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「喜劇 commedia」のこと
Commedia というのは、元来、「めでたく終わる劇」を意味したということだそうで、 ダンテの Commedia は、この意味で名付けられたもの (ダンテが最後に至高天まで昇るので)なわけですが、 以前からこれに関して疑問がありました。 Commedia だとか comedy などは、もともとの ラテン語を経た、ギリシア語 の komoidia に由来するわけですよね? 古代ギリシアの喜劇は未読ですが、 聞く所によりと、ゲラゲラ笑うような類の喜劇だそうです。 そこで質問があります。 1. 古代ギリシア人は、今日「ギリシア喜劇」と呼ばれているものを、なんと 呼んでいたのでしょうか? もし、当時から komoidia と呼んでいたなら、 komoidia はゲラゲラ笑うような類の劇であって、「めでたく終わる劇」 という意味ではなかったのですか? すると、commedia(や同種の西欧語)は、中世のイタリアかどこかで、 意味が変化したということになりますよね? 2. これは大学の講義で、以前耳にしたことなのですが、古代末期なのか、 中世なのかルネサンスなのかわかりませんが、聖人の殉教劇が「喜劇」 呼ばれていた、と聞きました。キリスト教では殉教が「めでたいこと」であったのは 知っていますが、まだ、このことに言及した本を呼んだことがありません。 もし、殉教劇が「喜劇」と呼ばれていた事例、また、ダンテの「神聖喜劇(神曲)」 のように、「ゲラゲラ笑う劇」ではなく「めでたく終わる劇」という意味で「喜劇」と 呼ばれている例をご存知でしたら、教えてください。
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クーチューさんなので来てしまいました。アリストパネースの蛙です。もっと来るだろうと思って小生も期待して待ってたのですが、集まりませんでしたね。 1、はご指摘の通りだと思います。いや無論、「めでたく」終わらない、破局で終わる芝居を、ゲラゲラ笑って見ていられはしないでしょうけれど。 2、岩波文庫の『神曲』の巻末・解説に、ダンテ自身が、『喜劇』と名付けた理由について、「めでたく終わるから」という理由のほかに、「女子供でも読める(いまこれ差別表現だよなぁ)俗語で書いたから」という理由も挙げていることが書かれてあります。ヨーロッパ中世の宗教劇(受難劇など)も、民衆受けするために次第に俗語化していったようですし、鹿爪らしい「悲劇」(当然言葉遣いも荘重、ってのは『蛙』でエウリーピデースがアイスキュロスを批判する言葉ですね)に対して、言葉遣いの荘重でない、日常的な俗語で演じられる芝居が「喜劇」だったのでは? 喜劇が人間への諷刺であり、悲劇が神への抗議であるとすると、喜劇は俗語でなければならないわけで。 ・・・と思いますが、ハッキリそんなふうに書いた文献があるわけではないので、「自信」は「無し」。 無責任な回答で済みません。でも書きたかったのん。
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- aschenbach
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1番です。叱られちゃいましたね・・・。小生も叱られたような気分。(ちょっと落ち込み) で、回答でも何でもないんですが、叱られついで、論文に書いちゃえば? どうもちゃんと「書いた」文献がないようですから、今がチャンス、書いちゃえば業績はこっちのもんです。kequさん、書いちゃえ。(←煽動) kequさんのご専攻もポジションも存じませんから無責任極まる発言ですが。(←煽動は古来無責任なもの。)
お礼
私、実は、大卒です(笑) Commedia については、単純な疑問でして・・ 専攻は西洋美術史でした。 現在は、宗教学と文学にハマッています。 皆さんと専心する領域が重なるようですので、 これからもなにとぞよろしくお願いします。m(__)m
- maris_stella
