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天皇家は渡来人だったという説の根拠を教えてください。
天皇家は渡来人だったという話を聞いたことがあるのですが その説の根拠とはどういったものでしょうか。 ご存知の方、教えて下さい。 また、その説について意見があれば それも教えていただけると嬉しいです。
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DNA鑑定でも日本人に朝鮮半島系の人が多いというのは立証されています。 渡来人はほとんどが朝鮮半島から渡ってきた人たちのようです。 中国から渡来したと自称している人もほとんどが朝鮮半島からの渡来人だったというのが歴史学者の見解です。 ちなみに15~20%という数字の根拠はわかりませんが、これも歴史学者の言葉です。 渡来人が日本創世のときに果たした役割はとても大きかったそうですよ。 日本書紀などにのるスサノオ伝説が天皇=渡来人であることを暗示しています。 スサノオは高天原を追放されて出雲に来ます。 高天原=朝鮮半島だと言われています。 「神武東征」は九州から奈良、近畿地方への遠征だと言われています。 天皇とその側近の貴族達は九州からきたと思われるのでそうであれば、ほぼまちがいなく渡来人の血はひいているでしょう。
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- jacta
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広義の渡来人であることは間違いありません。 というのも、人類の発祥地はアフリカですから、日本に住む人はすべて(広義の)渡来人です。
- jamiru
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No7です。 沈説の一つですよ。 ただ、無から有は生み出せません。 日本は皇帝のような覇道ではなく王道を用いた人に近いのを探すと劉虞やその思想系統が地理的にも近いという程度です。 それに渡来人。から人を外すと分かりやすいと思います。 渡来とは情報の渡来です。 国家運営のノウハウは民族に伝わるものではありません。 国家運営のノウハウや最新技術や教養という情報を渡来させた人が渡来人であって、民族で語るものではありません。 渡来した情報を知る皇室や政府が渡来人?となるのも無理はありませんね。 極端な話、0はインド生まれだそうで数学者は皆インド系?みたいな話なのかもしれません。 今では数学者に国境も民族も無いでしょう。 0が渡来したからといって0を扱う人が全て渡来人でもなければ、どこぞの民族というわけではありません。
お礼
ありがとうございます。 沈説なのですか。でも興味深い説ではありますね。 魏志倭人伝を読んでも、倭は徳のある国だというような記述がありますし。 調べてみたいので、どなたの説なのか わかれば教えていただけませんんでしょうか。 何度も申し訳ありません。 >それに渡来人。から人を外すと分かりやすいと思います。 渡来とは情報の渡来です。 国家運営のノウハウは民族に伝わるものではありません。 国家運営のノウハウや最新技術や教養という情報を渡来させた人が渡来人であって、民族で語るものではありません。 渡来した情報を知る皇室や政府が渡来人?となるのも無理はありませんね。 民族ではなく個人や氏族に伝わるという意味ですか? つまり、天皇家は渡来人ではなく、国家運営のノウハウを伝えた日本人という意味でしょうか? そうであれば、なぜそうお考えになるのか、 理由を教えていただけませんでしょうか。 天皇家は渡来人ではない、という考え方も当然あると思います。
- DieMeute
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天皇の祖先はどこから来たか・・・ まず問題になるのは「日本書記」「古事記」の信憑性だと思います。 古くは津田左右吉氏は記紀を研究し古代の天皇達については、初代神武天皇をはじめ後世の創作という説を出しています。 水野祐氏も記紀を研究し古代の天皇のうち18人は架空の人物との説を出し、さらには三王朝交替説という、崇神、応神、継体の各天皇のそれぞれの王朝が時代とともに交替していったという説を唱えました。 特に「欠史八代」という言われるように、2代から8代の天皇の存在にはかなりの疑問もあるようです。 こうした記紀の信憑性に疑問を持つ学者は、天皇家の権威を高める為に架空の天皇達を創作し記紀に書かれたとしています。 ただ、その一方で鳥越憲三郎氏のように初代神武天皇や欠史八代の天皇の存在を実在と主張する人もいます。 