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悪は 存在しない
《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。 もとに戻って この質問をします。 ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。 ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。 以上について 成否・当否を おおしえください。 なお ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。 問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。
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こんにちは。 言葉を超えたイメージを議論するのは 本当に難しいですね。 > 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。 これを考えていて躓いてしまいました。 絶対は、理屈を超えており 私たちはただ受け入れるしかありません。 絶対に由来するものは、否定できません。 絶対に由来するものが、この相対世界にやってきた段階で 善悪に評価が分岐します。 だから、厳密に言葉にこだわれば「絶対悪」も「絶対善」もありません。 善悪が分岐する以前の状態を指し示す言葉があれば話は分かりやすくなりますが 残念ながらそのような言葉はありません。 ただ、善悪が分岐する以前の状態は、否定できませんから ●「善悪を超えている存在(状態)」を分かりよいように「善」と規定する。 ●それで、全体が説明できるか、やってみよう。 ということですね。 では、説明を続けましょう。 もし私が絶対につながっているなら 絶対に由来するものが私に注がれているなら その注がれたものは何人たりとも否定できません。 よって、私を根本から否定することは出来ません。 同様に、brageloneさんも根本から否定することは出来ません。 相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 (そういう意味では 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。) 私たちは、どういうわけか、相対世界に来てしまいました。 そして、相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。 これが「自由意志」の前提だと考えます。 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。) (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。) (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。) ところが > 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。 個という生命体を維持するために 私たちは「排他」というシステムを持っています。 (異物の、体内への侵入を許しません。) > 自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ といった言説は一見説得力を感じますが 私たちが獲得した「排他」のシステムは「自然から生まれた人間の行い」 ではないだろうか? このとき、「自由意志」とは「他存在の受容」と「排他」の どちら側に存在するのか? はたまた、軸の取り方が間違っているのか? なんて、あたりまで考えて、今、躓いてます。 希望としては「多様性の受容」が「自由意思」を生む、なんて 方向性になると、全体の見取りがよくなってくる気がします。 何だか、brageloneさんの質問に答えるスレッドじゃなくて brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑
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- maimaisus
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maimai.susです。 うーん、なるほどね。 どうやら、今の私では、今のbrageloneさんに、自分の回答を理解して頂けないようですね。 ☆ 善悪にかんする言語習慣を どう解明するか。そのために 存在は善であるという想定を 出発点に置く。そうすれば 基本的に 全体として 解明することができた。どうでしょうか。と何度も問うています。 この話の筋を外れて行こうとしていませんか。むしろ 基本としては 賛同するという答えを出してもらったのではないですか。 基本としては、の基本、「善悪にかんする言語習慣を どう解明するか。そのために 存在は善であるという想定を 出発点に置く。」 その部分が、足りてない、こうゆう考え方の方が正として考えた方が、(「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが)自分は正しいんじゃないですか?比べてみてね。と言っている訳です。なので、 >☆ これらすべての場合 基本的に 善なる存在の持続という善なる思惟および行為を基盤として 現われると言っています。 この意見は、私の回答を全く理解していないんだな、とおもいますね。まあ、他の話も似たようなもんですが・・・。 >☆ 《足りる》と言っているのですから 《なぜ 足りないか》を明らかにする必要があります。うしろの一文は その論証ではなくて 情況説明です。しかも 情況説明としては わたしの場合 《弱肉強食》という現実の実態にだけもとづくことはしませんとお伝えしています。 これについても少し。 足りる、と言っても、善性は目に見えて触れる物ではなく、それ単体では、存在と言うには余りにも不完全。足りていない明らかじゃあないですか。 もし存在=善性だとすると、何の解明にもなっていないし、意味のない事ですよね。それよりも、色んな要素で判断・認識した方が意味があると思いますよ。 意味がない=不必要な事ですよね。ある意味。 私が賛同したのは、存在=善性だとしたならばの話の事です。それはそれで、良いんじゃあない程度に。 どうでしょう。私の回答は間違っていますか?
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 今回は 次の一点に 絞ることができるでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ・・・「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが 自分は正しいんじゃないですか?比べてみてね。と言っている訳です。なので、 >☆ これらすべての場合 基本的に 善なる存在の持続という善なる思惟および行為を基盤として 現われると言っています。 :この意見は、私の回答を全く理解していないんだな、とおもいますね。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★ 〔《存在は善なり》にもとづく《善・悪》を前提として 考えることは〕 「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考える ☆ ことは 正確な認識ではありません。 ○ 存在がなければ また その持続を前提としなければ 《「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」・・・「強さ・弱さ」》は 意味をなさない。 ☆ このように 前々から 言っています。考えてみてください。 《「明・暗」》は 自然現象とすれば 別の問題です。存在をめぐる環境の問題ですから 《存在が善である》と 競合しません。 わかりましたか。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimai.susです。 >もし 誇るなら 弱さを誇ろうというのが わたしの標語ですから これも 違います。 もちろん、良い意味での弱さだとは思いますが。 弱さから出る悪って有るじゃないですか。あれ凄く嫌いなんですよね。 特にそのせいで、美しさが損なわれるのが特に。 話が逸れてすいません。ついでにもう少し。 まあ、brageloneさんの定義からは存在しないのですが、純粋な悪(欲望)結果的な悪は、逆に好きですね。不純物の少ないそれは、美しさや強さがあるからです。 中途半端な善より、個人的には好きですね。 もちろん、強く美しく調和のとれた善性的欲望に越した事はないのですがね。 抽象的で理解できないかもしれませんが。 >この差異を互いに受け容れて さらに 対話がすすめば よいでしょう。 とても、こちらの意見を理解したお答を頂いていないので、とてもそうは思えないのですが。まあ、その通りですね。 そうそう例えば下記考え方の、何処が間違いなのか、お答え願いたい訳です。そうしないと、わたしの考えかたが何処まで伝わったのか分からないからです。 (1) そう言う意味でなら、「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが正しいと思います。 (2) 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。 など。それに何故私の答えを理解していないと思うのかと言えば、 >わたしは いま提出している善悪観が ゆるい規定であっても むしろそれゆえに 現実に妥当すると考えていますので そういった点など もし 批判をさらに伸ばしていかれるときには 触れてくださるとよいと思います。どうでしょうか。 善悪観の話では無くて、存在観の話を答え続けているんですよ。ってことなんですけどね。どうもここから先に話が進まない訳です。 何故って、brageloneさん自分の意見の前提だけでしか話しないんですもん。 それでは、他人の意見は、理解出来るはず無いでしょ。っておもう訳です。どうでしょう。
