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海と山、馬鹿とハサミについて教えてください
哲学の質問ではないのですが、この場で質問します。 ご了承ください。 単純にいえば、この事柄をざっと理解し観念を得たいのですが、 自身が馬鹿とハサミが如く様なのでどうもうまくいきません。 我見を離れてこの事柄を捉える事が出来たらと思っています。 先ず馬鹿とハサミを手段とする場合何らかの条件が必要だと思いますが 私に関与する状態に於いては、海と山が引き合いに使われます。 私の母が曳き山祭りのある田舎の港湾地区で育った事もあって、 もの心ついた時分、このような依存習慣が私の血縁関係において存在していました。 私の中で思念と情念が混雑しており、何を取っ掛かりにするかという現状での海と山、馬鹿とハサミです。 わが兄弟の知能、素養では(兄は人文学部卒といっても名ばかりです) 海幸彦、山幸彦の話を紐解いたところで、解決の近道とは思えません。 海と山にあたる兄弟も、わざわざ山本有三氏が優しく書いた話があるのにもかかわらず・・・話にならない状態です。 虚ろな頭で、受身変われば応え変わる、見方変われば物変わる、 所変われば品変わる(つなぎというか、将棋で言うなら歩のようで、 通念化してる言葉です)、役目変われば欲変わる、 政(まつり)変われば様変わる、などと語呂合わせしてみてもどうも 実感がわきません。 この手の村社会的な事柄を簡略化した形が既存しているのではないかと思い、このような質問をしてみました。 何か知っている方が在れば教えてください。
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- kigurumi
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いまいち何を質問しているのかわからないのですが、、、 >この手の村社会的な事柄を簡略化した形が既存しているのではないかと思い 海と山 と 馬鹿とハサミは使いよう とがどう関連しているのかもわからないのですが、、、 海彦と山彦は、、、私の考えでは、海から来た民族か海辺に住む民族と内陸に住んでいる民族との勢力争い関係の話ではないか と。 日本でもそうだったし、海外でも海の民族と内陸に住む民族との戦いは古代よりありましたから。 馬鹿とハサミは使いよう は、普段価値が無いと思われている人でも、得意とするものが必ずあり、その特技を知り利用すれば、儲けられる(いいように搾取できる)って意味じゃないかと。 例えば、人間 集中力が持続するのは10分くらい。 長い人でもせいぜい1時間が限度。 ところが、稀にずっと何時間でも同じペースで持続する人がいる。 例えば、単純作業の仕事があるとき。 普通はずっと何時間も同じ作業をするのはとっても苦痛。 でも、覚えは悪いが、一度習得すると、何時間でも間違えなく確実にこなせる人が稀にいる。 普通の人にはできない芸当。 そういう仕事をする人が段階において必要でも、普通の人はできないし、普通は時間の経過とともにだんだんミスをするようになるから、時間とともに不良品が増えていく。 そういった作業の時、普段 複雑な作業はできないが、単純作業だと驚くべき正確さと集中力を発揮する人が役にたつわけです。 複雑な手順を踏む仕事ができないから馬鹿だとされる人が、特技を生かす適切な仕事を与えると、驚くべき実績をあげる。 でも、単純作業なので時給は低い。 で、複雑な作業をする人は、複雑な作業をするから当然高給を取っていいとして、単純作業をする人に対して、馬鹿とハサミは使いよう と、安い給料しか払わない。 ハサミ。 うーーん 例えば、A国とB国 仲が悪いとしますよね。 で商人はA国に武器を売りつける。 「この武器でB国をこてんぱんにしちゃっえ」と。 で、かつ商人はB国にも同じことを言う。 両国とも商人が両方に同じことを言って煽っているとも知らず、商人から大量に武器を買って戦う。 商人は「馬鹿とハサミは使いよう」とほくそえむ。 馬鹿はA国とB国で、ハサミは武器。 馬鹿とハサミをうまく利用したことで、商人は儲けたわけです。 これ、ナポレオンの時代にやった人います。 で、どっちが勝つか見届けた直後、持っていた株を売って大もうけ。 その子孫が20世紀の巨人とされた人。 ちなみに日本が日露戦争を行うための費用を貸してくれた人は、この巨人の家系の人。 大もうけしたらしいです。 馬鹿とハサミは使いよう、日本もその人から見れば馬鹿なわけです。
