているわけですから。 多義性が強く意識されるときは、「われ」を含む主体(たとえば「われわれ」)と「絵」との出会いにて生じうる「意味・概念」に対し「玉玉混淆だ」という概念、ないし「石石混淆だ」という概念が生じる場合です。 >>> 輪廻感の程度の関連という、ご指摘の意味が理解できません。よろしければ詳しくお教え願います。 <<< 多くの神話は、○○の起源ないし原因についての説話を扱っています。 そこに書かれている言葉の中に「玉」を見いだしうる(すなわち「玉石混淆だ」といった概念で捉えうる)と考えた場合、そう考えるだけの理由(論理的思考)の枠組み・構造を内部に有していることが多いでしょう。 たとえば、 >>> カナンの子孫がセムとヤペテの子孫の奴隷となると予言した <<< を、コーカソイドの視点から「玉」だとみなしたときに、歴史上の多くの民族の悲劇が生み出されてきました。 彼らに「もし仮に」輪廻の思想があったとしても、「コーカソイドの子孫はコーカソイド」であって、別の人種に生まれ変わるといった思想は生じ得なかったのではないでしょうか? この場合、「輪廻の思想」はないでしょうが、輪廻「感」という言葉で表すならば、「輪廻感が弱い」といった概念で捉えることができると思います。ただし人種差別の根源を説話に(まで)求めようとする傾向、すなわち「因果・因縁」概念は「強い」と言わざるを得ません。 一方で、「強い輪廻感」を有するのは、コーカソイドからみた、いわゆる東洋世界の一部(特にヒンドゥー教)においてです。 その「輪廻感」を「無ないし空」にまで弱めたのが仏教でしょうが、「われ」や「因果・因縁」という概念をも含めて全てを「無ないし空」として扱うとすれば、たちまち「虚無思想」へと落ち込むでしょう。まさに、ごく最近まで西洋にて誤認されていたことと重なります。 >>> ロジェ=ポル・ドロワ 『虚無の信仰』 2002 トランスビュー Roger-Pol Droit : Le Culte du Neant 1997 島田裕巳・田桐正彦 訳 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0878.html <<< で、因果概念を否定しない場合、「われ」といった「個」の輪廻感を否定的にみたとしても、「われ」を含む「われわれ」といった「共同体」の背負ってきた歴史・背景の「われ」ないし「われわれ」への影響を否定することは出来ません。 たとえば「われわれ」を同一概念(たとえばコーカソイド、人類、または生命)として捉え続け、 「われ」は「われわれ」の内部から来て、「われわれ」を構成し、「われわれ」の内部へと帰って行くとすれば、「われわれ」の過去における所業の報い(すなわち、因果からの応報)を受けるべきものとして存在するとなるでしょう。 これでは、輪廻を否定したとしても、(因果を認める以上)逆に輪廻感が強いと言わざるを得ません。 一方で「われわれ」を別概念とすれば(ヒンドゥー教や仏教の諸概念と関連する「われ」の輪廻感の程度はどうであれ) 「われ」は(ある)「われわれ」から来て、(別の)「われわれ」を構成し、(更に他の)「われわれ」の内部へ行くことになるわけですから、構成員が完全に入れ替わってしまえば、「共同体の過去の歴史」に縛られることなく、(共同体としての)因果関係を完全に打ち消して再生することも出来てしまいます。そういう意味では、輪廻感が弱いとみて良いと思います。 一方で因果関係を否定せずに、「われわれ」を同一概念とし、「われわれ」を小規模な民族に限定せずに「全人類」ないし「全生命」ないし「全体」といった概念へと拡張する(ある意味「一神教化」する)を導入すれば、(限られた共同体としての)「われわれ」の過去の呪縛(因果)から逃れることも出来ます。 それはキリスト教の布教の歴史と重なり合うことでしょう。 >>> フィリップ・レクリヴァン 『イエズス会』 1996 創元社「知の再発見」双書53 Philippe Lecrivain : Les Missions Jesuites 1991 垂水洋子 訳 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0222.html <<< 本質問での主題となっているゴーギャンの絵をよく見ると、絵の上両端の「黄色」と同色系で描かれれている「光の明」の部分に相当する色で塗られた肌と「土色」と同色系の色で描かれている「光の影」の部分に相当する色で塗られた肌を有する人々とが認められます。