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不思議な無音の世界にいる人に声とはどのようなものか説明してください
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- bananasand
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声は、文字よりも原始的というのは、声の方が文字よりも先に発明?されていることであって、 声は、文字の下層にあるというのは、あくまで一般には、文字から文字が意味している具体的 イメージなり概念なりに辿り着く間に、一旦声に変換している。つまり、階層的に言うと 上層に文字があり、その下に声があって、具体的イメージがその下にあると 言うことです。 失語症、失声症、失読症はそれぞれ原因が異なると思いますが、 脳内で声を失った場合、ご質問の無音の世界に生きる人に なるのでしょうかね。記憶との関連からどうなんでしょう。よく解りません。 思うに、記憶としての「リンゴ」という音声信号や、耳から聞いた 音声信号をもはや意味のある波形として捉える機能が失われるのでしょうね。 そうすると、Tarhaomenapuuでも×△○でもリンゴであるなら 林檎であって、声というのは、Tarhaomenapuuが林檎であるとする 、「リンゴ」という発声がリンゴであるとする 関係性そのものをも差しているといえるのではないでしょうか。
- bananasand
- ベストアンサー率21% (117/533)
ご質問を読んだ印象に過ぎませんが・・・ 通常、文章を理解するとき、我々は、音声信号に転換しています。 声に出さなくても「リンゴ」を読んだとき脳内でリンゴと声にしています。これが発声する前の本質的な声です。(フォトリーディングではこれをやりませが・・) 無音の世界にいる人は、「リンゴ」と「みかん」の区別は、視覚の違いだけなので、脳の使い方が全く異なっていると想像します。 何を言いたいかというと、声は、文字やそれによる説明よりも原始的ということです。声は、文字の下層にあります。そして、声が林檎の外観、味、香り、その他思い出を呼び起こします。 したがって、声とは、文字と具体的印象の中間に位置する信号形態であると言えます。 思うに、我々が「リンゴ」という響きに林檎の外観や味を彷彿とするように、無音の世界にいる人は「リンゴ」の文字自身にそれを想起するのではないでしょうか。とすると、声は「リンゴ」にあるとも言えますね。
お礼
ありがとうございます。お礼が遅くなりました。赤ちゃんが9ヶ月でわたしを離さないのです。 言葉の認知の角度からお考えをいただいたように思います。 脳の三角部の研究など進んできたものの、音声言語と視知覚やイメージの関わりはなかなか解明されないようですね。 言語の構造に発話のレベルと原理的な深いレベルがあるということについては、分野をまたがって見解を共有していますが、 対象の観念化、イメージといった問題は、ふつう視知覚の研究領域になり、音声言語にも言語機能にも関連付けがまだうまく成されない気がいたします。 > 声は、文字やそれによる説明よりも原始的ということです。 そうですね。 原始的というのかわかりませんが、文字を持たない文明をいくつか思い浮かべます。 文字がないと伝達の正確性が低く、発展にスピードがなく、政治的転換もうまくいきませんし。 > 声は、文字の下層にあります。 これはよくわかりません。文字は読解できるが音声発語ができないという失読症がよくみられることや、 音声の聴解では意味が取れないが物音の意味は分かり、抽象概念の操作にも困らないという失読症もよくみられることを思うと、 意味が関与する限りでは、声と文字のどちらが上層でどちらが下層の構造になるのか、わたしにはよくわかりません。 視知覚情報を歪めて与えると、ほかの知覚は情報を正確にとらえられなくなりますから、 健康なリンゴも腐ったリンゴに見える眼鏡をかけて見ると、おいしそうな匂いがしなくなります。 おいしいリンゴだよ という声が掻き消されてしまうのでしょうかね。 また、Tarhaomenapuuという文字列を見ても、何の声もしません。フィンランドのリンゴの声がしません。 何が、声をリンゴに与えているのでしょうか。
肉体の無い欲動。。。かと http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B3%E3%83%BC http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%8F%E3%83%AB%E3%83%88 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%82%B9
補足
