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Aが誉められると僕が傷付く心理が知りたいです
知人のAは中一の時に、イジメに主犯格として加担して同級生Bを自殺に追い込みました。 僕はBと挨拶する程度の仲でしたが イジメの標的にされるのが嫌でBを助けず挨拶もしなくなりました。 見殺しです。 自殺に尋常じゃないショックを受けたことから僕は精神科に1年間通いました。 翌年、受験生になり勉強だけしました。 高校に入学すると事件のことは忘れていき、楽しい三年間を過ごしました。 大学生になって、不運なことにAと同じ学校になりました。 Aが笑っていたり楽しそうだったり誰かと喋ったりしていても何とも思いません。 でも「Aのことを好きだ」と言う人がいたとき、 僕の心はズタズタに引き裂かれました。 周りの人は、事件のことをさらっと聞いてはいるそうですが 過去は過去だって割り切る人が多いそうです。 イジメの時からAのことは理由なく嫌いで、ずっと無の存在として対応してきました。 同じ大学になっても、Aは居ない存在なんだと自分に言い聞かせ、存在をスルーしてきました。 そんな中で「Aはいいやつ」「Aはおもしろい」と言う人が数名あらわれて かなりのショックを受けてしまいました。これはおかしいことでしょうか。 嫉妬ですか? Aが不幸であればいい、と思う僕は悪ですか? Aに小さく縮こまっていてほしいと願う僕は性悪ですか? 世の中には色んな人が居て類は友を呼ぶから放置しよう、と心がけるようにしたこともあります。今もですが・・・。 でももう半年以上、生活の8割をそのことで占められています。 そんな自分の心も醜いなぁと悲しくなりますが、 どうしても許せなく、嫌いで、納得が居なくて、悩んでしまいます。 誰かがAを賛美することが、心がズタズタにされる思いがします。 Aはそれなりに反省しているだろうし未来を大切にする気持ちもあるだろうし、 周りの人も過去は過去と割り切ってるだけだったり 好意があるから好きだと言っただけで、それはAの良い面だから、何も問題ないって、頭では分かります。 それをずっと自分に言い聞かせてスルーを心がけて忘れようとしていくのに、 Aの話題が出るたび、Aの顔を見るたび、ぶり返して不快な気持ちになってしまいます。 最近は、Bの自殺に勝手にたくさん傷付いた僕が悪い、という理論に達することもあります。 元々鬱病気質ですが死にたいとか人生放棄の意思はありません。 Aが誉められると僕が傷付く心理が知りたいです。 よろしくお願いします。
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初めに断っておきますが、こういう説明は「心理学」とは関係ありません。 一言で言うならあなたはAが怖いのです。 □周囲の人びとはAを許したわけではなく、もとより内心において「自分が」Aを非難する理由が無いのです Aが道徳的に非難されるべきことをしたのは知っているが、それはよそ事です。彼ら自身にとってBの不在はなんら損失ではない。 □あなたはBを「見殺しにした」ことを後悔し、自分を責めたりはしていない。 悔恨は「もっとよい選択が可能であった」場合に生じる。あなたにとってBを助けないことは既定事項であり、一瞬の怯みから助けられなかった、というようなことではない。 □あなたは自分がBの立場であってもおかしくなかったことを認識し、「自分を殺し得るしくみ」の存在を肌で感じました。 一便違いの列車が大事故を起こしたのを聞いて恐怖し、しばらく電車に乗れなくなるような場合と同じです。 □ということであなたはAが怖いのです。AそのものというよりAを含む・Aによって代表される・P.K.ディック的な「殺し屋たち」に恐怖している。周囲の人たちがAを「認める」ことは、あなたにとって「自分を殺し得るしくみ」が公認されるようで居ても立っても居られないのです。 あなたは「悲憤慷慨家」のパターンに囚われているようです。 世に必ずしも正義が行われないことを嘆く「悲憤慷慨家」というのは、自分がなすすべもなく虐殺されつつあったとしても誰一人眉一つ動かさないであろう、冷酷な現実そのものを認めたくないのです。 「悲憤慷慨家」が、自己の免罪とセットになっている無力感、それがもたらす恐怖から逃れるためには、 例えば「悪」を行うことが考えられます。自分も誰かを殺してみる。 「人を殺す体験がしてみたかった」と述べたというどこかの抜け作は、それによって無力感がもたらす「現実そのものへの恐怖」から逃れようとしたのかもしれません。 しかしもちろんあなたに殺人を勧めるわけにはいかない。 たとえばAと一対一で「対決」することが考えられます。Aにも将来があるとか反省しているだろうとかいった道理はあなたにとってはもともとどうでもいいものです。「お前が人殺しだということを俺は忘れてないからな」とAに面と向かって言い放つことで、あなたは「自分を殺し得るしくみ」に一矢をむくい、「悲憤慷慨家」の「免罪とセットになった無力」を捨てることができる。 えーいずれにしても随分物騒な教唆ということになりますが、これは単なる、あなたの疑問にたいするわたしの答えを説明するためのたとえばなしであると逃げておきます。
