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悪は 存在しない

 《存在は 善悪を超えている》(質問として:http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4614356.html)という命題のほうが すすんでいると捉えていましたが どうも それでは 鍵となるような要件を解明しえないのではないかと考えるようになりました。  もとに戻って この質問をします。  ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ○ 悪は マイナスの善として 現象しているが そもそも 存在するのは 善が損傷されたことと その損傷を埋めることだけである。  ○ 《善悪の判断という行為に先行する〈存在〉は 一般に善悪観において捉えられるこの現実世界を超えている》と考えるが その現実の現象から捉えるならば むしろ 《存在は 善である》と見なして 哲学理論を探ったほうがよさそうである。  以上について 成否・当否を おおしえください。  なお   ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。  ○ 善の欠如の典型として 素朴に 《うそ》を取り上げておきます。つまり うそという悪は わが存在および他者の存在を思うこころに へそ曲がりが生じたことと定義します。  ○ こころの曲がり・曲げ あるいは 歪み・ゆがめがあるところに 悪が 現象している。   ○ この善のマイナスを プラスまたはゼロにまで 埋め戻す作業があるのみだ。ゆえに 悪は じっさいには 存在していない。  これをとおして 存在論ないし人間論にせまれればと思います。自由な見解をお寄せください。  問い求めにおいて 質問者のわたしのほうが すすんでいた場合には 考える前提としてのことがらなどを述べて お応えとすることがあると思います。それが 度を過ぎると 規約違反になるそうです。あらかじめ このようにも――変なおことわりですが―― 触れておきます。

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noname#155689
noname#155689
回答No.30

こんにちは。 言葉を超えたイメージを議論するのは 本当に難しいですね。 > 《自由意志》の扱い方を きちんと まとめることが 大事になると考えます。 これを考えていて躓いてしまいました。 絶対は、理屈を超えており 私たちはただ受け入れるしかありません。 絶対に由来するものは、否定できません。 絶対に由来するものが、この相対世界にやってきた段階で 善悪に評価が分岐します。 だから、厳密に言葉にこだわれば「絶対悪」も「絶対善」もありません。 善悪が分岐する以前の状態を指し示す言葉があれば話は分かりやすくなりますが 残念ながらそのような言葉はありません。 ただ、善悪が分岐する以前の状態は、否定できませんから ●「善悪を超えている存在(状態)」を分かりよいように「善」と規定する。 ●それで、全体が説明できるか、やってみよう。 ということですね。 では、説明を続けましょう。 もし私が絶対につながっているなら 絶対に由来するものが私に注がれているなら その注がれたものは何人たりとも否定できません。 よって、私を根本から否定することは出来ません。 同様に、brageloneさんも根本から否定することは出来ません。 相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 (そういう意味では 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。) 私たちは、どういうわけか、相対世界に来てしまいました。 そして、相対世界にいる全ての存在は、根本から否定することは出来ません。 つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。 これが「自由意志」の前提だと考えます。 (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。) (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。) (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。) ところが > 存在(=生命・人間という生命体)を存続するのが 善である。 個という生命体を維持するために 私たちは「排他」というシステムを持っています。 (異物の、体内への侵入を許しません。) > 自然から生まれた人間の行いに不自然なものは無い筈だ といった言説は一見説得力を感じますが 私たちが獲得した「排他」のシステムは「自然から生まれた人間の行い」 ではないだろうか? このとき、「自由意志」とは「他存在の受容」と「排他」の どちら側に存在するのか? はたまた、軸の取り方が間違っているのか? なんて、あたりまで考えて、今、躓いてます。 希望としては「多様性の受容」が「自由意思」を生む、なんて 方向性になると、全体の見取りがよくなってくる気がします。 何だか、brageloneさんの質問に答えるスレッドじゃなくて brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑

noname#80116
質問者

補足

 CUE009さん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  ★ brageloneさんに質問するスレッドになってきてますね(笑  ☆ これは だいじょうぶです。まさに たたき台ですから。まさに そういう過程を経るのが 哲学だと思っております。(そればかりではないかも知れませんが)。  ★ 絶対に由来するものは、否定できません。  ☆ 《絶対》=《無神》とする無神論なる信仰は 《〈絶対〉と〈この相対世界における人びとの存在〉との由来関係を いっさい 断つことによって その同じ関係を 受け容れている》のだと思います。《〈わたし〉なる存在》を 完全に 相対的なものであると規定して 扱う。  それは 一見 きわめて 冷酷で悲惨な感じさえもたらすような見方ですが このとき すべての人間存在について 《完全に 相対的な〈わたし〉なる存在》と規定し見ているからには 完全に 互いに 平等であり この平等において 互いに 自由であると主張するはづです。  すなわち  ○ 絶対と わたし との関係は あたかも 絶対的である。  ☆ と考えられます。しかも それゆえにも 自由意志は 自由でありつつも あやまち得るという結果が得られます。《絶対的》だという《関係(つまり 信仰)》は 非思考だからです。なぞだからです。  ★ (そういう意味では / 聖書という物語は人格神にしてしまったところが失敗だと思います。)  ☆ これは 表現の問題だと捉えると 分かりやすいはづです。  ○ 絶対 ―→〔人格化〕―→絶対者―→〔絶対と相対世界との関係の物語化〕―→創造主なる神  ☆ もはや 神と人との関係は 《父と子の関係》にまで物語が 伸びて広がります。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  つまり、相対世界では「多様性の受容」が「善」であり  「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だと思います。  これが「自由意志」の前提だと考えます。  (多様性がなければ、そもそも自由はありませんね。)  (多様性の受容が行動化すると「隣人愛」になるのでしょうか。)  (重ね重ね、人に限定しているところが失敗ですね。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ここは 特に 触れなくても よいと思いますが 細かく言えば こうだと思います。  ○ 存在の相対性ゆえに 自由意志は 曲がり得る。あやまち得る。  ○ 勘違いなどのへそ曲がりとしての自由度(遊び)もある。  ○ しかも 特別に 存在の持続を意識しないという場合も あり 自由度は さらに 広がる。  ○ つまり この《自由意志のあそび》から 個性が出て来て 《多様性》が現われる。そこに 悪にかかわる癖などが 加味されると なお 多様になる。  ○ ということは 《多様性の互いの受容》は もともと 存在の善の尊重と受け容れを基礎として その社会的な共同性として 実現してくると思われる。  ○ この結果  ★ 相対世界では「多様性の受容」が「善」であり / 「多様性の否定」「排他」は「善の欠如」だ  ☆ という共同主観が得られると考えられます。幸か不幸か この多様性は 人間のものです。ほかの生物にかんしては 人間の目から見ての多様性とその受容になります。一気に そういう宇宙全体的な平等現実をつくることは むつかしいように思うのですが? ひとによって 他の動物のほうを優先させてしまったなら 話し合いは 混乱します。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  個という生命体を維持するために / 私たちは「排他」というシステムを持っています。 / (異物の、体内への侵入を許しません。)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これも 他の生物に対する《排除》と人間どうしの《排他》とを区別する必要があると思います。人間・対・人間であれば 存在の排除ないし拘束(活動阻止)は 明らかに 悪です。  存在を愛するゆえに この悪を 互いの和解に導かねばなりません。この悪を もとの善の状態に復帰させて 存在を愛して行かねばなりません。  ○ 欠陥を取り除くことによってではなく 存在を互いに愛することをとおして 和解と癒やしにみちびく道が 用意されていなければならないし その準備に つねに 入っていて わが自由意志のあそびの内に ただちに その愛の実践に移れるように 緊張していることが 望ましい。(無理には 無理でしょうが)。  ☆ となると思います。