ミルトンはエーコーを天球の娘と詠っていました。 自由と民主制を尊ぶ、光を失った眼の詩人は、 惑星間で響いているものを想起したようです。 ピタゴラスによれば、わたしたちはこれを聴き続けているために気がつかない、とか。 エックハルトを逆手にとれば、わたしたちはそれそのものであるためにそれを欠いてしまうとも言えます。 存在が存在をしらない、 自身が照らされることを知らぬ存在のしかたによって強い光が濃い闇であるほかない、 どこかそのように人の霊性というものがしつけられているのかもしれず、 見てはならぬ という黄泉にまつわるいくつかの物語で 在る と 見られる の乖離が引き起こされていることも想い起こされます。 ときに後背に、ときに薄明かりに、愛する者の存在した闇が不在の闇となって照らしつけられる このような虚洞を充たすものが官能を揺さぶる震えであること また それが肉体とおなじ容量でわたしたちの重みとなることの苦痛と甘美を、 昔の人は物語に昇華したのかもしれません。
- 阿加井 凛悟(@neutral)
- ベストアンサー率29% (231/773)
amaguappaさん。こんばんわ。 【声】を【説明】ですか? それを発したいものが、 発したいと欲し、それを実行したとき、 それを受け取ったものが【受け取った】と感じることができ、 何か感じたり(気持ちいいとかうれしいとか悲しいとかうるさいとか) 何か考えようとしたり、何か思ったり、何か得たり、何か欲したりしたら、 それは【声】なのじゃないかと思います。 発するものの意図と、受け取ったものに発生した何かが一致しなくても、 それは【声】なのじゃないかと思います。
お礼
こんばんは。 ありがとうございます。 そうですね。 発したいと欲することをきっかけに、発することができて、 受け取ったと感じることをきっかけに、 そのままか、もしくは形をかえて、ひそかに発生しはじめるというわけですね。 これをまた欲して発すると、声になる。 ああ、この営みはどのようであれ全部、声といってよいかもしれませんね。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
>振動によって、音と声の区別はつくでしょうか。 うーーん つかないかも。 声帯模写する人いるじゃないですか。 目をつぶって、それが銃声なのか、銃声の音を真似た声なのか、どっちか当てろと言われても、私は当てられないと思います。 ノコギリをまげて音を出す芸当する人いますが、そのノコギリから出てくる音を聞くと、人の話し声に聞こえる。 さらに日本語でテロップを入れられると、テロップの通りの意味のある言葉(人の声)だと認識してしまう。 一度認識してしまうと、もう何度聞いても意味のある言葉をノコギリが喋っているとしか思えなくなる。 脳が認識を固定してしったから。 人の脳は修正を勝手にしてしまう。 聞こえた音を、自分が認識できる音に変換する。 だからノコギリの音も、人間の喋る言葉に聞こえてしまって、しかも意味を含む言葉だと認識してしまう。 脳は認識できる近い音に勝手に変換してしまう。 英語は日本語に無い発音ありますが、臨界期に達すると、その違いが聞き分けられなくなる。 成人してから英会話を習い、ネイティブに何度も違うと指摘され、正しい発音を聞かされても、自分と同じ音に聞こえてしまうのは、脳が自動で親しんでいる日本語音に変換して知覚させちゃうから。 ところが生まれながらに耳が機能しない人の場合、音を経験していないし、音というものが無い世界に住んでいるわけですよね。 恐らくですが、教えれば音の振動で、意味を含む音と、音楽の区別はつけられるようになるのではないかと。 しかも歌なのか、話し言葉なのかも 区別できるようになるんじゃないかと。 例の骨振動を利用すれば。 そういう携帯電話ありますよね。 ただ、骨振動を利用して音楽を楽しむってことはあるのかなぁ?と疑問です。 (なんせ骨振動を利用した携帯電話を使ったことがないので、どんな風なのかわからない。) その携帯で、騒音の中で音楽聴くと、ちゃんと聞こえるんで、、、しょうね 恐らく。 ただ、今までそういうのに親しんでいない人にとってみたら、イライラを起こすもの と捉えるのではないか と。 ある本で読んだ実話。 ある人は生まれながらに目が見えなかった。 手術で見えるようになった途端、別世界に投げ込まれたようになり、今までスムーズに暮らせたのに、目が見えるようになると、目から入ってくる情報をどう処理していいのかわからず(今までやってこなかったから未知の感覚)大混乱して、結局 何かの病気で再び見えなくなって、平和を取り戻したらしいです。 生まれながらに見えなかったその人は、手術前までは「目が見えたらどんなにいいだろう」と見えることにあこがれており、人からこんなに楽だと恐らく教えてもらい、わくわくして手術を受けたと思います。 でも、いざ見えるようになったら、不自由このうえない状態になり、不幸になった。 アルジャーノンに花束をって読んだことあります? 創作文学ですが、目が見えなかった人の体験と似たような内容。 知能が高ければ幸せになれると思っていた人が、いざ手術で知能が高くなると、知らなくていいことまで知覚できるようになり、不幸になってしまった。 今回の質問は、こっちにあるのにあっちには無いものを、無い世界に住む住民にどう説明するかってことですよね。 説明の方法は、耳だけに障害がある人なら、骨伝導のついた携帯を使ってもらうことで、現実可能じゃないか と。 