補足
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 これまでのご回答内容からすれば 質問の趣旨説明に対して 大きな間違いが指摘されるということは なかったようです。それだから ★ どうもここから先に話が進まない ☆ ということで よいわけです。 前回(No.31)に対して あらためて ご返答しましょう。 ★★ だから、存在の一部って事でしょ。 ☆ 善か悪か無記(いづれでもない)か いろんな行為のあり方が見られることは ○ 存在の ≫あり方≪ の一部って事です。 ○ 大きく総括的に 存在は善だという想定です。その善なる存在が 意志の自由な選択行為により 一般に 同じく善なる思惟と行為を持ち 時には この善に反する内容(つまり 悪)を持つことがある。 ○ さらには 特に善とも悪とも規定する必要のない事柄も ひとは おこなっている。 ○ ただし この最後の行為に分類されるものも 基本的には 善なる存在から表現されるものであって その存在の持続という善の上に乗っかった行ないである。 ☆ この《善でも悪でもないことがら》については 趣旨説明に 触れていませんでしたが 付属していると考えられます。それに 不都合はないという意味です。これで 《正確な》認識だという意味です。ゆるい分類による認識で 問題ありません。正確です。 ですから 次の文章は 上のように解することと 矛盾しないはづです。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。 まあ、善でも問題ないですよ。でもそう言う事言っている訳ではないですよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ★★ 良い方には変わらないと思いますよ、物事を正しく認識しているとは言えないからです。 ☆ 《正しい認識》を示すべきです。 ★★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 存在 ≧ 善、見たいな大雑把で軟弱な考え方だけは、全足りないと思います。 これからの時代は、尚更ね。そもそも自然の節理自体が、基本的に弱肉強食ですから。強さは大切だと思いますよ、色んな意味において。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《足りる》と言っているのですから 《なぜ 足りないか》を明らかにする必要があります。うしろの一文は その論証ではなくて 情況説明です。しかも 情況説明としては わたしの場合 《弱肉強食》という現実の実態にだけもとづくことはしませんとお伝えしています。 以上の経過なわけです。 ★ (1) そう言う意味でなら、「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが正しいと思います。 ☆ これらすべての場合 基本的に 善なる存在の持続という善なる思惟および行為を基盤として 現われると言っています。 ★ (2) 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。 ☆ これまでのみなさんのご回答を総合して判断するに いま現在 提出しているたたき台で足りるようですと言っています。《ゆるい分類による認識で 不都合がなく それであれば それをもって 正しい認識とする》と言っています。むろん さらに探究するというのは とうぜんのことです。 ★ brageloneさん自分の意見の前提だけでしか話しないんですもん。 ☆ この《前提》つまり 趣旨説明に対して 見解を示していただく質問なわけですから。 ★ 善悪観の話では無くて、存在観の話を答え続けているんですよ。ってことなんですけどね。 ☆ 善悪にかんする言語習慣を どう解明するか。そのために 存在は善であるという想定を 出発点に置く。そうすれば 基本的に 全体として 解明することができた。どうでしょうか。と何度も問うています。 この話の筋を外れて行こうとしていませんか。むしろ 基本としては 賛同するという答えを出してもらったのではないですか。
- littlekiss
- ベストアンサー率14% (98/698)
こんばんは、brageloneさん。 公的補助がおりるものといえば、民間の採算ベースにのらないもの 特定疾患 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%AE%9A%E7%96%BE%E6%82%A3 で、民間の採算ベースにのるものといえば… たとえば… 風邪、特別の誰かではなくだれかれ関係なしに風邪ひきますよね って、ことは…薬の需要がある たーんと研究開発費を注いでも需用が供給を満たすことから研究開発費はペイできる できるとなれば、採算ベースにのるわけだから民間でとなり補助費はなし 自主採算 で、どちらからも漏れ落ちるものが…その外側にいる 時間の経過とともにそのおかれる位置も変化する
お礼
littlekissさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。 ううむ。 ○ 善か悪かの判断の前に と言いますか それとは別様にと言いますか 病気という状態があるのではないか。また そこから表現される思惟や行為があるのではないか。 ☆ こういうご見解でしょうか? たぶん と言いますか 基本としては それがそうであっても 社会の中で いちおうは ふつうに生活している人に対しては まったくふつうに対応するというのが わたしの場合です。つまり そのふつうの社会生活にあるのであれば たとえ病気のせいであっても そのおこないが悪であると判断されるなら その悪であることを指摘すると思います。 病気であるかどうかに関係なく 相手や情況に応じて その指摘の仕方を変えたり 時には指摘じたいを控えたりするのは これも ふつうのことです。 ★ どちらからも漏れ落ちるものが…その外側にいる ☆ 民間の研究開発から漏れ 公的補助による研究開発ないし治療にも含まれないものが 出てくるということでしょうか? それは 訴えないし 訴えても 取り上げられないということでしょうか? 訴えつづける必要があるという考えでは 足りないということでしょうか? それとも もっと 頭を使え。まだ ものごとを見ていないぞ。といったお叱りでしょうか。
補足
littlekissさん 補います。 ● 《Q:〈われはブッダなり〉と宣言する人は》 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3843320.html ☆ ここのNo.1&3&4&5&7を見てみてください。No.7だけで よいです。 わたしは 相手に 花を持たせ過ぎました。持ち上げすぎました。有頂天が わざわいしたのかも知れません。確信犯に変身してしまいました。 まぁ 悪の問題でもあるのですけれど。わたしの手を離れました。という感覚を持っています。現状報告のみですが。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimai.susです。 ☆ そういうふうに 一部分のほかに 善悪とは直接かかわりのないいろんな状態でいることが 人間には あることは 分かっているわけです。 だから、存在の一部って事でしょ。 >ところが そういうふうに 善でも悪でもない状態は 飽くまで 存在の自己表現としての さまざまな姿であり状態です。この存在を持続させるための はっきりとした善でなくても 大きくは 善の範囲に入る場面だと捉えることも出来るわけです。それで 不都合はないはづです。 例え、不都合はなくともそれよりも、正しく認識出来るのであれば、その物事や、存在は善である必要性も無いと思いますが。 まあ、善でも問題ないですよ。でもそう言う事言っている訳ではないですよ。 >☆ というふうに たしかに 優先順位が ひとによって また その時その都度によって 違うのですが すべては この《存在 ≧ 善》という大前提の上で 起こっていると見るものです。中には この善を傷つける思いや行ないが 現われる。これを 悪と呼んでいるのだと捉えれば 世の中の見方が 変わってくると思うのです。よいほうに変わると思うのです。どうでしょう。 良い方には変わらないと思いますよ、物事を正しく認識しているとは言えないからです。 世の中良いが方向に向かうためには、一人一人の人間がより強く、より多くの物事の認識、思考を正しくして行く事だと私は思います。 そのためには、存在 ≧ 善、見たいな大雑把で軟弱な考え方だけは、全足りないと思います。 これからの時代は、尚更ね。そもそも自然の節理自体が、基本的に弱肉強食ですから。強さは大切だと思いますよ、色んな意味において。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ そもそも自然の摂理自体が、基本的に弱肉強食ですから。強さは大切だと思いますよ、色んな意味において。 ☆ 摂理が もし あるとすれば それは 《弱肉強食》あるいは適者生存の自然淘汰だとは 考えません。この出発点が 違っているようですね。 もし 誇るなら 弱さを誇ろうというのが わたしの標語ですから これも 違います。 ここまで分かって よかったと思います。この差異を互いに受け容れて さらに 対話がすすめば よいでしょう。ともかく ここまで やって来ました。 わたしは いま提出している善悪観が ゆるい規定であっても むしろそれゆえに 現実に妥当すると考えていますので そういった点など もし 批判をさらに伸ばしていかれるときには 触れてくださるとよいと思います。どうでしょうか。 存在は善 この前提の上に 思惟や行為としてあると考えられるのは 大きく分けて ・善 もしくは ・非善としての悪 あるいは ・善でも悪でもないことがら(しかも 一般に 善という基礎の上に乗っている) これらの三種類ではないかと思います。こういった仮説でもあります。