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noname#117439
noname#117439
回答No.23

オコリザルです。 何日か振りにこのカテによったので他の方のご回答は読んでいません。 第一印象として「悪」を取り上げてからのbrageloneさんの質問趣旨そのものに進展がありません。意地をはっていると言うかねばっているというかそんな印象を受けます。 私は処世術として悪人を装うこともありますが、これは好きでやっています。 共感から心のつながりに進展させるために必要です。 むしろ私の生き仏風の考え方に期待してキレイ事しか聞かない人物であれば何も進展しません。前もってやり込める必要があるんです。 悪というよりも嘘と関わりますが、内心において滅びの子(存在しない種子)を検証する場合はその存在に対する仮説が全て報われることの無いたとえ話で、すなわち嘘であるのです。 したがってたとえば相対した人物が悪意などの存在を我がこととして確認している場合、要するに、その存在を信じている場合、口裏を合わせる嘘から、やがて「それは存在していないよ」と言うその人の本来の人間性に自覚できる段階まで嘘を付き続けます。brageloneに対してもそうです。 内心の考えですらイデア界なり涅槃なりを土台にしたモノで自分ひとりの考えではありません。口にする言葉はなおさらそうです。ですから真実は等しく分かち合わなければ成立しません。かつて一人で先走った私を待ち受けたのはくだらない大除霊バトルです。

noname#80116
質問者

補足

 primeapeさん こんにちは。ご回答をありがとうございます。  そうですね。今回のご回答は 実践のあり方についてであると思います。  たとえば わたしも よくいぢ悪なことを言います。相手に応じてです。  ですが この質問としては あくまで 理論を問い求めています。悪についてという主題のもとにです。まぁ もうそれは 分かっているとおっしゃるかも分かりませんが やはり大事だと思っての探究です。  もう一点は 悪に対する実践の上で   ★ 処世術として悪人を装うこともありますが  ☆ の問題もあります。  ★ その人の本来の人間性に自覚できる段階まで嘘を付き続けます  ☆ という対応の仕方についてです。  これには 基本的に言って わたしは 反対の意見を持っています。《悪は 存在しない》つまり《悪というものが独自にあって 存在していることは あり得ない》と仮説していますが そのときにも 《心のへそ曲がりとして そのような意味合いでの 善の欠損として――それを 悪と呼ぶのですから――》 悪は 存在しています。そういう現象が 悪として 現実に起こっています。  その意味は 相手に 自分の考えていることやおこなっていることが どういう内容でどういう事態であるのかを気づかせるために 悪やウソを用いることはあっても そのウソや悪に成りきる〔というのであれば その〕ことは どうかという見方をしています。  煮詰めた言い方をすれば 一方で 《その思いや行ないが悪であることを気づかせること》と そして他方で 《誰もが人間として・その自然本性において 存在は 善である(もしくは 善悪を超えている)と気づかせること》とは どうも違うように捉えているからです。《ウソをつきとおす あるいは 悪に成りきる》ことは 《悪を 自分のもとに・自分の内面において 気づかせること》のほうに当てはまると考えます。  そして 簡単に言って どう違うかと言えば 《悪についての気づきを得させる》ことのほうは その一つひとつの思惟や行為ごとに 気づかせる必要が出てくる のではないでしょうか。  そうではなく 《善そして悪についての捉えかた・考え方を すでに ひとは 持っているそのことに落ち着くように そのきっかけを与える》 これが 必要だと考えます。そして それには 理論が 大事だと考えるのです。    おそらく 差があったとしても 微妙な差であって 何を言っているかとお叱りを受けるようなことであるかも知れません。そういうことにこだわったようであるかとも思います。でも この《意地の張りよう》は 張りがいのあることだと なお 思っておりますが いかがでしょうか。

回答No.22

maimai.susです。 17の回答には、2つの答えが出されています。 ひとつは、誤りの部分。質問形式で書かせていただきました。 ひとつは、正しい部分です。 最後の認めている部分だけで、自分の妥当性だけ認識したのであるならば、前半に書いた文章はまったく、理解してない言う事になりますよ。 例えば >では私の答えは上記問いかけに対して間違っているのでしょうか? >増して、上記問いかけに対して、善性でもの事を見る意味がない。 とかについて、どうお思いですか?