ただし、慣れ親しんだものじゃないので、不快と感じるかもしれませんが、そういう刺激が。 ふと今、<火星人は赤をみるか>って言葉が浮かんできた。 http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/04/post_326.html 特殊な7人の人々の実話。 『つまり「異星から人間を観察するようにして人間たちのありようを理解するしかない者』 耳が聞こえない世界から推測する耳が聞こえる世界。 耳が聞こえる世界から推測する耳が聞こえない世界。 んーーー。 お互いがそうじゃないでしょうか。 いっくら説明したとしても、そのままを体験しない限り、「これが海というものか。 わかった」とはならない。 わかったとしても、我々が認識するものとは違う可能性が高い。 最後に<わたしの知らないところで勝手にわたしの「内面」が想定され、読解されていくのではないか、という恐怖が常にあります。 その点「気付かない」人や動物には非常に安心感を覚えます。 「気付かない」人は美しいです。地球人どものわけのわからない慣習に汚染されていないからです。> <音というわけのわからないものに汚染されていないからです>と読みかえると、理解しやすいかも。 なんか 結局 ドンピシャな回答ができないまま終ってしまいました。 すいません ><:
お礼
ありがとうございます。 質問の設定にあまり囚われずにお答えいただいてkigurumi節を楽しみたかった気がいたしますが。。。 考察対象を、無いものと仮定するところから、有の在の条件というものが炙り出されてくることがあります。 声を発したり聞いたりしているわたしたちにとって、 じつはそれが容易な処理ではないということもあって、声の正体をあれこれ探るのは難しいですね。 充実したブログをご紹介いただきました。 オリヴァー・サックスは会ってみたい方の一人です。 アルジャーノンは高校生の頃立ち読みして書店で泣きましたよ。 また思いついたことがありましたらお立ち寄りください。
No.1です。 こう答えます。 声とは 口説くときの一つの道具だよと。 喉や口で 吐く息を調節し いろんな種類の飾りをつけて出す。そうすると 飾りの違いに応じて いろんな息の形が出来る。 その形に応じて 言いたいことが言えるようになる。そうして 口説くことが出来るのだよと。
お礼
ありがとうございます。求愛には原始の人類も工夫を凝らしたことでしょう。 おもに発声についての側面ですね。 > いろんな息の形 は難しいです。喉の形、口の形は、物理的にあきらかな形ですが、息の形はどんなものでしょうか。 > 口説くとき の「吐く息の調節」や「いろんな種類の飾り」は、ラヴレターの語調やデコメールなどと同質のものでしょうか。 > 一つの道具 道具と使い手の関係は重要でしょうか。 > 言いたいこと が大体同じ集団の中でなら、この道具は固有性を問わず誰が使い手でも用に足りるでしょうか。
補足
日本語の論理表現、ご探究の軌跡が潰れてしまい残念なことでした。 奇妙な声音で奇妙な論理を振りまわしていた迷回答もいっしょに霧散してしまいましたね。よくおつきあいされたものです。 現在進行中の他の質問でもそうですが、筋金入りの悪声にみなさま親身におつきあいされる。 悪声にこそ応答したくなる心があるのかもしれません。 悪声すなわち悪人の声ではないからこそかえってその心の取り扱いが面倒であるとわたしなどは思いますが。 よろしければ、信仰における声や、祈祷の声などについて、ご随想を賜れればと思います。きまぐれにでも。
仁科です。声とは、そのひとが今どんなふうなのかを、ぼんやりと報せる、 そういうものだよと説明します。 たとえばその声のひとがまだ子どもなのかとか、もう大人になっているのかとか、 もう大人なら、大人の男ひとなのかとか、大人の女のひとなのかとか、 あるいはもはや老いているのかとか、たのしいのかとか、 ふざけているのかとか、どのへんにいまいるのかとか、 いま悲しいのかとか、気がふさいでいるのかとか、安らかなのかとか、 ねむいのかとか、ふまじめなのかとか、きまじめなのかとか、 気に入らないことがあるのかとか、いまどのくらいいそがしいのかとか、 いま風邪を引いているのかとかを、なんとなくばくぜんと、 しらせることができる、そういうものだよと説明します。
お礼
どうも仁科さん。 そうですね。どのへんにいまいるのか、について話でなく声がお報せとなるときは、 狭い場所では位置、広い場所では方向、山ではこの山かあの山かわからない、森では迷子になりそう、ということになるでしょうか。 声の、空間に依存した性質ですね。 そのほかは概ね本人について他者との類型化を助けるというものでしょうか。 子どもには子どもの声が、きまじめにはきまじめの声があることを、 わたしたちは経験から知ってしまったのか、もしかすると赤ちゃんのころから知っているんでしょうか。 類型のお報せが出来るということは、悲しいのに楽しいふりをすることも出来るということにつながっていますが、 声には、ふりをしている悲しい部分は反映されるのでしょうか。されないのでしょうか。 声には浅い深いはないでしょうか。
- kigurumi
- ベストアンサー率35% (988/2761)
