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哲学の未来
いずれ必ず来る未来において主流をなすと思われる哲学は、どのようなものになるのでしょうか? 現在と同じく、ただ単に多様な哲学が存在するというだけではなく、具体的な指針のようなものがありましたらお聞かせください。 未来といっても、50年から100年後ぐらいを想定しています。
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従来の哲学では様々な学者がそれぞれに機軸を打ち出し、その哲学は批判を受けても魅力さえあれば支持されてきました。 しかし我々が存命か定かではない未来においては、実社会や人間性の確立に役に立たない哲学は否定され、より実践的な哲学へと変貌を遂げることでしょう。 例えば近代から現代を例に挙げると、ヘーゲル学派の弁償法に論拠を得たマルクス主義は否定され、アメリカ的実践主義の礎となったデューイらのプラグマティズムは珍重されたように、さらに結果重視の傾向を強めるでしょう。 そのうえに予測的な手法を確立するための哲学が強く求められるでしょう。実験的な手法を回避し、ひたすら目的を追求する、つまり哲学にも効率が大きく求められると考えます。 その一方でストイックで宇宙的な観点から自己を捉える哲学にも、産業振興を強く望まない層から大きな支持を得るでしょう。既存の宗教に懐疑的になり、その拠りどころを哲学に求める人が増加すると考えます。
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- HANANOKEIJ
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未来の哲学のことは、わかりませんが、「未来社会」論、「未来社会論」という社会科学の分野があります。 http://www.shinnihon-net.co.jp/catalog/product_info.php?products_id=1431 労働時間の短縮と、いろんな職業を経験できる社会、人間の能力の全面的な開花を保障する社会。 「ひとりは、みんなのために、みんなは、ひとりのために」 「一人の発達が、残りのすべての人の発達の条件になる社会」 「一人が百点をとることが、残りのすべての人が百点をとる条件になる社会」抽象的ですが、4月1日NHKBS放送の「ガンジー」を見てください。
お礼
再度のお答えありがとうございました。 ご参考にさせていただきます。
前半はSF小説です。 今のスピードで情報化技術全般が進歩するならスーパーコンピューターの弾く計算結果が(神に等しく)純粋に理性的な回答となるやも知れません。 そうなると鉄腕アトムを作り出して、(又はドラえもん)それらの人口知性に神の何たるかを問う時代となり、人間は地上の主役の座を転落するでしょう。 ここまでがSF小説ですが、もちろんそうならないでしょう。 ならば、争うことはやめて冷静になり、多くの問題にそろそろ結論を出すときです。 これは現代に求められる哲学です。 それが達成されたその後を夢想するならば、現在は神の意思とされる人間の本性、又は生命の存在意義、大体そのような考え方を考えるだけでなく実践する時代が未来ではないでしょうか。
お礼
ありがとうございます。 「現代に求められる哲学」という言葉が重く感じられます。 その言葉は未来においても同様の価値をもつかもしれません。 大きなヒントをいただいたような気がします。 常に現在という時間があって哲学があるのでしょう。 未来という時間においても、その時間に存在するものにとっては現在(現代)であることには変わりがない そして、求められる、というところに人の知性の積極性が感じられます。 現代=哲学でしょうか 未来の哲学の内容がどのようなものになっていくのかは分かりませんが それは、求められ、切り開かれていくのでしょう。 それが自然でもあり当然でもあると思います。 少し安心したような気がします。 人の知性の積極性が無くなることは無いのですね。 未来の空想の杞憂は必要ないようです。 ありがとうございました。
- HANANOKEIJ
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1968年7月22日に出版された、岩波講座哲学2「現代の哲学」哲学の現代的状況、という真下信一氏の論文を読んでいます。 なぜ、今、40年も昔の論文なのか、自分でもわかりませんが、古本屋で、偶然見つけて購入した2冊のうちの1冊です。 もう1冊は、岩波講座哲学6「自然の哲学」です。坂田昌一博士も編集に携わっておられました。昨年のノーベル物理学賞を受賞した、益川、小林、お二人の教授の論文提出が1973年なので、当時の自然観を知るのに、最高の本と出合えたわけです。 「哲学の未来」という設問が、理解できません。いつも、現実と向き合って、「人間」の問題と格闘する哲学者には、予言は必要ない気がします。解決をせまる、人類的な課題が、目の前にあります。 戦争と平和、核兵器の廃絶の問題。貧困と格差、労働の問題。人間をとりまく、すべての問題にどう道を示すか? いつの時代にも、時代の診断をして、人々に「目覚めよ」と働きかける哲学者がいると確信しています。