「光の明」の部分は果実をもぎ取ろうとしている人物を含めて、画面中央からやや下方にかけての三角形の領域です。 前にも指摘しましたが、青い偶像と同系色の色は、上両端の黄色系の領域を除く背景(どちらかといえば、中央から右側)を満たしています。 これら配色の意図するところは想像の域をでませんが、「可能図形としての多義図形」ないし「玉玉混淆もしくは石石混淆」といった概念で捉えていいのではないだろうか?と思う次第です。 >>> 佐治晴夫 宇宙の不思議 PHP研究所 1990・PHP文庫1996 http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1226.html === 本書、佐治晴夫の『宇宙の不思議』は、このゴーギャンの問いから始まっている。まことに佐治さんらしい。 佐治さんはゴーギャンにつづいて、鴨長明(42夜)の『方丈記』を引いた。そして、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし」の一文には、「絶えることのない流れ」という不変性と、「もとの水ではない」という変化性との両面の見方が捉えられているということを指摘し、その相反する見方の統一こそが宇宙や世界を見るのに必要だという示唆をした。 <<<
お礼
人縁さん、ご回答いただきありがとうございます。いろいろ教えていただきました。詳しくはのちほど、#53のご回答への、補足と返礼にてお話しいたします。まずはお礼まで。
pokoperopo様、こんにちは! えっと、まだ回答を申し上げておりませんでした。 せっかくpokoperopo様から頂戴しているというのに。すみません。 >【A-1】われわれはちりから出た >【A-2】われわれは働く者である >【A-3】われわれはちりに返る >神は人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めからおわりまで見極めることはできない。 >以上の答えは「伝動者の書」第3章の抜粋であります。われわれは何もわからない。だから問い続けるのでしょう。われわれは皆、同じ属性を持ちますが、ひとりひとりに役割があり、それぞれの働きが生きる意味ではないでしょうか?分子レベルの小さな結合がわれわれで、役割を終えたわれわれは、また小さな分子へと帰っていくのだと考えます。 わたくしはかつて他の質問で、同様の回答をしたことがあります。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4515652.html No.15のnoname#76229がわたくしです。 「宇宙の塵として宇宙空間を彷徨い」の前後をご覧下さいませ。 【A-1】ならびに【A-3】のわたくしの回答に繋がる箇所に相違ありません。 pokoperopo様とは「神」の定義や「心のよりどころたるテクストの有無」の差こそあれ、かなり酷似していると勝手に考えております。 わたくしの場合、「神に興味が薄い」ものの、「神そのものの存在までは否定しているわけではないし、おそらく信仰に値するものがあるのだろう」とただ漠然とした想いを抱いているにすぎません。 また、ご回答の「【A-2】われわれは働く者である」は、この世に生まれてきた以上は何らかの尊い意味と役割をもっているのだから、それを大切にし果たすべく、不器用ながらも懸命に生きる、といったわたくしの考えと同様の意味をなすようにも思えました。 >「画面左端の家鴨が蜥蜴を捕えている図は、言葉の虚しさを表している」と彼自身が説明しているからです >これらの女性との関係から、画面中央の人物以外が、すべて女であることや、「さまよえる女」の正体が、読み取れるかもしれませんね。いかがでしょうか? なるほど、そういうことだったとは知りませんでした。 ご教授下さり、ありがとうございます。 「言葉の虚しさ」とは具体的に「何を表現するのに虚しい」とゴーギャンは想起したのでしょう。 また、絵画中の女性達に込められた想いの内には、ゴーギャン自らが関わってきた多くの女性たちへの回顧や憧憬、恋慕の念なども当然ながら加味されていたのかもしれませんね。 娘アリーヌはいったいどこに描かれているというのでしょう。 少し馬鹿げた発想なのですが、中央の女性ではないヒトが、何やらゴーギャンのように思えてきました。 ここはひとつ、pokoperopo様のご懸念通り、バタイユの「毒」に冒されてしまった挙句の迷走妄想と一笑に付して下さいませ、フフ♪ 次は『知の欺瞞』をていねいに読了してからお邪魔させていただきます。 ありがとうございました。
