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オスカー・ワイルドの「幸福の王子」で、王子は何を表してる?
バイト先の人に「幸福の王子」の話を教えてもらいました(Wikipediaに載っている程度に簡単に)。 この話はキリスト教に関連していると聞いたのですが、ではこの「王子」と「つばめ」はそれぞれ何を表しているのかなと、ふと疑問に思いました。 キリスト教と言ったら「神は無償の愛をくれる」くらいのイメージしかないので、「じゃあ無償の愛を配っている幸福の王子=神で、王子のために働いたつばめ=キリストなのかな?」と思いきや、よく考えたら神は話に登場しているしで、よくわかりません。 幸福の王子とつばめは、それぞれ何を表しているのでしょうか?
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王子はイエス・キリストのことです。 イエスは、人々の苦しみをいやし、人々と共に自らも苦しまれ、最後には、理解できない民衆にはりつけにされ死にました。 我々にはツバメの生き方ができるのか、という問いです。我々も見返りを求めず献身的に人に優しく接することができるのだろうか、ということです。現実的な我々の多くは、何も知らず、外見やみえばかり気にするだけで、ツバメや王子の行為を最後まで気づくことはありません。 神は結局ツバメを人知れず良しとされ、ツバメは天国で幸福に暮らします。我々は民衆をとるか、それとも王子とそれを助けるツバメのほうを選ぶか、どちらを選択するかを問うているわけです。そして本当の幸せってなんだろうか、を問うているわけです。 この話の批判として「この二人は自己満足なだけじゃん」といわれたりします。それについては、人生は満足を得られるかどうかです。例えばカネの亡者は、億万長者でも、満足を得られずただ、渇望して、幸福感を得られることはありません。仏教ではこれを餓鬼といいます。そして禅では人生の幸福について「吾唯知足(われ、ただたるをしるのみ。4つとも口が入っている漢字。満足を得るということは究極に難しいが究極な目標ということです)。
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>幸福の王子とつばめは、それぞれ何を表わしているのでしょうか? 「他者への無償の愛を貫いた自己犠牲の末の死」こそ、この世で最も美しいものとワイルドは表現したかったのかもしれません。 その最たるものはキリストと彼の使徒と象徴づけることが出来ますし、また、気高く清らかな信念を持った市井の人々ともみなすことが出来るでしょう。 かつて私が幼心に想像力をかき立てられたのは、黄金にサファイアや真っ赤なルビーをちりばめたかつての壮麗な姿以上に、素をさらけ出した無防備な王子の姿態。 力尽きたアンニュイなつばめ。そして一途に献身し尽くした王子のハートが真っ二つに割れてしまう、といった大変に残酷で無常とも思える箇所です。 大人になった今も、死をも厭わぬ自己犠牲の果ての死と沈黙からはえも言われぬ退廃的な香りを感じるのです。 そしてかつての王子の美しさを誇りに思い褒め称えていた人々。 何故彼等は心無い人々の酷い仕打ちを黙認しえたのか、大変不思議でした。 結局のところ、王子とつばめの「熱い想い」と「物質的な自己犠牲」はどれほど他者に心通じたのか。 涙ぐみながら読みつつも、彼等の急進的かつストイックな献身ぶりに半ば呆れ滑稽にさえ思えたりもしました。 損得勘定一切無しの「無償の愛」というのものがいかにこの世で崇高で美しくあろうとも。 それを具現化するということはいかに困難なものであるかといった強烈なアイロニーを大人になった今も私は自分の内に感じてしまうのです。
お礼
そうだとしたら、何も死ぬまで自己犠牲を貫かなくても・・・と、ちょっと思ってしまいますね。 確かに、言われてみればアイロニーを感じてしまいます。
王子は優しく、何も悪いことをした覚えがなくても自由を選ぶなら罪を背負い歩まねばならぬ人生を象徴しているのではないかと思います。 優しさ、思い遣りがあることは人間の原罰で、同胞と共生するためともいえるでしょう。 王子の動かせぬ体でありながら、生きた心が同胞を生かし、ツバメも生き生き、疑問に飲み込まれることなく自由に生きたのです。 しない自由(フリーダム)よりする自由(リバティ)を持っていてその種を播いた人。かななんて。
お礼
王子は罪を背負っていたのでしょうか?罪を背負っていたようには思えないのですが・・・。あくまで自己犠牲による無償の愛のように思えます。
- kadowaki
