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アイデンティティ
「アイデンティティ」という言葉は、辞書で表示される限りでの 意味はわかるのですが わたしの周りではこの言葉を使っている 人は、まだ見たことがありません。 ネットでの書き込みを読んだり、本を読んでいる時に この言葉はよく見ますが まだはっきり理解できません。 どんな時に、どんなふうな使い方をするのか、知りたいと思います。 努力しないで質問をしてすみません。 よろしくお願いいたします。
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気になったのでまた書き込みます。 前回の回答でとんでもない誤解を与えた可能性がありますが違います。 私個人の意識の問題です。 今、私は私にとって、 キリスト教に代わるものを探しています。 だってキリスト教を私は否定するようになっています。 私も考え方がどんどん変わっています。 だから日本や日本文化について考えたいのです。
日常でならいざ知らず、哲学という分野で言えば「理解できない」と仰る理由は、極めて正しいと思います。今では「自分の考え」というほどの意味だと思いますが、ラテン語で言えばidemつまり「同じ」という意味で、「同じ」と言うからには、何かと何かを比べた上で「同じ」であるとか違うであるとか言えるわけですよね。 では、何と何を比べるか。 例えばエリクソンの言う自己同一性についてでしたら、Self Identityというふうに、selfという文字がくっ付きます。このように、アイデンティティというのは、本来何かがくっ付いて、初めて意味が通ってくる言葉なのだと思います。 ところで、何もくっつけないで単に「アイデンティティ」 と用いた場合はどうなるか。 それはつまり、何も語らないでも「私の考えと君の考えは同じ」だよね? という言葉に隠された下心となって現れているようには思われないでしょうか。
お礼
passcardさん。 答えてくださってありがとうございます。 はじめのほうは、読んでわかるのですが 下の3行で理解できません。 意見が違う人がいても 人間として同じ部分がある ということですか?意見が似ていても人間として違う? きっと どちらもちがいますね。 すべての回答を読ませていただいて(たとえばIDカードのこととか) 理解できそう!とも思ったのですが でもどこかで大きな かん違いをしているかもしれなくて、もっとよく考えてみたいです。 >それはつまり、何も語らないでも「私の考えと君の考えは同じ」だよね? という言葉に隠された下心となって現れているようには思われないでしょうか。
エリクソン http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%AF%E3%82%BD%E3%83%B3 これを読むとエリクソンにとって、ユダヤということが問題になっているように思います。 ユダヤ人は国を滅ぼされたことがあるので、ユダヤ人がユダヤ人である。ためには、宗教が重要な役割を果たすことになります。 自分が自分であることの根拠を宗教におくわけです。 ところで、私はよく「ここは日本だ」といわれます。 というのも私は思想的にキリスト教の影響をかなり受けているので、聖書の話ばかりするわけです。 (最近はユダヤ教について調べ始めているけれども) すると、私の話にはカタカナで外国人の名前ばかりでてくる。 確かにおかしい。私は先祖代々、日本生まれで日本育ちの日本人ですが、聖書の話ばかりする。 ようは耶蘇教だろう?日本と戦争したやつらの宗教だ。 なぜよりによってキリスト教なんだ?と当然なると思います。 でも、その話はおいといて。 いや、早い話が孤独だったからです。 内村鑑三という人がいます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E6%9D%91%E9%91%91%E4%B8%89 この人は外国のキリスト教に失望しています。 それから「無教会主義」というのを主張しました。 でもいくら教会を否定したところで、結局はなんらかの集団と結びつきます。 だからたぶん、「二つのJ」つまり、日本とジーザス 「国家」というのが出てきます。「日本的」キリスト教の模索です。 ここで、日本とは?日本人とは?ということが当然、問題となりますが私は自分のことで精一杯だったので 日本のことを考えるところまでいけませんでした。 というか私は日本語もめちゃくちゃですよね。最近やっと気づいて学習する必要性を痛感しています。 だから個人的課題としてこれから考えていくことになるのですが今のところ アイデンティティー、自分が自分であることの根拠はやがて「国家」と結びつく。 もしくはその可能性があるということが言いたいのです。 仏教学者の鈴木大拙も「日本的霊性」を話題にしました。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%88%B4%E6%9C%A8%E5%A4%A7%E6%8B%99 これは明治や戦前という時代の中での問いだったのかもしれないけど http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 ナショナリズムは今日的な課題だと思います。 自分のことを他人に紹介するときに、「私は日本人である」となりませんか? 哲学カテゴリーでも本質や実存が話題になったときに「AはBである」形式の表現が出てきました。 そして今は本質を保留し、構造主義やポストモダンや文化や制度や権力といったことが話題にされています。 いったい「私は私である」とはどういうことなんでしょうね。私にもよくわかりません。