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  少し 話がかみ合っていないようですが どうでしょう。  ★ 〔ANo.17の〕前半に書いた文章はまったく、理解してない言う事になりますよ。  ☆ そうではありません。  《テストの問題を解いている》場合であろうが テストを出して試験官として立ち会っている場合であろうが あるいは 眠っている場合であろうが 人という存在を 全体として 捉えますとお答えしています。  そうすると 《悪》の問題に対して 《存在は 善である》という作業仮説を提出するなら 妥当性のあるかたちで その悪あるいは善について 説明がつきますよという話になっています。  世の中で 善あるいは悪という言葉を わたしたちが 使っています。人間そして社会の問題として そのような言語の習慣は どのように成り立っているのか これを 探究しようとしています。テストを解くのに心を集中している場合であっても 存在としては・またその全体として捉えるなら 善そして悪をどう捉えるかは つねに つきまとっているはづです。むろん そのテストの最中に この悪の問題を考えよという意味ではありませんが。  ですから 妥当な解明を 問い求めています。  いいでしょうか。《テストを解くのに集中している人》について――つまり その状態ですね その状態について――  善悪観をあてはめるのではなく そうではなく 人間存在というふうにまとめて捉えた場合に どうなのかです。  もし 仮りに その状態が 善でも悪でもないとすれば ほかの状態において 善であったり悪の行為をなしたりすることがあるけれども では その人間存在は どう捉えるかです。状態によって 分かれるというご回答でしょうか。  それなら もしそうであっても では ふつうに善であるとき そして そういう善の状態が 基調になっているけれども 時に その善をゆがめて 悪を思ったりおこなったりするとき こういうときのことを どう考え説明すればよいのか こういう質問になっています。どうでしょう。

回答No.21

maimai.susです。 >☆ と尋ねてはいますが そのようには 考えていませんと言おうとしていました。どうでしょう。 うーん、何で?自分(maimai.sus)の答えって間違ってます? 私の回答は無視ですか?考える価値もないものなのでしょうか? それとも何か恐れていますか?

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  ですが No.17あたりから 中身は進展していないようなのです。  ★ (No.18) 自分の見たいものを見たいように理論付ける。それはそれで、正か誤は別として、認めますよ。   ☆ この《正か誤は別として》から 進まなくなったようです。《正か誤か》を回答していただく質問ですから。  そして 今の時点で わたしは わたしの仮説が 妥当であると考えますとお伝えしています。  ANo.17へのわたしのお応えについて もう 別の見方なり反論なりが 出ていないと見たので そういうその後の対応になっています。

  • poipoi_sa
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回答No.20

brageloneさん。回答ありがとうございます。 おおむね書かれていることは読めるのですが、租借が今までで一番難しいです。 私は物理学(というより時間ですが)の、brageloneさんは宗教の知識をベースに会話しているので翻訳ができません。 所々意味が合致しているような所もあるのですが、自信がもてないで居ます。 まず3点、どうも意味が取れないというか矛盾しているように見えるところがあります。ここを埋めてもらえますか? _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ >>★ 誕生以前 / 死 / 死後については 第一に 生きている間について 言っている >> この生きている間の前と後とは きわめて乱暴に言ってしまうなら どうでもよいということです。 この二つの文が矛盾しているように思えるのですがどうでしょうか? 上記では善悪を生きている間に限定し、下記で信仰は時間を摂り入れているので生前死後を区別しないと言っています。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ >>の信仰のもとにある存在は 意識しているかどうかに係わりなく 想定として 善として ありつづけているでしょうし そこに ウソという歪みを持つなら そのマイナスの善は 悪とよぶものですが やがて 修復されていくというかたちです。 この場合のウソはどこまで言ってもウソで有って修復されては困るのではないですか。brageloneさんがご自分で仰っているように「絶対というなぞを受け容れることが 信仰」ですから、修復された瞬間に、絶対はなぞでなくなり、信仰ではないものになってしまいますよ?。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 宗教はウソであることも有るということでしたが、質問文ではウソは悪であるということでした。そして題名では悪は存在しないと書かれている。これでは宗教は存在しないと言う事になってしまいますが、この辺りが混乱しているのです。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ あと、4点こっちのは先に進む為の質問です。 ★ 非存在 ☆ をも包みこんでしまう。という所が何となくイイ線言っているような直感がします。 悪は存在しない=悪は非存在 ですから 悪をも包み込んでしまう。 包み込めると言う事は、悪は存在している事になってしまいます。これはどういうことなんでしょう? _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 今池田昌子さんの書籍をまた読んでいるのですが、そこで気が付いたのが、brageloneさんのいう悪とは何であるか まずそれをもっと詳しく教えてもらわなければならないと言う事です。 ○ 善とは したがって 存在(ないし生命)とその行為能力 特には その思い=意志=愛のことと想定します。 と説明に有りますが、まず、生命とは人間以外の動物も含みます。行為能力とは殺人も当然含みます。思い=意志=愛というのも善を指す言葉とは限りません。 上記に基づくと『動物が人間を食い殺す行為や意志も善である』と言う事になってしまいます。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ この質問は話のタネ。悪について説明しにくいようでしたら補助にお使いください。上記書籍でエロスとタナトス(死や破壊への衝動)の話が少し出てまいりました。 一般的にはタナトスが悪として扱われる事が多いようですが、実際には物事はそう簡単ではないようです。 brageloneさんの言われる悪とタナトスの関係についても述べていただけますか。 例えば人殺しが悪とされず、善とされていた時代や場所が現在もありますし、今までもありました。 人々の信じる善と悪が真逆の事もあり得るわけです。 特に殺人は、人類史上信仰を持つ人々によるものの方が数として多いかもしれません。 とすると宗教や信仰こそは悪に近い事になります。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 同様に、brageloneさんのいう存在とは何であるかもお願いできますか? 「悪は存在しない」の時の存在です。

noname#80116
質問者

お礼

 つまり 絶対ないし信仰においては 死および死後また誕生以前といったことは これらも 包み込まれていると捉えられます。信仰の動態としての人生は 区切られた線分としてのような時空間を生きますが それ以外の時空間をも あたかも呼び集めて 凝縮したようなかたちで 持っていると言えるかも知れません。そういう意味で 死後や誕生以前は――人生そのものを 精一杯生きるので―― どうでもよいと言ったわけです。  首狩り族の話があります。人を殺すことが あたかも善であると思われているというわけです。おそらく その首を狩った人間の魂を みづからの魂とし 魂つまりは生命ないし存在を さらに善くしようと思っての――その推論は まちがっていますが――意志行為であるのではないでしょうか。存在が善であるというのは 想定であっても 内容は 原理原則ですから 誰の存在であっても 当てはめなければなりません。これに反した判断によっています。つまり 悪です。  ★ エロスとタナトス  ☆ エロスは 人生の間の出来事ですから その善悪を超えた存在観のもとに 意志が 基本的にも そのつども 判断するでしょう。(もっとも エロスは 生命力だとか魂のようなものだとかとまで言う人も いるようですが)。  タナトスについては 死ないし死後を包み込んでいるという物語に含まれることになります。言いかえると タナトスといったそれ自体の物語は 特には 作りません。(自由ですが 扱いません)。  どうでしょうか。だいたい 触れ得たでしょうか。