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。あの絵の正体がわかりましたよ。つまりは、ゴーギャンのユートピアと走馬灯の錯綜です。#39のご回答とその補足やお礼をお読みになってください。私にはゴーギャンの芸術センスはともかく、彼に慈念さんのような明晰さがあったとは思えないのです。少ないモチーフで、死生観や世界観を端的に表せなかったので、多義図形的な観点から表したのだと思います。美しい真理は常にシンプルです。死に行く彼に、そのプロセスを微細に説明する時間は残されておらず、見たもの、描いたもの、夢見たものをちりばめたのが、あの作品ではないでしょうか?彼の魂は今もさまよっているのです。ある意味、大いなる失敗作ではないかと考えております。そこがまた、彼のミステリアスな魅力でもありますが、もう少し彼が達観していたら、最も美しい一点に絞れたのではないでしょうか?あの構図は群像とは呼べません。ゴーギャンが、娘アリーヌを描いたのかはわかりません。しかし、画面中央の人物は、ゴーギャン自身に違いありません。彼がのっぺらぼうに近いのは、自虐したゴーギャンの人格を投影したくなかったからでしょう。馬鹿げているどころか、私も唯一ともいえるほどに、確信が持てる点です。例に挙げられた質疑応答の質問者には甘えが見られます。b氏が、輪廻転生を哲学の主題に取り上げられることを、忌み嫌われるのも理解できます。マシュマロさんのお答えは、そんな質問者を甘やかすことなく、しかも優しさに溢れています。永遠も人生も美しいのです。しかし、美しいとは思えないからこそ、われわれは死を恐れるのです。ちりに帰ったからといって無になるわけではありません。再びこの宇宙に溶け込むのですから。われわれは《部分》の集まりです。《部分》としてのわれわれが経験し、神という名の《全体》にフィードバックされ、この世界を象るのです。もう一冊行ってみましょう。(『部分と全体』ハイゼンベルク/みすず書房)
補足
この質疑応答も、言葉のやりとりに他なりません。五感を働かせることが芸術への道でありましょう。触覚に関しましては、愛する人の手を取り、目を閉じて手に届く物に触れてみてください。聴覚に関しましては、“BRIAN ENO/THURSDAY AFTERNOON”を聴いてみてください。ゴーギャンの唱える〈言葉の虚しさ〉を知るのが、『創作者たるマシュマロ』の価値命題なのではありませんか?よろしければお答え願います。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、pokoperopoさん。 (/-)゛゛゛ゴシゴシ うーん、みまちがいかな? 【Q-1】 われわれはどこから来たのか? 【Q-2】 われわれは何物か? 【Q-3】 われわれはどこへ行くのか? が、 【A-1】われわれはちりから出た 【A-2】われわれは働く者である 【A-3】われわれはちりに返る に、置き換わってる??? ん? それとも… Qに対応させたAということなんだろうか??? われわれはちりに返るとあるけれど… ちりに返ったわれわれはどこへ行くのだろう? ちりぢりばらばらになるのかな? ほでも、 分子レベルの小さな結合がわれわれで、 と、いっているのだから… ばらばらのようでばらばらじゃないってことなのかな? 【群れ】 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%A4%E3%82%8C http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Heringsschwarm.gif 【QNo.3084601ほにゃらか形而左右学 数学、補論】 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3084601.html
お礼
リトルキッスさん、ご回答いただきありがとうございます。群れですか。はい、あの絵は群れていますね。われわれは群れています。群れを離れて生きるのは、まず無理でしょうね。われわれはちりから生まれたのです。死んだらちりになるのです。その世界は無数のちりなのです。ちりが結合したのが、あなたであり私です。あなたと私、この世界に存在する者すべてがわれわれです。交換して考えたわけではありません。また、ご指摘のような、数学的見地からのご考察も興味深いものがあります。それにしても、リトルキッスさんはご自分のお考えをはぐらかすのですね。でも、本当はかなり深くお考えなのでしょう?
