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太平洋戦争中の日本の自動車生産
太平洋戦争中の日本は独力で自動車を開発・生産するだけの力はあったのでしょうか? 他国(米、独、ソなど)と比較して、自動車生産はどのような状況にあったのでしょうか? 自動車がないとしたら、どのように作戦を展開していたのでしょうか?
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米、独、ソと比べれば格段に下ではありますが、自動車の開発・生産は行われていました。有名どころでは九五式小型乗用車「くろがね4起」あたりがあります。 また軍用以外でも代用燃料を使用した木炭バスなどが走っていましたので、開発生産能力がなかった訳ではありません。同様に火力・装甲の面で連合軍側のものに対抗できるレベルではありませんが、ディーゼル機関を使用した戦車も独自開発・生産しています。もっとも全体的に見て手作り工程が多く、大量生産に向いたものは少なかったようですが。 そんな関係からいわゆる機械化部隊は列強国の軍隊に比べれば少なく、移動は主に自分の足、軍馬などがほとんどです。「日本の兵隊はとにかく良く歩く」と他国からも感心されていたようです。
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- k16399638
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横浜フォード、大阪共立で、アメリカ車を戦争までに28万台作っています。ですが、日本人による日本人向けの乗用車はまだでした。また、赤坂の日仏がフランス車をいれています。陸軍省ではチェコのシュコダ車の車を2台買ってテストのち、公用車としていました。 民間向けがこの程度です。当時の日本には自動車をマスプロで生産できる組織がなかったのです。ですから、民間からの徴発、があたりまえでした。軍用はすでに諸賢がお書きですが、民生向けがこの体たらくなので、日本の兵器生産能力は、飛行機、船、戦車、そして弾丸造りでアップアップというのが実態です。特に、国産車運動のあったころ(日中戦争)の車は、電気系統がダメでした。その技術を戦車にも使っていたので、南方では電気トラブルで戦車が立ち往生、というのはあたりまえで、ダメになった車両から、使える部品をとる「食い合い」と、整備の腕で動いているのが実情でした。だから、日本陸軍は徒歩での移動がはやくなったのも事実で、これが日本陸軍の不整地移動能力の高さ、と結果的になり、インパール作戦の初期に、英国側が大混乱となる遠因となります。 蛇足 アメリカがちょっと異常なだけで、英国、フランス、イタリア、チェコには自動車産業が確立しており、それらの国を占領したから、ナチス・ドイツが戦争用の車両をある程度以上確保できたという皮肉なことになりました。たとえばシトロエンの創業者、アンドレ・シトロエンはフォードに心酔しており、その流れ作業を参考に一次大戦にフランス軍向け砲弾を供給し、戦後は自動車を安く大量に生産して、英国にも工場をもつほどの勢力でした。
- Yelm
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機動力を重視した日本陸軍は、貧弱な工業力の元でも自動車化には大きな努力を払っていました。 そのため戦前の日本でも自動車産業は航空産業ほどではないにしろ、重視されています。 1936年には「自動車製造事業法」が制定されて自動車は国策により「標準化」される事になるなど色々と手は打ってあり、世界恐慌時の1931年に僅か500両だった生産数は1941年にはその90倍以上の4万6100両にまで増大します。 しかしアメリカとの圧倒的な工業力の格差はいかんともしがたく、1941年におけるアメリカの自動車生産数が484万1000両であり、日本はその1%以下でしかありません。 またアメリカは自家用車が8割を占めるのに対し、日本はトラックなど商用車が9割以上と、一般家庭における普及率には雲泥の差がありました。 これは戦時の自動車乗員や整備員の養成にも、歴然とした優劣が生じる事も意味しています。
- yatiyochan