noname#80116
質問者

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。  たしかに 論理が 行き届かないで 矛盾が生じたり 逆に 別の概念の話に 論理が 入って行って 別のかたちの矛盾を生じさせたり していますね。  それもこれも まづは 《絶対》という領域〔という言い方をしますが〕を扱うものだからだと捉えてください。  まづ 《絶対》は 表象が不可能です。かたち(象)に表わすことが 人間には 無理です。なぞです。ただし ひとつ 《無限》という概念があって これは あたかも その《絶対》の内実のかたちが分かったように思える例です。あるいは 《絶対》の内実が 何であるかではなく 何でないか これが 分かったように思える具体例です。  ○ 無限は――絶対ですから それを 分割することは出来ませんが 仮りに=想像力を駆使して 分割できるとして捉えるなら―― 分割しても その分割したあとの部分は それぞれ しかも 無限である。  ☆ これが 絶対のことです。はなはだ不類似なのですが 光に喩えられることがあります。光源とその発耀とそれらが持つ明るさや暖かさの三つに分けて捉えるとき しかも 光は 光であって その三つのそれぞれが 全体としての光です。  わたしたち人間の意志は 憎悪を抱くときもありますが 思いやりを持って ひとに接するとき あたかも《暖かさ》を発揮します。そのように たとえ憎悪としてであっても 人と人との関係は 意志行為においては 愛という問題になっています。  その基礎に 知性があるでしょう。知性の出所は 記憶です。  記憶行為は あたかも 光の源であり 知性は その輝きであり それらの有する明・暖というのは 意志ないし愛に当たります。  これら三つの行為能力を持つのが 人間の《自然本性》です。自然本性は 人間存在にそなわります。存在は 生命です。  ここでは 人間を基軸として 一般に 考察をしています。他の生物は 人間の目から見てという 横着なやり方を採っています。(便宜上ですが さらに適切な方法があれば おしえて欲しいという意味です)。  光が 差すゆえに 影や陰が出来ます。光は明・暖を持ちますが 人間の持つ意志ないし愛には じつは じつに 暖かい思いやりのほかにも それと反対の冷たい嫉妬や憎悪が あります。つまり それでも 存在という善の持つ意志=愛から そのような言わば善と非善(つまり悪)とが 出て来ます。その意味でも 自由意志と呼ばれます。  光があるから 影が生じます。影が生じているから 光のあることが分かるという順序もあり得ますが そもそもは 逆です。人間のばあいは 善として存在するところから 善と悪とが生じます。  意志の自由な選択として 存在=生命=おのれの心に従う内容(つまり善)と そうでなく 心に逆らう内容(つまり 非善=悪)とが 出て来ます。現象として たしかに 悪は 存在しています。しかも それは 善の欠如としてあるというのが その内実です。つまりそれを ただ 悪という言葉で呼んでいるのみだとも言えるのではないでしょうか。そして この善の欠けた部分は 修復するのが 一般です。うそをついたら ほんとうのことを明らかにします。  この限りある人生とその世界において ところが はじめに想定した《絶対》の場合には つまり この絶対とわたしとの関係の場合には 簡単に言えば 善悪を超えていると考えられます。もしくは 包みこんでいる。時空間をも むろん 超えている。  そこからの物語としては 絶対⇒絶対者⇒創造主なる神 がさらに想定され この神は 善人にも悪人にも 等しく 雨を降らすと言われることもありますし あわれもうと思う者をあわれみ いつくしもうと思う者をいつくしむとも(つまり えこひいきするとも)言われることもあります。ただし 善悪を超えており それらを包んでいることは うそ=虚構として すでに 共通の認識が得られています。  なぜなら ふつうのウソは 経験事象を扱っていますから それが ウソか本当かが 検証できます。絶対との関係(つまり信仰)から来るウソ=虚構=物語は 検証ができません。初めの絶対という概念の想定が 認められたなら あとに付随してくる物語は その枠内で 意志=心において 真実であるなら(つまり善であるなら) それとして 認められることになります。ただし 信仰じたいは あくまで 一人のひとの主観内面における問題です。

回答No.19

maimai.susです。 >この質問でわたしは 後者の立ち場にあります。どうでしょう。 すいません。これは、私の質問の事ですか?それとも上記の話のことなんでしょうか?

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  ☆☆ そもそもひとりの人間に うそ偽りがなく迷いもなく 妥当な内容の見解を提出しているとすれば その見解は およそ 同じ一つの基本内容として 誰にとっても 当てはまるはづだ。  ☆ のほうです。言いかえると はじめの命題が 持ち堪えていると思うという意味です。  ○ 悪は 存在しない。存在は 善である。  ○ その善である存在にそなわる自然本性 これの中身である三つの行為能力の内の特に 意志 ここから 存在にプラスである善と そのほかに マイナスである一部が欠けた善と 二つの思惟や行為が 出て来る。  ○ それは 自由意志である。  ☆ この仮説です。  したがって  ☆☆ もしわたしも 心にうそ偽りがなく maimaisusさんも 同じくそうであるなら 別々の見方が 出来るということをおっしゃっているのでしょうか。  ☆ と尋ねてはいますが そのようには 考えていませんと言おうとしていました。どうでしょう。

