感性・性欲は中立 《ヘビ》なる情欲は理性の産物
( a ) ヒトは 時間的な存在である。
( b ) 時間的なるものには 限りがある。《限りのないナゾなるもの》に向き合いひとは おそれをいだく。相対的な経験世界のうちに生きる存在であることの自覚である。
( c ) このきよらかなオソレにもとづき 知恵を持つ。境地としての知恵のほかに 理性なるものをも発達させる。
( d ) やがて 知恵のもとの自由意志は かしこくもか おろかにもか オソレにも逆らい 理性をおのれの都合よいように用いるようになった。
( e ) そしてさらにこの理性は 意志にも君臨しようとするまでに到る。それだけの発展性は備えていたらしい。
( f ) その頃には 《無限というナゾなるもの》は 理性が観念としてあたまの中におさめてしまった。《観念の神》の誕生である。のちにこの神――つまり人びとのあたまの中にあるだけの観念の神――は死んだと宣言されねばならないほどだった。初めから死んでいるのに。
( g ) さてここで突然 この理性が 性欲をめぐって ヘビなる情欲として《観念の性欲》の世界をこしらえてしまった。のではないか? サドとマゾッホらあらゆる想像力を動員して《きよらかな畏れ》に挑戦してみた。
( h ) 風呂に井戸を掘るたら何たら言う人間は この《オソレ――この上なくつつましやかなひとなる存在のいだく畏れ――》 これをアーラヤ識かどうかは知らないが 深層の心理の中にだけ閉じ込めてしまった。かくて このヰルスに感染したときには 神は ムイシキであるとなった。
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◆ 《へび》の問題
§ 1 世界の民俗に見る《へび》の生活文化的・社会的な意味
次の文献によって わたしなりの分類をします。
▲ 蛇(serpent)=『女性のための神話および秘義の百科事典』の一項目 Barbara G. Walker : The Woman's Encyclopedia of Myths and Secrets (Harper & Row, 1983)
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/serpent.html
○ (ヘビの民俗・その意味するものの分類) ~~~
(α) 水の神⇒ 生活・生命を象徴:知恵そして善なる神::直毘魂
(β) 水の神⇒ 河ならびに嵐として治水防風雨をしのぐ
あらぶる者:悪魔::荒魂
(γ) 脱皮して再生する習性⇒不老不死を象徴。
(δ) 前項より 子孫繁栄のための生殖力を象徴。
(ε) ゆえに エロスを象徴。
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§ 2 (ε)の《へび=エロス》なる民俗は 《要らない》。
併せて (β)の――自然現象の部分を問わないかたちでの・つまりは抽象概念となったところの・心理作用としてのごとくの――《へび=悪魔》説 これも要らない。または 信仰なる主観としては キリスト・イエスの十字架上の死とその復活によって克服された。ゆえに要らないと見ます。
この偏見で議論をとおしますので お見知りおきのほどをお願いします。
§ 3 エロスが 人の生きることにともなうことと それをヘビに見立てることとは別だと見ます。その比喩からの通念は 要らないということ。
言いかえると 民俗の一説としてはそんなもんだと受け止めればよいのですが その心のうわべに心理作用および集団的な共同心理として咲いたあだ花が ついに 十九世紀・二十世紀になっても今度は《無意識》なる概念として・そしてさらには医学として科学であろうと見なされてオモテ舞台に登場してしまった。
こういう見方を持ちます。
§ 4 この場合のムイシキは
(ζ) エロスをめぐるイド=エス(《あれ・それ》)
=リビドー(《欲しいまま・我がまま》):ムイシキ
のことです。
§ 5 ムイシキの逆襲(?)