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「めでたく終わる劇」がコメディーだとか、「ゲラゲラ笑う劇」がコメディーだとか、誰がそんなことを言っているのでしょうか。こういう難しい問題は、西洋演劇史の専門家が知っているか、または、質問者自身が、西洋演劇の歴史などの概説書を読まれれば、或る程度分かるはずです。 英語の comedy, フランス語の comedie, イタリア語の commedia などは、「喜劇」という訳語以外に、別の訳語も載せています。フランス語の場合、「演劇」とか「演劇する場所・演劇場のような意味のあり、コメディー・フランセーズ Comedie-Francaise は、「フランス座」といい、古典演劇を上演する劇場だとされます。 「喜劇」というのは、文字で見ると「喜びの劇」で、「笑劇」ではありません。 演劇の歴史が分からないので、推測になりますが、元々、ギリシア語の「喜劇」対応語には、「ゲラゲラ笑う劇」などという意味はなかったと思うということです。ラテン語では、どういう意味範囲があるのか確認できればよいのですが、中ラテン語辞典が見つからず、大辞典は大きすぎて、普段使っていないので出てきません。 ギリシア語の「喜劇」は、komoidia(κωμωδια)と言います。これは kom+oide [song] (または kom+oidos [singer] )だと、辞書の語源説明では出てきます。kom は何かというと、koomos(酒宴)だというのが普通出てきます。酒宴または酒の入ったどんちゃん騒ぎかも知れません。 この語源だと、「酒宴の席でのうた」ということになり、「滑稽で面白いうた」であって、それを聞いて、出席者が余興として笑ったのだという解釈になります。しかし、Liddel & Scott の Intermediate で見ると、koomos+ooidee という説と、koomee+ooidee という二つの説が出ています。 古典ギリシア人だと、どちらか分からないというより、語源解釈すると、どちらもそれらしいということになるでしょう。komos+oide なら「revel-song」で酒宴のうた、ですが、kome+oide なら、「village-song」で、意味が相当違ってきます。 また、コーモーディアは、悲劇(トラゴーディア,tragoidia, τραγωδια)との対比、緊張関係で捉えられていたはずで、「げらげら笑う」とか「めでたく終わる」とか、そんな意味で規定されていたのではないはずです。 先の L&S の intermediate の説明では、アッティカ地方の悲劇は、三段階の歴史があり、古期・中期・新期と分かれ、古喜劇は、紀元前393年までで、「権力を持つ人物を名指しで攻撃するのに」使われた、とあります。中期喜劇は、紀元前337年までで、コロスがなくなり、「著名な人物を、名指しでなく、それらしい性格の登場人物を使って個yげきするのに」使われたとあります。 新喜劇は、これ以降で、この名の喜劇は、「現代の Comedy of Manners」と同じであると出ています。comedy of manners とは、中流上流階級の人の習慣や行動を、風刺した劇で、「風刺劇」とか「風俗劇」とでも呼ぶのが近いです。 参考URLにあるように、古典ギリシア喜劇作家として有名な、アリストパネースは、紀元前445年頃-385年頃で、年代的には、古喜劇作者に属します。アリストパネースの喜劇は、「げらげら笑う劇」ではなく、権力者を攻撃するために、「笑い」を使い、権力者の権威を下落させたのです。 古典ギリシア喜劇は、最後は「大団円」になるのが普通で、これは、権力者・有力者を批判攻撃しても、あくまで、「劇」においてで、共同体の規範で許容された話だからです。ギリシアの喜劇は、悲劇もそうですが、俳優もコロス(合唱隊)も、普通の市民が演じたのであり、専門の俳優はいなかったということがあります。 つまり、共同体の祭祀の一種として、喜劇・悲劇の上演があったとも言えるのです。劇の最後が、大団円で、めでたい終わり方をするのは、社会の矛盾や公正を、「笑い」を通じて、訴えても、共同体の健全でよりよい状態の実現が目的で、暴動などを扇動するために劇を演じたのではないので、めでたい終わり方をするのは、当然で、「ゲラゲラ笑う」と「めでたく終わる」は、矛盾しないで、むしろ、同じことだとも言えるのです。 