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アリストテレスのcheif goodについて

いつも楽しく拝見させて頂いています。 古代ギリシャ・アリストテレスのchief goodについて、 人間についてのchief goodとは何か? そしてアリストテレスがそう考えた理由を細かく説明していただければ幸いです。 (すみません、chief goodが日本語でどういう意味かも分からないので、 それも教えて頂けると幸いです。) よろしくお願い致します。

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  • ベストアンサー
  • mmky
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回答No.1

「古代ギリシャ・アリストテレスのchief goodについて、」 ○同じ質問と回答(#1参照)が過去にありますので参考にしてください。 ただ英語版なので、簡単に言えば「chief good」は幸福主義「Eudaemonism」と答えていますね。 ちょっとわかりづらいですから要約すれば、 人生の目的は幸福の追求であり、最高善(chief good)を求めることであるという意味ですね。 (#2幸福主義参照のこと) 「そしてアリストテレスがそう考えた理由を細かく説明していただければ幸いです。」 ○アリストテレスも釈尊も同じ考えなのですよ。彼らは何故人間として生まれる、生まれたのかを見抜いていたのですね。彼らのような知的巨人にとって苦労しかない肉体人生がなぜあるのかと問うているのです。 その答えは一つで「chief good」つまり「最高の善」を求め実践すること、それだけだったのです。 つまりね、逆に言えば、彼らの常住する世界に悪・苦労などかけらもないということなのです。肉体を持って生まれ始めて悪・苦労を経験するのです、その中で「最高の善」を求め実践することが「最高善」なる世界が存在するという証明なんですよ。 わかるといいね。 #1:過去の質問:英語版 同じ質問:According to aristotle what is the "chief good"? 回答:http://answers.yahoo.com/question/index?qid=20080928221236AASErKy 参照#2「幸福主義(こうふくしゅぎ、Eudaemonism)とは倫理の目的が幸福を得ることにあるとする思想上の立場。ギリシア哲学の多くにはこの傾向があるが、中でもアリストテレスは最高善は幸福(eudaimonia)であり、良く生き良く行為することが幸福と同じ意味であるとする。」 #2:幸福主義wiki http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E4%B8%BB%E7%BE%A9

その他の回答 (1)

回答No.2

chief goodというのは日本語では「最高善」と訳されることが多いと思います。 最高善とは「われわれがそれ自体として望み、ほかのものがそのために望まれるような目的が存在するとすれば、これが善であり最高善である」(『ニコマコス倫理学』第一巻第二章)とされています。 これはどういうことかというと、人間の行動には「~のため」という目的があります。たとえば朝目覚ましをかけるのは、学校へ行くためだ。学校へ行くのは、そこで勉強して、学歴を得るためだ。学歴を得るのは、仕事に就くためだ。仕事に就くのは、賃金を得るためだ。賃金を得るのは、より満足できる生活を送るためだ……というように、それぞれの目的は、相互に関連しつつ、階層をなしています。そうして、その目的の大もと、あらゆる行為の究極の目的が、その「最高善」ということになるのです。 この究極の目的である「最高善」とは何か。アリストテレスはそれを「幸福」としています。「幸福」とは、ギリシャ語でエウダイモニアー、「よく生きる」「よく行っている」とほぼ同義でした。 おそらく人間の目的が「幸福になること」であることに異を唱える人はいないでしょう。けれども、その「幸福」の中味がなんであるかとなると、お金持ちになること、とか、名声を得ること、とか、充実した日々を送ること、とか、人によってさまざまな内容があげられるでしょう。その内容もさまざまな「幸福」をどうやって定義するのか。アリストテレスは、「良い」という言葉を、人びとがどのように使っているか、ということから、「幸福」を考えていきます。 たとえば「良いメガネ」というのは、レンズにひずみや傷やくもりのない、正しく見ることができるメガネです。「良い車」というのは、故障もなく快適に走る車です。「良い選手」というのは、ある場面において求められたことを十分に、巧みにやってのける選手です。つまり、すべてのものは本来の機能や働きをよく果たしたとき、「良い」と言われるのです。同じように人間の場合も、人間の本来の機能を十分に発揮したときに、言葉を換えれば本来的自己を実現したときに「善く生きる」と言えるのです。 さらにアリストテレスは、ほかの動物と共通する機能を除外した上で、人間固有の機能を「〈ロゴス〉に従った魂の活動」と考えます。さらにこの活動は、徳(アレテー)にのっとったものでなければならない。 ここでいう徳というのは、いまのわたしたちが使う「徳のあるお坊さん」という意味とは少しちがって、「すぐれたありかた」というぐらいの意味です。サッカー選手が「良いプレーをする」というのは、サッカー選手としての優れたありかた、すなわちサッカー選手としての「アレテー」にもとづくプレーをした、といえるでしょう。こう考えていくと、この「最高善」がどういうことかもわかってきます。 「人間的な善とは、人間の徳にもとづく魂の現実活動であり、またそのような徳が複数ある場合には、そのなかで最善で最も究極的な徳にもとづく魂の活動である」(『ニコマコス倫理学』第一巻第七章)