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No.5ですが、下記の通りに訂正させていただきます。 (誤)「王子」も「つばめ」も《キリスト》を象徴している ↓ (正)「王子」は《キリスト》を、「つばめ」はその忠実な弟子をそれぞれ象徴している
お礼
すみません、馬鹿なので「ということで」の上の話がなぜ王子=キリスト、つばめ=弟子の説明になっているのかよくわかりませんでした・・・。 でも王子=キリスト、つばめ=弟子というのには大方賛成です。つばめ=キリスト教徒かなとも思いましたが、キリストの弟子と限定した方がいいかもしれませんね。
- kadowaki
- ベストアンサー率41% (854/2034)
>この話はキリスト教に関連していると聞いたのですが、ではこの「王子」と「つばめ」はそれぞれ何を表しているのかなと、ふと疑問に思いました。 確かに、王子とツバメとが貧しい人々への愛のために自己犠牲をも厭わなかったという内容の童話です。 作者ワイルドは、これに類した佳品として、「わがままな大男」という心温まる童話も書いております。 ところが、ワイルドには、乙女に恋する学生の願いを叶えてやるべく、夜啼鳥が自らの生命を犠牲にして「赤い薔薇」を咲かせたのに、その犠牲が全く報われずに終わるという、強烈な皮肉の毒のきいた童話?もあります。 要するに、このワイルドという作家・劇作家・批評家は、19世紀末の唯美主義、デカダン芸術を代表するだけに、地獄と天国との両世界に二股かけて生きた男だったのだとご理解下さい。 ですから、「幸福の王子」にしても、いかにもワイルドらしく、結末近くには、市長・議員・美学者といった俗物どもを揶揄したエピソードが挿入されております。 ただし、ワイルドの息子ビビアンの回顧談によると、父親は幼い息子たちに自作の童話を涙ながらに語って聞かせたということだったようです。 >幸福の王子とつばめは、それぞれ何を表しているのでしょうか? ということで、「王子」も「つばめ」も《キリスト》を象徴していると思います。
- taco8ch
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いや、バイト先のご友人は実に洞察鋭い方ですね。 確かにこの話はキリスト教に関連しているようです。 無償の愛を与えれば与えるほど、 金箔が剥がれ落ちてゆくのが見えますよ というオスカー・ワイルドならではのジョークともとれます。
お礼
彼はミッション系の大学に通っていて(無宗教ですが)、その必修のキリスト教関連の授業で聞いた話だそうです。 私も無宗教ですが、なんとなく興味をひかれる話でした。
- qsxdrfvgyh
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「王子」=豊かな者=上から恵む・施すもの 「つばめ」=賛同者、使者(使徒) という構図なのでしょうね。やさしさやおもいやりは評価できるのですが。 当初、「王子」も「つばめ」も、全く、キリスト的でありません。 キリストは、抑圧される者と同じ目線で、同じ境遇にいたのであって、 特権的な余裕のある暮らしに安住しつつ、恵んだり、施したりしてやっているんだということではないはずです。 ですから、「王子」は、慈善活動をしてやってるぞ側の象徴であり、 「つばめ」は、その活動を手伝って振り回されてる側の象徴です。 そして、慈善活動できなくなったとき、無残にも像は捨て去られ、ツバメは息絶えていたわけで、 すべてを失い、抑圧されている者たちと同じ境遇になった時、 初めて神様の救済を知るという点が重要なわけです。 つまり、本当の自立支援や救済とは何かをそれぞれ考える教材です。 施し礼賛では、ないはずです。
お礼
>「王子」は、慈善活動をしてやってるぞ側の象徴であり、「つばめ」は、その活動を手伝って振り回されてる側の象徴です。 う~ん、ちょっと自分とはイメージが違いますね。これだとなんかイメージが良くないというか・・・。 オスカー・ワイルドは無償の愛についての話を書いたのではないでしょうか?王子のしていることは明らかに無償の愛に基づいていると思いますし。 調べてみたらワイルドはプロテスタントの家庭に生まれたみたいなので、キリスト教の考え方の1つである無償の愛について書きたかったんじゃないかと思うんです。なんか言いたいことが上手く文章にできませんが・・・。
- kigurumi