こうした中で、どこまで記紀の書いてある事を信じられるのか・・・ 非常に難しい問題だと思います。私としては記紀を根拠に天皇家が渡来人だとか、土着の豪族だったとかを判断するのは危ういと思います。 ただ、「古事記」は712年に、「日本書記」は720年に作られました。 しかし、それよりも前の620年に天皇の系譜について書かれたと言われる「天皇記」と、歴史書と言われる「国記」が聖徳太子と蘇我馬子によって編纂されています。 両書は「乙巳の変」の際、蘇我家が焼失した際に失われたと言われますが、一部は焼け残り、天智天皇に献上されたと言われます。 また、蘇我家の跡が発掘されており、そこから「天皇記」や「国記」の一部が出土するのではないかと期待されています。 もし、こううしたものが見つかれば、あるいは天皇家の祖先について新たな発見があるかもしれません。 また681年には勅命により、天皇の系譜を記したとされる「帝記」と、歴史書である「旧辞」が編纂されています。両書は散逸したと言われ、現在は伝わっていませんが、これを基に「日本書記」と「古事記」が作られました。 ここからは私の推測ですが、なぜ「帝記」と「旧辞」が失われ、その後に「日本書記」と「古事記」ができたのでしょうか。「帝記」と「旧辞」の内容では、天皇家の権威を高める事はできないようなものだった為、改めて記紀が作られたのではないか・・・私はそう推測しています。そしてそこには、天皇の祖先についても何かしら記述されているのではないかと・・・そもそも、天皇や国の歴史を記した大事な書物が失われるというが、あまり納得できません。現在の宮内庁書陵部には45万点の書物が保存され、その中には飛鳥時代から天皇家に伝わっている古文書もあるそうです。そうした中に「帝記」や「旧辞」が秘かに保存されていたとしても私は驚きません。 そもそも、天皇家の祖先はどういう人達だったのか・・・天皇家には伝わっているのではないでしょうか。 大陸を渡って日本にやってきた秦氏の末裔の中には、現在でも自分達は大陸からやって来たという事を代々伝えている家もあります。 天皇家でも口伝、伝承とか、もしかしたら古文書などで、先祖の事が皇室にのみ伝えられているのではないかと私は推測しています。 古墳発掘については、私はあまり期待していません。そもそも古墳が本物かどうなのか・・・ 初代神武天皇の古墳は平安時代に一度わからなくなったそうです。江戸時代に現在の桃花鳥田丘上陵が神武天皇の古墳とされましたが、後に違うとされ、ここは第二代天皇の古墳とされ、神武天皇の古墳は現在の畝傍山東北陵だとされました。宮内庁もこれを認めていますが、このように間違いが起きるように古墳の確定は難しいものがあります。現在は本物とされている古墳も果たして本物なのかどうか・・・ それに古墳から大陸の物が出てきても、それが天皇家の渡来人としての証拠になるかどうか・・・日本では卑弥呼の時代から大陸との交流がありましたから。 なお、前方後円墳については、日本で出現したのは3世紀です。韓国のものは時代的にかなり後の5世紀後半で、しかも当時、日本との交流の深い地でした。だから日本から伝わったと判断されているようです。 私は今の天皇家にご先祖様がどこから来たか直接聞いて確かめてみたいです。知っているのか知らないのかを?無理ですけどね。 推測ばかりの話ですみません。
お礼
ありがとうございます。 >「帝記」と「旧辞」の内容では、天皇家の権威を高める事はできないようなものだった為、改めて記紀が作られたのではないか。 私もそう思います。 >天皇家でも口伝、伝承とか、もしかしたら古文書などで、先祖の事が皇室にのみ伝えられているのではないかと私は推測しています それは十分考えられることですね。 >前方後円墳については、日本で出現したのは3世紀です。 韓国のものは時代的にかなり後の5世紀後半で、しかも当時、日本との交流の深い地でした。だから日本から伝わったと判断されているようです。 そうなのですか。ありがとうございます。 ただ、古墳の年代をどうやって割り出したか、が問題ですね。 日本においても年輪年代法によって箸墓古墳の築造年代はかなり引き上げられたということがありました。 が、これについては考古学カテゴリーで別途質問を立てたほうがいいですね。
- sudacyu
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古典的なのは、1948年東大の江上波夫氏が発表した騎馬民族征服王朝説ですね。 もっとも、縄文時代に日本列島全部で、最大20万人位しかなかった人口が、弥生時代には数百万人に膨れ上がり、骨格も大きく変わっています。 西日本の弥生遺跡から見つかっている人骨と当時の朝鮮半島の人骨で相当の共通性があり、最近のDNA鑑定では弥生人は縄文人よりも朝鮮半島南部の人に酷似しているとの結果が出ています。 まあ、日本人は黒潮に乗ってやってきた南方系の人や中国福建・揚子江河口付近、山東省、朝鮮半島、渤海などの外来の人と縄文人・アイヌなどの人との混血でしょうね。混血比率ははっきりしませんが。