補足
いろいろと示唆していただきましたが、取り敢えずの【Q1~3】の、具体的なお答えをお聞かせ願います。
- 来生 自然(@k_jinen)
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>>> 持念さん、ご回答いただきありがとうございます。 <<< jinen ... じねん:持念、慈念、寺粘、自然...、じんえん:腎炎、人縁、神縁、仁円... ローマ字から漢字への変換だけを見ても多義図形的なので楽しいですよね。 >>> 通常であれば、数少ないモチーフの自然な構図においても、哲学的な問いは発せられると考えています。ゴーギャンが、多くのモチーフを登場させ、ご指摘の多義図形的な構図を用いたのはなぜでしょうか?よろしければお答え願います。 <<< ゐき;ノア(聖書) >>> 大洪水後 [編集] その後ノアは葡萄を栽培していたが、あるときワインで泥酔して裸で眠ってしまった。ハムは父の裸を見て兄弟たちを呼んだが、セムとヤペテは顔を背けて父の裸を見ずに着物で覆った。ノアはこれを知るとハムの息子カナンを呪い、カナンの子孫がセムとヤペテの子孫の奴隷となると予言した。(ノアがなぜハムではなく息子のカナンを呪ったのかは諸説ある。恐らく選ばれた人であった「ハム」の悪い面を受け継いだ人であったのかもしれない。) 創世記の中で、「ノアの物語」を含む天地創造からバベルの塔にいたる物語は原初史といわれ史実を述べているというよりは世界の事物の意味、由来についてのユダヤ的見解を述べている部分と通常は考えられている(枠組み説による)。 <<< 聖書を含め宗教の物語的な側面においては、○○の起源についての説話が多数認められます。時としてそれらは全く逆の内容であったりします。 ヰキ:アダムとイヴ >>> ★キリスト教 女はその実を食べた ●祭司資料による伝承(『創世記』1:27-1:31) 全能者である神エロヒムは自らにかたどって人間を創造した。 男と女は同時に創造された。 ●ヤーウィスト資料による伝承(『創世記』2:6-2:25) 神はアダムを眠らせ、あばら骨の一部をとって女をつくった。 ★イスラム教 誘われて果実に手を出したのは妻ではなくアーダム <<< さて、「一組の多義図形」ではなく「多くのモチーフ」が絡み合う「多義図形」を考えると言うことは、たとえばQ1,Q2,Q3の3カ所で出てくる a.「われわれ」は同じかどうか? b.ちり(No.35およびNo.45のお礼欄での記載)という概念で記載される「もの」は同じかどうか? c.全体(No.24での私の記述)という概念で表される「もの」は同じかどうか? を考えるのと同じことだと思います。 端的には、「○○会社」とか「○○国」とか「○○教」とかいった概念で表される共同体を考えるとき、全体という概念への視点と、その構成メンバーへの視点をどのように処理するか?ということに繋がると思います。 構成メンバーが完全に入れ替わる状態を考えたとして、はたして「同一概念の共同体」ということで「同じ」とみなすことが出来るでしょうか?ということです。 このことは、説話全体が有する「もの」と各説話毎に対立する「内容」との関連であり、(原始)仏教の「我」と「非我(柄谷氏の言葉を借りれば諸関係の束)」との関連であるでしょう。そういった意味でこのような概念の二重性は、輪廻感の程度とも関連を有すると思われます。 この絵自体の各構成人物の視線の多くが「こちら側」を向いているということは、「われわれ」という一つの共同体概念として認識されようとする時に、「おのおの」という個々の構成要素がそれぞれに自己主張をしているようにも見えます。「多義図形」という一つの概念が、多義図形を構成する各要素自体から切り離されては存在し得ないように。。。
