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源頼光や四天王はなぜ土蜘蛛や鬼を退治したという伝説が残っているのですか?
源頼光や四天王(渡辺綱・坂田金時・卜部季武・碓井貞光)には なぜ土蜘蛛や鬼を退治したという伝説が残っているのですか? ご自身の推理でも結構ですので、お答えいただけると嬉しいです。 よろしくお願いします。
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たたら系の話は 宗像教授シリーズ < 漫画 これに さくっと書いてある。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B1%9F%E5%B1%B1 ここにもあった。 多田鉱山は関係ないんじゃないかな http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90 酒呑童子という盗賊征伐が、京都の西で大枝が大江山とくっつとともに、五行説での西方=金属で話がふくらんだんじゃないかな。 ちなみに桃太郎が 犬 猿 雉 なのは、十二支を方角に当て込むと西が、戌 申 酉 となっておりますので、西に行くにはこの三種となり、やはり鬼を退治してして「金=西」の宝を持って帰ってきます。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D
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土蜘蛛は、一説では蜘蛛=網=漁民ともいわれています。 土は住居の形態だという説をみたこともあります。 他の回答者の方が書かれている食人の風習は、沖縄や九州、韓国などにのこる祭りや、記紀にあるウケモチやオオゲツヒメといった食物神の説話が南洋の祭事や伝説に酷似し、また土偶や男性器信仰など、縄文の風習の一部がポリネシアから来ていることもほぼ明らかなので、土蜘蛛が縄文漁労民族であったと考えることもできます。 四天王の一人が、やはり鬼退治をする金太郎ですが、オニついてもその毛深くて大柄な容貌や、鉄剣や植物繊維の服をもっていないことで、敗北した縄文系の民族であったと考えるのが自然です。 同じく頼光が退治したとされる酒呑童子も実は記紀神話のヤマタノオロチの子供という説があります。 なぜ頼光が土蜘蛛を退治したかというよりも、南洋や大陸の神代の伝説のモチーフが、日本でスサノオや神武天皇の記紀神話になり、中世に頼光の伝説になった(現代のリメイク版のようなもの)と考えたほうが自然でしょう。 なぜ頼光だったのかは残念ながら私の知識ではまとめられませんが、当時の権力闘争と、彼が藤原道長の重臣だったことのほか、頼光が源氏の棟梁と目されていたこと、四天王は源平などの武家の一族の棟梁で、そのことから頼光が武家のトップであったと思われ強者のイメージがあったこと、四天王の一人である渡辺綱が、中世まで海賊(土蜘蛛)の多かった瀬戸内海の水軍を今の大阪から仕切っていたことなどが考えられると思います。
お礼
ありがとうございます。 蜘蛛=網=漁民というのは、山の民であるという回答と相反するものですが 興味深いですね。 蜘蛛=網=漁民=海人、と考えられないだろうか、と思ったり。 ただウケモチやオオゲツヒメの説話については知っているつもりですが 食人の風習に関連する説話というよりは、食物起源の説話だと思っていましたが? 渡辺綱は瀬戸内海の水軍を仕切っていた人だったのですね。 大変勉強になりました♪
- goo-par1732
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土蜘蛛は、8世紀に編まれた「風土記」に古老の伝える話として出てきますから、その時点ですでに「伝承」であったということでしょう。 その伝承では、土蜘蛛は朝廷に討伐されるべき対象としています。 源頼光が、反乱を起す土豪たちを天皇・公家の命令で鎮圧したり、あるいは自己の勢力を拡大していく過程で、反抗する土着の勢力を駆逐したりしたので、勝者の立場から敗者を昔からの言い伝えである「土蜘蛛」と呼んだと思います。 討伐した相手を山や地面を連想する「土蜘蛛」と呼んだのは、自分たちを「水神」と見立てたのだという研究者もいます。 源頼光の妖怪退治 http://homepage1.nifty.com/heiankyo/kuni/yomo21.html 次に「鬼」ですが、鬼や妖怪の存在が信じられていた時代、人びとは「鬼」をどのように想像していたのでしょうか。 「鬼」と呼ばねばならぬほどの残忍な行いをする者がいたとすれば、それは山間に隠れ住んでいた「食人の風習をもつ古代からの原住民」だと思います。 「今昔物語」や「宇治拾遺物語」に「人」を食う話が出てきます。 手元にある宮崎惇『消された日本史』(廣済堂文庫)には、 「日本紀略」の寛平元年(889)7月の条に「信濃国から人を食う鬼人がいま京に滞在している(食人之鬼人来洛中)」とはっきり記録されていることからも、当時、まだ食人の風習が残っていたと思われると、書いてあります。 また、飢饉で人肉を食べたという記録は、「日本書紀」にもあります。 人肉を食った例は、上記の本に多数出てきます。 ヤマで働く人たちの一部には風体が異様で、里に出てきて悪業を働き、言葉が通じない場合が多々あったと思います。 だから「鬼」と呼ばれたのではないかという説を受け入れるには、抵抗があります。 鉱山で働く人々やサンカの人たちが、近隣の住民にひどい暴力を振るうことは考えられません。 食糧をはじめ日用品を得なければならず、また鉱山では生産物を舟で運ばねばならず、里に住む人びととは、敵対することはないと思います。
お礼