お礼
ありがとうございます。 騎馬民族征服王朝説を読んでみることにします。 弥生人と天皇家を関連付けて考えて折られる方が多いようですね。 天皇家が弥生人である可能性はもちろんありますが 弥生人と一口に言ってもいろいろなルートでいろいろな氏族が やってきたと考えた方がいいのではないでしょうか。 また弥生時代とは紀元前1000年くらいまでのことを さすそうですが 記紀に記された神武東征は紀元前660年で、 実際にはもう少しのちの時代のことだと考えられています。 とすれば、天皇家は弥生人とはいえない可能性もあると思います。 ですので、弥生人と天皇家をいっしょくたにして 考えるべきではないと思いますが・・・。
- tanuki4u
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どの時代からが渡来人か? というのでいろいろあるよね。 私が学生の頃は、渡来人という概念が無くて、帰化人という概念しかなかった。大和朝廷が成立してから天皇を慕って海外から来たのが帰化人。 帰化人=渡来人と定義しちゃうと、論理的に天皇家は渡来人ではあり得ない。慕う対象が日本にいなければ慕って帰化できないわけですから。帰化人が来る前に、天皇は日本に成立していたことになる。 この渡来人=帰化人の定義は 新撰姓氏録での諸蕃ということになります。 で、DNAでいくと、縄文系と弥生系となり、日本人の半分くらいが弥生系(男系で)なんか全国同じような比率らしい。 http://www.jsog.or.jp/PDF/56/5609-612.pdf 女系だと http://sankei.jp.msn.com/life/trend/080804/trd0808041444013-n1.htm 地域差がありますが、まぁ半々な感じ。 新撰姓氏録が作られた平安初期の認識から弥生人が来た時代まで、どこからが渡来人だ?と時代を決めることで如何様にも、いえるような気がする。 私は「俺たち、日本人でないか?お互い」と認識した飛鳥時代より前に日本に住んでいた人間は、渡来人じゃないと考えています。 理由は、その時代から歴史記述が妙に人間っぽい。その前は神と人間がぐちゃぐちゃしている。雄略天皇が葛城山の神と競ったとかいう話があったように。これはたぶん、継体から欽明くらいで、俗的な国家ができあがったからじゃないかと思う。そこからが日本。で、その前は、おめーどこのもん?と問うのがおかしいのじゃないかと思うから。 この渡来人の定義では、天皇家は渡来人ではあり得ない。 まぁ渡来人の定義の対象時代をさかのぼって、稲作をもたらした弥生人は渡来人だとすれば、天皇家は渡来人になりますが。
お礼
ありがとうございます。 ちょっと意味がわかりにくいのですが 帰化人=渡来人で、どちらも大和朝廷が成立してから天皇を慕って海外から来た人のことだ、という意味ですか? それならば、天皇家はもともと日本に住んでいた氏族でなく 大陸からやってきた氏族ですか、と質問を変えさせていただきます。 >継体から欽明くらいで、俗的な国家ができあがったからじゃないかと思う。そこからが日本。で、その前は、おめーどこのもん?と問うのがおかしいのじゃないかと思うから うーん、そうですかね。 私は天皇家が権力を持つ以前に物部王朝があったと考えています。 天皇家の先祖であるニニギってどうもあとから畿内にやってきて 物部王朝を征服したと、記紀には書いてあるような気がしますが。 とすれば 国家ができあがる前にやってきた民族=弥生人=渡来人でない、 とは簡単にいえないのではないでしょうか。
補足
>国家ができあがる前にやってきた民族=弥生人=渡来人でない、 >天皇家=国家ができあがる前にやってきた民族=弥生人=渡来人でない でした。 訂正させていただきます。スイマセン。 つまり、天皇家って国家ができてからやってきた氏族である可能性もあると 私は思うわけです。
- jamiru
- ベストアンサー率5% (170/3044)
面白い説は、後漢末期の徳の王:劉虞の流れをくむ人々が日本に徳の文化を持ち込んだとか。 高天原は朝鮮半島よりももっと内陸だったのかもね。
お礼
回答ありがとうございます。 お礼が遅くなって申し訳ありません。 中国の歴史は詳しくないのですが 劉虞という人は徳の王だったのですね。 で、この人の末裔が日本に徳の文化をもちこんだというのは 何かの史料に示されていることなのでしょうか。 それとも、何かを根拠にそういう説が唱えられているのでしょうか? そして徳の文化をもちこんだ人々が天皇家であったと? もう少し詳しく教えていただけませんか。 図々しいですがよろしくお願いします。