お礼
慈念さん、ご回答いただきありがとうございます。多義図形的に考察する必要はわかってきたと思います。しかし、これには問題があります。錯視による混乱の危険があることです。エッシャーのだまし絵などは、これを巧みに利用して、ありえない構造物を、恰も実在するかのように描出しています。ご指摘の創世記の多義的要素も、混乱の一因となります。玉石混淆を見極める膂力を持たなければ、真に多義図形的な知覚を得るに到りません。ぽこぺろぽも慈念さんの境地に到達したいものであります。
補足
輪廻感の程度の関連という、ご指摘の意味が理解できません。よろしければ詳しくお教え願います。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
(^O^)/はーい、[No.43この回答への補足]へいただいた補足へこちらからも補足要求をひとつ。 ●絵画のイメージと、この題名の哲学的意味合いの、双方を論じる必要があるように思います。 ↑ 必要があるようになぜ思われたのですか? pokoperopoさんは哲学的には、この問いをどのようにお考えになるのでしょうか?よろしければお答え願います。
お礼
補足要求をいただきありがとうございます。もちろん、絵を観賞するだけで十分であるとは思います。しかし、ゴーギャンにかぎらず、われわれ人類がしてきた永遠の問いが、このタイトルです。哲学は人間に関わる問題を扱います。これが哲学でなくて、何が哲学なのでしょうか?そういうわけで、絵は横に置いて思索する必要を感じます。 【A-1】われわれはちりから出た 【A-2】われわれは働く者である 【A-3】われわれはちりに返る 神は人の心に永遠の思いを与えられた。しかし、人は神が行われるみわざを、初めからおわりまで見極めることはできない。 以上の答えは「伝動者の書」第3章の抜粋であります。われわれは何もわからない。だから問い続けるのでしょう。われわれは皆、同じ属性を持ちますが、ひとりひとりに役割があり、それぞれの働きが生きる意味ではないでしょうか?分子レベルの小さな結合がわれわれで、役割を終えたわれわれは、また小さな分子へと帰っていくのだと考えます。いかがでしょうか?それではお聞かせ願いましょう。
補足
回答へのお礼欄をお読みになったうえで、関連した内容のご回答をいただければ、ありがたく思います。よろしくお願いします。
pokoperopo様、追伸させていただきますね。 まず、こちらのオファーについて。 >この質問は、ゴーギャンの作品がボストンに帰るまでは、締め切らない予定でおります。いつでもお好きな時に覗いてください。 上記のような心温まるご提案を頂戴致しまして本当に嬉しく思います。 これは、本心です。 ありがとうございます。 追伸の件ですが、わたくしは今、とあるギャラリーから書き込んでおります。 場末ではありますが、美術関連の末端の仕事に携わっております。 また、夫に揶揄されながらも拙い創作活動を趣味で続けている身です。 哲学カテを知る以前は、芸術はあくまでも表層的、直感的な感覚を第一として念頭においてきました。 つまり、絵画鑑賞においても「まずは出来るだけ心をまっさらにして作品と対峙する」ことを常に心がけてきたのです。 で、哲学カテにおいて同時進行と言う形でフーコのテクスト・著作にふれていくにつれ、「哲学的アプローチによる絵画論」というものにより一層魅かれていったのです。 そしてこちらの質問。 とてもわたくしにとって勉強にも大きな刺激にもなりました。 本当にありがたいことです。 但し、哲学的な素養と抽象的な思考方法に乏しいわたくしにとって、ちょっと疲労感をおぼえたのも事実でして(情けないですよね、笑)、少し頭をリセットしようと考えたのです。 