- maimaisus
- ベストアンサー率8% (6/75)
maimai.susです。 >少し 話がかみ合っていないようですが どうでしょう。 そうですね、そこを分ってもらうために、回答させて頂いています。 そもそも《存在は 善悪を超えている》とbrageloneさんは思った訳ですよね。その時点で、存在=善では無くなっているんだよ。存在>善だよ。と言う事になっているのに、思考が善悪に縛られるあまり、正しい物の見方を逸脱している様に私には見えるのです。 感覚で言うなれば (1)花は、善であり、愛であり、草であり、花である。 (2)善は、花であり、愛であり、草であり、花である。 上記例で見ると(2)を見て、あれ?って思いません? >世の中で 善あるいは悪という言葉を わたしたちが 使っています。人間そして社会の問題として そのような言語の習慣は どのように成り立っているのか これを 探究しようとしています。 そう言う意味でなら、「正・誤」「美・醜」「好き・嫌い」「明・暗」「強さ・弱さ」などと同等として考えるのが正しいと思います。 存在=善と考えるのは、偏った=足りない物ばかりの思考だとしか思えません。これは、あくまで私個人の見解ですが。 >ふつうに善であるとき そして そういう善の状態が 基調になっているけれども 時に その善をゆがめて 悪を思ったりおこなったりするとき こういうときのことを どう考え説明すればよいのか こういう質問になっています。どうでしょう。 だって人によって、意識の優先順位が違うでしょ。 善悪よりも、好き嫌いを優先させればそれ相応の状態になるでしょ。 そう言う人の場合、好き嫌いが、善悪を凌駕している訳だから、その人の存在は、好き嫌いを大部分とする意識と言う事になる。 善のへそ曲がりより、正確に物事を説明していると思いますが。 様は付け足す部分が、有るよ、それだけでは不十分だよ。って部分を分かってもらいたい訳です。 従って、善悪は存在の一部分だよ。っと回答させて頂いている訳ですね。個人的に。 偏った=足りない物ばかりの思考は、その意味において部分的にしか意味をなさないと言う事を理解して下さい。
お礼
maimaisusさん ご回答をありがとうございます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 善悪は存在の一部分だよ。 偏った=足りない物ばかりの思考は、その意味において部分的にしか意味をなさないと言う事を理解して下さい。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ そういうふうに 一部分のほかに 善悪とは直接かかわりのないいろんな状態でいることが 人間には あることは 分かっているわけです。 ところが そういうふうに 善でも悪でもない状態は 飽くまで 存在の自己表現としての さまざまな姿であり状態です。この存在を持続させるための はっきりとした善でなくても 大きくは 善の範囲に入る場面だと捉えることも出来るわけです。それで 不都合はないはづです。 ★ 好き嫌いが、善悪を凌駕している ☆ 状態であっても 存在という善の大前提は 生きている。と解釈するわけです。そうすれば 《悪》は どこを探しても それ自体としては 存在していない。このように世の中を見るならば かなり 風通しがよくなるのではないか このような仮説です。まだ 持ち堪えていきたいと思うのですが? ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ そもそも《存在は 善悪を超えている》とbrageloneさんは思った訳ですよね。その時点で、存在=善では無くなっているんだよ。存在>善だよ。と言う事になっているのに、思考が善悪に縛られるあまり、正しい物の見方を逸脱している様に私には見えるのです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは かんたんです。 ○ 存在 ≧ 善 ☆ と捉えればよいと思いますよ。 すなわちあらためて ★ だって人によって、意識の優先順位が違うでしょ。 ☆ というふうに たしかに 優先順位が ひとによって また その時その都度によって 違うのですが すべては この《存在 ≧ 善》という大前提の上で 起こっていると見るものです。中には この善を傷つける思いや行ないが 現われる。これを 悪と呼んでいるのだと捉えれば 世の中の見方が 変わってくると思うのです。よいほうに変わると思うのです。どうでしょう。
- poipoi_sa
- ベストアンサー率52% (40/76)
brageloneさん回答ありがとうございます。 「哲学は学問ではない」というのは池田晶子さんの言葉の中にありました。 私は学問として扱っているのではなく、brageloneさんの《悪は 存在しない》を理解するためにbrageloneさんの言う「悪」と「存在」とはどういうことかについて質問しています。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ●下記の4つについては説明が無い、もしくは足りないと思いますので回答をお願いします。 No.3.当人が善いことと思って行っても悪ならば、もはや善の欠損としての悪の範囲に収まらないのではないか? No.3.善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分ける? No5.ただの「存在」が「善として存在する」となるのはいつですか?。またどうやってなるのですか? No11.自分だけでは善悪という概念は存在しないのではないですか?7と近いですがこちらでは一般の人を想定して話して下さい。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ●下記は回答を頂きましたが引き続き不明な点がありますので追加でお願いします。 6.「自分の存在は善である」 は分かりますが、何故「だから他人もそうである」と考えられるのですか? は4同様に無根拠と言う事で宜しいですか? 3の>>存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。 私利私欲を貪る為にひたすら生き長らえる行為が善とはとても思えないのですが? >>【4】は おのおのの主観を持ち寄って 互いに 決めていく。 ということは少なくともここで書き込みをしている人のそれぞれの主観は同等で、そう考える人と考えない人が 互いに自ら決めれば良いと言う訳ですね。それは真理ではないのではないですか。 ”悪は存在しない”は相対的な各々結論に過ぎないことということですか? 17(7の回答) を見ると、「社会が存在を善にする」(していく)と考えられるわけですね。 とすると「存在は善」なのではなく「社会の影響を受けた存在は善」に過ぎないのではないですか? 即ち影響する社会側が悪であったら「存在は善」、にはならないのではないかと。 19.【10】について。 信仰が存在以上で善悪が存在以下なのは分かりました。ですから善悪の概念はどこにあるのですか? 個人の内の何処か? と言う問いと 宇宙?の何処にあるか? という二つの意味それぞれにお答え下さい。 13. 主観は 共同化できるものがあるわけです。《うそは いけない》や《殺すなかれ》は 共同主観(コモンセンス)です。 <<うそはいけない>>は方便、本音と建前に過ぎずその本質を理解されていない気が致します。 例えば簡単に、顔にゴミが付いていたり、ファスナーが空いている人を必ず指摘するとは限りません。 時と場所と立場を選ばないと指摘する方もされる方も却って悪い思いをするからです。 brageloneさんの《うそは いけない》に基づけば気が付いているのに言わない時点で善の欠損となってしまいます。 即ち、共同主観と言うものの中にある善悪の概念はもっと複雑なものです。 「ウソを他者に強要する善」が少なくとも現代の人類の共同主観には含まれて居ますよ。 《殺すなかれ》も同様に、ではなぜ死刑制度があるのでしょう? 国家の名の下にの行う刑の責任は全国民一人ひとりに寄与するとなると、全員が悪を働いていることになります。 また先のイラク戦争のように人を殺す行為を善とするピースとして宗教は欠かせない存在です。 5.ウソは善に逆らう意志行為である。意志が 初めの心のあり方に背向いた。 この「初めの心のあり方」を自分の心の内で認識できない人が沢山居ると思います。 池田晶子さんは「倫理は教育によって身につくことはない。」と書いておられました。 つまり、そういった人にとって「初めの心のあり方」たる善は多分一生その人の行為に表れない訳です。 とするとこの人は果たして善なのか悪なのかという話になります。 どう考えられますか?。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 追加質問 自らの行いに悪が無い、所謂善人と自他共に認識している人が居るとします。 この人が他者の悪行を注意しないとしたらそれは悪人ではないですか? 逆に注意するとしても、その他者にとってはまさしく善行だとしたら、それを咎める方は悪人となってしまいます。 いわゆる生存権というものに関わる事態を想像頂ければ分かりやすいかと思います。 どうお考えですか?