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>ではこの「王子」と「つばめ」はそれぞれ何を表しているのかなと うーーん、近い人なら、仏陀でしょうか。 幸福な王子は、高貴な生まれで生前、物質的な幸福な世界に生まれて死んだわけです。 物質的な幸福の象徴が幸福な王子の像になり、物質的な幸福の偶像として、建てられたわけです。 生前、物質的な幸福の世界にいたが、死後、自分がいたときとは違う外の世界に像は建てられ、別の世界を知ることになった。 仏陀は王族に生まれたわけですが、出家して俗世界に身を置くきっかけも、もしかして、外の世界を知ったからかもしれないし、マザーテレサも修道女として教会内で生活していたのですが、キリスト教会の外にはたくさんの貧しい人々がいるが、キリスト教会はそれら貧しい人々に見向きもしないことに心を痛めて、教会の外に出ることを決心し、それに対して教会は「(幸福なこの世界を)出てもいいが、一切手助けはしないぞ」と言い、それでも出ると、テレサは教会を出た。 教会内に立てこもり、外の世界に興味を持たなければ、教会内で蝶よ花よと浮世離れした能天気な一生を終えることができたものを。 キリスト教会は、外の世界の悲惨さを知っていながら、神から罰を受けた人々とでも思ったのか、慈悲の心を起こす人は全くいなかった。 例外はテレサ。 波風を立てるとんでも野郎のテレサが懲りて、教会に戻りたいと言っても、見せしめのために、許すものかって感じでしょうか。 ところが、テレサは悲鳴を上げずに、こなしていき、逆にキリスト教の方が、「我々キリスト教が、貧しい人々を救済するために、テレサを派遣したんです。我々がやっているんです 我々が!」と布教の宣伝にちゃっかり使ってしまった。 そして、こりゃ おいしいと思い、テレサに協力すれば徳になると思って、テレサに援助をするようになったらしいです。 そういえば、ユダヤ教も、10分の1税をローマ帝国各地のイスラエル人から徴収しており、神殿の宝物庫に一旦ためて、人々の暮らしに役立てていたようです。 それをローマ帝国から派遣された提督がネコババしたことで、とうとう怒りが爆発して、ローマ帝国と戦争することになったわけですね。 ローマ帝国は神殿を破壊し、兵士は宝物庫から金銀財宝を奪ったため 、一時期ローマ帝国内の金の価格は下落したそうです。 さて、外の世界を知った王子ですが、体が動かない。 それで暖かい国に渡る途中のツバメに代理で自分が持っている物質的な幸福を、そうではない一部の人に分けてやることにしたわけです。 ある秘密結社の理念は、<恵まれた人は恵まれない人を助ける義務がある> です。 その理念に添って慈愛として、炊き出しとか恵まれない人が餓死しないですむような施設の運営とかしているようです。 王子はただ、物質的に貧しいために不幸になっている人を見ていられず、手足となって働いてくれるツバメを利用したわけです。 ツバメも、自分の話を聞いてくれる王子に気をよくして、協力した。 王子は、あまりにも幸福ボケしていたため、ツバメが疲労するということに気づかなかった。 あれだけ南の暖かい国の話をしたのに、ツバメは寒いところでは住めないから、自分の満足の達成の犠牲にするわけにはいかない 早く飛びたて、そしてまた帰って来い ということまで思考が回らなかった。 悲劇ですね。 物質的豊かさが、幸福の尺度だと思っていた王子。 その王子の心の満足度をあげるために使われたツバメ。 これは、、、、 仏陀とは違う。 誰でしょうね 物質的に幸福だと人は幸福感を増大させると説いた人。 ツバメ、、、これはもう悲劇としかいいようがない。 が、しいていえば天使かな? 西洋の神は不動の動とされ、不動なものが力を発揮するための仲介者が天使とされ、天使が派遣されるとされる。 聖書でも、何かあると、天使が登場します。 アブラハムに子供を授けたのも天使、ソゾムを崩壊させたのも天使、ヤコブと戦ったのも天使、マリアに子供を授かると伝えに来たのも天子。 せっせと神の祝福を届けていたのは全部天使。 ということで、幸福な王子=神、ツバメ=天使 という図式になりますね。 じゃあ 天使はパシリとして使い捨てにされるだけで、かわいそうじゃないか? いえ、愛です 愛。 天使は燃えるように神を愛していることになっており、盲目的に神を愛しているので、たとえ神の自己満足のパシリにされ使い捨てされようと、天使は幸福のままなんです。
お礼
すみません、仏陀やテレサの話がなぜ引き合いに出されたのか、よくわかりませんでした・・・。 幸福な王子=神。ツバメ=天使というのは個人的にはちょっと違うかな?と思います。 死んだしまった王子とツバメを、神が天使に命令して天国に連れてこさせたのですから・・・。 ご意見ありがとうございました。
お礼
やはりイエス・キリストのことですか。そうじゃないかなとは思いましたが、いまいち自信がなかったんです。 ツバメのことはちょっと考えさせられますね。