条件として、 関数function が正常に動作する インプット - アウトプットであること。 ラテン語では、人間と動作の「中間」にあるもの という原義によって 「手段」という語を作ります。 出自が違うものでありながら、英語では 「意味」という語とよく似てしまう。 手段は、しばしば見えないところに隠された設計であり 意味は、必ず探される所に発見される幻影であり 関数の選択を誤らないことは 手段です。 関数の過程では、与えられること afford は隠されます。 獲得されたあとに生じる affordance は生産性の梃となり、結果を期待しえます。 こうしたことを意味解釈の下側で、別個に、おこなうというのは、 言語が不得意とするところで、 言語の二重性の真意は、浅薄にも、一般的に誤解されます。 だからこそ、 最初の努力は、わかりやすく言語によってできることをしようとすることから始められるべきでしょう。 戯曲の海彦山彦のごとくです。 そして次にはさっさと関数のほうへと重心を移動することをこころがけるがよいでしょう。
お礼
質問者に対して出来る限りの易しい回答を提示しようという思慮に感謝します。 自身、先ずは記憶と依存の不調和の改善が必要と思っています。 そうすれば、恩をあだで返すような愚行がある程度は正す事が出来るように思います。 ふと思い出した(すっかり忘れてた)のですが、以前図書館で借りて読んだ海彦山彦に、恩讐の彼方にが共に収録されてたように思います。 私の質問タイトルそのものかもしれません。 我ながら間抜けな様です。
- mmky
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「海と山」、「馬鹿とハサミ」 いい言葉ですね。この言葉を聴くと心が引き締まりますね。 昔の人は、自らの認識の狭さを認識するという意味で組み合わせたのでしょうね。 「海と山」一見して、対比語のようですがそうではないですね。昔、母から聞いた話ですが、ある地方の山奥深くに住んでた一家が、夏祭りでふもとに下りてきたそうです。その際、子供がお父さんに、川幅数十メートルの川を見て「お父さんこれが海か?」と聞いたそうです。その父は子供にこういったそうです。「私はここから3里ほど下流にいったことがあるが海はこの三倍はある。」それを聞いた周りの人は笑ったそうですが、海を知らない人は海の大きさを理解できないということなんですね。この逆もあるのですね。森を見て山だと思ってる人は山の大きさを知らないということなんでしょうね。木を見て森を知らずともいいますね。 「馬鹿とハサミ」有益に使われるが自身を知らずといいたいのでしょうね。 よくよく考えると知らないことばかりといいたいのでしょう。その戒めとしていにしえのひとが作った言葉ではないかと思ってしまいますね。
お礼
御回答ありがとうございます。 自制心という概念でさっと質問文を照らしていただいたように思います。 「狭」ですが、極当たり前に思案すれば難なく思い当たりそうですが、 切れないものという共通項で早合点してしまえば意味をたどれません。 自身の基礎的素養から自省せねばと思います。 「対比」ですが、以前、曹洞宗の名のあるお坊さんが”比較するな”という類の事を話していたように記憶しています。 この辺りとも何か関係がありそうです。 「木を見て森を知らず」ですが私の中では「見ず」の表現で固定化されていて、これも本来の意味をつかめてなかったなと思いました。 この言葉は日常的に汎用、応用に勝手が好く、安易に依存してしまい、 習慣化していました。 私自身、質問文に於いて意識的にこの言葉の型にあてはめて表現したつもりはないのですが・・・指摘していただいたことに感謝します。
(1) 古くは カインとアベル兄弟の物語がありますね。《土を耕す者と羊を飼う者》との不和なのでしょうか これは 兄による弟の抹殺にまで到りますから 別種とすべきかも知れません。 (2) 《わたしはヤコブ(弟)を愛し エサウ(兄)を疎んじた》というように 神から言われたと物語られる場合は どうでしょう。 ▲ (パウロ:ローマ書9:10-13) ~~~~~~~~~~~ レベカ(母)も 一人の人 つまりわたしたちの先祖イザク(父)によって身ごもった場合にも 同じことが言えます。その子供たち(エサウとヤコブの兄弟)はまだ生まれもせず 善いことも悪いことも行なっていないのに 自由な選びによる神の計画は続き それが人間のおこないではなく お召しによる神によって進められるということが明らかになるように 《兄は弟に仕えるであろう》とレベカに告げられたのです。 