リビドーを抑圧すると――つまりは 自分はそんなヘビなどのことは知らないと決めて自分自身に対して隠してしまうと―― 人はそのムイシキの逆襲に遭うことになるそうだ。
その得たいの知れないムイシキの作用〔だと見立てているもの〕に抗しきれなくて振るった暴力(いじめ・虐待等)にほかの人が遭う。その被害をこうむる。そのとき受けた心的外傷は すなわちトラウマとなって 永遠に消えることはなく そこから人は完治することはないと説く。
すなわち その意味や次元にまで還元されたと言いますか そう見ることにおいて人間としての料簡が狭められてしまった。と考えます。
§ 6 ムイシキとは 亡霊なり。
ムイシキなる仮説の登場はひとえに ヘビは エロスをめぐる性衝動の部分をつかさどる悪魔であり・人間の抗しがたい力としての悪霊であるという俗説から来ていると見ました。
その迷信が 現代においても猛威を振るっているようだと見るものです。すなわち エワとアダムのその昔からの亡霊であると。
§ 7 聖書におけるヘビの克服物語
イエス・キリストが 第二のアダムとして 敵対していたヘビに勝利をもたらしたという物語が あります。つまり 虚構です。虚構ですが もともと ヘビは悪魔なりという見方が 虚構です。
いちおう理屈をつければ こうです。
悪魔は 死の制作者であって 自分みづからは すでに死んでいるので 死は怖くない。朽ちるべき身体を持つ人間にとっては 《へび=生命。善なる神》という俗説にしたがって その死が死ぬという・つまりは永遠に生きるという〔気休めとしてでも〕希望を持ち得るけれども 悪魔なるヘビは この死が死ななくなったという完全なる死の状態にある。そして その冥界へと人びとをさそう。
イエスなる人間をもさそった。仲間に入れと。ところが ついにこの人間は 死地に就くところまでヘビを嫌った。ほかのナゾの何ものかに従順であった。ヘビなる悪魔などは 屁の河童であると。
ますます怒った悪魔は ついに実際に〔それまでに部下に持った人間たちをして〕イエスを死地に追いやり見世物にまでして磔を実行せしめた。
ところが 死は怖くないアクマも けっきょくその死の世界にまでイエスという人間が自分の仲間となってくれたことに・そのことの思いに一瞬でも心を移してしまうと その身も死なる魂も すでに溶けてしまった。
§ 8 聖書の関係個所を引きます。
▲(創世記3:14-15) ~~~~
主なる神は、蛇に向かって言われた。
「このようなことをしたお前は
あらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で
呪われるものとなった。
お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。
お前と女、お前の子孫と女の子孫の間に
わたしは敵意を置く。
彼はお前の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
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☆ この部分すなわち
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彼(=エワの子孫)はお前(=ヘビ)の頭を砕き
お前は彼のかかとを砕く。」
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という箇所が のちのイエス(エワの子孫として)とヘビの闘いだと言われます。
§ 9 つづき――モーセにおける蛇との闘いの事例――
▲ (民数記21:6-9・・・《青銅の蛇》) ~~~~
〔* 民がせっかく奴隷状態にあったエジプトから脱出してきたというのに そのことを荒れ野をさ迷うあいだに悔い始めたので〕主は炎の蛇を民に向かって送られた。蛇は民をかみ、イスラエルの民の中から多くの死者が出た。
民はモーセのもとに来て言った。
「わたしたちは主とあなたを非難して、罪を犯しました。主に祈って、
わたしたちから蛇を取り除いてください。」
モーセは民のために主に祈った。
主はモーセに言われた。
「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれた者がそれ
を見上げれば、命を得る。」
モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た。
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§ 10 つづき――イエスは 《青銅のヘビ》か――
▲ (ヨハネによる福音3:14-16) ~~~~
そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子(=イエス)も上げられねばならない。
それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
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§ 11 いかなる事態であるか?
もし性欲も大自然への畏れも ヒラメキをも含めて感性だとすれば この感性とそして理性との あらそい なのであろうか?
感性は 間違い得るし あやまちを侵す。ただし そのこと自体にウソ・イツワリがない。
理性は あやまち得ないと言い張る。ウソをもほんとうのことだと――つまりおのれの心をもだまし得て――丸め込む。
ただし このような問い求めをおこない説明をあたえるのは 理性でありそれを用いる志向性としての意志である。