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悪は 存在しない

 《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

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noname#155689
noname#155689
回答No.30

こんにちは。 言葉を超えたイメージを議論するのは 本当に難しいですね。 > 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。 これを考えていて躓いてしまいました。 絶対は、理屈を超えており 私たちはただ受け入れるしかありません。 絶対に由来するものは、否定できません。 絶対に由来するものが、この相対世界にやってきた段階で 善悪に評価が分岐します。 だから、厳密に言葉にこだわれば「絶対悪」も「絶対善」もありません。 善悪が分岐する以前の状態を指し示す言葉があれば話は分かりやすくなりますが 残念ながらそのような言葉はありません。 ただ、善悪が分岐する以前の状態は、否定できませんから ●「善悪を超えている存在(状態)」を分かりよいように「善」と規定する。 ●それで、全体が説明できるか、やってみよう。 ということですね。 では、説明を続けましょう。 もし私が絶対につながっているなら 絶対に由来するものが私に注がれているなら その注がれたものは何人たりとも否定できません。 よって、私を根本から否定することは出来ません。 同様に、brageloneさんも根本から否定することは出来ません。 相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 (そういう意味では 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。) 私たちは、どういうわけか、相対世界に来てしまいました。 そして、相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。 これが「自由意志」の前提だと考えます。 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。) (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。) (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。) ところが > 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。 個という生命体を維持するために 私たちは「排他」というシステムを持っています。 (異物の、体内への侵入を許しません。) > 自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ といった言説は一見説得力を感じますが 私たちが獲得した「排他」のシステムは「自然から生まれた人間の行い」 ではないだろうか? このとき、「自由意志」とは「他存在の受容」と「排他」の どちら側に存在するのか? はたまた、軸の取り方が間違っているのか? なんて、あたりまで考えて、今、躓いてます。 希望としては「多様性の受容」が「自由意思」を生む、なんて 方向性になると、全体の見取りがよくなってくる気がします。 何だか、brageloneさんの質問に答えるスレッドじゃなくて brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑

noname#80116
質問者

補足

 CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑  ☆ これは だいじょうぶです。まさに たたき台ですから。まさに そういう過程を経るのが 哲学だと思っております。(そればかりではないかも知れませんが)。  ★ 絶対に由来するものは、否定できません。  ☆ 《絶対》=《無神》とする無神論なる信仰は 《〈絶対〉と〈この相対世界における人びとの存在〉との由来関係を いっさい 断つことによって その同じ関係を 受け容れている》のだと思います。《〈わたし〉なる存在》を 完全に 相対的なものであると規定して 扱う。  それは 一見 きわめて 冷酷で悲惨な感じさえもたらすような見方ですが このとき すべての人間存在について 《完全に 相対的な〈わたし〉なる存在》と規定し見ているからには 完全に 互いに 平等であり この平等において 互いに 自由であると主張するはづです。  すなわち  ○ 絶対と わたし との関係は あたかも 絶対的である。  ☆ と考えられます。しかも それゆえにも 自由意志は 自由でありつつも あやまち得るという結果が得られます。《絶対的》だという《関係(つまり 信仰)》は 非思考だからです。なぞだからです。  ★ (そういう意味では / 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。)  ☆ これは 表現の問題だと捉えると 分かりやすいはづです。  ○ 絶対 ―→〔人格化〕―→絶対者―→〔絶対と相対世界との関係の物語化〕―→創造主なる神  ☆ もはや 神と人との関係は 《父と子の関係》にまで物語が 伸びて広がります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり  「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。  これが「自由意志」の前提だと考えます。  (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。)  (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。)  (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは 特に 触れなくても よいと思いますが 細かく言えば こうだと思います。  ○ 存在の相対性ゆえに 自由意志は 曲がり得る。あやまち得る。  ○ 勘違いなどのへそ曲がりとしての自由度(遊び)もある。  ○ しかも 特別に 存在の持続を意識しないという場合も あり 自由度は さらに 広がる。  ○ つまり この《自由意志のあそび》から 個性が出て来て 《多様性》が現われる。そこに 悪にかかわる癖などが 加味されると なお 多様になる。  ○ ということは 《多様性の互いの受容》は もともと 存在の善の尊重と受け容れを基礎として その社会的な共同性として 実現してくると思われる。  ○ この結果  ★ 相対世界では「多様性の受容」が「善」であり / 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だ  ☆ という共同主観が得られると考えられます。幸か不幸か この多様性は 人間のものです。ほかの生物にかんしては 人間の目から見ての多様性とその受容になります。一気に そういう宇宙全体的な平等現実をつくることは むつかしいように思うのですが? ひとによって 他の動物のほうを優先させてしまったなら 話し合いは 混乱します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  個という生命体を維持するために / 私たちは「排他」というシステムを持っています。 / (異物の、体内への侵入を許しません。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 他の生物に対する《排除》と人間どうしの《排他》とを区別する必要があると思います。人間・対・人間であれば 存在の排除ないし拘束(活動阻止)は 明らかに 悪です。  存在を愛するゆえに この悪を 互いの和解に導かねばなりません。この悪を もとの善の状態に復帰させて 存在を愛して行かねばなりません。  ○ 欠陥を取り除くことによってではなく 存在を互いに愛することをとおして 和解と癒やしにみちびく道が 用意されていなければならないし その準備に つねに 入っていて わが自由意志のあそびの内に ただちに その愛の実践に移れるように 緊張していることが 望ましい。(無理には 無理でしょうが)。  ☆ となると思います。

