「めでたく終わる劇」がコメディーだとか、「ゲラゲラ笑う劇」がコメディーだとか、誰がそんなことを言っているのでしょうか。こういう難しい問題は、西洋演劇史の専門家が知っているか、または、質問者自身が、西洋演劇の歴史などの概説書を読まれれば、或る程度分かるはずです。
英語の comedy, フランス語の comedie, イタリア語の commedia などは、「喜劇」という訳語以外に、別の訳語も載せています。フランス語の場合、「演劇」とか「演劇する場所・演劇場のような意味のあり、コメディー・フランセーズ Comedie-Francaise は、「フランス座」といい、古典演劇を上演する劇場だとされます。
「喜劇」というのは、文字で見ると「喜びの劇」で、「笑劇」ではありません。
演劇の歴史が分からないので、推測になりますが、元々、ギリシア語の「喜劇」対応語には、「ゲラゲラ笑う劇」などという意味はなかったと思うということです。ラテン語では、どういう意味範囲があるのか確認できればよいのですが、中ラテン語辞典が見つからず、大辞典は大きすぎて、普段使っていないので出てきません。
ギリシア語の「喜劇」は、komoidia(κωμωδια)と言います。これは kom+oide [song] (または kom+oidos [singer] )だと、辞書の語源説明では出てきます。kom は何かというと、koomos(酒宴)だというのが普通出てきます。酒宴または酒の入ったどんちゃん騒ぎかも知れません。
この語源だと、「酒宴の席でのうた」ということになり、「滑稽で面白いうた」であって、それを聞いて、出席者が余興として笑ったのだという解釈になります。しかし、Liddel & Scott の Intermediate で見ると、koomos+ooidee という説と、koomee+ooidee という二つの説が出ています。
古典ギリシア人だと、どちらか分からないというより、語源解釈すると、どちらもそれらしいということになるでしょう。komos+oide なら「revel-song」で酒宴のうた、ですが、kome+oide なら、「village-song」で、意味が相当違ってきます。
また、コーモーディアは、悲劇(トラゴーディア,tragoidia, τραγωδια)との対比、緊張関係で捉えられていたはずで、「げらげら笑う」とか「めでたく終わる」とか、そんな意味で規定されていたのではないはずです。
先の L&S の intermediate の説明では、アッティカ地方の悲劇は、三段階の歴史があり、古期・中期・新期と分かれ、古喜劇は、紀元前393年までで、「権力を持つ人物を名指しで攻撃するのに」使われた、とあります。中期喜劇は、紀元前337年までで、コロスがなくなり、「著名な人物を、名指しでなく、それらしい性格の登場人物を使って個yげきするのに」使われたとあります。
新喜劇は、これ以降で、この名の喜劇は、「現代の Comedy of Manners」と同じであると出ています。comedy of manners とは、中流上流階級の人の習慣や行動を、風刺した劇で、「風刺劇」とか「風俗劇」とでも呼ぶのが近いです。
参考URLにあるように、古典ギリシア喜劇作家として有名な、アリストパネースは、紀元前445年頃-385年頃で、年代的には、古喜劇作者に属します。アリストパネースの喜劇は、「げらげら笑う劇」ではなく、権力者を攻撃するために、「笑い」を使い、権力者の権威を下落させたのです。
古典ギリシア喜劇は、最後は「大団円」になるのが普通で、これは、権力者・有力者を批判攻撃しても、あくまで、「劇」においてで、共同体の規範で許容された話だからです。ギリシアの喜劇は、悲劇もそうですが、俳優もコロス(合唱隊)も、普通の市民が演じたのであり、専門の俳優はいなかったということがあります。
つまり、共同体の祭祀の一種として、喜劇・悲劇の上演があったとも言えるのです。劇の最後が、大団円で、めでたい終わり方をするのは、社会の矛盾や公正を、「笑い」を通じて、訴えても、共同体の健全でよりよい状態の実現が目的で、暴動などを扇動するために劇を演じたのではないので、めでたい終わり方をするのは、当然で、「ゲラゲラ笑う」と「めでたく終わる」は、矛盾しないで、むしろ、同じことだとも言えるのです。
こういうことからすると、古典ギリシア喜劇は、「village-song」が語源であった可能性が高いです。アテーナイの民主制は、金権政治だとか独裁僭主の登場で崩れて行った訳で、これに対する反論は、都市部より、農村部から起こって来るというのが自然にも思えるからです。