回答No.18

maimai.susです。 概ね予想道理の反応ですね。 例え話で ある人が、テストの問題を解いています。その時その人の存在はどうでしょうか? brageloneさんの答えはもちろん善性だと思います。 私の答えは、テストの問題を解こうとしている人です。 どちらの答えが間違いと言えるでしょうか? 確かにbrageloneさんの理屈を当てはめれば、それはそれで勿論間違いではないです。 では私の答えは上記問いかけに対して間違っているのでしょうか? それもまた間違いとは言えないのです。 どちらも間違っていないなら、どちらも存在すると言う事ですよね。 と言う事は少なくとも2つの存在から成り立つ1つの存在といえる訳です。 増して、上記問いかけに対して、善性でもの事を見る意味がない。 と思うのです。 人はどうかは知らないが、自分が上記状態であったなら、少なくともその時の自分は、問題を解くと言う意思が一番であり善性どうこうではないですね。(少なくともその時の自分は)ですよ。 >☆ この場合の《感覚・認識・思考》は 大きく漠然と言って 《善悪の判断行為》のことです。 んー自分がそうだかと言って、他の人間もそうだとは限らないんじゃあないの。 >存在にそなわる能力である意志行為からは その意志(こころ)に合った善なる内容のものと それに背向くマイナスの善としてのものとが 出てくるという見立てです。  後者を 悪とも呼びますが その悪じたいとしては 存在していない。こういう仮説です。どうでしょう。 何度も言ってますが、それはそれで良いでない。 自分の見たいものを見たいように理論付ける。それはそれで、正か誤は別として、認めますよ。

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  もしわたしも 心にうそ偽りがなく maimaisusさんも 同じくそうであるなら 別々の見方が 出来るということをおっしゃっているのでしょうか。  あるいは 逆で そもそもひとりの人間に うそ偽りがなく迷いもなく 妥当な内容の見解を提出しているとすれば その見解は およそ 同じ一つの基本内容として 誰にとっても 当てはまるはづだとおっしゃっているのでしょうか。  この質問でわたしは 後者の立ち場にあります。どうでしょう。

回答No.17

maimai.susです。 >☆ における《+a+b+c+d+e・・・》の部分に何があるか ではないでしょうか。すなわち 《善》ではなく 善のほかに 善とは異質な何かが あるというふうに どうしても規定しなければならないかどうかです。 規定では、無く単に有ると認識しているだけです。 肉体的感覚(5感)とか、美的感覚、快楽、そのたモロモロね。 そう言ったモノを全部、善性に当てはめることは、物事を在るがままに見ようとする事において正しいとは思えないのです。 そもそも、存在を善悪と言う物とて考えて、それほど意味があるとも思えないのです。 皆さんどう思っているんでしょうね。 むしろ存在(人間性)とは 感覚・認識・思考って考えた方が、いろんな意味で理解しやすいかも。 う~んネチケット引っかかるかも・・・(-_-;)。

noname#80116
質問者

お礼

 maimaisusさん ご回答をありがとうございます。  《善+a+b+c+d+e・・・》の 《+a+b+c+d+e・・・》の部分について  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  肉体的感覚(5感)とか、美的感覚、快楽、そのたモロモロね。  そう言ったモノを全部、善性に当てはめることは、物事を在るがままに見ようとする事において正しいとは思えないのです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ これは どうなんでしょう。《存在》というときには 《全体として》捉えていますね。部分に分けないという意味です。存在は 生命とも言いかえられますし あるいは 《わたし》とも言います。すべて 《全体として》です。  ★ むしろ存在(人間性)とは / 感覚・認識・思考って考えた方が、いろんな意味で理解しやすいかも。  ☆ この場合の《感覚・認識・思考》は 大きく漠然と言って 《善悪の判断行為》のことです。  存在にそなわる能力である意志行為からは その意志(こころ)に合った善なる内容のものと それに背向くマイナスの善としてのものとが 出てくるという見立てです。  後者を 悪とも呼びますが その悪じたいとしては 存在していない。こういう仮説です。どうでしょう。 

  • poipoi_sa
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回答No.16

Q.神の存在は『経験世界を超えた領域』に居るのにもかかわらず、人間の概念で定義されても妥当性が疑わしくないのでしょうか? A.絶対というなぞを受け容れることが 信仰 良く分かりました。しっくり来た感じです。 要すると、妥当性が疑わしいものを受け入れるから信仰になると言う事ですね。brageloneさんのことではありませんが、信仰を持つ人の中には、その妥当性の疑わしさを知らない?人が居るような印象を持ちます。最近ではイラク戦争のときなどそうでした。 私などは知りたいと強く思うタイプなので、信仰を持ったら、その対象の妥当性の疑わしさ、(つまりどこがどう疑わしいのか)を知らなければ気がすみません。それが無ければ信仰ではなく、盲信でしょうか。 対象----神や死後の世界など----を信じるか信じないかが重要で、妥当性が疑わしいかは問題ではないと。 そりゃ当然信じるには信じるに足る妥当性が必要ですが、根元の所では信じたいか信じたくないかであると。 ということで初めの書きこみNO10の4の話に妥当性を持つを思ってもらえるよう試みてみます。繰り返しが出てきてしまうかも知れませんがご理解ください。 >>誕生=善。消滅=悪 という所です。 存在を善と仮定した瞬間に、存在を脅かすものを----悪は無いというbrageloneさんの話に基づくと----善でないものとしなければなりません。 代表は死、もっと言えば自らの死です。 非存在を善でないものと捉えるのは、存在を善と仮定した考えの義務であり、逃れられるものでは無いはずです。 ここまでは異論は無いと思います とすると、死を善でないものとすることは妥当性が疑わしいわけです。経験世界に死を体験したものは居ないからです。 これも引用>>経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いることには 妥当性がない から見て取れるようにbrageloneさんも同様だと思います。 結果、存在を善と仮定する事は間接的に妥当性がないことになります。 なぜなら存在を善という仮定の中に、非存在を善でないものとする仮定も同時に含まれてしまっているからです。 ですから、非存在(生前)から存在(誕生)するということは、善でないものから善が生まれる。 即ち、悪(非存在)が存在しなければ、善(存在)は無いのであるから、善が先だという考え方はおかしいわけです。 これが先の雑談でお話した仮定によって見えなくなるものだと思います。 だから当質問に意味が無いと言っているのではないですよ。brageloneさんが言われるように仮定は手段であり、目的は哲学することですから。 手段に妥当性が無くとも目的の役に立てば有益です。 brageloneさんの問題提起により、私も考えたことの無かった善悪への理解が深まったのは気が致しますし、悪は存在しないという考え方に妥当性が無い(矛盾がある)と個人的に分かっただけでも収穫です。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 もう少し進んで、質問文から気になった上記のものを考えて見ます。 これは詰めて行くと「非存在は存在するか?」 という問いになると思います。 非存在であるのに、それが存在するのはおかしい訳です。 存在してしまっては非存在ではないし、かといって存在しなくては非存在は無い事になってしまい、これまたおかしい訳です。 以後は推測に入ってしまうの(まさしく哲学することとも言う)で言語化が非常に困難ですが、お付き合い頂ければ嬉しいです。 思うに、そもそも非存在が矛盾してしまうのは、存在のほうが矛盾しているからではないかと考えてみます。 つまり、存在ということを人はよく分かっていないのではないかということです。(当たり前ですみません) >>悪そのものとしては 存在しない。 を置き換えてみると >>非存在そのものとしては存在しない となるわけですがこれは意味が通じます。上に書いたとおり非存在は存在してはいけないし、存在しなくてもいけないからです。 これを更に当てはめると 私が存在するから、非存在(死、生前、死後など)がある となり、一見おかしい所は見受けられません。 自分が存在しなければ、非存在は無い。なぜならば認識できないから。 という確か「何とか」という有名な考え方になります。 しかし、よく見ていくとこれもどこかおかしい訳です。 どうしてかというと、自分が、自分の存在を意識していないときは存在しないことになってしまうからです。 日常生活で人は自分の存在を常に意識してはいません。 例えば寝ているときは、自分は存在するのでしょうか。 まどろんでいるときはどうなるのでしょう。 逆に覚醒しているときに、まどろんでいる自分や寝ている自分は居ないのでしょうか? もう少し言い方を変えると、「思わず○○した」(思わず避けたなど)という行為をしたとき、 思わず避けた自分は存在しますが、思わず避けたいと思った自分は存在しません。 なのに結果、思わず避けた自分だけがそこに居るわけです。 自分の中にさえ存在しなかったものが、現実に存在してしまう訳です。 難しい言い方をすると 意識化に認知されているかどうかと、対象が現実に存在するかは関連性はあるが確実ではない。 となり、必ずしも存在が無ければ非存在が無いとは言えない事になります。 地球には(今の所)生物が無いところから生物が誕生したと言われています。 この生物誕生前の無は、有を含んでいないのでしょうか。 見方によっては、誕生する瞬間までは無で、誕生した瞬間に有になるのであり、無はやはり有を含んでいない。 と見る事もできます。 しかし無は有への変化を含み、逆も同じですから、有そのものは含まなくとも、有への変化を含んでいます。 つまり、非存在も存在(への変化)を含んでいるし、存在も非存在を含んでいる。 こう考えると、存在だけが非存在を含んでいる= ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。 というのはやはりおかしいと思います。 初めに言った物理学の毛が出てきた気もしますが、推測なので自信はありません。 brageloneさんにも見て頂いて真偽の程を確かめたいです。 どう思われるでしょうか?