補足
すいません、No.6の方のお礼にまちがいがありました。 高野新笠は桓武天皇の后でなく、母親です。 失礼いたしました。 No.7様へのお礼は明日書かせていただきます。
- nishikasai
- ベストアンサー率24% (1545/6342)
天皇陛下ご自身がテレビで自分には半島の血が流れていると仰いました。 日本人そのものだって何代も遡ればそうかもしれません。わたしは日本人とは日本国籍で日本語を話し日本を愛する人なら顔が黒かろうと白かろうと日本人だと思います。
お礼
ありがとうございます。 天皇陛下がおっしゃったのは、 桓武天皇の后であった高野新笠が百済系の人物であると言うことだったと思います。 >日本人とは日本国籍で日本語を話し日本を愛する人なら顔が黒かろうと白かろうと日本人だと思います。 というのは私もそのとうりと思います。 が、そういった哲学的なことではなく 歴史の真実として、天皇家が渡来人であったのかどうかを 私は知りたいのです。
補足
すいません、お礼の補足です。 天皇家が渡来人であったというのは、 桓武天皇の后であった高野新笠が百済系の人物であったという 平安時代の話ではなく、 もっと時代を遡った大和朝廷成立以前についての話です。
- tukihana
- ベストアンサー率23% (11/46)
天皇家のルーツは現在不明です。 渡来人であるという説も存在しますが、確固たる根拠があるわけでなく真偽は不明です。 そもそも天皇家のルーツが特定の一つの集団に由来するのかどうか、 また現在の天皇家がそれと本当につながっているのかも定かではありません。 古代史の分野では史書や神話の解釈だけで論を立てようとする人がおおいですが、 考古学上の発掘成果等とリンクしていないと根拠薄弱です。
お礼
ありがとうございます。 つまり考古学上の発掘成果から、天皇家が渡来人であるとするものは 見つかっていない、ということですね。 例えばどのようなものが発掘されれば 天皇家が渡来人であるとする証拠となるでしょうか。 韓国にも日本同様、前方後円墳がありますが これは大和朝廷成立後に半島に渡った日本人の墓だとされているようですね。 どのような根拠からそう結論されたのかは知りませんが。
- chie65536(@chie65535)
- ベストアンサー率44% (8742/19842)
天皇家はヤマト朝廷の流れをくみます。 ヤマト朝廷勢力を渡来人とすれば、九州の熊襲(くまそ)、東北の蝦夷(えみし)、北海道のアイヌが原住民となります。 また、ヤマト朝廷勢力は弥生人の血統、熊襲、アイヌは縄文人の血統だと言われていて、古代の日本には縄文人しか居らず、後から渡来した弥生人に、北と南に追いやられたとも言われています。 熊襲はヤマト朝廷に滅ぼされたので、純血の熊襲人は今は居ません。アイヌ人も、純血の人は居ないと思います。 なので、北海道のアイヌ民族以外の日本人は、殆どが渡来人である弥生人の血統の筈です。 ヤマト朝廷においては「原住民は討伐の対象」だったので、ヤマト朝廷の王家が原住民である筈がありません。 と、言うのが「天皇家渡来人説」です。
お礼
ありがとうございます。 >ヤマト朝廷勢力は弥生人の血統、熊襲、アイヌは縄文人の血統だと言われていて、古代の日本には縄文人しか居らず、後から渡来した弥生人に、北と南に追いやられたとも言われています。 という説の根拠を教えていただけると助かります。
- BANZADESU
- ベストアンサー率19% (14/73)
天皇陵(天皇の墓)を発掘調査すればいいこと。それを宮内庁は絶対やらせないことで判ると思うが。
お礼
ありがとうございます。 発掘調査をさせないのは怪しまれても仕方ないですが 発掘調査をさせない=天皇家は渡来人であるとするのは 飛躍ありすぎじゃないですか?
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お礼
何度もありがとうございます! 日本人に朝鮮半島系の人が多いというのはDNA鑑定の結果なのですね。 >中国から渡来したと自称している人もほとんどが朝鮮半島からの渡来人だったというのが歴史学者の見解です。 中国から渡来したと自称しているというのは秦氏などですね。 (秦の始皇帝の末裔だと言っている) 秦氏は中央アジアの弓月王国の出身で(記紀に弓月君という人物が率いて日本に渡来したと記されている) キリスト教徒だったという説もありますね。 天皇のことをミカドというのはイスラエルの失われた十二支族の カド族出身なのではないかという説も。 とんでも説だという意見もあるようですが。 高天原=朝鮮半島だという説があるのですか。 おもしろそうですね。調べてみることにします。