また、読解力、記述力の拙さは問題ではなく、本質的にわたくしにとって必要かつ肝心なのは、物事を深く洞察する集中力、思考力必要なのだなあ、とあらためて思うに至りました。 これをご教授くださったのは、pokoperopo様、あなたなのです。 『知の欺瞞』を今読みはじめたところです。 実は自然科学系や数学系の話の方が純文学よりも好きです(笑) この著書により、はたしてどの程度の衝撃波をくらうのか、いまからとても楽しみです。 再起不能になったりして?! またこちらの質問にはお邪魔させていただくつもりでブックマークをさせていただきますので、どうか〆切らないで下さいませね。 どうぞよろしくお願い申し上げます♪
お礼
マシュマロさん、ご回答いただきありがとうございます。そのお考えにはゴーギャンも賛成することでしょう。なぜなら、「画面左端の家鴨が蜥蜴を捕えている図は、言葉の虚しさを表している」と彼自身が説明しているからです。哲学は言葉の壁を越えられません。ですから、ゴーギャンもキャンバスに自らの思いの丈をぶつけたのでしょうね。ご心配なく、皆さんからご回答をお寄せいただくうちに、私自身がこの質問を締め切りたくないと考えるようになったのです。じっくり鋭気を養われて、お手隙の時に本をお読みになってください。お気に召したら、読書カテや文学カテなどでお薦めください。ゴーギャンの東京展はまだまだ先です。是非ともお出かけになって、ご感想をお聞かせ願います。私もマシュマロさんを、お気に入りユーザーにブックマークしましたから。
補足
ゴーギャンの年表を見て、大事なことに気づきました。ゴーギャンが特に愛した、娘アリーヌの名は、彼が19歳の時に亡くなった、母アリーヌと同じです。その母、つまり彼の母方の祖母は、女性解放運動家のフローラ・トリスタンです。タヒチ時代には、『かぐわしき大地』のモデルにもした、少女テハアマナと同棲をしています。これらの女性との関係から、画面中央の人物以外が、すべて女であることや、「さまよえる女」の正体が、読み取れるかもしれませんね。いかがでしょうか?
お礼
腎炎さん、ご回答いただきありがとうございます。コーカソイドとモンゴロイドでは、輪廻観が大きく異なりますね。しかし、最も輪廻観を強く持つのは、オーストラロイドではないでしょうか?ネシアの島々に住む者たちの輪廻観は、ヒンズー教徒にも影響を与えたと考えるのは、勘繰りすぎでしょうか?ゴーギャンは多義図形的な意図を持って、この絵を描いたことは疑いようもなく、様々な見方ができるので、皆さんから示唆していただいたことは、大いに参考になります。しかし、名古屋ボストン美術館で本物を前に、足が棒になるまで作品を見つめていましたので、作品解説と私の印象は食い違いますし、ゴーギャン自身が余すところなく、作品を語っているとは思えないのです。ゴーギャンは無意識に、自身の人生を作品に投影させていますし、キリスト教とタヒチ土着信仰の交錯も垣間見えます。ただひとついえることは、作中の女たちは、ゴーギャンとわれわれを見つめながら問い掛けていることです。それをもってしても、多義図形的であることを裏付けるものですが。不可能図形とは、また区別しなければならないのですね。自然さんも、機会がありましたら、ぜひとも本物をご堪能いただきたいと願います。また違った発見があることでしょう。お薦めいただいた本は必ず読みます。(積読書を片付けるまで、着手できませんが)それからもうひとつ、ご興味がおありでしたら、こちらの拙問を覗いてみてください。〈父、子、聖霊〉の《三位一体》は、等質かつ等価であるか?qa5008585
補足
自己紹介に書かれている、スッタニパータと光厳院との言葉は、本題と多いに関係があると思われます。よろしければ詳しくお教え願います。