お礼
質問に回答していただき ありがとうございました。 No.8の追記もありがとうございます。 >アイデンティティー、自分が自分であること >の根拠はやがて「国家」と結びつく。 アイデンティティを広くとらえて考えていくのでしょうか。 言葉の意味が、よくわからないままに使ってしまいました。 「わたしはわたしである」ということについてを、あらためて 考えることは 必要のないこと不自然なこと?と思っていました。 たとえば友人か誰かが、自分(友人自身)について話すのを 聞かされるのはいやだと思うし、友人がわたしについてを どう思っている、と解説されても「違う…」と思って どちらも空しいです。 自分が決めていいことなのか?他人が決めることなのか? もわかりません。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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こんにちは。 わたしの存在は わたしがわたしであるという自同律(アイデンティティ)の展開過程です。 自己到来するわたしの自乗・三乗・・・とその連乗積をかたちづくっていく過程だと言えます。わたしが一であるなら この冪は つねに一であるというその過程です。これが アイデンティティの問題ではないでしょうか。 わたしとは何か。 わたしと名のる存在である。 ここから わたしが自己到来をつねに新たに展開していく過程は 表現行為の過程である。 一般に内面における自己還帰の確認は 広く外面においても 自己表現として表わされる。外化される。直接・間接あるいは顕在・潜在を含め広く ことばをとおしての表現行為として展開される。 内面における自己同一性〔たるわたし〕そのものは 必ずしも定かになるわけではないが ことばの表現をとおして・もしくはことばを介した認識をとおして 了解し合われる。表情・振る舞いといったものも 解釈され これを ことばの表現として認識し了解していく。 かくて わたしの生きる過程は 《文体》として展開される。これらの限りで 文体行為の過程が わたしである。(Le style, c'est l'homme meme.《文は ひとなり》) 文体の原則(命題): 1. 文体は 生活である。文体にはわたしが生きていることが先行している。 2. 文体は 生きることであるなら 過程行為であり 行為過程である。 3. 生活は 自然界や社会やの世界すべてを含む。《わたしの自乗》理論は 表現過程として あたかもこの世界のすべてであろうと欲する。 ただしそれは 文体行為としては 一人の人間の一主観であるにすぎないというのも然ることながら その(=世界過程の)事後的な認識であるにとどまることが ふつうである。 4. 過程行為である文体は 《わたし》相互のあいだの了解を求める過程として展開する。 各自のわたしに修められた主観としての世界観は 共通の基礎を問い求め 互いの共同化に進む。主観の共同化は 経験合理性にもとづく科学行為によってその基準が用意される。 5. 科学によってもたらされた新しいいわゆる客観認識を持ったとき わたしは ふたたび自己に到来し これを(つまり 認識のほうではなく 自己のほうを)自乗・三乗して生きていく。 6.文体行為そして科学行為は いづれも わたしが生きることに後行している。科学によるあらゆる客観知を得ない場合にも 文体は 自己の判断によって表現行為に出発する。 文体がいわば確立しておらず 自己の判断がまだ定まっていない状態にあっても そこに生きる人間は あたかも世界の絶対的な現実である。また 絶対的な現実であるゆえ 一人ひとりのわたしに 自らの文体行為が促されるであろうし 望まれる。 7. かくして わたしは 科学を補助行為として持ちこれを利用しつつ 文体過程として生きる。 ここからわたしたちの持つ課題は a. 文体とその補助行為たる科学との関係は如何に。 b. 文体の確立を目指すとするなら 科学のほかに(=その活用以上に) どのような補助行為があると考えるべきか。もしくは 補助行為を超えたそれ以上の事柄があるのかも知れない。 c. わたしの自己還帰がもし間違っていた場合 これをどのように質し正すか。《わたし》相互の間では・さらには広く社会一般においては これをどのように行なうか。 これら( a ・b ・c )をまとめて 信仰(=非思考)を基礎に持った哲学思想の展開が 望まれると帰結されるでしょう。
お礼
回答をいただき ありがとうございました。 いままで哲学の本は、雑学~入門ていどの本しか読めていないので わたしが回答を読んで、考えられる範囲はとても小さくて お礼の内容が、書かれていることを、まちがえて受け止めている かもしれないです。すみません。 わたしの存在から、文体…という最後(結果)の言葉になって おどろきました。わたしには、とても難しいです。 読んできて、ここに書かれていない?ことかもしれませんが なぜか「わたし 対 他人」ということを考えてしまいました。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
