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アイデンティティ
「アイデンティティ」という言葉は、辞書で表示される限りでの 意味はわかるのですが わたしの周りではこの言葉を使っている 人は、まだ見たことがありません。 ネットでの書き込みを読んだり、本を読んでいる時に この言葉はよく見ますが まだはっきり理解できません。 どんな時に、どんなふうな使い方をするのか、知りたいと思います。 努力しないで質問をしてすみません。 よろしくお願いいたします。
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- ywkc
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#13です。 すばらしいですね。 >自分はこうゆう人だから…のような話は ちょっとうっとうしいです。 それは「友人が友人自身のことを話すのを聞くのが嫌」なのではなくて、「こういう人と割り切ってしまうのが嫌」なのではないですか? アイデンティティとは確固たるものですが、簡単に割り切れるものでもないと思います。そして友人にもそのように簡単に割り切ってもらいたくないのではないかと思いました。 もしそうだとすれば、そう決め付けないほうがいいのでは?という意見を言うのは自由でしょう。それに加えて、具体的にそうではない例を指摘できれば説得力は増しますね。 友人がその意見を聞いて新しい自分に気づくかもしれないし、それを拒むかもしれません。それは友人が決めることです。新しい自分に気づくチャンスを友人に与えるかどうかはあたなが決めることです。 だからあなたが何かしらの考えを持ったとして、それをわがままと決め付けるのは、柔軟性を欠きますね。 いずれにしても、そういうことを考えている時点であなたはアイデンティティを直観的に理解していると思いますよ。それを言葉で表す苦労を経験しているのですから、すばらしいことだと思います。 「わたしがわたしであることとは何か?」「わたしとは何か?」 という哲学的な問いは、アイデンティティの無いところからは生まれないでしょう。 たとえば、もしデカルトがアイデンティティを持っていなかったら、「我思う、ゆえに我あり」という哲学的真理を発見することは無かったと思います。アイデンティティがなければ、疑っている自分すら疑うことができますから。 デカルトがその発見を彼自身のアイデンティティの発見とせず、哲学的真理としたことで、方法序説が生まれたのだと思います。 アイデンティティに気づいた瞬間に「わたしとは何か?」という哲学的問いが現れて愕然とするわけですね。私もそうです。ただ私はそこに哲学的解答を与えていないので、哲学者ではありません。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.14 お書き込み: ☆自分なりに他人との違いを認識することは簡単ですが 自分は?わたしらしさは?と考えると もうわからなくなって この世界にアイデンティティなんて無い と思ってしまいました。 解答欄投稿者: ★自分は? を考えるのに、世の中に物や、あり方、事物事象などの中に捜し求めても、見つからない、からこそ、本来のご自分である個性何でしょうね。 らしさなどとそれらしいことばに頼ることは無意味であると存じます。 他との関係付けでのらしさは、自分というものに対する冒涜で二流のものです。 と存じますが。
お礼
ありがとうございます。 ★・・の文章 ここは理解できました。 『アイデンティティ』の意味や使い方は難しいです。 敬語で書いてくださったことも ありがとうございました。 わたしのお礼の書き込み もっと気持ちを上手に表せたら良い のですが 言葉の使い方も失礼でした。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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No.10 & No.14 論理学では、その命題自らの根拠付けはその命題自身によりてはなしえない(資格性を認めない)となっているそうです。 法は規範の階層的体系で一体をなすものでありますが、ある法のジャスティファイ、根拠付けはその法や下位法によってはなしえない。 その上位の規範から順次に下って、その法の根拠付けをする。 パスポートやID-card、ないしはパスワードによる根拠付け、identify(同定, 見分け; 身元確認; 同一視 )とは、そういうものに通底する、他者による立証でしょうね。 