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その他の回答 (43)

回答No.3

ども。maimai.susです。 brageloneさん存在の話しするに何時も思うのですが・・・・・。  ○酒類(存在)の中にワイン・日本酒・ウイスキー・ウォッカなどがあるのに、酒類はワインだけもしくは酒類はワインから出来ている。見たいな感じに受け取れるのですが、解釈が全然ちがうのでしょうか? そもそも存在の話を根本的にしようとすると、物理的な思考が絡んで来るので、善悪で存在どうこう言うのは無理があると思うのです。 むしろ善悪は、抜きで考える方がより正しい思考だと思います。 だって人間目の前にいる人間に対して、この人間は何の為にここにいるのか、何を考えているのか、どうゆう能力があるのか、そういった事を考えるのは、必要を感じるけど、善か悪かと言う事を見ようとするのは偏見の元にしかならんと思うのですよね。 そもそも、 ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 が間違ってると思うですが。

noname#80116
質問者

補足

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。いつも ご投稿をありがとうございます。  そうですね。わざわざ 善を持ち出すこと そして 存在を善だと規定して話を始めること このような想定には ひょっとしたら 必然性は ないかも知れません。おっしゃるとおり 別の思考体系の道があるかも知れません。  ですが 哲学思想については 作業仮説を提出して その想定から始めることは じゅうぶん 考えられます。というよりも つねに そうであるとも言えます。  どうしても いまの想定がまずいということでしたら もう少し その不都合について 批判を展開していただけないでしょうか。ただ 無理があると言われているようなのです。  それというのも 今回は  ○ うそ  ☆ を題材にして と言いますか 典型例として 考え進めています。かんたんな定義から始めています。   ○ うそをついたとすれば そこには つねに 《うそではない何か》の存在が 前提されています。  ☆ この《うそではない と心で捉えている何か》 それは 《存在》から来るという想定です。ですから  ★ 人間目の前にいる人間に対して、この人間は何の為にここにいるのか、何を考えているのか、どうゆう能力があるのか、そういった事を考える  ☆ のではありません。うそなら嘘 そういう表現行為を扱っているのみです。人間について その存在は 善であると規定し そこから繰り出される表現行為(そして そのための内的な思惟も 含みますが)については 善に即した内容としての善か または その善を減らすような内容としての悪かに分けるというものです。  しかも 善の欠損としての悪は 存在しないという仮説になります。  存在するのは 《善が減った ゆえに 善を元に戻す》という事態だけであるという見方です。  ★☆ 酒類が 存在のことだと喩えるのなら その種類のすべてが 存在であり 善です。  ☆ ところが そこに 水を わけもなく 増したとか ほかの原料を混ぜたとかになれば それは 善を減らすことになります。減った分が 悪とよぶものです。この悪は 修復することが 要請されます。  ということは 《善が減った。元に戻した》という中身があるだけですから 悪という言葉で呼ぶことはあっても 実際には 悪は 存在していない。ということになりませんか? どうでしょう。

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回答No.2

 brageloneさん  悪は 存在しない、というテーマの問題につい幼稚で、初歩的なことですがて少し、コメントをいただけるとありがたいのですが。  1. 原罪は悪で、それは本来存在するべからざるもの、という意味もふくんでいますか? そしてエデンの原状況、つまり原罪以前は善であり、これこそが存在たるべきものであるという意味なのでしょうか?  2. 人間の、自己の不完全性、しょうがなさ(これを悪とし、これ)に対する負い目の心理も悪であり、存在すべからざるものである。  だから、これに心理的に端をおいての人間の向上心も意味がないのだ、という意味にいきますでしょうか?