お礼
・ ★ 人に〔よ〕って「初めの心のあり方」たる善は多分一生その人の行為に表れない ☆ 存在に潜在すると捉えてください。その善の開発の問題になります。気づきとも言いますが。対話や交通が 望まれます。 ★ 他者の悪行を注意するかどうか ☆ 第一に わたしの主観が 相手の行為に 悪があると判断する。第二に このわたしの考えを 時に応じて また 相手の状態に応じて 発表し 話し合いを持つ。そこで 決め合っていく。 ★ 生存権 ☆ は 善であると想定した《存在》を 法律上も 擁護するものです。 どうでしたか。善悪の判断について ひとにより 社会により 時代により けっこう 流動的であると思います。これは 経験思想に関係します。相対的な善悪ですから。普遍性としての真理は 信仰に関係します。それは なぞです。
補足
poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。 個々に答弁してまいります。 ★ 「哲学は学問ではない」 ☆ 論理学や倫理学あるいは哲学史としての学問は あるようです。 ★ No.3.当人が善いことと思って行っても悪ならば・・・ ☆ 善か悪かの判断は 基本は 本人の主観です。という意味は とりもなおさず 社会にあっては 主観どうしの取り決め ないし 話し合いによります。 一人の人の主観にまちがいがあれば 勘違いとか あやまちとかと言われます。訂正されます。すべて 人びとの総合的な判断によります。意見が対立すれば どこまでも 話し合いをつづけます。 ★ No.3.善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分ける? ☆ 同じものです。悪そのものといった実体はないという仮説です。善の欠損として 意志した行為が 悪と呼ばれるもので それとして 現象しています。現象としては 起こっています。 ★ No5.ただの「存在」が「善として存在する」となるのはいつですか?。またどうやってなるのですか? ☆ そうではなく 《存在は 善悪を超えているものだが 仮りに 善と規定してみる》という作業仮説です。この想定によって 全体が 説明できれば よいという問題です。定義したから 善があるとか 善になるとかの問題ではありません。 ★ No11.自分だけでは善悪という概念は存在しないのではないですか?7と近いですがこちらでは一般の人を想定して話して下さい。 ☆ 自分だけで 善か悪かの判断は すでに おこなっていると見ています。それが 一応 確定するのは 人びとの総合的な判断によります。しかも 時代とともに その結論が 変化することさえあります。 ★ 6.・・・何故「だから他人もそう(善)である」と考えられるのですか? ☆ 人びとによる取り決めで 決まります。 ★ 私利私欲を貪る為にひたすら生き長らえる行為が善とはとても思えないのですが? ☆ 存在と行為とを 分けてください。 ★ ・・・人のそれぞれの主観は同等で、そう考える人と考えない人が / 互いに自ら決めれば良いと言う訳ですね。それは真理ではないのではないですか。 ☆ 《【4】は おのおのの主観を持ち寄って 互いに 決めていく》のです。各自の主観を ばらばらのままに放っておくのではありません。《真理》は 信仰に関係します。善悪の価値基準は 心の真実という問題として 時代によって 変わることがあり それは 思想に関係します。 ★ 影響する社会側が悪であったら「存在は善」、にはならないのではないかと。 ☆ 上の経験思想の問題です。その人びとの思考がまちがっていたら 価値基準は まちがったものになります。民主主義の世の中になりました。そこでは 人びとが まちがうことは 割り合い 少なくなりました。 ★ 善悪の概念はどこにあるのですか? ☆ 個人の主観の内に あります。ただし 社会的には 人びとの共同主観のほうが 優勢です。どちらが 真実で妥当であるかは 一概に決められません。多数のほうが まちがっていることもあります。 ★ 《うそは いけない》は その本質を理解されていない気が致します。 ☆ 第一次に 主観において 自然の心に反する内容は うそであり 悪です。この第一次の場において 同時に 社会的な側面が伴なっています。それによると 相手の主観(それによる 善悪の判断)を尊重する必要があります。つまり わたしの判断としての《うそはいけない》は 相手との話し合いを介するという行為を 必然的に 伴なうよう 促しています。相手と情況に応じて 声をかけてもよいと思います。 ★ 「ウソを他者に強要する善」 ☆ これは 悪です。 ★ 《殺すなかれ》も同様に、ではなぜ死刑制度があるのでしょう? ☆ これが 時代の問題です。 ★ 国家の名の下にの行う刑の責任は全国民一人ひとりに寄与するとなると、全員が悪を働いていることになります。 ☆ そのとおりです。共同主観です。
- poipoi_sa
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どうもこんばんは。一生懸命説明いただいたのは感じるのですが、どうも私の知りたい事と関連の有る内容とは思えません。 というのは、私が何を知りたいかを理解して書かれた文とは思えないと言う事です。 伝え方が悪かったのかも知れませんので再度整理してみました。 知りたいのは、 1.brageloneさんの言う悪とは何であるか。 2.存在とは何か。 3.善悪の概念はどこにあることになっているのか。 という3点です。 以下質問を詳細に11個作っておきましたので各自解答をもらえると助かります。 その下の解説は質問だけで分かりにくいニュアンスを解説しています。 ●善悪について 1.brageloneさんの定義による善と悪を両者がより明確に区別できるように教えて下さい。 2.「善を悪用している」のと「悪」とはどう見分けるのですか? 3.当人が善いことと思って行っても悪ならば、もはや善の欠損としての悪の範囲に収まらないのではないか? 3.善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分ける? ●存在について 4.人が「善として存在する」と言い切れる根拠を説明して下さい。 5.ただの「存在」が「善として存在する」となるのはいつですか?。またどうやってなるのですか? 6.「自分の存在は善である」は分かりますが、何故「だから他人もそうである」と考えられるのですか? 7.一生誰とも出会わないで生きる人間がいたとしたら、善悪の概念は芽生えますか?つまりその人の「存在は善」ですかただの「存在」ですか。 ●善悪の概念はどこにあることになっているのか。 8.「存在は善」とはどれだけの規模共通して言えることなんでしょうか? brageloneさんの中で、もしくはbrageloneさんが生きている間全ての人類で、過去の人類と現在の人類にとって、全ての人類にとって、 brageloneさんの定義する「存在」を持つ対象(宇宙人など)全てにとって、brageloneさんの定義する「存在」を超えて、善悪の概念を持つもの全てにとって。 大体このいずれかに近いと思いますので、お選びになって前後との違いなど説明下さい。 9.誰から見ての善悪なのですか? 10.信仰は4次元で絶対、では善悪はどこにある? 11.自分だけでは善悪という概念は存在しないのではないですか?7と近いですがこちらでは一般の人を想定して話して下さい。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ★★★解説★★★ ●悪について。 <<人を殺すことが あたかも善であると思われているというわけです。存在を さらに善くしようと思っての意志行為~これに反した判断によっています。つまり 悪です。>> と説明いただきました。 しかし当人が善いことと思って行っても悪ならば、もはや善の欠損としての悪の範囲に収まっていません。 一体善か悪をどうやって見極めればよいのでしょうか? 上の首狩族はbrageloneさんにとっては悪かもしれませんが、お聞きしているのは(brageloneさんが考える)普遍的な悪についてであり、 多くの悪行は、善行の名の下に行われてきた歴史を見れば、人々の善悪の基準がいかに当てにならないかが分かります。 そして今こうして善悪を計ろうとしている私やbrageloneさんの基準も同様です。 そんな中で、brageloneさんが言うように「善悪を生きている間に限定」して展開するのは土台に無理があるんじゃないでしょうか。 まず人を殺すのを悪とするのに無理があるように思えます。中には死を望む人々をいるからです。戦場で致命傷を負った兵士や、不治の病で痛みに苦しむ人々はどうなるのでしょうか? また、なぜ人を殺す事だけが悪なのでしょうか?人以外の動植物はどうなるのでしょう? 以前の補足で「悪を善用している」という表現がありました。