お礼
私は哲学に関しては外野席の人間です。 この分野を切り開く立場の者でもありません。 ちょっと野次馬根性で質問をしてしまいました。 回答者様の真面目さからすれば失礼なことだったかもしれません。 ただ私も人生の終盤戦に入りつつあり つい、この先はどうなるのだろう、と思ったのです。 ありがとうございました。
- 日比野 暉彦(@bragelonne)
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《愛》は 存在関係であり そこにおけるおのおの《わたし》の意志行為であり 社会的に 自治・経営・共同自治(政治)であると ふつうに 捉えられ そのように実践されているという人びとの生活態度 これが 基調になっているでしょう。 生活態度が 思想です。 哲学は 思想が 具体形態であるところを あらゆる可能性を考慮に入れて おぎなっていく仕事に従事します。 キリストのキの字も ブッダのブの音も 言わない・聞かない時代になりますでしょうか。どうでしょうか。 むろん 廃れるという意味ではありません。主観内面に つごうよく おさめられるという意味です。宗教は要らないという意味です。 (ブのほうに関しましては わたし個人は 眉に唾をつけて捉えております。どうも 勿体ぶって言っているだけであるか それとも――その勿体ぶった振りを剥がせば―― ふつうの経験思想であるのみだとも 考えられますから。 後者のばあいには デカルト以降の哲学思想と 並ぶという意味です。たぶん――その後光を取り外せば―― 哲学の歴史のなかに 埋没してしまうでしょう。 ぎゃくに 前者のばあいでも 勿体ぶっていない信仰としましては 見るべきものは 親鸞のみだと考えます)。
お礼
ありがとうございます。 非常に興味深くお読みさせていただきました。 他の方々とはまた違ったご意見なので、少し驚きを感じています。 愛に基ずいた生活態度が思想である、ということですが ふと私が思ったのは未開の地の人々が、自然の中で和やかに、協力しあって生活していることでした。 もちろん彼らにも宗教的なことがあるみたいですが どちらかといえばアニミズム的なものであり、心を強く縛りつけるものではないようにも思えます。 原始的とも思える人間の生活の中に、一番大事なことがあるかもしれないのです。 やっぱり愛ですか。 これはもう宗教や哲学以前の、なんというか人間の人間らしさですかね 未来になっても変わらない人間らしさなのかもしれませんね。 親鸞さんのことですが 私が以上の事と結びつけて思いだすことがあります。 22か23の頃でしたが西本願寺に行ったことがありました。 少し仏教にかぶれていて、だいぶ頭の中が混乱していましたが 本堂の広い座敷に座って、親鸞さんをじっと拝んでいると不思議に涙がでてきたのです。 そして、しばらく時間を過ごした後、表の廊下にでてきたのですが その時の、暗い本堂から見えた光景は印象に残るものでした。 明るい日差しの中で、沢山の人が本当に和やかな感じで座って話しをしていました。 何の変哲もない眺めには違いないのですが、その明るさや穏やかさが心に強くせまる感じがしたのです(うまく表現できないですが) まあ、感じやすい年頃の一件だったとは思いますが 愛に基ずく生活、といわれてみると あんな感じだったのかなとも思ってしまいます。 他力の教えとかまだ知りませんでしたが、目の前で何か救われるような眺めを見せていただいたようにも思えます。 人間の基本的なことは未来になっても失われない、というか基本的なことに立ち返ってゆくということでしょうか 愛という基本に宗教も哲学もつつまれてゆくのでしょうか 私には分かりませんが 愛のある生活の光景は確かに美しいように思えます。
- magga
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人間の理性に期待して…といったところですがw ゴータマ・シッダールタ尊師(お釈迦様)の説いた、常に他俳的でない態度で、相手と自分の自由を守りながら、データ(範囲と根拠)に基づき、柔軟に科学的な反証を受け入れる姿勢で自己の見解を構築していく方法。 理性的・論理的な思索に邪魔になる感情であるとされる、怒り系、貪り系、無知系、の感情を落ち着かせる方法。(慈悲喜捨髄念など) 集中力や気付きの力をはぐくみ、現象の観察力を増す方法。 それらを脱線せずに歩み続けるための支援になる方法。 このようなものを分析的に理性的に思索するようになると個人的には理想かなと思います。し、生命同士の軋轢も搾取に構図もマシになるかなと思います。 あくまでも理想ですけどね… 2550年たってもごく僅かな人しかこのような手法はとってないように感じるので、難しいかもしれませんが… 若干期待してはいますw