それは自己の属する系列、或いはその系列性を体現している(或いは表象なさ新手手居る)ものによる自己性の立証でしょうね。 そういうことなさしめる自己たるもの以外のものを、アイデンティティとする場合もありえますね。 それは、生活存在と社会生活での次元での機能と作用であると存じます。 ここでは、アイデンティティにより確認されるものは自己であり、アイデンティティにより確認するものは他人や社会であると存じます。 だから他人や社会の確認を自己の確認としているのでしょうね。 自己の本然の存在と存在性、問い詰めていく先の自己アイデンティティのことは、No.10とNo.14の通りであると存じます。 ここの自己確認は、自己による自己と創造者(自己の根源存在)が、自己と創造者(自己の根源存在)のアイデンティティにより行うものですね。 だから、自己が自己でない状態であるような場合は、パスポートやID-card、ないしはパスワードによる根拠付け、identify(同定, 見分け; 身元確認; 同一視 )と同じような、他人がする自己確認となるのでしょうね。 このあたり(辺り)の区別が必要なタームであることを自覚して、叙述しないと、混乱が生じることになると存じます。
お礼
回答を ありがとうございました。 追記も ありがとうございました。 回答の中で アイデンティティという言葉を使っていただいて ありがとうございました。とても難しい言葉ですね。
こんにちは。passcardです。 >意見が違う人がいても 人間として同じ部分があるということですか?意見が似ていても人間として違う?きっと どちらもちがいますね。 違いますね。でも、回答に近い視点から「アイデンティティ」をご覧になられていると思いますよ。「アイデンティティという言葉は、辞書で表示される限りでの意味はわかるのですが わたしの周りではこの言葉を使っている人は、まだ見たことがありません」とお書きですから、その視点からお考えになってゆけば良いのだと思います。 漠然とした意味の言葉というのは、その時々の使い方によって、実に便利な「例示」としての役割を持ちます。「あれ」とか「これ」と指差して言うときの、「指差し」に近いような役割です。僕たちは口ではあれこれ言いながらも、何かを指差すことで、指差した物と自分の言いたい事が「同じ」であるという意思伝達をする事ができますよね。 そのときの指差しが、「アイデンティティ」だと思うんです。 ですから、「意見」を指差すのか「人間」を指差すのかによって、「アイデンティティ」の意味はその都度、違う内容を指す事になります。逆に、指差されるまでは、その言葉が意味するものは、うまく伝わらないと思います。だから、なかなか使えない言葉だとお感じになる。 ところが、こういう言葉がないと非常に困る場合がある。 IDカードについて仰っていますが、まさにそのカードが必要になる場合です。僕のIDはpasscardですが、これは僕がいつも首からぶら下げている紙に、そう書いてあるからです。 このIDが、僕を僕たらしめていると言っても良い。 この紙が無ければ、僕は入室することができません。入室に関していえば、僕自身ではなく、この紙のほうが「僕らしい」のです。僕が大声で、道行く人にいくら声高にすごんでみたところで、僕には僕を証し立てる事などできない。 ゲーデルではないですが、どんなに矛盾のない公理であっても、その公理だけでは自分自身に矛盾が無いことを証明することができません。僕が僕である事を証し立てるためには、僕ではない「誰か」が、僕を指差してくれなければならないでしょう。 その指差してくれた「誰か」によって、初めて僕は、僕であることができるのです。その「誰か」のことを、僕らは「アイデンティティ」と呼んだりします。
お礼
回答を補足していただき ありがとうございます。 全体をぼんやりと ですが、わかってきたように思います。 でも迷う部分があります。 誰かがアイデンティティと言った時 その呼んだものが IDカードのように「絶対」じゃなくてもいいのか? かん違いだったり、まるごと間違っていてもかまわないのか? ということでした。(それほどすごい言葉だと思っていました) 「言葉のひとつ」だから簡単に使っていいのかもしれないし 指差しのようなものなら 間違いもあると思うし、わたしは 使うことはないと思いますが、やっぱり難しいです。 ありがとうございました。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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回答番号:No.10 引用語句の修正: 論語をhttp://www.asahi-net.or.jp/~pd9t-ktym/bunsyo.htmlで確認しました。 正しくは: 子曰、視其所以、觀其所由、察其所安、人焉捜哉、人焉捜哉 子曰わく、其の為す所を視、其の由る所を観、其の安んずる所を察すれば、人焉んぞ捜さんや、人焉んぞ捜さんや が正しいです。 要するに私のいうことはNo.10のとおりですが、何を自分の安居(“あんご”でもいいです)にするか、楽しみにするか、よりどころにするか、の問題だと存じます。 私は漢字登録で、ありようって打鍵すると、“意識境・存在境・意識存在境”とでてくるようにしております。 アイデンティってこのことだと存じます。