noname#80116
質問者

お礼

 No.27お礼欄にて 間違った表現がありました。(1月28日 記す)  ● (旧文章= 誤) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  12. 《悪の善用》は 悪のことです。つまり《善用》というときの善は 主観が そのように意味のないことを言い張ろうとしているだけです。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 次のように訂正します。  ○ (新文章= 正) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~   12.《善の悪用》は 悪のことです。善である存在やその意志能力などを その善に欠如した部分のあること(つまり 悪)に用いるのは そのまま 悪です。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 間違いました。すみません。よろしくどうぞお願いします。

noname#80116
質問者

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  ★ 誕生以前 / 死 / 死後  ☆ については 触れませんでしたが それは まづ 第一に 生きている間について 言っているということでした。  第二に しかしながら 生きている間の存在と その以前および以後との違いを はっきりさせないと 納得しないというところでしょうか。  仮りに 時間の流れを――妥当かどうか その検証を いま 抜きにしますが―― 一本の直線で 表わすとしますと 人生は 一定の線分になります。誕生以前と死以後は この線分に もし つながっていると見れば あたかも 経験世界であるようにも考えられます。ただ 見えないだけだという解釈です。  この解釈を 主張するためではないのですが それは 質料(モノ)つまり身体を作っている素材としては 分解されて ずっと つづいて 存続していくわけです。人間という生命存在ではなくなりますが。  けれども 問題は いま  ○ この経験世界を超えた《絶対》の領域  ☆ にあります。この絶対と わたしたちおのおの生きている人間存在との 関係のことです。絶対については 何が分かるかと言って 何も分かるものは ありません。ただ なぞがあるというだけです。しかも これが なぞであることにおいて どこまでも――絶対は 無限でもあるわけですから―― 変わらない関係で持続します。  この信仰は――つまり 有神論および無神論とも―― あたかもこの四次元の世界に いま一つ 別の次元が 加わったかに思えるという状態です。じつは 何も加わってはいないのですが ただ 四次元の世界が あたかも どこかに 窓が開いたかのように思えるというものです。少なくとも わたしたちの心が 閉じられたままでは いない。つまり あたかも開かれている。これが 信仰です。わづかに 心の伸びがあります。  そうすると この心の伸びのもとに 誕生以前や死後が 捉えられるのではないでしょうか。つまり その答えは この生きている間の前と後とは きわめて乱暴に言ってしまうなら どうでもよいということです。信仰にもとづく人生は 誕生以前と死後とを 自己のもとに包んでしまう。あたかも時間を すべて 摂り入れてしまう。のではないでしょうか。  ★ 非存在  ☆ をも包みこんでしまう。と思っております。いかがでしょうか。  この信仰のもとにある存在は 意識しているかどうかに係わりなく 想定として 善として ありつづけているでしょうし そこに ウソという歪みを持つなら そのマイナスの善は 悪とよぶものですが やがて 修復されていくというかたちです。  悪という呼び名を除けば 起きていることは  ○ 存在=善:その意志行為として うそをつけば 善が減る―→このマイナスの善を 埋め合わせる  ☆ という事態だけです   ○ 悪は 善の欠如であるが 悪そのものとしては 存在しない。  ☆ となります。いかがでしょうか。