新喜劇となった後も、「風刺劇」であって、やはり社会批評は含まれていたのだと言えます。また、悲劇はある類型があり、普通の人の話を劇にするとすると、その人の性格のおかしさ、奇妙さや、何か事件が起こり、どたばたとして、最後は、大団円となるという話になるでしょうし、これは、ギリシア喜劇に分類されます。
私見ですが、元々、ギリシア悲劇「コーモーディア」のなかに、後の色々な劇の要素が入っていたのであり、悲劇でない劇一般を、喜劇(コーモーディア)乃至、そのラテン語訳形、各国語訳形で表現したと考えるのが自然でしょう。イタリア語の commedia storica(歴史劇)も、元々のギリシア喜劇の「village-song」のなかに含まれていたとも考えられます。
「悲劇」がむしろ、特殊なのであり、古典ギリシア悲劇は、「義理と人情」というか、「個人の希望と共同体のノモス(規範)」の葛藤を主題としたように思います。(「神と人間」「運命と人間」ではないでしょう。個人の自由が当然と見なされた現代以前では、共同体の規範は、「神」であり「運命」なのです)。
悲劇は、こういう原義から、「あらがえない運命と個人の希望のあいだの葛藤の物語」となり、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」は、まさに、こういう事態の話なので、「悲劇」とは呼んでも、「喜劇」とは呼ばないのでしょう。
それに対し、「オセロ」や「リア王」、「ハムレット」などは、個人が自己の希望と、社会的規範のあいだで葛藤し、敗北するという話で、それ故「悲劇」なのでしょう。「カタルシス」の要素がここには、入ってきますが、「人間の運命」を実感することで、運命を乗り越えるという意味でのカタルシスは、古典ギリシア悲劇にもあったのです。
中世の受難劇とはどういうものかよく分かりませんが、上の悲劇の定義からすると、悲劇では当然ない訳で、「ゲラゲラ笑う劇」でもないでしょうが、「劇一般」として、大団円となり、人間のありようが、対立的構造でなく描かれるということでは、これは「喜劇=コーモーディア」に入るのだと言えます。
ダンテ・アリギエリが、自己の畢生の傑作長編詩を、Divina Commedia と名付けたことは、確かに、この作品は「深刻な話」で、軽い喜劇的作品ではないという点で、悲劇がむしろ相応しいかとも思えますが、しかし、この大詩篇では、「人間と共同体の矛盾の葛藤」「人間と運命のあいだの葛藤」が主題になっているのではありません。
冒頭で、ダンテは、中年を過ぎ、道を見失い、暗い森に迷子になったと述べます。そこに、古代の詩人ウェルギリウスが登場し、ダンテを導き、世界の構造の真理、更に、宇宙の運命の「歴史」の経験の旅へと誘います。「神曲」は、悲劇ではなく、調和的世界観の提示であり、壮大な「宇宙歴史劇」だとも言えるのです。
悲劇の意味は、あまり変化しなかったと思いますが、コーモーディアの方は、元々、「笑劇」ではなかったのであり、「村のうた」という意味もあったことからして、意味が広く捉えられ、ラテン語でもっと広くなり、ロマンス語では、悲劇でない劇がコミカ(コメディア)だとなったとも思えます。
バルザックの「人間喜劇」も、comedie となっていますが、これも「世界歴史劇」で、多く知られている作品は、バルザックの分類では「この世の地獄」や「煉獄」についての話で、では、「天国の話」はあるのかというと、ノルウェイという異質な世界を舞台にした、両性具有のセラフィタ(セラフィトゥス)を主人公にした、「セラフィータ」が天国に当たるという説があります。
>ギリシア喜劇
>http://www.page.sannet.ne.jp/kitanom/geiron/geiro06.html
>フランス中世演劇概要
>http://www4.ocn.ne.jp/~ysato/moyen.htm
お礼
aschenbach さん、今回もまた有難うございます。 「神曲」が「喜劇」である理由の2番目は、全く知りませんでした。 岩波版も(滅茶苦茶難しいけれど)、読んでみようと思います。 中世の殉教劇のことですが、その教授は確かに、「聖人の殉教はめでたいことで、 だからこれも『喜劇』だったんです」と言われたような・・ 講義にモグリで入って、質問するしかないのかもしれません。 また何かありましたら、その際はよろしくお願いしますm(_ _)m
補足
もう一つの喜劇の方の質問は、2週間たって、goo から締め切りの催促が来たため、 やむなく締め切ることにしました。 沈んでいくばかりだし・・