お礼
ありがとうございました。 自分なりに他人との違いを認識することは簡単ですが 自分は?わたしらしさは?と考えると もうわからなくなって この世界にアイデンティティなんて無い と思ってしまいました。
- ywkc
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私の感覚では、私が私であることに気づくことはとても自然です。 >「わたしはわたしである」ということについてを、あらためて 考えることは 必要のないこと不自然なこと?と思っていました。 もしあらためて考えなければいけないことだとしたら、不自然でしょうね。 気づくこと、あるいは決定的に気づかされることだと思うので。 >たとえば友人か誰かが、自分(友人自身)について話すのを 聞かされるのはいやだと思うし、友人がわたしについてを どう思っている、と解説されても「違う…」と思って どちらも空しいです。 自分が決めていいことなのか?他人が決めることなのか? 友人が友人自身のことを話すのを聞くのが嫌だという感覚は、私にはよくわかりません。 友人があなたのことをどう思うか、あなたは決められません。 またあなたが友人をどう思うか、友人には決められません。 「違う」のはある意味当然です。 そこで、人間関係であれば「あなたはそう思うかもしれないけど私はこう思う」とか 「私はあなたのことをいままでこう思っていたけど、実はそんな一面もあるんだ」とか コミュニケーションによってお互いに気づくことはあるでしょう。 違っていることがかえって楽しくなることもあります。 そのような感覚をもつことが、あなたがアイデンティティを感じる瞬間だと私は思います。 違っていて空しいのは、あなたが友人のアイデンティティを見出せないからでしょうか。 それともあなたがあなただとアイデンティファイされなかったからでしょうか。 もし私がここに書いたことがあなたの感覚と違っていても、すでにあたなはあなただと思います。
お礼
ywkcさん。回答をありがとうございます。 誰かが悩みとか話すことはかまわないのですが 自分はこうゆう人だから…のような話は ちょっとうっとうしいです。 「あなたをどう思うかは、わたしが決めているから…」と思って。 だからywkcさんが書かれているとうりなので わたしのほうが自分中心の考えなのだと思います。 といいながらわたしも わかっていないことをわかってもらいたい と いまここでがんばってアピールしているようです。 ここの回答で使われている「アイデンティティ」(言葉)を いつか使えるようになれたら と思いました。
このスレをずっと読ませていただいて、改めてこの言葉の難しさを再認識しました。でも私が幾つかの小説や文章で出会ったこの言葉の使い方から考えて、さほど矛盾しては居ませんので、ここに書かせていただきます。 高校時代に英語を学び、日本語とは、そして言語とは何かということについてはっと理解したように思った経験があります。「アイデンティティ」という言葉も、ある人に寄れば外国にひとりで旅に出て初めて理解できたように思ったという一節がありました。”自分とは何者なのか?”という思いが、また自分が他人と違った存在であるということが、周囲に異邦人ばかりが居るという環境に置かれてはっきりと切実な思いで考えさせられるということなのだろうかと思いました。その理由の一つには外国ではID(アイデンティティ カード)と呼ばれるもの(パスポートなど)の所持如何が生命にかかわる事態になるということなどがあると思いますが、もちろん、IDの記載事項だけがが自分の全存在であるということではないと思います。そこを出発点として、自分とは?という非常に深くて困難な思考の淵へ入り込んでいく端緒になったということなんだろうと思います。
お礼