  • poipoi_sa
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回答No.15

どうもこんばんは。 3度目の書き込みです。 どうやらbrageloneさんは絶対と普遍の差について私よりも区別する知性がおありなようです。 池田昌子さんの書籍で私が見たものでは絶対と普遍についてそれほど区別しておりませんでした。 年齢も若い人向けの本でしたのでそこまでは筆者が読者に求めなかったのだと思います。 なので普遍的な悪が存在するという理解で十分ニュアンスは伝わっていると思います。 むしろ普遍的な悪の存在が恐ろしいほどの発見だったのですが(笑)。 一つ気になるのはbrageloneさんの中で「絶対」が「領域」という言葉と結びつきが深い点です。 領域という言葉によって、絶対が神と結びつき、私のような宗教的に無教養な人間にはよく分かりません。 絶対は、ただ相対ではないということで、基本的にそれ以上でもそれ以下でもないはずです。 >>絶対は この経験世界あるいは ひとの経験思考を超えたところに ひとが 想定する領域です。 と言うことですが、その人間が相対的な存在なのですから、人によって想定された絶対もまた絶対ではないですよね。 不完全な人間が定義したのであるから、神もまた不完全だ。と言う話です。 神が居ないと言っているのではないですよ。私には神の存在の有無は分かりませんから。 ですが仮に完全なる絶対な神というものが存在したとしても、不完全で相対な我々人間は、永遠に完全と絶対を真に理解し言い表す事は不可能ですから、 あくまで不完全な範囲で神を理解することしか出来ないだろうということです。。 これは多分brageloneさんにとって信仰と関わるデリケートな話なのかもしれませんが、 絶対と領域と神という言葉それぞれの関連性を、より細かく選別してもらえれば、私にも意味が掴めるかと思います。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 信仰と宗教に関してのお話は、しっくりきました。私が宗教についてもっと知識があればより理解が容易だと思いますが、無いなりに良く分かりました。 ただ、質問の内容、 >>宗教は<<経験世界を超えた領域に対して 簡単に その同じ言葉を 同じ概念で用いること>>なしに存在し得るものなのですか? については良く分かりませんでした。 有神論の方は、『経験世界を超えた領域』を仮に神と表すとすれば、我々人間の概念を用いずにどうやって神を表すのですか? 『生命存在のさらに以前』については、『経験世界を超えた領域で同じ概念を用いると妥当性が無く』、 神の存在は『経験世界を超えた領域』に居るのにもかかわらず、人間の概念で定義されても妥当性が疑わしくないのでしょうか? 決してbrageloneさんを批判しているのではなく、信仰に詳しい人はこの辺をどう考えているのか純粋に興味があるというだけですので差し支えあれば無視していただいて結構です。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 話が善悪からずれてしまいました。ようやく本題に入れます(ふう)。 >>★ 善悪と優劣 >> ☆ 善悪という判断は あくまで 人間がおこなう行為です。~~ウソでない誠が善で ウソなる悪に対して 優れています。いつでも どこでも 誰でもです 非常に失礼な発言と受け取られてしまいそうで恐縮なのですが、 シンプルに、読んで初めに思った事をbrageloneさんにぶつけてみたいと思います。 ずばり、『宗教とはウソではないのですか?』 これはbrageloneさん個人にとってどう考えるか、一般的な宗教への印象(これも日本人とかアメリカ人とかで分かれますが)をbrageloneさんがどう考えるか の二つの疑問それぞれにお答え頂ければ幸いです。 二つ補足させて下さい。 1.まず、『では無宗教は真実なのか?』という話が当然反応としてあると思います。 この問いに答えるには私は勉強不足ではありますが、人間が自身を超える大いなる存在を意識するようになったのは、人間という意識を持つのとそれほど時間的に差異があるとは私は考えていません。 つまり、それだけ宗教とは人にとって必要なものであるという話です。これで足りるでしょうか。 2.更に補足すれば、私は必ずしもウソが悪だとは考えておりません。相手を思う結果としての思いやりのウソもありますから。 ですからウソを悪とし、そう決まっていると断定してしまうことは危険に思えます。 危険とは哲学する上ではとの条件付です。社会生活を送る意味では一般的に「人殺しは良くない」と思えていたほうが有益でしょうから。 もし更に深いウソ、つまり自らの善に背く偽善?のようなものをウソと呼ばれているのでしたら私の見当違いです。 ただそうなると当人が意識できず偽善行為した後に、気が付いて後悔した場合、――法律用語でいう「善意管理義務」の違反には当たります――だからと言ってそれを悪とまでは呼べないと思います。 「絶対」という言葉の用法と同じく、「ウソ」についても双方に相違があり、大事な所でお話しする障害となっている気も致します。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ 永井均さんについては既に読まれていたという事で失礼致しました。 ただ、No.11での《わたし》を 出発点に 置く説明の仕方も拝見させて頂きましたが、かなり彼の話に近い気が致しました。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ >>★ 《存在は 自我(意識)を超えている》 善悪の話からの関連性では少し薄かったかも分かりませんね。 追記しておくと<<自我>>、<<わたし>>、<<存在>>は別のものだと言う話です。 繰り返しで恐縮ですが、自我やわたしは「意識」であり、生物にとって生存する手段にすぎません。言うなれば雌雄が別れたようにです。 brageloneさんという生物としての肉体存在にとって、自らを統括する意識(自我)が仮に私poipoi_saであっても何ら問題は無いわけです。 肉体を維持し生存活動を行いさえすれば、意識の種類など「アジア人はみんな同じ顔に見える」他国の人と同じくらい、どれでも良いという話です。 善悪という判断意識を詳しく見ていけば自ずと、brageloneさんの言う初めに善ありき、と、考えるのはものの道理な気が致します。 更に進むと、善悪の元となる快不快の欲求は、我々の意識を超えた生物たる人間の体に根付いており、その段階の快不快には判断する意識がありませんから当然優劣はありません。 では我々の人間の善悪意識に、生命たる快不快の欲求の影響が薄れているかと言えば逆で、多分に(もしくは全て?)生命の欲求に影響されています。 善悪と快不快、両者を分けて考えるのは思いのほか困難だと感じます。 初めに善ありき。は意識の上での話であり、それより深くから出でる生命の欲求には善悪という概念や快不快の優劣は余計です。 どちらが優れているという話とは違うと思います。