自分らしさって意味では使いますね。 逆を考えてみると、わかりやすいかも。 アイデンティティーの喪失 とかいう言葉あるじゃないですか? 自分らしさを喪失し、周りの価値観を自分の価値観とすると、アイデンティティーを喪失している状態になる。 だって自分独自の価値観とは違い、他人の価値観だから。 人は他人の価値観以外に自分の独自の価値観も持っている。 らしさ があるわけです。 ところが、自分らしさを主張し続けると、周りの価値観と違うのでもめる。 そこで大人になり、譲ったりすることで、摩擦を防ぐが、心の中まであわせていないと、自分らしさは失わない。 世間の価値観の多くは正しいでしょう。 ところがどうして正しいかまで理解していないと、ある事が起ったとき、判断を誤るわけです。 「Aのときそうだったから、今度もそうじゃないのか」と言われたとき、「どうしてAはそうだってなったのか 言ってみろ」って言われて、はっとする。 「今まで世間でそうだと言われてきたからそうなんだ」としか答えられない。 明確な根拠が言えない。 自我を統合していないから。 すると、「時にはAで、時にはAじゃない。世間は身勝手だ」と誤解し不信になる。 世間の価値観は信頼できない としたところで、自分独自の価値観も持っていないので、アイデンティティーが無い状態になり、根無し草状態になるわけです。 で、アイデンティティー(自分らしさ)の確立は、すぐにはできない。 老年期に入ってやっと自分が一体なんなのかわかってくると、自分の今までの人生を肯定的に受け止められる。 人生と自分を統合(一致)するわけです。 ところが、それに失敗すると、不信になってしまう。 老年期の統合の失敗・不信はきついものがあると思います。 自分(および自分の人生)すら信頼できず否定するわけですから。 自我の同一性(統合性)が、アイデンティティーでもある。
お礼
kigurumiさん。 ありがとうございました。 この言葉を 自分らしさ という意味で使うことができれば いつか自分にも使えそうな気がしますが 自分らしさはつねに同じではなく 考え方の、その変わっていく 過程もふくめて自分なのですから だから 同一性 という のでしょうか???
- wisemensay
- ベストアンサー率33% (35/103)
理解できなくて当たり前です。この言葉を初めて使用したエリクソン自身が、自分でもよく意味が分からないと述べているくらいです。発達心理学の教科書を読んでください。少しは分かるかと思います。 >「あまりの緊張でアイデンティティが崩壊した」とか。 その人特有の性癖なんかも「彼のアイデンティティのゆえの変態行動…」みたいに言います。 このような使用は間違いです。
お礼
wisemensayさん。 ありがとうございます。 発達心理学の本ですか… たくさん本を読んで、自然に使い方がわかるようになるのでしょうね。 わたしが日常で使うことは、永遠にないと思うのですが、ここで 質問したことで いままでよりもぼんやりとですがわかってきました。
- highhill
- ベストアンサー率66% (4/6)
アイデンティティーは「自己同一性」と訳されます。 抽象的な概念なので分かりにくいですが、一言でいうと「自分が自分である」と思える感覚(意識)のことです。 アイデンティティーの喪失など評論の主題によく見ましたが、これはつまり自分自身を見失って確固とした自分が分からなくなっている状態です。
お礼
自分が自分である と思ったことは、過去にいちどくらいあった かもしれませんが、そんなときの感覚を言葉で表したのでしょうか? 過去をふりかえって、あのとき自分自身をみうしなっていた という事もあったかもしれませんが そのときの自分も 自分なので それで自己同一? とても難しいのですね。 回答してくださって ありがとうございました。
- shubal
- ベストアンサー率20% (402/1958)
まず最初に私は学者でも高学歴でもありません。ここんとこ忘れないでください。 で、私が調べた辞書には「身元、正体、自己」と書いてありました。 その辞書によると「アイデンティティを喪失する」というふう使うとも書いてありましたね。 でもちょっと考えたんですが、この場合、アイデンティティを正体に直して使うと「正体を失う」。つまり泥酔してるみたいですよね。泥酔してる人を「アイデンティティを失っている」なんて言いませんよね。普通。 まっ、辞書のことは置いといて、私は日常会話でもときどき使うんですが、その場合、私の頭の中での意味は、 「個性」「価値観」と思って使っているようですね。 「あまりの緊張でアイデンティティが崩壊した」とか。 その人特有の性癖なんかも「彼のアイデンティティのゆえの変態行動…」みたいに言います。 学者さんや文学者が聞いたら、怒られるかもしれませんが、 私はいまの私の理解で満足してます。
お礼
shubalさん。 さっそく答えてくださってありがとうございました。 個性 価値観 というようなイメージで使うことができたらわかりやすいのですが shubalさんが日常会話で話す時に「個性・価値観」と言わないで 「アイデンティティ」と言う時は、個性の他にもっと大きな 違う意味を持たせたいときなのかなぁと考えてみました。
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お礼
katatagaeさん。 受けとめ方が間違ったらわたしの責任です。 日本の文化について、日本人のわたしには「アイデンティティ」 よりも大切なことかもしれないのに、考える余裕がありません。 ありがとうございます。