とすると逆に善を悪用することも可能ということでしょうが、 例えば「善を悪用している」のと「悪」とはどう見分けるのですか? 言い方を変えれば、善の欠損(悪は存在しない)のと悪(悪そのもの)をどう見分けるのでしょうか。 見分けられないとすると両者が区別できず主張が成り立たないことになりはしませんか?。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ●存在について >>三つの行為能力を持つのが 人間の《自然本性》です。自然本性は 人間存在にそなわります。存在は 生命です。 3つとは知性と記憶と愛と言う事でよろしいでしょうか すなわち存在とは、知性と記憶と意志を持つ人間の事であると。 この時点では、彼らは善でも悪でも無いわけですよね?。ただの存在ですから。 この存在が善となるのはいつの事ですか? また、brageloneさん個人的に自分の存在の元は善であると考えるのは分かりますが、だからと言って他の人もそうであると考えられるのは何故ですか? 存在に関しては私も扱ったことがほとんど無いのでしょぼくて済みません。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ●善悪の概念はどこにあることになっているのか。 議論をしていても今ひとつ掴めない所です。ご自身で善悪の共通性「悪は存在しない」を上げて置きながら、それが一体どこにあるのかが定かにされておりません。 人類に不変の共通の真理とでも言うべきものであるなら、それは「人が生きている間」に限定されるものではないし、かといって現時代のみの人類という狭い枠組での事とも思えません。 また、「人間が生きて死ぬまでの間共通に有る真理」という事ならば、それはつまり、人間が生まれたり死んだりするより根本にある真理で、それを意識できるのが「生きている間」に過ぎないのではないですか? だとすると、人が生まれる前から死んだ後まで「存在は善」という真理が存在することになります。 またこの善悪の善い悪いというのは誰がどうやって決めるのでしょう?または決めたのでしょう?真理であるならば宇宙とでも言うべき存在がからくりをつけたという事で 人間にとっては善い悪いという価値基準の中身の本質は、実はそれほど変わらないという事でしょうか? もしそうであるとして、人間同士が殺し合ったり、他の生物を好き勝手に弄ったりしたとして宇宙に何の利害があるのでしょう? 池田晶子さんの書籍の中に「自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ」と言うのが有ります。 とすると善悪という概念は人間が勝手に人間の為に持ち出した考えではないのですか?、 しかも善い悪いを判断するのは常に他人ではないのですか? すなわち、ある行いをして、「これは善い」とか「これは悪い」と善悪を決定づけるのは、「他者(基本的に生命体が対象)がどう思うか」であり、 自分が自分だけで悪いとか善いとか思う行為と言うのが思い当たりません。 「こんなことをして奴に悪いことした」とか「こうしておけばあいつによく思ってくれるだろう」と言う風に個人の善悪の概念は必ず他者の存在とセットで出てくるという所です。 とすると善悪の概念は、「自己の他者への意識」=(他者意識とでも呼んで置く)の中にあることになります。 「自己の他者への意識」は自分なのか他者なのか私にとって区別が難しい部分です。 「自分の見た他者」がそれを構成する元になっている以上、自己とも言えますが、 意識の中にまず「自己意識」がありそれに対する所の「他者意識」としてを保有しているということは、 自己と他者を区別して意識しており、まず自分という存在が有って、初めて成り立つ他者意識は自己ではない気が致します。 多くの人にとって自分の中の他者意識は当然他人を写したものですから何を考えているのか分からないのは、文字通り意識を違える他者であるからです。 (同時に他者意識形成に自己意識を代替している場合もあり、その時は「思っていた人と違う」というように現実のその人と、自分の「他者意識」の間に差異が生じたりします) まとめると、善悪の概念が自己のどこにあるかというと。 1.他者と交わる所に関係していることは間違いない 2.完全に自己意識の中では成立しないのではないか 3.完全に他者意識の中でも成立しないのではないか ということであくまで自分の善悪の概念と一般的に言われますが、これが自分のどこに位置するものなのか私には良く分かっていません。
お礼
11. 《殺すなかれ》は 存在という善を欠如させるなですから 第一次において 普遍的な命題です。二次的に 他者〔の悪の行為など〕にかかわって 緊急避難や 尊厳死などの問題が 持ち上がります。 12. 《悪の善用》は 悪のことです。つまり《善用》というときの善は 主観が そのように意味のないことを言い張ろうとしているだけです。 13. 主観は 共同化できるものがあるわけです。《うそは いけない》や《殺すなかれ》は 共同主観(コモンセンス)です。 14. そこでのウソや殺しという《善の欠損》は そのまま 《悪》のことです。 15. 主観が下す価値判断は 他者との民主的な対話において その成否や当否が 決められていきます。 16. 【4】は 無根拠です。人間どうしが おのおのの主観を持ち寄って 互いに 決めていくのです。 17. 【7】: 社会の外にいる人間については その《存在が善である》は 潜在的に 当てはまると解してください。 18. 【8】: いま現在において 考えられる限りの人間存在について 当てはまるはづです。 19. 【10】《信仰は4次元で絶対、では善悪はどこにある?》:信仰は 《絶対》との関係です。経験的な相対世界(これが 四次元の世界ですよ)を超えたところに想定する絶対との関係です。 20. とうぜん 絶対は また 絶対との関係としての信仰は 経験的な善悪とその判断を超えています。ただし 一般に 信仰のままが 現実であるとは 言い難いところです。 21. 信仰は 人間存在においては その自然本性にとっての《なぞ》の中核であるでしょう。意志などの能力にとって 信仰は 存在という基礎のさらに基礎です。なぞとしては 意志を超えて つまりは 自分の考えた範囲のことを超えて ものごとが進んだり 成就したりということがあります。 22. この信仰を なぞの中核として 一般には 知性による生活態度としての思想を持ちます。この経験思考ないし思想が 善悪の判断にかかわるものです。信仰は この善か悪か〔無記か〕を判断する意志を なぞにおいて 導きます。信仰をとおして 愛(意志)がはたらくと言われます。
補足
poipoi_saさん お早うございます。ご回答をありがとうございます。 たぶん poipoi_saさんとわたしの違いは 哲学を 学問として 扱っているかどうかにあるのではないでしょうか。わたしの場合は 学問は どうでもよいのです。知の体系として そこでの主題や課題を取り上げて 哲学とその研究史に寄与しようですとか そういう考えは 微塵も わたしには ありません。ただ 生きるには どういうことを考えておけばよいか それだけのことなのです。それだけのために たとえば《悪は 存在しない》と言いたいのです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ もしそうであるとして〔* 《善悪の判断またその基準は 定まらない》として〕 人間同士が殺し合ったり、他の生物を好き勝手に弄ったりしたとして宇宙に何の利害があるのでしょう? 池田晶子さんの書籍の中に「自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ」と言うのが有ります。 (α) とすると善悪という概念は人間が勝手に人間の為に持ち出した考えではないのですか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《宇宙》がどうあろうがどう文句を言ってこようが 人間にとってであり わたしにとっての問題なのです。 わたしの行ないが 自然であろうと不自然であろうと 社会に困ったことがあれば 問題です。 ゆえに (α)そのものが ここでの質問の前提です。《人間が勝手に人間の為に持ち出した善悪という概念》は 果たして どういうふうに 使われているのか。これを解明したい ただ これだけのことです。解明できれば たぶん 風通しがよくなり 生きやすくなるでしょう。ただ そのことのために 考えているのみです。 《うそ》という言葉があります。その言葉に対応する現実行為もあります。このとき ウソと言うからには ウソでない何かが 心にあることが推し測れます。主観の問題なのですが 一般化しうる見方です。 だとすれば ウソは 心の自然本性としてのありか または あり方に反した内容を持っていると想定します。