奇跡の人 アン・サリバン。 3重苦のヘレン・ケラーに水とは何かを知らせた人。 ヘレン・ケラーは容器に入っている状態の液体を水だと思っていた。 容器に入っていなくても水なわけですが、ヘレンケラーの水の概念は、常に容器に入った状態の液体が水だった。 で、井戸に連れて行ってジャバジャバ水を流して「これが水」って触らせたことで、やっとヘレン・ケラーはジャバジャバのこの対象そのものが水だとわかったそうなんですね。 耳が聞こえない人に音をどう理解させるか ですか? 簡単なこと、机に手をおいてもらい、机をガタガタ揺する。 ドンドン でも カタカタでも びーーーんって振動でもいい。 音とは振動のことである と教えてあげらばいい。 声ですか? 例えばダンボール紙をまるめて、その人の顎の骨辺りにくっつけて、「あーーー」とか「ポッポー」とか喋ればいい。 「はい」って時の振動は合っているって言っていることで、「いいえ」と言った時の振動は間違えているという信号だと教えればいい。
お礼
こんにちは。ありがとうございます。 耳が聞こえないというより「不思議な」ことに音が無い世界にいる、という質問です。 骨振動は、たしかに、そんな世界の中にもきっちり存在しているにちがいありません。 なるほど、声は信号、というか信号の伝達手段だと教えるのですね。 振動によって、音と声の区別はつくでしょうか。 区別はつかなくてよいものなのでしょうか。 それとも区別ついたほうがよいものなのでしょうか。
ご趣旨が よく飲み込めず しばらく様子を見ていようと思ったのですが 補足要求をすればよいと 考えなおしました。 けっきょく 人間性とは何かといった問いになるのでしょうか。 舞台芸術では 俳優が 声を出していると思うのですが それは 聞いていない(つまり知らない)のでしょうか。 マンガでは 声は出ないでしょうが 登場人物は 話をしているわけですよね? その事情については 分からないということでしょうか? 文字をとおしてなら 意志疎通なり情報伝達は 受け身としては 出来るということなのでしょうか? そのあたりが よく飲み込めません。説明していただけますでしょうか。
補足
つきつめるとどんな問いになるかさえ、問題であります。 マリーの部屋に色を識らないマリーがいたように、 声を知らないマリー(たち)を考えています。 周囲ともども無音なのか、一人きり無音なのかも質問に明記しませんでした。 この区別によって問いにどんな違いが出てくるかもまた、問題であります。 声には、鳥や獣の声もありますが、それも知らない。 無音の世界にいる人が見る舞台芸術ですから、パントマイムか無伴奏バレエか、 声のない俳優たちの演技かもしれません。筋書きや配役は知っていないと退屈でしょう。 舞台下ではオーケストラが黙々と弓を動かしているかもしれません。 舞台の表現者にとって、こんな観客は話にならない一昨日来い、でしょうか。 舞台にはそれでは済まされない声の哲学はないでしょうか。 このマリーは、マンガや小説をとおして、話をすることは知っているのです。 手話も知っていることでしょう。ホーキング博士の愛機に劣らぬコンピュータが、つねに対話の間に立っていることも考えられます。 音のない世界でも、意志や情報を送受信はしているでしょう。 声は何か、説明するだけです。音のついた意志や情報でしょうか。 おっとひとつ自分で答えてしまいました。 もしわたしがクジラの生態に詳しければ、クジラの声についてたっぷり説明するかもしれません。 声をどのように問いうるか、助けをいただきながら、 自由に気長にお考えいただければ幸いに思います。
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補足
補足いただきありがとうございます。 わからなさ、というのは表現レベルの話にとどまるもので、 いわんとするところは、前回受け取らせていただいていると思います。 原始というにしても、また、下層というにしても、この表現の適不適について、保留しておこうというのがわたしの気持ちです。 前者については、 人間の生態や文明にとっての、声の役割や目的といったものと、文字のそれらを明確にしてからでないと、 時系列つまり進化系統・発展上にそれらを並べる作業の意味が浮上してこないと思われるのです。 後者については、 文字や文章の意味理解に対処しているスキーマのうちの経験という枠内に声の記憶が含まれているのは容易に納得できます。 とはいえ、書字理解の場合には、後頭葉の活性化(視覚)と側頭葉の活性化(聴覚)が同時に起こり、 意味予測や緻密な意味判断は側頭葉のほうでおこなっているので、 そこに段階的プロセスがあるというよりは、異なる働きを並列で統合しているといったほうが腑に落ちやすかったりします。 > 声というのは Tarhaomenapuuが林檎であるとする、「リンゴ」という発声がリンゴであるとする、関係性そのものをも差している 難しいですね。自然言語インターフェースはそういう発想に基づくと思います。 そこから出発して、悲劇役者や喜劇役者がなんらかのシーンに心象を表現するように「リンゴ」と言うところまでは、 コンピュータが実現するには長い道のりでしょうね。