noname#80116
質問者

補足

 krya1998さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 原罪  ☆ は 今では 過去のものとなりました。そう理解しています。  ▲ (旧約・エレミヤ書1:34) ~~~~~~~~~~~~~  そのとき、人々は隣人どうし、兄弟どうし、「主を知れ」と言って教えることはない。彼らはすべて、小さい者も大きい者もわたしを知るからである、と主は言われる。わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に心を留めることはない。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ とすでに 預言されています。《そのとき》とは キリスト・イエスの出現のときです。  その後の《原罪》は いわば痣やほくろや蒙古斑のような母斑にすぎないと理解します。ただし まだまだ その後遺症は 大きいとも言わなければならないようではあります。  イエスは 《第二のアダム》とも言われるごとく 第一のアダムが陥った自由意志のゆがみ つまり 原罪としての悪 これを 埋め合わせ 元に戻したということだと理解します。  第一のアダムやエワの はじめの存在の状態よりも さらに善い状態に引き上げられたとも言われます。  それは いまも――時間的な情況の中に生きていることから来る無知によって 自由意志は まちがった判断を下すことがありますから―― 元の自然本性としての善から 離れて脇道に逸れることがあります。それでも こういうときにも その悪(ないし 自己欺瞞としての罪)から あわれみによって 覆い包んでくれる聖霊を与えられているとも言われるからです。アダムやエワがエデンの園を追われたようには 新たなエデンの園を追われることはないと考えられるからです。  これを要するに ひとは なお つねに まちがいを侵します。その悪が 善の減少であれば その減少した分を埋め合わす作業が 始まります。  問題は この傷ついた善の部分の修復作業が 人間の能力と努力だけでは 成らないと考えられるところにあると理解します。人間は 弱いわけです。つねに あやまつという点で 弱く これをつぐない得るかという点でも 弱い。しかも 誇るなら この弱さを誇ろうと言われているのですから   ★ 人間の、自己の不完全性、しょうがなさ(これを悪とし、これ)に対する負い目の心理も悪であり、  ☆ というときにも 最終の判断は おのれのはからいには拠らずというところに こたえがあるように 理解しています。  したがって 逆に あたかも原罪の後遺症に悩まされる現代のわたしたちにとっては すでに 何ものかによって 完全につぐなわれたという大前提に立って あとは みづからの力であゆむということになるかと思います。  ★ だから、これに心理的に端をおいての人間の向上心も意味がないのだ、という意味にいきますでしょうか?  ☆ に対しては したがって いいえだと思います。《最終の判断 あるいは 最終のすくいに関しては すべて ゆだねた。そのあとは みづからの向上心によって 努力する》 こういう方式になるかと考えています。  たぶん いわゆるキリスト教の教義からは 批判が出ると思います。それをも待っているのですが 現在のわたしのはだかの心を述べました。大いに みなさんからも おしえていただければと思います。

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  • htx2005
  • ベストアンサー率25% (22/87)
回答No.1

かんたんに言いますが 善を存在させたいがために 相対的な対象としての悪が必要だった。と仮定します。 善という観念は、悪を悪として定義させてはじめて 善という観念の存在と、その有効性を持ちえるからです。 たとえるなら タリバーンという「悪」を定義することで 敵対する米国の「善」を可視化するということです。 悪の存在が対照的になければ 善は、その有効性を一気に失います。

noname#80116
質問者

お礼

 htx2005さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  善なり悪なりについての定義が どうも 互いに ちがうでしょうか。それとも 解釈の仕方によっては 同じような箇所もあるでしょうか。つまり  ★ 善を存在させたいがために / 相対的な対象としての悪が必要だった。と仮定します。  ☆ この  ★ 相対的な対象としての悪  ☆ というとき 《善に対立するものとしての / あるいは 善の欠損としての悪》ということでしたら 同じ定義になると思います。すなわち  (1) 善は そもそも すでに 存在するものについて言っており わざわざ その存在を 善という必要はない。  (2) けれども どういうわけか――たぶん ひとには おのれの意志によって 自由に思惟や行為を選択する能力があって―― 時には 思わぬ内容のことをえらんでしまうことがある。  (3) つまりたとえば うそをつくことは 本意ではないというときです。  (4) 己れの心をいつわって うそをついたとき それは 存在に内在するはじめの何か――心のありかのようなもの――をゆがめたことになる。これが 悪である。  (5) このような悪の発生に際して 元の存在とその自然本性が 《悪の無い》状態としての善として 規定される。  (6) 逆に言いかえると 悪は 善の無い状態であり 善の欠損である。  ☆ どうでしょうか。  ★ たとえるなら / タリバーンという「悪」を定義することで / 敵対する米国の「善」を可視化するということです。  ☆ これは どうでしょうか。ターリバンについて かんたんに 《善の欠如》の状態にあると断定しうるでしょうか。  《敵対する双方》について 一方が 悪であり 他方が 善であると 言い切ってよいでしょうか。  これについては きちんとすべての情報を把握した上でないと なんとも言えないように思うのですが どうでしょう。  解釈によって 賛同のご回答をいただいたとも思っています。まづは ありがとうございました。

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