お礼
ありがとうございます。 maggaさんの人間的理想像は知的なお釈迦様なんですね。 それはそれで素晴らしいことだと思います。 しかし、そのような人になるのは余りにも困難なようにも思います。 困難だからこそ憧れるのかもしれませんね。 最高の人格を得たといわれるお釈迦様ですが その深い知恵の世界が未来にも期待できるということでしょうか。 さてさて・・・ 弥勒菩薩にでも聞いてみましょうか・・・ それとも五十六億年を前倒しして現れていただきましょうか・・・ 可能性はゼロではないかもしれませんね お釈迦様がこの世に現れたことと同じ確率はありますね 期待しましょう 期待して龍華樹の下で寝て待つことにいたしましょう。 (冗談お許しください) ありがとうございました。
ヘーゲルの弁証法や、老子の陰陽原理では、世界の流れは、正、反、合となります。だから次は西洋哲学と対立する、反対のもの、西洋哲学を否定するものです。西洋哲学は脳の論理的思考で、自我を表現しています。そして脳は自我は、自然や無我と対立しています。だから次は、脳の論理的思考を科学を拒絶して、脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを、無我を追求している日本の伝統文化の時代です。中国の老子は脳の思考による、人の知恵を否定し、無知をすすめています。仏教の釈迦の教えは、脳を自我を否定し、脳を休めて無我になれば、人は救われると教えています。禅などがそうです。脳の科学の自我の時代から、脳を休めて、自然の情緒の、心の癒しの、無我の時代になります。
お礼
ありがとうございました。 NO.2さんの答えと正反対のご意見として受け止めさせていただきました。 全てがコンピューターのような速さで変貌をとげていく現在においても人の心の救いという事については、宗教が重きをなしている事は確かです。 未来においては 救いは宗教に、実践的論理は哲学にと大きく二分してしまうのでしょうか。 哲学は心の救済から遠ざかり 宗教は現実の社会から遠ざかっていくのでしょうか。 遠い過去の時代には宗教の中に哲学がふくまれていたように思います。 そして哲学が宗教を離れて一人歩きを始めて今日に至っているような感じもします。 いつかは、また宗教の中に哲学が帰ってゆくときが訪れるのでしょうか そのような宗教が現れる可能性が全く無いとは言えないかもしれませんね。 宗教的な立場からのご意見ありがとうございました。
- Tinte
- ベストアンサー率45% (27/60)
僕は哲学の分野から離れて5年ぐらい経ってしまいますが、たぶん、スパーコンピューターやネットワークなんかがベースになっている複雑系…的な哲学が残っていくんじゃないかな…とは思っています。 というのもここらあたりの考え方は単に数学的であるというのではなくて、わりとハイディガーやフッサールなんかとも深い関わりをもっているし伝統的な哲学と切ってはきれない関係にあるんじゃないかなと思います。 具体的に説明するのはちょっと大変なのですが、様々な分野に共通する一つの理論になりえる…という期待感はかなりもてる考え方だと思いますよ。 (もしかしたら、現在の最前線の哲学ではすでに全くちがっている可能性もあります)
補足
さっそくのお答えありがとうございました。 浅学の身ですので、ちょっとだけ複雑系を覗いてみました。 宇宙から人間まで複雑系なのですね・・・驚きました。 昔は、インターナショナルな考え、とよく言ったものです。 それが最前線の旗印でもあったのです。 今はもう宇宙にまで広がってしまったのですね。 哲学もいずれは、そのような広がりをもったものになるという事でしょうか。 ところで、回答者様にお聞きしたいのですが このような科学の進歩と哲学の変化の関係について どのように思われていらっしゃるのでしょうか。 科学から見た哲学というもの また、哲学から見た科学というものについて ご意見をいただきたく存じます。
お礼
ありがとうございました。 未来の哲学は、実践的でかつ結果重視のものになるかもしれないという事ですね。 半ば空想的理論の美しさよりも、あくまで現実性を重視したものとも言えるのでしょう。 哲学に効率という言葉を使われたのには少し驚きました。 世の中の変化の速さを実感してはいますが、哲学にも速さが求められていくのかもしれませんね。 貴重なご意見ありがとうございました。