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えーつまりこれは「価値観」の問題であるとか、裏にどういう複雑な「心理」があるとかいったようなことでないのです。 体系的な倫理とかいうものに照らして何らかの不整合があるとか、そういう「高等」な問題でないのですね。 犬やネコにだって「怖い」ものを「憎む」気持ちがあるでしょう。 人間にしても同じです。人間は恐怖や損得に衝き動かされるだけの単なる泥人形です。
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まったくの想像ですが、そのいじめ事件に、いじめる側として参加したかったという願望があったというようなことはないでしょうか。その時、抑制せずに実行した人物に対する一種の劣等感のようなものがずっと続いているというようなことはないでしょうか。実際は実行しない方が優れているはずですが・・・
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- shift-2007
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こんにちは、 中一の頃のイジメは質問者さんの中ではまだ終わっていないのです。 誰が自殺しようと、みんなが忘れようと、Aが改心しようと。 >見殺しです。 質問者さんを傷つけているのは質問者さん自身です。 Aの存在がトリガになっているだけで、実のところAとは関係ないのではないでしょうか。 あなたを責めているのは誰でしょうか。 このひとり芝居に気づけば質問者さんの苦痛は消えると思います。
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- _supika
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>嫉妬ですか? それに近しいかもしれませんが、違うような気がします。 重罪を犯した人間が時効を迎え、どこかでのうのうと暮らしていると思うと腹が立つ、という気持ちに近いのかもしれません。 質問文を読む限りでは、質問者様はBさんを見殺しにした事に対して強い罪悪感に苛まれているように思います。 その強い罪悪感から、「自分はこんなに苦しんでいるのに、何故Aは苦しんでいないのだろう?本来苦しむべきはあいつだろうに」と思っているのではないでしょうか。(>Aに小さく縮こまっていてほしいと願うの部分から) そして、質問者様はAさんの本当の悪い面を知っているから、その面を知らない人間がAさんの事を賛美すると、「あいつは本当は悪い奴なのに何故?」と思うのだと思います。(Aさんを賛美する人間に対して「あいつは本当は悪い人間なんだよ」と教えてあげたくなるような気持ちはないでしょうか?) 自分にとって嫌な人間が周囲に認められるということは、自分の認識と周囲の認識があまりに違いすぎて混乱するのだと思います。と同時に、自分の認識、自分自身が否定されたような気持ちになるので傷付いたり、納得しない気持ちになるのではないかと思います。 とりあえず、 >Bの自殺に勝手にたくさん傷付いた僕が悪い という事はありません。 身近な人間が死んでしまったら、それが良い奴だろうと嫌な奴だろうと少なからず傷付くはずです。 本当は事件のこと、Aさんの事を忘れたいのに、Aさんが誉められている事で意識せざるを得ない事が嫌なのではないかと思いますが、忘れよう忘れようとして無理に自分を追い込まないでください。
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回答をして頂き本当にありがとうございました。
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