その自然の心は それが何であるかは分からずとも 心の基礎である存在が存在していなければ そもそも 存在し得ません。人間という存在 あるいは むしろ一人ひとりの《わたし》という存在 これが 基礎です。 ウソかウソでないかを判断するのは 人間の〔記憶や知解にもとづいた〕意志であり むろん これら意志などの行為能力も 存在に基礎を置いています。つまり 意志による価値判断は 存在に後行しています。価値判断という行為に 存在が 先行しています。 これらの現実情況から概念を取り出し 見取り図をつくろうと思えば こうなるのではないかというのが 質問趣旨です。すなわち 1. 善悪という価値判断に先行する存在は 善悪を超えている。 2. 仮りに この《善悪を超えている存在》を それでも 分かりよいように 《善》と規定したら どうか。それで 全体が説明つくようであれば よしとすることができる。 3. つまり 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。この善がなければ 善悪の判断をすることすら 為し得なくなるのですから。 4. そうして おそらく それが何であるかは分からないが 自然の心のありか または あり方があると思われるとき これをも 善とよぶことにする。なぜなら その思いによって 存在を持続させると思っているのだから。 5. ゆえに ウソは 善に逆らう意志行為である。善に反対する判断に発している。意志が 初めの心のあり方に背向いた。叛くことによっても 存在じたいをよくしようと思っているかどうかは 二次的な問題としてあるが 一次的には 非善である。このように 善に傷をつける判断と行為を 悪と呼んでいると見る。 6. この想定の限りでは 悪は その悪というものが初めにあって 現われるのではなく そうではなく 飽くまで 存在ないしその善というあり方から 出て来ると帰結し得る。 7. さらに この仮説の検証が 望まれる。 このような出発点であり そこからの踏み出しであったわけです。具体的に細かく例示したり 検証したりしていることになります。 8・ うそも方便。これは 悪の善用と解すればよい。 9. 他者の問題は 二の次である。おのれの主観の内において 善と悪のあり方 また 発生の実態は 少なくとも 自分にとっては 分かる。 10. 他者の問題は その他者の自己表現が わたしにかかわっているなら その内容について 問い質す。ことによって 善悪の判断をおこなう。また 話し合いにおいて その違いを埋めていく。とことん どこまでも 対話をつづける。
オコリザルです。 言いっぱなしは良くないので。 A23 これには 基本的に言って わたしは 反対の意見を持っています。《悪は 存在しない》つまり《悪というものが独自にあって 存在していることは あり得ない》と仮説していますが そのときにも 《心のへそ曲がりとして そのような意味合いでの 善の欠損として――それを 悪と呼ぶのですから――》 悪は 存在しています。そういう現象が 悪として 現実に起こっています。 その意味は 相手に 自分の考えていることやおこなっていることが どういう内容でどういう事態であるのかを気づかせるために 悪やウソを用いることはあっても そのウソや悪に成りきる〔というのであれば その〕ことは どうかという見方をしています。 外見。又は代表する人格。この手の現実的現象に悪を自覚させるのは乱暴であるとするのが私の見解です。あくまでも内面の悪意を当事者が取り押さえるための介助としてウソをついて誘導します。当事者かつ責任者はこの場合は無意識の領域の自己です。このための告発法は言葉だけでなく全身のしぐさでメッセージを送ることになります。持久戦ですが進展はあります。 要するに以下に続くご意見は的を得ていますが、 >そうではなく 《善そして悪についての捉えかた・考え方を すでに ひとは 持っているそのことに落ち着くように そのきっかけを与える》 これが 必要だと考えます。そして それには 理論が 大事だと考えるのです。 この場合の論理は格闘の後の和解として、勝利宣言のごとく他者と分かち合う形を起草します。予め喧嘩の前口上にするとお互いの尊厳とそれぞれの正義の問題になるのではないかと思います。相手によってはありえるでしょうが。 A24 存在又は生命に関する無知が生み出す幻です。 愛が全て煩悩であるならば、私の考えは犬を愛したいとする煩悩と同じ生命への理解が働いています。台所を這い蹲るゴキブリにも家族の一員としてほほえましく思う感情(愛の片鱗)を感じます。母はゴキブリホイホイを仕掛けますが、そんな母の行いに「悪意」や「罪の咎め」を感じることも無くやはり愛を感じます。ゴキブリに対する殺意も母の愛だとわかります。話は変わりますが私の姪っ子は幼い時ゴキブリを口に運んで嘗め回して母親(妹)をびっくりさせました。ゴキブリに対する殺意はそんな愛情の本能です。 話は変わりますが、 《悪は 心のへそ曲がりであり 歪みであり 心を善と想定すれば 善が傷つけられ損なわれた状態のことである。ゆえに 悪そのものは 存在していない》という仮説のほうが すべての霧を吹き払ってくれると思うのですが どうでしょう。 「存在」がそもそも確定していないのが哲学の現状であり人知の理解の実情なのでしょう。「存在していない」の言葉に「では存在とは何ぞや」の問いかけが返ってくるのでは無いかと思います。 無の悟りなんて言っても「無いものは無いと言うこと」納得しきれないお馬鹿さんが世の大勢を占めているのと同じです。 無意識と相対した経験からして内情はそんな感じです。 日常的に話し言葉として使う「無」なり「存在」なりが実は十分に哲学されないまま使われているのです。 それ以下の文には「悪意と同居しない」とする自由意志の上でさらに思索すると進展が図れるのではないでしょうか。 A25 ★ 捨てろだの、解脱しろだのは、煩悩を抱える本来の意味を知らないから生じるのでしょう。 ☆ とおっしゃるとおりだと わたしも 思います。腰が引けたら 負けです。ただ ★ 煩悩はそれ自体が欲望であるとの勘違いも多いですが、実際は欲望を打ち消す試みが煩悩です。 ☆ については ふたつの解釈が考えられますが どちらでも よいでしょうか。ひとつは 《無理に〈欲望を打ち消す試み〉に入るから だめなのだ》という意味なのか。それとも そうではなく 《〈煩悩〉ということ自体に 〈欲望を打ち消す〉動きがあって その〈試み〉は あたかも自然治癒としてのごとく 人間存在にそなわっている》という意味なのか。 ご理解いただきありがとうございます。 欲望に対する果敢な挑戦として積極的に煩悩を認めてもいいと思います。 A25の前半が判り難いのはその通りでしょう。 モデルが想像上なのです。 要するに善に忍び寄る欲望の話です。 何度か披露した高次元の霊体ギャグの実情です。 質問の趣旨に戻ります。 《存在は 善である》 存在は善性を備えている。(善そのものではない) これが私の見解です。 ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 この場合、愛と善を同一視しないで「愛」「善」と二つの言葉にそれぞれの概念を持たせたほうがいいのではないかと感じます。 ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。 「ウソ」の話はしましたね。存在の確定しないものへの仮説として特に悪意に対しては仮説と言うよりも全てがウソです。 ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。 善の欠損としての悪と、善の歪曲としての「悪」?(欲ないしウソかもしれない)の違いの取っ掛かりにしようとしたのがA25の前半です。 ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。 これいいですね。実際に行っている心の傷を癒す作業はこんな標語が似合うと思います。
補足