ありがとうございます! 土蜘蛛=山、退治する側=水神 というのは面白いですね。 人を食う話ですが、伊勢物語では在原業平と藤原高子が駆落ちした際、 高子が鬼に食われるという話が出てきます。 でも、実際には高子は鬼に食われたのではなく 兄の藤原基経に連れ戻されたのでした。 平安時代にはこのような比喩的な表現を用いることが多いようです。 「日本紀略」の記事も比喩的なものだという可能性もあるのでは? (読んでないのでなんともいえないですが) しかし、平安時代の飢饉は相当ひどいものであったらしいので 人を食べるということもあったかもしれません。 鉱山で働く人々が暴力をふるうことは考えられません、とのことですが それは私もそうだと思います。 ただ、彼らは差別されていた非人でした。 酒呑童子はある日、祭礼の時に被った仮装用の鬼の面が顔に吸い付いて取ることができず、 やむなく山奥に入って鬼としての生活を始めるようになったという話が伝わっています。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%92%E5%91%91%E7%AB%A5%E5%AD%90 仮装用の鬼の面とは節分の面のことでしょう。 かつて非人を偽装鬼にして石を投げるという風習があったとされています。 つまり、彼らは里の人々に暴力を振るったりするわけではないのですが 非人として差別されていたがゆえに敵対視されたという可能性があるのでは、と私は考えています。 節分とは二十四節気の大晦日のことで 12月は丑、1月は寅なので1年の変わり目は丑寅です。 一方、吉備津彦が退治したとされる鬼の温羅は丑寅御前などとも呼ばれ 鬼は丑寅をあらわすものでもあったようです。 そして丑寅=鬼をはらうことで新しい年がやってくると 古の人々は考えたようです。 また八卦では丑寅は童子をあらわすそうです。 しかし、日本紀略や日本書紀の記述など大変参考になりました。 『消された日本史』おもしろそうですね。 読んでみたいです♪
- DESTROY11
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捏造の可能性もあると思います。 彼らの子孫が「ご先祖様はすごかったのだ!」と言いたいがために、英雄譚をでっち上げたのかもしれません。 あるいは、御伽噺を作るとき、武人として有名だったから名前を使っただけとか。
お礼
ありがとうございます。 あなたが捏造であると考える根拠は何ですか?
源頼光と四天王はその勇猛さで知られていました。 そのたとえ話ですね。 本当は山賊を討伐した話かもしれませが、 妖怪・化け物が信じられていた時代ですから、 そのほうがよりインパクトがあるでしょう? 坂田金時の幼年時代の「金太郎のおとぎ話」も そのたぐいです。
お礼
ありがとうございます! 確かに妖怪・化け物が信じられていた時代であったようです。 数多い妖怪の中で、なぜ特に鬼と土蜘蛛が選ばれて 物語に登場しているのだと思いますか?
- tanuki4u
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一般に土蜘蛛は、九州から大和に征服に来た天皇一族にとっての、大和の在来民と言われています。 縄文系は、一般に手足が長いので、それをデフォルメして土蜘蛛と呼んだ。 また鬼は、製鉄関係でイラン系だとか、たたら技術者とか言われています。
お礼
ありがとうございます! >鬼は、製鉄関係でイラン系だとか、たたら技術者とか言われています うーん、興味深い話ですね! もうすぐ節分ですが京都の寺社の節分会に登場する鬼の中には 角がないのがいます。 で髪型は結髪しない赤熊で、緋色の着物を着ています。 これは寺社に隷属していた非人のいでたちであり、 彼らは結髪しない童形なので童子と呼ばれていました。 なので私は鬼=非人のことかと思っていましたが、 鉄と関係があったという可能性もありますね。 とても参考になりました!
補足
すいません、補足ですが 頼光さんは摂津のあたりを本拠地としていたようですが その付近には多田銀山がありました。 それと鬼や土蜘蛛って関係ありそうに思いませんか? 土蜘蛛って穴の中に住んでいると記紀には記されていました。 それは鉱山で生計を立てているということなのでは?
- yata1746
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源頼光は摂津源氏の嫡流で都の警護を職としており、その家来ともども大変強かったので、例えば「盗賊団を退治した」というような事実が脚色されて土蜘蛛やら酒呑童子やらの伝説になっていったのではないかと思います。 ちなみに同時期に都で活躍した人物に安倍晴明がいますが、晴明と頼光は一条戻橋をはさんで端と端に屋敷を構えていました。晴明が怨霊や呪い、祟りなど「あの世の魔物」から都を守れば、頼光は「この世の魔物」つまり、世を乱す悪党から都を守ることを使命としていたわけです。このあたりの繋がりも興味深いところです。
お礼
ありがとうございます! 源頼光は都の警護をしていたのですね。 安倍晴明と頼光の邸が一条戻り橋を挟んで向かい合っていたとはしりませんでした。 北野天満宮の神宮寺だった東向観音寺に土蜘蛛の塚がありますが たしかもともとは七本松通一条の清和院の西門前にあったものだったとか。 大変参考になりました!
- kusirosi
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土蜘蛛や鬼を退治したからでしょう。 平安時代には、すでに、日本にも文字で歴史書を記述することを していましたから。 まー、その土蜘蛛や鬼が、何であるかは議論の余地ありますが(^_^.) 未確認生物なのか、異形の人(漂着した外人、異民族)なのか?
お礼
ありがとうございます。 質問の仕方が悪かったのかもしれませんが >まー、その土蜘蛛や鬼が、何であるかは議論の余地ありますが(^_^.) 未確認生物なのか、異形の人(漂着した外人、異民族)なのか? つまり、そこのところを私は知りたいわけです。 土蜘蛛とか鬼が妖怪だったとはちょっと信じられませんので。
お礼
2度目の回答ありがとうございます! 大江山は鉱山だったのですね。 すると頼光さんの方でなく、大江山に住んでいたという酒呑童子のほうが 製鉄と関係あるのかもしれませんね。 なるほど、五行の西=金属ということですか。 おもしろいですね。 宗像教授シリーズというのも読んでみたいです♪