こういうことからすると、古典ギリシア喜劇は、「village-song」が語源であった可能性が高いです。アテーナイの民主制は、金権政治だとか独裁僭主の登場で崩れて行った訳で、これに対する反論は、都市部より、農村部から起こって来るというのが自然にも思えるからです。 新喜劇となった後も、「風刺劇」であって、やはり社会批評は含まれていたのだと言えます。また、悲劇はある類型があり、普通の人の話を劇にするとすると、その人の性格のおかしさ、奇妙さや、何か事件が起こり、どたばたとして、最後は、大団円となるという話になるでしょうし、これは、ギリシア喜劇に分類されます。 私見ですが、元々、ギリシア悲劇「コーモーディア」のなかに、後の色々な劇の要素が入っていたのであり、悲劇でない劇一般を、喜劇(コーモーディア)乃至、そのラテン語訳形、各国語訳形で表現したと考えるのが自然でしょう。イタリア語の commedia storica(歴史劇)も、元々のギリシア喜劇の「village-song」のなかに含まれていたとも考えられます。 「悲劇」がむしろ、特殊なのであり、古典ギリシア悲劇は、「義理と人情」というか、「個人の希望と共同体のノモス(規範)」の葛藤を主題としたように思います。(「神と人間」「運命と人間」ではないでしょう。個人の自由が当然と見なされた現代以前では、共同体の規範は、「神」であり「運命」なのです)。 悲劇は、こういう原義から、「あらがえない運命と個人の希望のあいだの葛藤の物語」となり、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、まさに、こういう事態の話なので、「悲劇」とは呼んでも、「喜劇」とは呼ばないのでしょう。 それに対し、「オセロ」や「リア王」、「ハムレット」などは、個人が自己の希望と、社会的規範のあいだで葛藤し、敗北するという話で、それ故「悲劇」なのでしょう。「カタルシス」の要素がここには、入ってきますが、「人間の運命」を実感することで、運命を乗り越えるという意味でのカタルシスは、古典ギリシア悲劇にもあったのです。 中世の受難劇とはどういうものかよく分かりませんが、上の悲劇の定義からすると、悲劇では当然ない訳で、「ゲラゲラ笑う劇」でもないでしょうが、「劇一般」として、大団円となり、人間のありようが、対立的構造でなく描かれるということでは、これは「喜劇=コーモーディア」に入るのだと言えます。 ダンテ・アリギエリが、自己の畢生の傑作長編詩を、Divina Commedia と名付けたことは、確かに、この作品は「深刻な話」で、軽い喜劇的作品ではないという点で、悲劇がむしろ相応しいかとも思えますが、しかし、この大詩篇では、「人間と共同体の矛盾の葛藤」「人間と運命のあいだの葛藤」が主題になっているのではありません。 冒頭で、ダンテは、中年を過ぎ、道を見失い、暗い森に迷子になったと述べます。そこに、古代の詩人ウェルギリウスが登場し、ダンテを導き、世界の構造の真理、更に、宇宙の運命の「歴史」の経験の旅へと誘います。「神曲」は、悲劇ではなく、調和的世界観の提示であり、壮大な「宇宙歴史劇」だとも言えるのです。 悲劇の意味は、あまり変化しなかったと思いますが、コーモーディアの方は、元々、「笑劇」ではなかったのであり、「村のうた」という意味もあったことからして、意味が広く捉えられ、ラテン語でもっと広くなり、ロマンス語では、悲劇でない劇がコミカ(コメディア)だとなったとも思えます。 バルザックの「人間喜劇」も、comedie となっていますが、これも「世界歴史劇」で、多く知られている作品は、バルザックの分類では「この世の地獄」や「煉獄」についての話で、では、「天国の話」はあるのかというと、ノルウェイという異質な世界を舞台にした、両性具有のセラフィタ(セラフィトゥス)を主人公にした、「セラフィータ」が天国に当たるという説があります。 >ギリシア喜劇 >http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/geiron/geiro06.html >フランス中世演劇概要 >http://www4.ocn.ne.jp/~ysato/moyen.htm