わたしはヤコブ(弟)を愛し エサウ(兄)を疎んじた。 (マラキ書1:2-3) と書いてあるとおりです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ヤコブ・イスラエルは 家督権を継ぎました。けっこう汚い策略を使っています。 (3) われらが神話では 家督権をあらそう場合として オホサザキ(大雀)とオホヤマモリ(大山守)とウヂノワキイラツコ(宇遅能和紀郎子)の三人兄弟の事例があります。 末っ子にオホキミのくらいがゆづられたのですが 真ん中が 謀反を起こし 長兄が この危機を救い けっきょくのところ 末っ子は 長兄に くらいをゆづったと言います。 (4) 権力争いには 一人の女性をめぐっての奪い合いが ついているようです。オホクニヌシの場合 ヤソガミ(八十神)がいたということですから 多くの兄弟のほかに 一族全体の競争相手を含めて言っているかも知れません。オホクニヌシこそが――あのイナバの素兎(しろうさぎ)が言うことには―― 皆の求婚の相手である《ヤガミヒメを 得るであろう》というところから 物語は始まります。事実 兄のヤソガミたちは 追放されるようにして 弟に仕えることとなりました。 兄たちは 嫉妬心から 弟を殺そうとまでしています。山の上から 焼いた大きな石を オホクニヌシをめがけて落としています。一・二度死んだことにさえなっています。よみがえったということのようです。 (5) 次の万葉集のうたは 天智天皇と天武天皇の兄弟が 額田王をめぐって争ったことを物語ると言われています。 ▲ (万葉集 巻一・13) ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 香具山は 畝傍を愛(を)しと 耳成〔山〕と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 決着は 天智の死後 その子と 弟ののちの天武とのあいだで 戦争をして つけましたね。 (6) 最後に 海幸彦と山幸彦に似た物語を かかげておきます。 秋山のシタビヲトコ(下氷壮夫)と春山のカスミヲトコ(霞壮夫)なる兄弟が やはり 女性をめぐって 争うのですが この場合は 賭けごと(ウレヅク)もからんでいます。 はじめ 兄が イヅシヲトメ(伊豆志袁登売)に言い寄ったが 断られたところ 弟に こう言ったと言います。《だめだったが おまえは どうだ?》 これに対して 弟は《たやすいことだ》と言って そのとおりになったそうです。ところが 兄は もしそう出来たなら 降服し財産をゆづると賭けたそうで しかも その言葉を守らなかったところから 争いが起きました。兄は その結果 弟によって――海幸彦のときの塩乾珠(しほふるたま)・塩盈珠(しほみつたま)と同じように ただし――その母の作った呪力のある竹の籠をもって 盈(み)ちたり乾(ひ)たりの繰り返しに陥るかたちで 翻弄されることになったという話です。 ★ 村社会的な事柄 ☆ とおっしゃっていますが たしかに 間柄が近しいと 余計に 争いが 執拗につづくかも知れませんね。そんなの過去のことだよとは 容易に いかないでしょうか。
お礼
御回答ありがとうございます。 先ずは人間(衆生)の依存性の客体化が大事かなと私は思っています。 そして主体的であろうとする情念との分別でしょうか。 宗教や学校教育の宗旨に対しての適正によって生じる優劣、差別、二次的に生じる情念、反動形成等の意識と、井の中の蛙、乳離れといった気恥ずかしい客観的認識が軽く自然につながればいいのですが・・・ そうすれば自身が属している地域、組織の環境や歴史というものに (対人関係だけでなく)原因の一端があるのではと意識が向かうのではないかと第三者の目からは見えるのですが・・・ 知らぬが仏、三つ子の魂、無知、貧困。これらの理とはこれを物とも思わぬ者との関与を絶っても自身と関わる事ですから・・・ 私自身の愚痴を認知することが先でしょう。 参考になりました。
お礼
御回答ありがとうございます。 私のような公共性、社会性に乏しい者が塞ぎ込んでしまい、素養もないのに哲学やら文芸やらと掻き込んでしまえば、このような一部理解し難い質問文になってしまうのかもしれません。 回答者さんからの参考意見が最も一般常識的で、ある意味ホッとしたところもあります。 20世紀の巨人、及びその子孫の話。参考になりました。 話そのものは寓話のような感じで、どこかで聞いたことがあるように思います。