noname#80116
質問者

お礼

 ★ 永井均さんについては  ☆ 《わたし》が 社会的な独立の存在であるというところまでは 同感です。その後がついて行けません。どうも 勘ぐればですが 社会的な関係性を持った存在でもあるという側面を 避けて 関係を持たない自由もあるのだと言っているように受け取れます。これは もしそうだとすれば こう言い直せば いいのだと考えます。つまり 《人は 社会的な独立存在であると同時に 社会的な関係存在である。その上で わたし(永井均)は 人と具体的に関係を持つのは 極力 避ける方針である》とです。この差は 実際の読者への影響としては 大きいと思います。  ★ 自我  ☆ は 面倒です。もしどうしてもと言うのであれば 《わたし》に含まれると言えばいいのではないでしょうか。  ★ 自らを統括する  ☆ ところの《わたし》は 《存在》の具体的なあり方です。  ★ 意識  ☆ は わたしが捉えた世界のすべてです。  ★ 生命  ☆ は 存在のことです。  ★ 生命たる快不快の欲求  ☆ は むつかしいのですが 基本的に言って 《快不快》を わたしは 必要であれば 善悪として 判断し識別いたします。判断とその意志のとおりに 実行できるかは また 別です。《快楽原則》は それが 生命の欲求であるからと言って そのまま 存在としての自然本性であり 意志(こころ)の真実であるかは 必ずしも 一概に決まりません。  生命存在に相即的であるなら 議論の余地は むしろ ないのですが どう捉えるかは けっこう 王様になりたがる自由意志は 自分の裁量のもとに置いておきたいという欲求も持っているのではないでしょうか。つまりは 早い話が 《むさぼるなかれ》といった 大きくは 善悪判断のことです。  ▲ すべては ゆるされている。でも すべてが 益になるとは限らない。すべては ゆるされている。でも すべてが わたしを造り上げるものではない。  ☆ これは 自己の欲求を制御しなさいという意味であるよりは 相手との関係 つまり 相手の自由意志をないがしろにしてはいけないという意味が 重要なのではないでしょうか。  自由意志は むろん 自然本性として 存在にそなわる能力です。つまり 善の系譜です。その自由意志から マイナスの善つまり悪も 出てくるのですが。つまり 自由意志が うそをつきます。

noname#80116
質問者

補足

 poipoi_saさん ご回答をありがとうございます。  対話がかみ合って来ましたね。わたしの側の不十分なところをもご指摘いただいたと思います。吟味してまいります。  ☆☆ 絶対は この経験世界あるいは ひとの経験思考を超えたところに ひとが 想定する領域です。  ☆ まづ 《領域》は 明らかに 恣意的な想像によって つけくわえています。ただ 単に《絶対》というだけでは 何か観念として捉えがちになるのをおそれて 場のイメージで わたしは 言うことにしています。  絶対にかんしては 《なぞ》であり 《〔絶対である〕無限は その半分が やはり 無限である》といった捉え方で 進めていけると思います。《有るか無いかを超えており 善か悪かを超えている》などなどです。  何かを欲しいというとき 手元に無いその何かのことを言っていますから もしこのものが手に入らないと 嘆き悲しむわけです。あるいは 自分が善だと思って 心をこめておこなった行為が 妨害されたり 相手に何ら顧みられなかったりすると 善とは何なんだ!? 世の中 悪ばかりなのか?! と悔し涙を浮かべます。  その何かを手に入れている人もいるとなれば あるいは 世の中から自分が何ら受け容れられていないと思ったとすれば それらが昂じてくると もはや 《神も仏もいない》とか 《神よ われは 汝を呪う》とか言ったりする事態にならないとも限りません。  ★ 人間が自身を超える大いなる存在を意識するようになったのは、人間という意識を持つのとそれほど時間的に差異があるとは私は考えていません。  ☆ というように 日常生活において 《神》なり《絶対》なりに出会う機会は 多いと思われます。  有神論の場合には  ○ 《絶対》を 擬人法で表現して 《絶対者》とします。――想像ないし表現の問題に入るわけです。無神論者は こんなことをしません。――さらに これを《神あるいは 主ないし創造主》と呼びます。そして 世界の創造という物語にまで広がります。  ☆ 《絶対》という言葉じたいが すでに そうなのですが すべて これらの言葉は 代理表現です。無限である絶対の中身そのものではありません。そもそも 知り得ないのですから。《なぞ》を指し示す代理のことばです。  その意味で 同じ言葉を 同じ概念で 非経験の領域(つまり絶対)に あてはめることは 妥当ではありません。有神論つまり《神は有る》と 実際には 表現していますが この《有る》を 経験的な概念と同じ意味で 使うのは 妥当ではないわけです。代理として 仮りに 指し示しているというのが 正解です。無神論の《無》にしても 同じです。絶対が無だと決まったわけではないのです。知り得ません。  もし代理表現でないのならば  ★ 不完全な人間が定義したのであるから、神もまた不完全だ。と言う話です。    そこで この《絶対とわたしなる存在との関係》は 経験思考を超えています。非思考です。これを 《信仰》と呼びます。《信じる》とは 《絶対》を わけの分からないものながらも 心に受け容れるということです。そんなものは何も無いさと言って 受け容れる―― 一たんは 受け容れるのです――のが 無神論です。早く言えば 無神論も 信仰です。  良心・信教の自由という公理がありますが 表現・結社の自由もあって この個人の内面の信仰を わざわざ ひとに勧めたり おしえたりするという宗教も 人類史においては 起こりました。わたしから見れば それによって 人類は困っていると思います。(生活態度としての思想を述べたとき その思想の根源は 何かと訊かれて これこれこういう信仰なのだと明かすことは あるでしょう)。  ★ ずばり、『宗教とはウソではないのですか?』  ☆ そもそも 経験事象について観察した結果を 人間の言葉で表現することは おそらく つねに 《うそ》が入るでしょうね。心の真実としての信仰にしても うそでないという保証は ないでしょうね。  ただし 或る神なら神というその全知全能といった固定観念を念じて心に取り込むというのではなく 絶対というなぞを受け容れることが 信仰ですから 《思いこみ》や《憑依・取り憑き》としてのウソではありません。  宗教は 組織をつくり教義を持つに到るので このウソつまり一般に虚構は 広がるでしょうね。  ★☆ うそも方便  ☆ の場合は うそは あくまで 悪ですが その悪を善用していると採ればいいでしょう。  ○ 善のマイナスとしての悪には 勘違いや記憶違いによるウソやその行ないがあります。へそが 知らずに 曲がってしまった場合です。へそを曲げる つまり 平気でウソをつく場合もあるわけです。

回答No.14

maimai.susです。 種子と趣旨間違えました。

noname#80116
質問者

お礼

 了解です。

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