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日本陸軍は大正時代に国産の丙号自動貨車(トラック)を使用していました。これをベースにシベリア出兵時に際して装甲車に改造使用しています。 満州事変時には関東軍野戦自動車隊が編成され、スミダP型6輪自動貨車など自動貨車約30輌を装備しました。このころに陸軍自動車学校研究主事前野中佐が主任となって本格トラックの製造が委託され九四式6輪自動貨車が誕生しました。以後九七式4輪自動貨車、一式4輪自動貨車、同6輪自動貨車、試製4輪機動貨車、二式6輪起動車が開発され、太平洋戦争末期には戦時規格型と呼ばれる簡素型トラックが生産されました。もちろんシボレーやフォードなどの外国製トラックも併用され機動性・耐久性は国産車をはるかに上回りました。 そのほか九四型自動貨車を改造して高射砲を牽引できるUB型牽引自動貨車、航空機始動機車、九四式航空機給油車、飛行場証明車、沸水兼搬水車、九七式炊事自動車などの各種車輌が生産されています。なお衛生車輌にはルノー外科用自動車を参考に手術用自動車や滅菌用自動車が製造されたほかダットサン小型トラックに九八式X線器械を搭載した九八式野戦X線小型車、百式X線機器を搭載した百式X線車などがありました。 乗用車は先に回答にもあるとおり、くろがね4起に代表される軍用車の他各種国産乗用車が徴発されて軍用に供されました。 大砲の牽引車(キャタピラー式)は、九二式5屯牽引車(イケ車)、九二式8屯牽引車(ニク車)、九四式4屯牽引車(ヨケ車)、九五式13屯牽引車(ホフ車)、九八式4屯牽引車(シケ車)、九八式6屯牽引車(ロケ車)、試製16屯牽引車などがあり16屯牽引車は水冷V型12気筒ディーゼルエンジンを搭載したもので24糎榴弾砲を牽引しつつ時速20キロが出せました。 2輪車は、ハーレー・ダビッドソン社やインデアン社のオートバイを使用するとともに昭和4年に日本自動車によってニューエラー350CCオートバイが完成し、まず内務省において採用されました。以後日本内燃機KKが製造したオートバイが九三式自動2輪車(サイドカー付)として陸軍に採用されました。なおハーレー社のSV1200を「陸王」と称して国内で生産されたことは有名です。 日本陸軍の終戦時の自動車関係部隊の種類と数は以下の通りでした。野戦輸送司令部(18)、兵站自動車隊本部(1)、自動車連隊(19)、自動車隊(1)、独立自動車大隊(40)、独立自動車中隊(88)、兵站自動車中隊(11)、特設自動車大隊(3)、特設自動車中隊(36)、牽引自動車隊(1)、牽引車中隊(6)、独立輜重兵連隊(4)、独立輜重兵大隊(10)、独立輜重兵中隊(21)、兵站輜重兵中隊(5)、野戦自動車廠(25)ほかに師団隷下の輜重兵連隊、輜重中隊など
- Pinhole-09
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日本の4輪自動車の生産は昭和初期ころからオープンカー型から現在のような型になり、本格化しました。 トラックの生産も同様です。 当然軍事用に使われるようになり、最初にニッサン「81式軍用自動車」が兵士や荷物を運ぶ為制式化され、さらに馬に挽かせていた大砲を挽く「92式5トン牽引車」(キャタピラー車)が昭和7年正式化されました。 牽引車も何種類も開発され、「95式13トン牽引車」が最大で、戦車も牽引しました。 トラックも「94式ディーゼル自動車」は6輪4トン車でした。 昭和16年制式化の「1式軍用自動車」もあります。 水陸両用の軽戦車のように「スキ型水陸両用車」も開発されました。 軍用乗用車として先答の「95式偵察連絡車」もあります。 このように研究開発は盛んでしたが、工業力で劣り生産台数が欧米諸国よりはるかに少なく、前線では車両不足で輸送に苦労しました。
- cho4
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トヨタと日産、そしてふそうトラック(三菱重工)は戦前から 存在しています 戦時中はもっぱらトヨタと日産でトラックを、 ふそうが民間用のバスを作ってました ただ、航空機に比べると 優先度が低かったこともあり 技術的には遅れたものでした 占領地などで海外メーカー製のトラックが入手できた場合は そちらが優先して使われたようです 戦後になって、航空技術者が自動車メーカーに流れてきた ことと、品質管理技術の導入によって、技術は飛躍的に 向上することになります なお、アメリカ以外の国の自動車生産能力はたいしたことは ありません ドイツでも 補給に馬車等は普通に使われました ソ連は、アメリカの援助でトラックを入手できたため、 生産能力を戦車等に振り向けています
お礼
みなさん回答ありがとうございます。非常に勉強になりました。 まとめてですがお礼申し上げます。