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 今回は 次の一点のみです。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ 《・・・悪そのものは 存在していない》という仮説のほうが すべての霧を吹き払ってくれると思うのですが どうでしょう。 ★ 「存在」がそもそも確定していないのが哲学の現状であり人知の理解の実情なのでしょう。「存在していない」の言葉に「では存在とは何ぞや」の問いかけが返ってくるのでは無いかと思います。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これは 表現が うまく伝わっていないようです。 ○ たとえば 人間は 存在しています。限りある生ですが 存在しています。経験的・時間的な存在です。いま こうして 話をしている存在が あります。 ○ そして この存在を 善と想定します。もしくは 善悪を超えていると想定します。なぜなら 善悪の判断をする以前に 存在があるからです。その存在は おそらく 悪ではないでしょう。悪であったなら こうして 考え合うことは 何の意味もなくなるからです。善という前提があるから よかれと思うことを 考えることになります。 ○ ところが 確かに 良かれと思うのではなく 善くなくてもよいことを考えることが 人間には 起きて来ます。悪しく生きるのでもよいという場合が 出て来ます。おそらく これこれでもよいというのですから 全体として 良かれと思ってのことだとも見られますが 存在のためにならないことを考え しかも それをおこなったりします。ウソ あるいは 存在を亡きものにする行為などです。 ○ このウソや 死なしめる行為が 悪だというわけです。わけですが この悪は 悪じたいとして 果たして 存在しているのだろうか。これが 問いです。 ○ 《ほんとうのことを言う》ことと 同じように それと並んで 《うそをつく》ことが 存在しているのか です。ところが 《ほんとうのことではない内容を言う》のが ウソであるはづです。あるいは 《存在を生き続けさせることを 妨げる・止める》のが 死なしめることです。つまり 存在するもの=もしくは 善であるものごと これを 損傷させるのが 悪です。 ○ 善が存在するから その減少としての悪が 出て来ます。存在する善を 減らし欠けさせるのが 悪です。悪というものが 存在しているわけではないはづです。善を傷つけるのは 自由意志です。意志は 人間存在にそなわった自然本性です。善だと想定される意志が へそを曲げるとき 悪が発生するのではないでしょうか。 ○ 意志のへそ曲がりは 自由だからでしょうし 相対的な世界に住む相対的な存在だからです。有限の 限界のある能力だからです。能力じたいは 想定として 善であるはづです。光が曲がるように 意志は へそを曲げるのです。そして それだけが 存在するものです。その存在に付属して 悪が発生します。悪は 従属物です。 まだ きれいに言えていないようです。どうでしょうか。
オコリザルです。 たたき台のつもりです。 善の欠損でなく善性のゆがみとして悪に気がつかない場合もあると思います。(損傷を自覚しない)体験に基づく善性の哲学が悪を内包していてもそれと気がつかない場合です。 人物像を例にとりましょう。 子供のころから恵まれていて周囲の人がすべていい人であるとの、幸せな人生を送ったとしましょう。そして善に関してとやかく悩むこともない。 このような人物像の場合、利己的考えから抜け出す必要があります。 要するに自分に良くしてくれる人は善人。 意地悪をして激励する人は悪人。 そして自らと関係のない大多数はつながりや連帯のない無関係。 そんな損得だけの真心をお金に換算できる価値観です。 ほんらいはすべてが関係しているので、このような振る舞いは利己的であるので博愛の精神を育てることができません。 悪に妥協しやすく、欲望を招きやすい、そのような偽善です。 存在に関して善性を終着駅にしないで更なる高みを望むのはこのように「誰もがいい人」ではすまないからでしょう。 それから犬に感情があるかについては、要するに「犬を愛したい」そんな煩悩としての愛の働きです。 煩悩はそれ自体が欲望であるとの勘違いも多いですが、実際は欲望を打ち消す試みが煩悩です。捨てろだの、解脱しろだのは、煩悩を抱える本来の意味を知らないから生じるのでしょう。
補足
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。いつものとおり 率直に反応してまいりますが。 煩悩について ★ 捨てろだの、解脱しろだのは、煩悩を抱える本来の意味を知らないから生じるのでしょう。 ☆ とおっしゃるとおりだと わたしも 思います。腰が引けたら 負けです。ただ ★ 煩悩はそれ自体が欲望であるとの勘違いも多いですが、実際は欲望を打ち消す試みが煩悩です。 ☆ については ふたつの解釈が考えられますが どちらでも よいでしょうか。ひとつは 《無理に〈欲望を打ち消す試み〉に入るから だめなのだ》という意味なのか。それとも そうではなく 《〈煩悩〉ということ自体に 〈欲望を打ち消す〉動きがあって その〈試み〉は あたかも自然治癒としてのごとく 人間存在にそなわっている》という意味なのか。 ★ それから犬に感情があるかについては、要するに「犬を愛したい」そんな煩悩としての愛の働きです。 ☆ これは 残念ながら まだ 分かりません。《犬を愛したい》という言い方は わたしは 聞いたことがないですよ。わたしだけなのでしょうか? 《動物愛護》と 《愛》とは どうも ちがうように思うのですがねぇ。保留とするしかないですね。いつか 何かのきっかけで 分かるようになるかも知れませんから。 前半の事例は 正直に言って いまひとつ 焦点が合って来ません。なぜでしょうかねぇ。 あっ たぶん いわゆる純粋培養の事例を持ち出しておられるからでしょうか。そういう場合は なかなか 参照例として成功する割合が 少ないと思いますよ。 わかるような気もするのですが どうも 最後まで 筋を捉えきることができないもどかしさが やはり あります。あるいは 別の反応になりますが ★ 博愛の精神 ☆ という言葉が あいまいであるように感じます。これは わたしだけの特殊な感覚なのかも分かりません。いづれにせよ あいまいだという意味は 《すべての人》というふうに 漠然と 対象をかかげているところから わたしにとっては 来ています。それだと――ちなみに 《利他》という場合も 同じようですが―― けっきょく 抽象的な《道徳規範》であるように受け取ってしまうのです。もっと言えば 上から あたかも何かの命令としてのように 受け取らねばならない倫理規範という感覚です。 それに 《利他 あるいは 博愛心》という言い方をすると ちょうど 煩悩にちなんで 《捨てろだの、解脱しろだの》と言う場合と同じように 一種の強迫観念によって そう努力するように導かれている という感じがするのです。 ま こういう受け取り方もあるという程度に 聞いておいてください。そういう反応です。 わたしも 細かい人間であるようです。
オコリザルです。 せめて神秘と受け取ってくれればと思いますが、一般向けのイデア界(心のつながりのある世界)に関する説明なり案内です。 こんな命題に取り組んでください。 (西洋からの輸入思想)「犬に感情は無い」。 答えからするとこれは嘘です。 大脳の構造からして、感情を伴った情動でなければ外界からの刺激に反応することは出来ません。犬にも意思決定すらあるでしょう。 さらに、おおっぴらに嘘をついていることは、西洋人は犬の品種改良に際して性格の良い犬の子孫を残す交配を行ってきたことからも明白です。性格が認知できるのに感情が無いだのと支離滅裂な嘘をついているんです。 そこで輸入思想として「犬に感情が無い」との命題に取り組むと、色々な考え方が(煩悩の一種ですが)頭の中を駆け巡ります。この煩悩を説得して初めて自分の意見がわかります。一般的な日本人はペットに情を傾けておりその情に犬や猫が答えるのを体験しています。そうして「犬に感情が無い」とは西洋から舞い込んだ迷信であると判ります。このように煩悩と格闘するときに自分自身ではない他者の意見と格闘する場がイデア界です。説得に成功できれば自らの考えがわかり、他者の迷いや欲の類を人知れず打ち消す、キレイ事を言えば救うことが出来ます。 内心の考えですらこうです。 口から出た言葉はさらに明白です。 自らを判ることはこのように関係の中で成立し、独りよがりは成り立ちません。 「悪」の命題に関しては、世の中には確かに悪人がいます。 では、悪とはなんぞや。 存在又は生命に関する無知が生み出す幻です。 要するに前述した成立しない筈の独りよがりです。 世界又は現象は愛のみによって成立しており、その意味においては悪は存在しません。 無根拠で証明されていないのが悪です。 この点はいい加減にして欲しいです。 無いものは無いです。 逆さにしても悪意は出てきません。 しかし現代人は未だに悪意を予感し得ます。 この悪意を体現して証明することは不可能です。(せいぜい欲張りになるだけ) 悪人は悪意と戦う正義の味方です。(馬鹿でもあります) 悪人は内心に感化しうる悪意と格闘しているんです。 悪人に接してもその内心に存在しない暗闇たる悪意を予感できないようであれば、悪人にも存在の善性を確認できるので、一般的には十分に人徳者です。(これも馬鹿ではあります) 悪人に会ってもいちいち神頼みをしないで人間として向き合える処世術をお勧めします。
補足