回答をありがとうございました。 ここで質問してからテレビや本で、アイデンティティという言葉が 出てくるのをまっていました。どんな状態を表す時使っているのか? 注意していましたが この言葉を聞く事はありませんでした。 見ているテレビ番組が楽しい番組とか偏っていることもあるのですが。 いまもまだ ぼんやりとしたイメージでしかわからないのですが この言葉が、日本語の会話の中で飛びかっているような現場を 観察することができたら もっと具体的に簡単に、わかるかも などと考えていました。でも難しい内容の会話になると思うので 他の言葉が気になって 集中できないかもしれませんが。これは 使われなくなっていく外来語のひとつ ではないですね。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
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あぁ、回答番号:No.1のかたが学者でも、高学歴でもとか仰せですが、私もそんなんです。隅田川と荒川の間の高校を変わり、年取って卒業し、浪人して肉体労働しながら、夜学で。哲学や思想も選択しませんでした。そんなことは関係ないですよね。投稿の資格として。
- 莽翁寒岩 一笠一蓑一杖(@krya1998)
- ベストアンサー率20% (605/2887)
私自身はアイデンティティという言葉をあまり使いません。むしろ“自分性意識”、とか“自己性”、“基盤、根源、依拠の原理”という言葉にして、やりくりして通り抜けております。 ご質問への投稿は以上でありまして、これを出るものはありません。 日常wakeful意識での生理を含む行為、経験・知覚は紡むぎ紡がれているタイヤであり、それを車軸に連絡しているのが輻であると存じます。タイヤでどう自分を認識できているか。 それは人の質、高さによると存じます。そこにしかアイデンティティが無い人もおられるかも知れません。 タイヤと輻しか知らないのが普通であると存じます。アイデンティティといっても、人によりいろいろでしょう。 盃の液体にある人。名前や地位、権力や名誉、肉体生命にある人。女性のお胎にある人。自己の技術や学殖、仕事や人生の成果にある人。テレビ番組や、故郷の心地よさにある人。 故郷の錦のたぐいにある人、自然の美しさにある人。 その多様性はアイデンティティがタイヤにあるか、輻にあるか、それとも車軸にあるか。 それを成り立たせている宇宙にあるか。という違いかと存じます。 このご質問はそういう性格のもので、アイデンティティとは人の人格性の付きまとうお話です。 と私は存じます。民俗の心性のことでもありましょう。 正に隣国の聖者が、「その楽しむところを見、拠るところを見れば、人いずくんぞ隠さんや」というお話になるものであると存じます。
お礼
krya1998さん。 答えてくださって ありがとうございます。 アイデンティティという言葉は、いつも気にかかっていましたが 意味がよく掴めないまま読み流していました。 わたしが読むのは 哲学の先生?が書かれていても、初心者・一般 向けの入門書 軽いエッセイ?のようなものでしたが 内容には 「アイデンティティ」という言葉は使われていないようでした。 ここの回答は、わたしにとっては難しい答えでしたが… どううけとめたら良いか?を、たくさん考えることができました。 追記もありがとうございます。 次の回答も、あらためて読んで考えてみます。
例えば写真やコピーは正確にデータや情報を記録することが出来ます。人間はデータの不足部分を自分勝手に補ったり、覚えやすいように変容させたり、興味のある部分だけを誇張したり、事態の予測まで付加して自分の中でイメージを完成させます。 自分が情報の捏造をしていることに気づいていないという点で、イメージを持つことは物自体を基軸としているから多くは一致するけれども、一致しない部分も出てきて、認めないとか信じられないといいます。 アイデンティティは私の「捉え方。重要だと思うところ」「思い込みの比熱の度合い」などが、各人各様にあるものといえるんじゃないかと思います。
お礼
回答をありがとうございました。 下のような答えを読むと安心します。 辞書の言葉はなぜ難しいのだろう と思います。 >アイデンティティは私の「捉え方。重要だと思うところ」「思い込みの比熱の度合い」などが、各人各様にあるものといえるんじゃないかと思います。
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お礼
わたしはアイデンティティを理解しただろうか? 答えが近くなった と思ったこともありましたが、次には離れて いくような気分もして ノート数ページていどの内容… と考えていたアイデンティティは、宇宙のようなイメージに変わって ますます遠く広くなったようで いまもわかりません。 理解するための方法を考えてくださって ありがとうございました。