- 参考URL:
- http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/geiron/geiro06.html,http://www4.ocn.ne.jp/~ysato/moyen.htm
補足
お叱りを受けてしまいました・・ 一応、私自身も、簡略ではありますが、演劇史について調べましたが、 この問題に触れているものが見つからなかったので、ここで質問してみました。 komoidia の語源についても、私なりに調べたのですが、 例えば、「山羊の歌 tragoidia」が、ギリシア悲劇の起源こそ説明していても、 (ディオニュソスの密儀との関係はよくわかってないらしいですが)、 西欧の悲劇は勿論、ソポクレスやエウリピデスといった、実際の古典時代の悲劇 を説明出来るようなものではないように思われました。 同様に、comedy の語史を洗っても、西欧中世の commedia に付加されていた 意味を説明していないように思えたのです。 ギリシアの喜劇は「ゲラゲラ笑う劇」の類ではなかった、ということですが、 私の調べたところによりますと、メナンドロスに代表される新喜劇は、 「ゲラゲラ」と言いましょうか、シャイクスピアやモリエールと同じような意味で、 笑いを誘う劇であったそうです。 こればかりは、実際に呼んでいない以上、断言できないのですが。 ********** Commedia が元来「めでたく終わる劇」の意であった、 というのは平川祐弘訳の「神曲」の訳註に出ています。 氏は西洋文学(英・伊・仏)のエキスパートであり、また大変な秀才である と聞きますから、この情報は信用に値すると思います。 私見ですが、悲劇と喜劇というのは、西欧(ギリシアを除く)では、単純に 悲劇=アンハッピーエンド、喜劇=ハッピーエンド、ということで あったように思えてきました。 「喜劇は結婚で終わり、悲劇はは死で終わる」という言葉を どこかで聞いたことがありますし。 「ゲラゲラ笑う」と「めでたく終わる」というのは、確かに矛盾しないし、 多くの場合、完全に一体になっています。 ただ、私が気にかかっているのは、その教授が言われた、聖人の殉教を 扱った劇が「喜劇」と呼ばれていた、ということなのです。 この場合、「ゲラゲラ笑う」と「めでたく終わる」は一体のものではなく、 両者は完全に切り離され、そして後者が自律しているわけですよね。 これらにおける「喜劇」性は、ただ一点においてのみ、つまり天国に上げられる、 という部分にのみ係っているように見えます。 ダンテの Commedia に関しても、これが「喜劇」である理由は、 全体の内容からというより、これもまた、やはりただ一点(ハッピーエンド、もしくは 俗語で書かれた)に係っているように思えるのですが。 私の考えでは、この物語には「人間と運命の間の葛藤」は、随所に書かれている気がします。 つまり、自分の理想と、実際には思うように全く行かない現実であるとか。 またダンテが始終哀れんだり、涙を流したりするのは、そこだけ引けば、 悲劇そのものという感じすらします。 私見では、「神曲」は、「宇宙歴史劇」というより、恨み辛みの鬱憤晴らしの 芸術的昇華に読めるのですが。 ボッカッチョも、20世紀のクローチェも同じようなことを言ってますね。 なんか取り留めがなくて、すみません。
お礼
aschenbach さん、今回もまた有難うございます。 「神曲」が「喜劇」である理由の2番目は、全く知りませんでした。 岩波版も(滅茶苦茶難しいけれど)、読んでみようと思います。 中世の殉教劇のことですが、その教授は確かに、「聖人の殉教はめでたいことで、 だからこれも『喜劇』だったんです」と言われたような・・ 講義にモグリで入って、質問するしかないのかもしれません。 また何かありましたら、その際はよろしくお願いしますm(_ _)m
補足
もう一つの喜劇の方の質問は、2週間たって、goo から締め切りの催促が来たため、 やむなく締め切ることにしました。 沈んでいくばかりだし・・