primeapeさん ご回答をありがとうございます。 そうですね。直前のご回答とは別に 理論をあつかっておられるのですが 全体として いまひとつ もどかしさを感じてしまうのですが いかがでしょうか。 ★ (西洋からの輸入思想)「犬に感情は無い」。 / 答えからするとこれは嘘です。 ☆ これは 以前にも おしえていただいたのですが 未だに よく分かりません。残念ながら 悪の問題とどうかかわるのかが分かりませんし そもそも 《犬に感情がある・ない》という主題じたいについて どういう問題であるのかが 分かっていません。犬や動物を ほとんど 飼ったことがないので そういう結果になっているのかどうか そのことすら ピンと来ていません。弱ります。 一点だけ わたしに分かっていることは 犬は 言葉を話さないということです。情感をかよわしたとしても それは 言語をつうじて 意思疎通をおこなったということではないはづです。まして 善と悪の問題に 犬は そして 犬と人間との関係は かかわっていません。 これは 西洋の思想の肩を持って言っているのではありません。犬に感情はないという西洋の思想すら 思い浮かばない状態なのですから。ですから この点は どうしても のれんに腕押しになってしまいます。 とは言うものの 犬の感情の問題とは別のかたちとしても 次のような推論は 悪の問題にかかわってくるとも思われます。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ このように煩悩と格闘するときに自分自身ではない他者の意見と格闘する場がイデア界です。説得に成功できれば自らの考えがわかり、他者の迷いや欲の類を人知れず打ち消す、キレイ事を言えば救うことが出来ます。 内心の考えですらこうです。 口から出た言葉はさらに明白です。 自らを判ることはこのように関係の中で成立し、独りよがりは成り立ちません。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ですが どうなのでしょう。すべてを端折って言ってよいとすれば 《独りよがり》でない場合にも ひとは 悪の問題に立ち至ります。自分の内面としても そういう情況ないし相手のある場合としてもです。 そういう見方から つづく後半のご議論を読んでいくと どうでしょう。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ では、悪とはなんぞや。 存在又は生命に関する無知が生み出す幻です。 要するに前述した成立しない筈の独りよがりです。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ひとつには この定義では 《無知》のありようが まだ 分かりません。ひとつには それを《要するに》ということであれば ふたたび 《独りよがり》に戻ります。 もはや 我田引水になりますが この場合には やはり 《悪は 心のへそ曲がりであり 歪みであり 心を善と想定すれば 善が傷つけられ損なわれた状態のことである。ゆえに 悪そのものは 存在していない》という仮説のほうが すべての霧を吹き払ってくれると思うのですが どうでしょう。 これなら 《悪意》は 存在していないということになります。《存在・自然本性・その心としての意志 これに逆らいこれを損ねてもよいと考える別様の意志》があるだけだとなります。それを ただ 悪ないし悪意と呼ぶだけだとなります。自由意志 つまり 意志の自由な選択 これは そういう意味でも(つまりプラスとマイナスを合わせた意味でも) 広く 当てはまると言わなければならないようです。 つまり 趣旨説明で 或る程度のたたき台を提出していますので それに絡ませて ご回答をいただくとうれしいと思うのです。 おそらく ★ 悪人 正義 人徳者 処世術 ☆ これらは 実践の場での言葉です。 ★ 存在又は生命に関する無知 〔またその無知〕が生み出す幻 ☆ この定義さえ 実践用ではあっても 理論としては 使い勝手が 正直に申していますが いまひとつの感があります。いまは そういう問い求めにかかずらわっています。どうでしょうか。
補足
CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。 ★ brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑 ☆ これは だいじょうぶです。まさに たたき台ですから。まさに そういう過程を経るのが 哲学だと思っております。(そればかりではないかも知れませんが)。 ★ 絶対に由来するものは、否定できません。 ☆ 《絶対》=《無神》とする無神論なる信仰は 《〈絶対〉と〈この相対世界における人びとの存在〉との由来関係を いっさい 断つことによって その同じ関係を 受け容れている》のだと思います。《〈わたし〉なる存在》を 完全に 相対的なものであると規定して 扱う。 それは 一見 きわめて 冷酷で悲惨な感じさえもたらすような見方ですが このとき すべての人間存在について 《完全に 相対的な〈わたし〉なる存在》と規定し見ているからには 完全に 互いに 平等であり この平等において 互いに 自由であると主張するはづです。 すなわち ○ 絶対と わたし との関係は あたかも 絶対的である。 ☆ と考えられます。しかも それゆえにも 自由意志は 自由でありつつも あやまち得るという結果が得られます。《絶対的》だという《関係(つまり 信仰)》は 非思考だからです。なぞだからです。 ★ (そういう意味では / 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。) ☆ これは 表現の問題だと捉えると 分かりやすいはづです。 ○ 絶対 ―→〔人格化〕―→絶対者―→〔絶対と相対世界との関係の物語化〕―→創造主なる神 ☆ もはや 神と人との関係は 《父と子の関係》にまで物語が 伸びて広がります。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。 これが「自由意志」の前提だと考えます。 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。) (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。) (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ ここは 特に 触れなくても よいと思いますが 細かく言えば こうだと思います。 ○ 存在の相対性ゆえに 自由意志は 曲がり得る。あやまち得る。 ○ 勘違いなどのへそ曲がりとしての自由度(遊び)もある。 ○ しかも 特別に 存在の持続を意識しないという場合も あり 自由度は さらに 広がる。 ○ つまり この《自由意志のあそび》から 個性が出て来て 《多様性》が現われる。そこに 悪にかかわる癖などが 加味されると なお 多様になる。 ○ ということは 《多様性の互いの受容》は もともと 存在の善の尊重と受け容れを基礎として その社会的な共同性として 実現してくると思われる。 ○ この結果 ★ 相対世界では「多様性の受容」が「善」であり / 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だ ☆ という共同主観が得られると考えられます。幸か不幸か この多様性は 人間のものです。ほかの生物にかんしては 人間の目から見ての多様性とその受容になります。一気に そういう宇宙全体的な平等現実をつくることは むつかしいように思うのですが? ひとによって 他の動物のほうを優先させてしまったなら 話し合いは 混乱します。 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ 個という生命体を維持するために / 私たちは「排他」というシステムを持っています。 / (異物の、体内への侵入を許しません。) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ ☆ これも 他の生物に対する《排除》と人間どうしの《排他》とを区別する必要があると思います。人間・対・人間であれば 存在の排除ないし拘束(活動阻止)は 明らかに 悪です。 存在を愛するゆえに この悪を 互いの和解に導かねばなりません。この悪を もとの善の状態に復帰させて 存在を愛して行かねばなりません。 ○ 欠陥を取り除くことによってではなく 存在を互いに愛することをとおして 和解と癒やしにみちびく道が 用意されていなければならないし その準備に つねに 入っていて わが自由意志のあそびの内に ただちに その愛の実践に移れるように 緊張していることが 望ましい。(無理には 無理でしょうが)。 ☆ となると思います。